第一章1【一夜を過ごして】
翌朝、善治郎は、王宮の客室で目を醒ました。
目覚めたばかりの善治郎の視界に飛び込んでくるのは、豪華なベッドの天幕である。
見覚えのない光景に、一瞬身体をビクリと震わせる善治郎であったが、しばらくして自分が昨晩どこで就寝したかを思い出し、肩の力を抜く。
「……ああ、そうか。ここは異世界、なんだよな」
善治郎は、自分が住んでいる六畳間より広そうなベッドから足を下ろした。
足元に用意されたスリッパの様な履き物をつっかえ、広いゲストルームを歩きく善治郎は、自分が無意識のうちに右手で脇腹を掻いている事に気づく。
「うわ、痒っ。あっちこっち、虫に食われているな、こりゃ。昨日は半分勢いで、結婚を承諾しちゃったけど、ちょっと早まったかもしれんなぁ……」
今更ながら、善治郎はそう呟く。
昨日一日、生活をしただけで、善治郎はこの世界が現代日本と比べ、どれだけ不自由を強いられる世界であるか、実感させられていた。
昼食と夕食に出された食事自体は中々に美味しい物であったが、一緒に出された水や酒は異様にぬるかった。
善治郎は、ビールと発泡酒の違いも分からない程度の貧しい舌の持ち主であるが、日本人らしく「発泡酒はギンギンに冷やしたものがジャスティス」、と断言している人間である。
そんな善治郎にとって、夕食に出された果実酒は、味以前の問題として、そのぬるさがたまらなく気持ち悪かった。
ぬるいと言えば、気温自体も問題だ。昨日アウラから聞いたところによると、ここカープァ王国は日本の関東圏と比べてもかなり暑い地方のようだ。
一番寒い季節でも、街を歩く者が長袖を着ることはほぼ無く、もっとも暑い季節には、気温が体温よりも高くなるため、人々は出来るだけ狭い空間に身を寄せ合い、互いの体温で『涼を取る』のだという。
そういえば、インドの夏の逸話として、似たような話を聞いたことがあるなぁ、と善治郎は半ば顔を引きつらせながら、思いだしたものである。
この世界には、温度計というものが存在しないので、はっきりとは分からないが、恐らく冬の最低気温で二十度弱、夏の最高気温は四十度から四十五度くらいを覚悟しておいた方が良さそうだ。
しかも、当然ながらこの世界には、エアコンなどという代物はない。エアコンのある日本の夏しか知らない善治郎には、この暑さはかなりの強敵となるだろう。
実際、昨晩も暑く寝苦しかった。今はまだ夏真っ盛りではないというが、それでも善治郎は寝付くまで、最低でも一時間以上、キングサイズのベッドの上でゴロゴロを寝返りを繰り返した。
もっとも、寝苦しかったのは暑さのせいだけではない。快眠を邪魔するもう一つの要員が、虫だ。
どうやら、この世界には窓ガラスという代物が存在していないようなのである。そのため、窓は全て木戸になっており、昼間は光を取り入れるため、全て解放している。当然、虫は入りたい放題だ。
一応ベッドの天幕が、蚊帳の役割を果たしてくれるようなのだが、そんなもので全ての虫をシャットアウト出来るはずもない。
結果、朝起きたときには、善治郎は身体のあちこちを虫に食われまくっていた。
だが、それらの不具合を全て合わせたより善治郎を閉口させたのが、夜の不自由さだ。
正直、電気のない夜というのが、こんなに不便なものだとは思いも寄らなかった。
アウラと夕食を取った食堂だけは、大量の蝋燭を使った大きなシャンデリアでそれなりに明るく照らし出されていたが、廊下を歩くときは、先導するメイドさんが持つランタンだけが頼り。
部屋についても、灯りは机の上にランプが一つ備え付けられただけである。
その灯りで本を読もうとすれば、確実に目を悪くすることだろう。
「昔の人は早寝早起きだったって言うけど、分かるなぁ。だって、どう考えても夜は寝る以外なにもできねーもん」
つい、ブチブチ文句を漏らしながら、着替えを済ませる。
王宮やお屋敷ものでは定番の、メイドさんによる「着替えの手伝い」は昨晩のうちに断ってある。
現在の善治郎の服装は、腰を紐で縛るゆったりとしたズボンと、膝丈くらいあるネグリジェのようなブカブカの上着である。
これが、王侯貴族が使うもっとも一般的な夜着だという話だったが、実際使ってみた善治郎の感想としては、これならばTシャツとトランクスだけで寝た方が、ずっと寝やすい。元々寝相の良い方ではない善治郎は、何度も寝返りを打っているうちに、自分が着ているネグリジェに肩固めをかけられてしまった。
仮にもここは王宮で、善治郎は非公式ながら女王の王配というスペシャルゲストだ。衣食住、全てにおいて、最高のものを用意されたのだろうが、それでもなお、現代日本では一般庶民でしかない善治郎を満足させうる代物ではなかった。
時代の違い、文明レベルの違いとは大したものだ。
借り物の夜着から、着慣れた自分の服へと着替え終えた善治郎は、ベッドの端に腰を下ろし、メイドさんが朝食に呼びに来るのを待つ。
「改めて考えると、日本って恵まれてたんだなぁ。大体の家に、冷蔵庫もエアコンもあるし。それに比べてこっちには、電気その物がないのか。でもなあ、こっちなら働かなくていいんだよなー。それに、アウラさん、めっちゃ綺麗だったし」
ぬるい酒、寝苦しい部屋、暗い夜を経験した善治郎をなお、引きつけてやまないのが、昨日略式ながら、婚約を結んだ、アウラ・カープァの魅力である。
夕食時、大胆にスリットの入った赤いイブニングドレス姿で、善治郎の前に現れたアウラは、改めてその魅力的な微笑と、官能的な肢体で異世界人の婚約者を魅了してくれた。
女王陛下の大胆な艶姿にすっかり魅入られた善治郎は、不自然ではない程度に(と、善治郎自身は思っている)、その視線をアウラの豊かに実った胸の谷間や、スリット間から除く太股に向け続けた。
今思い出しても、あの尻、乳、太股には、現代日本の生活を投げ打つだけの価値は十分にあるように思える。
「そうだよな。考え見れば、俺、今回こっちの世界に自転車を持ち込んでるじゃないか。ってことは、一ヶ月後に来るときもある程度の物は持ってこられるってことだろ? よし、帰ったら俺の婿入り道具のリストアップだ!」
そう言って善治郎がパチンと両手を鳴らし合わせたちょうどその時、カランカランと入り口のベルが鳴らされる。
「はいっ!」
「失礼します。朝食の用意が調いました」
ドアの外から聞こえてくる聞き覚えのある若い女の声に、善治郎は大きな声で答える。
「はい、今行きます!」
ベッドから立ち上がった善治郎は、足早に入り口のドアへと駆け寄っていった。