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理想のヒモ生活  作者: 渡辺 恒彦
二年目
49/101

第二章4【飛竜の影、群竜の奇襲】

 酷暑期の強烈な太陽が、西に傾き始めた頃。『塩の街道』の脇では、死体と荷竜車の残骸が、黒煙を棚引かせていた。


「せーの!」


 切り倒した樹木を適当な長さに寸断したものを『コロ』として使い、腐敗臭を放つ死体に巻き付けたロープを、若い兵士達が汗みずくになって引っ張っている。


 膝と胸がくっつきそうなくらいに前傾して、歯を食いしばる兵士達の肩に、粗く編まれたロープが食い込む。


 頬をつたわり、あご方したたり落ちる汗が、乾いた街道の土を、転々と黒く濡らしている。


 だが、そんな汗のシミなど、あっという間に乾いてしまう。


 それは、炎天下の太陽だけが理由ではない。腐乱した死体と、破損した荷竜車を纏めて焼却処分してるのだ。


 街道脇の木々を切り倒して作られた即席の広間は、タタラ場もかくやという熱気を放っている。


 立ち上る煙と、空気を揺らがせる赤い炎。


「どうにか、街道の復旧は問題なく終わりそうだな」


 チャビエルは、乾いた手ぬぐいで、額の汗を拭いつつ、そう言葉を漏らした。


 腐乱した死体を、まとめて火にくべたのだ。当初はそのすさまじい異臭の破壊力に、目尻に涙を溜めていたチャビエルであったが、今はとくに何とも感じなくなっている。


 腐肉が焼却されて臭いが薄れたのも確かだろうが、大部分は鼻が馬鹿になって臭気を感じられなくなってきただけだろう。


 いずれにせよ、これで街道はひとまずその機能を取り戻した。


 一つ仕事の目安がついた事で、少し精神のゆとりを取り戻したチャビエルは、視線を焚き火の炎から外す。


 そこで、チャビエルは気がついた。


「ん?」


 先ほど、襲撃について説明をしてくれた、あのひげ面の狩人が、なにやら眉間に皺を寄せ、首を傾げている。


 ひげ面の男もチャビエルの視線を感じたのだろう。チャビエルが声をかけるまでもなく、男は小走りにチャビエルの前へと、駆け寄ってくる。


「チャビエル様、ご報告したいことが」


 男の渋い顔を見れば、またあまりよろしくない情報であることは間違いなさそうだが、だからこそチャビエルの立場では、耳を貸さないわけにはいかない。


「話せ」


 間髪入れずにチャビエルは、苦い薬を飲み下すような表情で、そう促す。


 促されたひげ面の狩人は、「ハッ」と手短に頭を下げると、少し早口で話し始めた。


「おかしいです、チャビエル様。最初は偶然かと思ったんですが、三台の荷竜車全て、車輪か車軸をぶち破られて、走行不能になっていました」


「その事か」


 ひげ面の狩人の言葉に、チャビエルは小さく頷き返す。


 その事実には、チャビエルも当然気づいていた。最初は死体の運搬に、破損した荷竜車を使用するつもりだったのだ。


 しかし、生憎と無事に稼働する状態の荷竜車は一つもなかった。


 そのことをチャビエルは、「運が悪かった」としか思わなかったのだが、このひげ面の狩人には、別な意見があるらしい。


「確かに、大規模な襲撃に巻き込まれたんですから、偶然全ての荷竜車が、走行不能になっていてもおかしくはないです。しかし、俺が見たところ、どの車両の車輪も、群竜が『爪』や『牙』を突き立てて、ぶちこわしたみたいなんですよ」


 御者の操作ミスで破損させたのではなく、群竜が意図的に車輪に攻撃を加えていた。


 その意味するところは、一つしかない。


「意図的に足を奪いにきた、と? 群竜に、そこまでの知恵があるのか?」


「はい。俺もちょっと信じられませんが、そう考えておいた方が無難ではないかと。実際、奴等がそれくらい賢いと考えたほうが、納得がいくことが、他にもあるんです」


「どういう事だ?」


 先を促すチャビエルに、ひげ面の狩人は眉間の皺を一掃深くして、重苦しい口調で言葉を続ける。 


「ほら、群竜に襲われたにしては、群竜の死体が一つもないじゃないですか。つまり、この塩商人の護衛達は、一匹の群竜も倒せずに、ただただ一方的にやられたって事になる」


「ありえない、と?」


 チャビエルの問いかけに、ひげ面の男は一瞬考えた後、首を横に振る。


「いえ、ありえない、とまでは言いませんね。この辺りは見ての通り道幅も狭いし、左右の木々はかなり密集しています。この状況で、統率のとれた群竜の群が、左右から同時に襲い掛かれば、為す術もなく全滅してもおかしくはない。


 ただ、護衛の兵士達が全員油断していた、ってのが前提条件になりますがね」


 ひげ面の狩人は、自分でもその言葉に今一納得がいっていないのか、言い終えた後でしきりに首をひねる。


 確かに、それは不自然だ。長い道中、平和な道のりが続けば、護衛の兵士達に気のゆるみが生じるのは必然であるが、それにしても、『群竜』の奇襲が完全に成功するほどに、油断しきっていたとすると、この塩商人が雇っていた兵士は、相当程度が低かったということになる。


 ありえない、とまでは言えなくとも、不自然には感じるくらいの違和感。


 ならば、現状の説明がつく別な説があれば、そちらの信憑性が増すのも当然である。


「そう考えたら、群竜の死体が見あたらないのも、俺には「護衛の油断」じゃなくて、群竜側に原因があるんじゃないか、と思えるんですよ」


「群竜側に原因……」


 それはなんだ? と、チャビエルが問いかけようとした、その時だった。


「空、北北東の方向より、飛竜です!」


 見張りに立っていた兵士の大声が、辺り一面に響き渡る。


「ッ!?」


 反射的に北北東の空を仰ぎ見たチャビエルの視界に、それが映る。


 眩しいほどに青い、酷暑期の大空にポツンと浮かぶ、黒いシミ。


 最初は黒い点としか視認できなかったその影は、みるみる間にこちらに近づき、その詳細な輪郭が見て取れるようになる。


 長い首。長い尾。そして、身体全体の八割以上を占めるのではないかと思われる、大きな翼。


 間違いない。翼竜種である。それも、人間が情報伝達用に飼いならしている『小飛竜』とはわけが違う。正真正銘の飛竜だ。


「各員、小隊単位で対空防御態勢! 弓兵は矢を番えて、合図があるまで待機!」


 自分でも内心驚くほど、チャビエルはスラスラと全軍にそう命令を下した。


 命令の内容自体は、軍が飛竜と遭遇したときの、極スタンダードな対応でしかないのだが、その反応速度は、初陣の若造としては十分に合格ラインである。


「ひ、飛竜!?」


「なんで、こんな所に?」


「畜生、焚き火の煙が、おびき寄せちまったのかッ!?」


 雑然とした空気を醸しながらも、兵士達はチャビエルの命令通り、小隊単位で固まるとハリネズミのように、その手に持つ短槍を頭上に掲げて防御態勢を取る。


「チャビエル様! こちらに!」


「分かった、アンドレス。お前もこっちだ!」


 騎竜の背から飛び降りたチャビエルは、従者のアンドレスに手を引かれるようにして、司令官の直属部隊が形成する槍衾の中に、その身を滑り込ませた。


「ふう……」


 短槍を構える部下達に周囲を固めてもらい、従者のアンドレスから、愛用の単弓を手渡してもらったチャビエルは、一つ大きく息をつくと、上空を舞う飛竜を睨み付けたまま、独り言を漏らす。


「飛竜は、想定外だぞ。なんだってこんな森の中で……・」


 チャビエルのその言葉は、単なる弱音ではない。


 大型の飛竜の、主立った狩り場は、見晴らしの良い草原であり、この様な森に姿を現すケースは少ない。


 皮膜状の巨大な翼を持つ飛竜では、木々が密集する森に降り立つことは不可能に近いからだ。


 そのため、チャビエルが言うとおり、一行の武装は、対飛竜を全く想定していない、短槍と単弓を中心としたものとなっている。


 飛竜を相手取るのであれば、短槍ではなくて長槍、単弓ではなくて長弓を用意するべきなのだ。


「あの動きからして、この辺りを狩猟場としているわけじゃないでしょう。近くの草原に獲物を狩りに行く途中だと思われます」


 いつの間にか、チャビエルの隣で片膝を付き、単弓を構えていたひげ面の狩人が、視線は上空を舞う飛竜に向けたまま、緊張感を漂わせた声で、そうチャビエルに言う。


「私達を狩る気はないのか?」


 チャビエルの問いに、ひげ面の狩人は油断なく視線を飛竜に向けたまま、小さく頷き返す。


「おそらくは。もちろん、油断は禁物ですがね。飛竜にとっても、森を歩く人間を狩るのは危険が大きいわけですから」


 一般的に誤解されがちだが、軍隊にとって大型の飛竜種というのは、実のところ、それほど大きな脅威ではない。


 無論、上空という反撃の手が届かない領域から、急降下襲撃を仕掛ける大型飛竜が、人間にとって極めて対処の難しい強敵であることは間違いないのだが、それによって軍隊が受ける被害というのは、極限られるのである。


 少し考えれば分かるだろう。飛竜は空を飛ぶから飛竜なのである。とどのつまり、飛竜の獲物とは、その足の爪で抱えて離陸が可能な重量に限られる。


 そのため、人間の集団が飛竜に襲われたとしても、直接的な被害に会うのは、通常一人か二人、多くても三人といったところだ。


 実際、十分な護衛を雇うことの出来ない行商人が、草原の街道を行く場合、対飛竜用の『生け贄』として、年老いた『肉竜』を一,二匹連れて行くのが、一般的だとされているほどだ。


 つまり、非情な言い方をすれば、この軍勢が飛竜に襲われたとしても、それによって生じる人的被害は、一人か二人。チャビエルや、騎士ジョゼップといった替えの聞かない中枢の人間が被害にあわない限り、『軍勢』単位で見れば、絶望的な被害を被る可能性はない。


 とはいえ、兵士一人一人にとっては、そんな言葉は大した慰めにはならない。


 百分の一、もしくは百分の二の確立で、飛竜の餌にされてしまうかも知れない。そんな恐怖に、槍兵も弓兵も輜重兵も、そして数少ない魔術兵も、『全員』が視線を飛竜に向け、その意識を『上空』に集中する。


「…………」


 痛いほどの沈黙の中、上空を舞う飛竜の羽音だけが、ゴウゴウと大きく響き渡る。


 弓兵の何人かは、街道の地面に背中を付け、仰向けに寝そべる体勢で、弓を構え直す。『真上』というポイントは、弓兵にとっても一種の死角だ。立ったまま、真上に矢を打ち上げるのは、熟練のわざを要する。


 だが、そんな彼等の警戒も、幸いにして、今は徒労に終わった。


 飛竜の視力を考えれば、こちらの存在に気づかなかった、という可能性はないと言い切れる。やはり、狩人の言うとおり、飛竜にとっても、左右に木々が密集した細い街道に、急降下攻撃を仕掛けるのは、望ましくないのだろう。


 飛竜はそのまま、チャビエル達の頭上遙か上空を飛び去っていく。


「…………ふう」


 飛竜の影が完全に見えなくなったところで、チャビエルは思わず安堵の息を吐いた。


 それは、チャビエルに限らない。


 予想外の障害に遭遇しかけ、その障害を何の問題も起こすことなくやり過ごすことに成功したことにより、全軍の緊張感が弛緩した、その時だった。


「シャッ!」


 街道の左右から、大きな影がいくつも、チャビエル一行に襲い掛かる。


 太い二本の脚で、木陰から一行の頭上まで、一足飛びにやってきた『それ』らは、そのまま、完全に油断していた兵士達を頭上から、自重で押しつぶす。


「うわああ!?」


「ヒッ!?」


「ガッ……!」


 兵士の身体を踏みつぶすようにして、それらは街道にその姿を現した。


 全身を緑色の鱗で覆われた、人間より頭一つほど大きな二足歩行型の中型肉食竜。


 群竜だ。右から三匹。左から四匹。計、七匹の群竜が、七人の兵士をその太い足の下に敷き、鋭い牙を見せる口元から、泡立つよだれを垂らす。


 いつの間に、街道の脇に潜んだのだろうか? もしかして、一行が上空を横切る、飛竜に気を取られている間に、森の中から距離を詰めていたというのだろうか?


 だとするのならば、この群竜のボスは、自分たちにとっても本来恐るべき敵であるはずの、飛竜の行動パターンすら、自分たちの狩猟に役立てているということになる。


「なっ……なにが……!?」


 事の真相はともあれ、唐突な状況の変化に、新米司令官であるチャビエルが適応するには、まだ数瞬の時間が、必要とされるのだった。





 ◇◆◇◆◇◆◇◆







 一方 遠く離れた辺境の出来事など、まだ知るよしもない、善治郎とアウラの女王夫婦は、王都の後宮で、話し合いの場を設けていた。


 無論、群竜の奇襲を受けたチャビエル・ガジール達の現状とは比べるべくもないが、こちらはこちらでそれなりに深刻な話題である。


「ええと、つまり、ほぼ本決まりになったってこと? その、双王国の王子と王女がこの国に来るって話が」


 白のTシャツと、薄いブルーの麻のズボンという、ラフな格好の善治郎は、黒い革張りのソファーから身を乗り出すようにして、対面に座る妻にそう確認する。


 赤い薄手の部屋着姿のアウラは、眉間に皺を寄せたまま、善治郎のその言葉に、頷き返した。


「うむ。まだ、内々の段階だがな。ほぼ本決まりと言ってよい。可能な限り、情報を秘匿して話を進めるつもりだが……まあ、無駄な努力だろうな。近々に、南大陸西部、中部に撃震が走るだろうよ。当然、震源地は我が王宮だ。すまぬが、そなたもそれなりの覚悟を決めておいてくれ」


 淡々と厄介事に巻き込まれる未来を語る妻に、善治郎はウンザリとした表情を隠さず、溜息をつく。


「……了解。それにしても、情報の秘匿が難しいってどういうこと? こっちは、隠す気があるけど、向こうが隠す気がないってことかな?」


 善治郎の問いに、アウラはソファーの上で脚を組み直しつつ、首を横に振る。


「いや、双王国にとっても、シャロワ王家の人間が国外に出るというのは、一大事だ。この段階から、向こうも、意図して情報を漏らすことはあるまいよ。


 だが、こちらはそうはいかぬ。なにせ、王宮に他国の王族を長期間受け入れるのだからな。そのための準備に、特別予算を仕立てなければならぬし、人員も用意せねばならぬ。


 それに、この話は向こうの要請をこちらが受け入れる形になるのだから、特別予算や人件費で赤字にならぬよう、双王国に何らかの見返りを求める必要があるし、そうなるとまた、向こうの代表と会合だ。


 それだけ、人、物、金が動けば、どれだけ注意しても、目ざとい奴等は、真相に気づく」


「なるほど」


 善治郎は、納得した。確かに、情報そのものは寸断できても、金や物資の流れを、王宮貴族の眼から隠し通すことは、不可能に近い。


 王族を二人、長期間に亘って受け入れるほどに大きく金と物資を動かせば、目ざとい人間は、すぐにその異変に気づくことだろう。


 顔をしかめながらも、まだどこか他人事な様子の夫に、女王は諭すような口調で言う。


「恐らく、情報が流れ始めれば、裏付けを取る際の標的とされるのは、ゼンジロウ、そなただぞ。かなり周りが鬱陶しくなるはずだ」


「うえぇ……」


 その言葉に、善治郎は今度こそ、本当に渋い表情を浮かべる。


 事の真偽を確かめるために、貴族達があの手この手で、探りを入れてくる様を想像してしまったのだろう。


「はあ……」


 善治郎の口から、長い溜息が漏れた。






 とはいえ、せっかくのくつろぎの時間を、陰鬱な話題だけに費やすのは、勿体ない。


 気を取り直して、冷蔵庫から氷と、果実水を取ってきたアウラは、自分用の赤いグラスと、善治郎用の青いグラスに、それを注ぎながら、会話を移す。


「そういえば、そなたは今日の業務を終えているのであろう? 午後はどうするつもりなのだ?」


 アウラの問いに、善治郎はアウラが差し出す青いグラスを受け取りつつ、答える。


「あ、ありがとう。うん、午後は、時間が余っているから、石鹸の使用実験かな。昨日完成した石鹸に一部、結構良い出来なのがあるから、侍女の人達に協力してもらって、使い心地を試してもらいたいんだ」


 ここ最近、善治郎が力を入れている、灰汁と植物油を使った石鹸作りは、比較的順調に進んでいる。無論、製造法の確立までには、まだまだ試行錯誤が必要だが、偶発的に成功品に近いものが出来ることはある。


 しかし、その『完成品』も、実際に使い心地を試してみなければ、本当の意味で完成したとは言えない。


 そのため、文字通りの意味で侍女達の「手を借りる」のだ。


 女の柔肌を実験に使うのは少々気が引けるのだが、こればかりは善治郎一人でどうにか出来るものではないので、仕方がない。


 人の体質は、皆バラバラだし、同じ人間でも、その日の体調や季節によって変動する。


 より多くの人間に、使用実験をしてもらわなければ、こうした品物の安全性は保証できないのだ。


「なるほどな。そなたが、故郷から持って来た入浴用の消耗品にも、限りがあるのだったな」


 善治郎と結婚してからは、ずっと、日本製の石鹸、洗顔石鹸、シャンプー、リンスを使ってるアウラは、納得したように一つ頷いた。


「うん、実のところ石鹸は一番余裕があるんだけどね。でも、一番足りないシャンプーは作るのが難しいから」


 身体を洗う石鹸で、髪を洗えば、汚れは落ちてもギシギシと指通りが悪くなって、かえって髪を傷めることがある。


 将来的には、カープァ王国の上流階級で一般的な、髪用の香油を併用するなどして、艶を落とさずに汚れだけを落とす方法を模索したいと思っているが、それは石鹸の完成よりさらに後になるだろう。


 正直、シャンプーのストックが切れるより先に完成する見通しは立っていない。


 そんな風に意識を半分以上思考に割いていたのが災いしたのだろうか。


 いつも通り、テーブルの上から青い切り子グラスを持ち上げようとした善治郎の手から、そのグラスが滑り落ちる。


「あっ!?」


 と声を上げたときにはもう遅い。


 木製のテーブルの上へと落下した切り子グラスは、ガシャンという硬質な破砕音を残し、砕け散った。


 大小の青いガラスの破片と溶けかかった氷が、良く磨かれたテーブルの上に散乱し、果汁の混じった水がテーブルからダラダラと絨毯の上へ、したたり落ちる。


 運が悪いと言えば、運が悪い。同じ落とすにしても、足の長い毛に包まれた絨毯や、クッションのきいたソファーの上ならば、まだ破損しない可能性もあったのに、よりによって固いテーブルの上に落としてしまったのである。


「わっちゃー、やっちゃった!」


 思わず善治郎は、舌打ちをした。


 善治郎としては、結構な痛手である。地球ならば、買い直せば良いだけのガラス器も、こちらの世界では、二度と入手不可能な、替えの利かない一品だ。


 未だに、銀製、木製カップの口当たりに今一なじめない善治郎にとって、貴重な品であったことは間違いない。


 とはいえ、自分の不注意で割ってしまったのでは、誰も恨めない。


「まあ、やっちゃったのは仕方がない、か。悪いけど侍女の人に頼んで、片付けてもらうか」


 と、善治郎がテーブルの上の呼び鈴に、手を伸ばしかけたその時だった。


「ふむ……今日のこの後の予定は……問題ない、な」


 対面のソファーで、腰を浮かしかけていたアウラは、口元に手をやってぶつぶつと呟いた後、善治郎を制止する。


「まて、ゼンジロウ。それには及ばぬ。良い機会だ。そなたも、正統なカープァ王家の一員なのだから、知る権利がある」


「アウラ?」


 たかが、グラスを一個割っただけなのに、突然なにやら大げさなことを言い出す妻に、善治郎は、呼び鈴に延ばしかけた手を止め、怪訝そうに首をひねる。


 そんな夫の不審を知ってか知らずか、アウラは真っ直ぐ立ち上がると、テーブルの上に散乱するガラスの破片に向かって、ピンと五本の指を伸ばした右手の平をかざす。


「これより披露するは、我がカープァ王家の『秘匿魔法』だ。魔法を使えるようになったあかつきには、そなたにも習得してもらうが、何があっても他人にこの魔法の存在を、知られてはならぬ。


 人前で使用するなどもってのほかだ。これは、プジョル将軍やマルケス伯爵のような国の重鎮はもちろんのこと、ファビオやエスピリディオンといった私の腹心達も例外ではない。


 カルロスにも、私が「よい」と言うまでこの魔法の存在を教えてはならぬ。よいな?」


 そんな善治郎に、アウラは右手の平を割れたグラスにかざしたまま、ソファーに座ったまま、自分を見上げる善治郎の眼をしっかりと見据え、そう強い口調で言い切った。


「わかった」


 妻の口調から、冗談が許される状況ではないと理解した善治郎は、素直に首肯する。


「うむ」


 夫の対応に満足したのか、小さく頷き返したアウラは、ゆっくりと前進から立ち上る魔力の光を高めていき、呪文を唱える。


『対象の時間を一日、巻き戻せ。その代償として我は、時空霊に魔力千三百を捧げる』


 効果は劇的だった。


 テーブルの上のグラスの破片が、光の半球に包まれたかと思うと、次の瞬間、その半球は直視することも難しいくらいに強い光を放つ。


「うわっ!? ……えっ!?」


 と、反射的に目を瞑った善治郎が、目を開くと、テーブルの上には、元通りの形を取り戻した、青い薩摩切り子のグラスがあった。


 善治郎は、驚きに眼を見張ったまま、独り言のような口調で問いかける。


「これ……! 修復の魔法……じゃ、ない、よね?」


 結果だけを見れば、物体修復の魔法に見えるが、そうではないことは、先ほどのアウラの呪文から、簡単に推測できる。


 善治郎の言葉に、アウラは直立したまま、首を縦に振る。


「ああ。物体修復では、我が王家の『血統魔法』と毛色が違いすぎるであろう? これが、我がカープァ王家の秘匿魔法。『時間遡行』だ」


「『時間遡行』……」


 善治郎は、目の前で起きた現象に圧倒されたように、そう呟く。


 カープァ王家の血統魔法は、『時空魔法』。時間と空間を司ると聞かされたときから、時間を操ることができる可能性については、多少考えていた善治郎であるが、こうして目の前でその現象を披露されると、言葉では言い表せないような興奮に襲われる。


 もしくは、『感動』と言いかえても良い。


 オクタビア夫人に、『水球作製』の魔法を見せてもらったときも、ここまでの感動はなかった。 

 初夜の晩、アウラの乳房に顔を埋めたときの、五分の一にも匹敵するほどの感動が、今の善治郎の心を支配している。


 目の色を変える夫の反応に、気づいただろう。


 ソファーに座り直したアウラは、苦笑を隠さず、説明の言葉を続ける。


「感動しているところに、水を差すようで悪いのだが、この魔法は実のところ、見た目ほど大したことが出来る代物ではないのだ」


「と、言うと?」


 視線を、復活したばかりの切り子グラスから、対面に座り直したアウラの顔へと移した善治郎は、そう短く問い返す。


 アウラは、ノースリーブの部屋着から剥きだしになっている肩をヒョイとすくめると、


「まず第一に、『時間遡航』が可能なのは、『魔力を持たないモノ』に限られる。そのため、生き物に使用することはまず不可能だ。出来るのは、魔力を持たない下等生物――虫や小魚くらいのものだな。


 当然、魔道具の類も再生不能だ。となると、対象は生き物でも、魔道具でもないもの、となるが、そうした物に価値のある物は少ないからな。


 直系王族が膨大な魔力を使用してまで、『時間遡行』を使用するほどの品と言うのは、存外少ないのだ」


 そう言って、笑った。


 確かに、この世界の価値観からすれば、王家の秘匿魔法を使ってまで修復するほど価値のある、『生き物でも、魔道具でもないモノ』など、早々転がっていないというのも解らないではない。


 実際、アウラ自身、『時間遡航』を有益に使用したという記憶は、あまりない。


 一番有効活用したと思われる記憶が、父が大切にしていたパイプを、誤って踏み割ってしまったとき、こっそり修正した記憶なのだから、たかがしている。


「それに、この魔法は対象の大きさと、巻き戻す時間の長さに比例して、必要とする魔力量が跳ね上がるのだ。月単位で巻き戻そうと思えば、魔力が空になる覚悟がいるし、年単位ともなれば、『時間操作』を組み合わせて、未来の自分の魔力も、まとめてつぎ込まねば発動せぬ。


 到底、割に合う代物ではない。


 だが、万が一、この魔法の存在が世に知れ渡ったとしたら、細かな制約まで広まる可能性は薄い。死者蘇生も可能な、万能魔法と誤解されるのがオチだ。


 だから、この魔法の存在は、絶対秘匿なのだ。わかったか、ゼンジロウ?」


 そうしてアウラは、蕩々と『時間遡行』の使い勝手の悪さをとくが、善治郎の眼に浮かんだ興奮の色は、いっこうにあせることはなかった。


 爛々と、興奮の色を湛えまま、善治郎は対面に座るアウラの眼を見据え、少し震える声で問う。


「つまり、『魔力の籠もっていない』『あまり大きくない』モノの時間を、短時間巻き戻すだけなら、不可能ではない、ってことだよね?」


「う、うむ。まあ、そうなる、な」


 珍しく、夫の圧力に気圧されるように、少し後ろに身体を引きながらも、アウラは首を縦に振る。


 興奮状態の善治郎は、そんな妻の微妙な変化に気づくことなく、その顔に満面の笑みを浮かべると、ドタドタと部屋の隅へと駈け出す。


「じゃ、じゃあさ。これ、これを出来るだけ短い時間逆行させるとしたら、アウラにとってどのくらいの負担になる?」


 そう言って、善治郎が指さしたのは、日本から持ち込んだあの日以来、一度も日の眼を見ていない電化製品、『エアコン』であった。


 こちらに来て早々に、取り付けを諦めたため、まだ包装のビニールも剥がしていない状態である。


 善治郎の意図が解らないまま、小首を傾げるアウラは、それでも素直に夫の問いに答える。


「それは……流石に、コップとは桁違いに大きいからな。今のように、手軽に巻き戻すことは出来ぬ。だが、まあ、最小単位である一日分巻き戻すだけならば、絶対不可能な負担というわけではないな。


 当日魔力を一切使わずにすみ、翌日も使う予定がまず間違いなく入らない。そんな日の夜であれば、可能だぞ」


 実のところ、アウラが魔力を消費する機会というのは、そう多いものではない。


 しかし、現在カープァ王国でアウラにしか使えない『瞬間移動』の魔法は、いざという時の切り札だ。


 この札をいつでも切ることが出来るよう、魔力を温存しておくことが、今のアウラには求められる。


 

 そんな制限がついたアウラの返答であったが、善治郎にとってそれは十分意にかなうモノであったようだ。


 満面の笑みを浮かべる善治郎は、グッと両拳を固く握りしめ、何度も細かく振り、興奮を露わにする。


「よしっ、よしっ、よしっ! これで、やっと『エアコン』の取り付け作業に入れる!」


 その言葉には、万感の思いが込められていた。


 善治郎が今日まで、エアコンの取り付け作業をおこなっていなかった理由は、「取り付け作業に失敗して、壊してしまっては、取り返しがつかない」という、恐怖感のせいである。


 だが、こうして『時間遡行』という魔法があれば、エアコンの破損は、『取り返しがつかない』ものではない。


 ならば、思い切って『エアコン』の取り付け作業に、取りかかることが出来るというものだ。


 例え、最初の一回目で成功しなくても、やり直しが利くのであれば、何も怖れることはない。


「なあ、アウラ。ちょっと、お願いがあるんだけど……」


 そういってアウラににじり寄る善治郎の笑みは、「緊急のこづかいを母ちゃんにねだる、父ちゃん」そのものだ。


 こうして山井善治郎は、異世界に転移してきてから始めて、女王である妻にごく私的なお願いをするのだった。

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