猫のおくりもの
あくまでフィクションでございます。
正直あまり気分のいい内容ではないので、繊細な方はお読みにならない方がいいと思います。
春彦は吐息をつくと顔をあげた。
長いこと前かがみになっていたせいで背骨が軋んだように痛んでいた。
椅子に座ったまま後ろに大きくそりかえって、ゆっくりと上半身をのばす。すると、いくらか体が楽になった。
春彦は来月で三十五歳になる。
自宅はJR池袋駅から西武池袋線でおよそ一時間の静かな町にあった。駅から徒歩で十五分。都心に比べ多少の不便はあったが、緑が多く、のどかな土地である。
築二十年を過ぎる古びた一戸建てに年老いた母とふたりで暮らしていたが、その母も半年ほど前からは老人ホームに入居して、現在では一人暮らしだった。
酒も煙草もやらず、ギャンブルにも興味はなかった。
同僚とも社外での付き合いはほとんどなく、友達もいない。そのためかいまだ独身で、恋人と呼べる女性もいなかった。
「趣味は?」と聞かれれば「写真」と答えることにしていた。もっとも、めったに尋ねられることはなかったが。
写真を撮るのが好きなのは事実だった。
独学だが専門誌を読むなどして勉強もしていたし、それなりに金もかけて道具もそろえていた。
撮り始めたころはピント合わせのいらないオートマチックを使っていたが、途中で一眼レフに買い換えた。
とくにレンズには金をかけた。
だがそのうちに現像の問題に行き当たり、そうこうしているうちデジタルカメラが登場した。しかし春彦はデジタルカメラのシャッタースピードの遅さと何よりも画像の荒さが好きになれないでいた。
「うるさいな」
自宅の道をはさんだ向こう側にある神社の境内では子供たちが遊んでいた。
窓を閉めていても、子供特有の耳障りで甲高い声が聴こえてくる。
春彦は気をまぎらわそうと、こりかたまった肩を指でもみほぐした。
左脇の棚に置いてあるマグカップに口をつけた。半分ほど残ったコーヒーはすっかり冷えて甘ったるいばかりになっていた。
春彦は顔をしかめると、いままで開いていた画像ファイルを閉じた。
ここ数年でデジタルカメラの画像の質は驚くほど変化をとげた。
あいかわらずシャッタースピードに難はあるものの、それも遠からず改善されるだろう、と春彦は考えていた。
たしかに一眼レフに劣る部分はあったが、フイルムのいらない、なによりも現像する必要のないカメラの存在は春彦にとって都合がよかった。
一月とはいえ朝晩の冷え込み以外は暖かい日が続いていた。
窓から陽の光が室内に射し込んで足元の畳を淡く照らしていた。昼すぎの穏やかな時間帯だった。奇声にも似た、子供独特の声が聞こえてこなければ。
うるさい子供は好きではない。
本棚の上では猫がまるくなって静かな寝息をたてていた。子供がみんな猫のように静かならいいのに、と思う。
写真は昔から好きだったが、春彦にとっては写真を撮る行為よりも被写体そのものに興味がわいた。数年間にわたって収集した写真は自分でも何枚あるかわからず、かなりの数になる。
マグカップを棚に置いた音に敏感に反応したのか、猫が目を覚ました。あくびをすると、床にそって身体を長々とのばした。
生後7ヶ月をすぎたばかりの、成猫というにはまだ若い小柄な雌猫だった。
日本の猫ではなく毛あしの長い外来種で、ふんわりとした毛なみが真綿を連想させる、まっしろな猫だった。
春彦は犬よりも猫が好きだ。
犬は好きではない。むしろ嫌いだった。
駆け寄ってきて、いきなり飛びついてくるあの騒々しさにはほんとうに苛々させられる。とくに庭先につながれた犬の吠え声には我慢ならなかった。
そのてん猫はいい。おとなしくて、なによりうるさく吠えたてることもない。
猫は死ぬときはひとりきり、飼い主に迷惑をかけないように静かに家を出ていくと聞いたことがあった。
猫は飼ってもらっているお礼にと、贈り物を持ってくるという。
小鳥やねずみ、大抵は自分で捕らえた獲物を飼い主に見せに来るのだが、まれに思いも寄らないものを持ってくることがある。
目覚めたばかりの猫は本棚の上に座って、窓の向こうを見ていた。
子猫を眺めているうちに、また撮りたくなった。画像ファイルの整理もほぼ終わっていた。
飽きることもなく外の景色を眺める猫に苦笑して、目の前の窓をすこし開けてやった。
透明なガラスの向こう、まだ一度も踏み出したことのない外の世界から、ほのかに吹いてくる微風に、猫は鼻先をヒクヒクさせた。
猫はすぐには動かなかったが、やがて警戒心に好奇心がまさったのか、そろそろと歩きだした。
室内から身体をのばして庭にある植木鉢の匂いを嗅ぐと、細く開いた窓をすり抜けて外にでた。首につけた鈴が、ときおり澄んだ音を響かせている。
腕時計の針は三時二十分を指していた。
垣根に囲まれた庭の中央まで来ると猫は立ち止まった。
春彦のほうに顔を向け、何かをうったえるようにニャア、と短く鳴いた。
すぐに戻ってくると思ったのだが、その様子はない。猫は庭の中を歩きまわり、垣根の下の隙間から前の通りを覗いた。
「あ、ネコちゃん!」
鈴の音が家の前の通りまで届いたのだろう、垣根の向こうで声がした。
ピンク色の洋服が垣根越しに見え隠れしている。
小学校の低学年くらいの女の子だった。ピンクのコートの下から膝丈の赤いスカートがのぞいていた。
「可愛い」
女の子はまっしろなタイツが汚れるのを気にするふうもなく地面に膝をついた。
よつんばいになって、垣根の下の隙間を覗き見る姿は子猫のようだ。
「おいで、ネコちゃん。おいで」
警戒することもなく猫は女の子に近づいた。
甘えた声で鳴くと少女の足元をぐるぐる回りながら身体をすりよせ、小さな頭をこすりつける。
女の子が猫を抱き上げるのを待って、春彦はサンダルをひっかけると庭に出た。
「……ああ、よかった。こんなところにいた」
猫を抱いた女の子に向かって微笑んだ。
「こんにちは」
礼儀正しく女の子が言った。
黄色いアヒルの飾りがついたゴムで二つに結んだ髪が、ぴょこんと揺れる。
「このネコちゃん、おじさんの?」
「うん。窓を開けたとき外に出ちゃったんだよ。捕まえてくれてありがとう」
「どういたしまして。ネコちゃん、外に出たことないの?」
「そうなんだ。車にひかれたり迷子になったら大変だから、お家の中だけで飼っているんだよ」
「へぇー、なんて名前?」
「……ミイだよ」
とっさに思いついた名前を答えた。
本当のことをいうと、猫に名前は付けていなかった。
「ミイちゃん。可愛い名前ねえ」
そう言って猫を降ろそうとした女の子を春彦はあわてて引き止めた。
「待って! たぶん地面に降ろしたら、また逃げちゃうと思うんだ」
「そう?」
「うん。車にひかれちゃうかも知れないね」
びっくりして目をみはる女の子に、春彦は真顔でうなずいてみせた。
「そんなことになったら、ミイが可哀相だろう? きっと死んでしまう」
「そんなのやだ。……どうしよ」
「そうだ。ミイを家まで抱っこして運んでくれる? それならミイも逃げないと思うんだ」
「うん」
女の子がうなずいた。
「こっちだよ」
猫を抱いていて両手がふさがっている女の子のために玄関のドアを開けて、春彦は女の子を自宅に招き入れた。
「あがって」
「え、でも……」
「ミイを、ミイのお部屋まで連れていってほしいんだ」
「ミイのお部屋って、どのお部屋?」
「あそこだよ」
玄関からまっすぐ伸びる薄暗い廊下の奥にある木の扉を指差した。
後ろ手で玄関の鍵を閉める。カチ、と小さな音がしたが、女の子は気づく様子もなかった。
廊下はもともとあまり広くはないが、読み終えた雑誌が何冊も束になって置かれているために、いっそう薄暗く、せまく感じられた。
母と暮らしていたころはきれいに磨かれていた床もいまではほこりがたまり、かび臭いにおいが漂っていた。
女の子は猫を抱いたまま、困ったように春彦を見あげた。
「さあ、はやく」
「でも、あたし……」
「ミイを連れてきてくれたお礼に、後でジュースとクッキーをあげようね」
「いらない。ママが知らない人からもらったらダメって言ってたもん」
「ケーキもあるよ。面白いDVDもあるんだ。後でいっしょに見ようよ」
「でもママが……」
「うるさく言う子供は嫌いなんだよ!」
玄関先で靴も脱がず、いつまでもぐずぐずしている女の子にしびれをきらして春彦は声を荒げた。
「ミッキーのDVDだよ! とっても面白いDVDなんだ! お菓子を食べながらいっしょに見るんだ。クッキー食べたいだろう!」
春彦は女の子の腕を掴んだ。
「痛い!」
「ああ、ごめんね……つい力が入ってしまったんだよ。さあ、おいで」
女の子はまだ靴を履いていた。
その腕を掴んだまま春彦は、一段高くなっている廊下に女の子を引っ張るようにして引き入れた。
抱かれていた猫が床に放り出される。足元をちょろちょろして邪魔な猫を春彦は蹴り飛ばした。
女の子は悲鳴をあげた。
「だまれ!」
金切り声を上げ続ける女の子の両肩を掴んで、細い身体をゆさぶった。
「泣くんじゃない!」
女の子の顔は涙と鼻水でぐしょぐしょになっていた。前かがみになって肩を大きく上下させている。泣くのをこらえているのだろう、喉がヒーヒー鳴っていた。
「……も、帰る。しら、……しらない人から――」
「知らない人からもらったらダメだって、ママが言ったんだろう?」
女の子の言葉を引き継いで春彦は言った。
「……うん」
何かを察したのだろう。女の子は急に静かになった。
「それだけ? ママは他になんて言ってた?」
「……」
「言ってごらん」
「お家に帰りたい」
「答えなさい!」
「お家に帰りたいよう」
ふたたび女の子は泣き出した。
「帰れないよ、麻友ちゃん」
「あたしの名前……」
「そうだよ麻友ちゃん。麻友ちゃんのお家も、毎週水曜日にピアノ教室に行くことも、三時半ちょうどにこの家の前を通ることも全部しっている。おじさんは麻友ちゃんのことなら、なんでもしってるんだよ」
麻友との楽しい時間を思い、春彦は微笑んだ。
「さあ、ケーキをあげようね。お姫様みたいな可愛いお洋服もあるよ……あとでいっぱい写真を撮ってあげようね」
春彦は猫が好きだ。
ときどき、こうして思いもかけない贈り物をくれる猫が大好きだった。
このページを開いてくださってありがとうございます。
あまり楽しい話でなくて、すみませんm(_ _)m
普段はすっきりさっぱりハッピーエンド推奨なんですが、たまにそのしわ寄せがくるというかw
ミステリのプロローグとか冒頭っぽい感じとでも言いましょうか……
読むのは好きだが自分では書けないミステリ――雰囲気だけでも味わいたいというのが発端でこの話を書きました。
うん。短編はいい。いろいろ冒険できてw
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました!