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理想のヒモ生活  作者: 渡辺 恒彦
二年目
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第二章3【惨劇の現場】

 チャビエル・ガジールが率いるガジール辺境伯領主軍、総勢百名は、炎天下の下、『塩の街道』の真ん中で行軍を停止していた。


 昼の大休止から行軍を再開して、約一時間。


 チャビエル一行の前に広がる光景を言葉で表すのならば、それはただ一言、『陰惨』という言葉になる。


 横倒しになって、街道を塞ぐ、複数の荷竜車。


 その荷竜車と革紐でつながれたまま、絶命している『鈍竜』の死体。


 当たりに散乱する、破けた塩の麻袋。


 そして、荷竜車の周囲に転がっている、いくつもの人間の死体。


 塩商人達のなれの果て、である。


 襲撃を受けてから、相当な日数が立っているのだろう。死体は、グズグズに腐敗して、強烈な臭気を発している。


 死体の欠損部位も、はたして肉食竜に捕食されたのか、はたまた肉が溶け落ちてズル剥けたのか、素人眼には判別がつかない有様だ。


 赤茶色にとろけた腐肉の所々に蠢いている黒いシミは、腐肉に集っている肉蠅の群であり、ポツポツと浮かぶ白い斑点は、肉蠅の生み付けた卵の個体群コロニーである。


 耳を澄ませば、風の音に混じって、耳の奥が痒くなるような、無数の羽音が聞こえる。


「あぐッ……!」


「ウッ……」


「吐くな! こんな所で体力を消耗したら、この後の戦闘に差し控えるぞ!」


「せっかく喰ったもん、ぶちまけてみろ。眼ン玉飛び出るまで、ぶん殴ってやるからな!」


 後方では、嘔吐感と戦う新兵達が、古参兵達の手荒な叱咤激励を受けている。


 新兵といっても、彼等も自然の驚異と隣り合わせで生きる、辺境領の生まれだ。人間はともかく、竜の死体を始めて見る人間は、少数派のはずだ。


 となると、やはり嘔吐の原因は、この臭いだろう。


 肉が腐り、とろける際に醸し出される、腐敗臭。甘酸っぱいとも、生臭いともつかない、その空気に色が付きそうなくらい濃厚な臭いに、慣れていない若い兵士が、胃の中身を街道にぶちまけたい衝動にかられるのも、無理はない。


 実際、チャビエル自身も、『責任感』と『虚栄心』という二つの弁で、食道に蓋をしていなければ、とうにその胃の奥から沸き上がる衝動に敗北していたことだろう。


 そんな『走竜』の背の上で、内なる戦いに気を取られている若い指揮官に、職務を思い出させる一言を告げたのは、やはり歴戦の騎士であった。


「チャビエル様。ご指示をお願いします」


 自らが乗る『走竜』を巧みに操り、チャビエルとの距離を詰めた中年の騎士は、小さくも強い口調で、そう若輩の指揮官を叱咤する。


 騎士ジョゼップの端的な一言に、己に課せられた責務を思い出したチャビエルは、正気を取り戻したように、一度大きく咳払いをして、指示を飛ばす。


「う、うむ。検分係は前に出て、死体の検分。状況を分析して報告せよ。他の者達は周囲の警戒に当たれ!」


「了解!」


「聞いたか? 第一中隊は街道の東、第二中隊は西の警戒に当たれ! 第三、第四は、後方で輜重部隊の警護だ!」


「道を空けてくれ、検分係が前に出るぞ」


 少し裏返りかかったチャビエルの指示を受け、部隊はすぐさま動き出す。


 小走りに検分係の男達が死体近づくと、それまでヘドロのように固まって死体に張り付いていた肉蠅の群が、一斉に飛び立つ。当たりの視界はまるで黒い霧に包まれたように、黒く濁った。






 検分係、というと随分と学のある人間に聞こえるが、実際のところはなんということはない。彼等の正体は、『熟練の狩人』である。


 だが、実際経験を積んだ狩人以上に、この手の知識を蓄積している者はいない。


 食べ残しの歯形や、糞などから、対象の種族を割り出し、被害者の状況から、対象の数を推測する。さらには、死体の腐乱状況から、大ざっぱな死後経過日数すら推測してみせる。


 それは、系統がけて学んだ学術知識ではなく、経験の蓄積によって身につけた実践知識の集合体にすぎないが、だからといってその信憑性が減じるわけではない。


 程なくして、検分係の狩人達が、チャビエルの元へとやってきた。


 ここが領地の屋敷や王都であれば、それ相応の礼儀があるのだろうが、前線では、大概の無礼は黙認される。


 チャビエルの前へやってきた狩人達を代表し、口を開いたのは、茶色の無精髭を生やした中年男だった。


「報告します。この塩商人達を襲ったのは、『群竜』だと思われます」


 中年狩人の言葉に、チャビエルはピクリと頬肉を振るわせる。


『群竜』


 その名を知らない人間は、この場にはないだろう。それくらいに、ここ南大陸西部では、ポピュラーな肉食竜である。


 幾つかの例外はあるが、大ざっぱに区分すれば、『鈍竜』『走竜』と言った草食の竜の大半が四足歩行なのに対し、肉食の竜の大半は、二足歩行であり、この『群竜』という名の肉食竜も、その例外ではない。


 一般的な成竜で、その全高はおおよそ人間より頭一つか二つぐらい高い程度だろうか。


 強大なバネを蓄えた太い二本の足で直立し、長い尾で全体のバランスを取り、鋭い爪のついた短い二本の前足と、ギザギザの牙を生やした噛みつきで、獲物をかる。


 地球上に生息する生物に例えれば、そのシルエットは『カンガルー』に一番近いかもしれない。


 肉食竜の中では、小柄な種に分類される『群竜』であるが、だからといって人間の脅威にならないというわけではない。


『群竜』という名が示すとおりに、この竜は常に、群をなすのだ。


 実際、辺境の村落では、『群竜』の手によって家畜である『鈍竜』や『肉竜』が襲われるという被害は、頻発する問題であるし、森に入った村民を捕食する可能性がもっとも高い肉食竜も、この『群竜』であると、言われている。


 だが、『群竜』の生体と習性をある程度知っているチャビエルは、狩人達の報告に騎乗で首を傾げる。


「『群竜』だと? 間違いないのか?」


 司令官の問いかけに、ひげ面の狩人は、自信を持って首肯する。


「はい。間違いありません。人の死体は、腐乱が激しくほとんど確認できませんでしたが、鈍竜の外皮はこの程度では腐りませんからね。歯形、爪痕が確認できました。間違いなく、この襲撃をおこしたのは、『群竜』です」


 専門家である狩人達がここまで、はっきりと断言するのだ。まず、間違いないのだろう。


 しかし、チャビエルの疑問は、解消されない。


「そうか、そなたがそこまで断言するのならば、そうなのだろうな。しかし、分からんな。『群竜』の群れごときに、塩商人達がやられたというのか? 奴等の護衛は、練度も数もかなりのものだと聞いているが?」


 チャビエルは、そう言って視線をあちこちに散乱する塩商人達の死体に向けた。


 大幅に喰われて腐れ落ちた死体は、すでにどれが塩商人で、どれがその護衛か分からない有様だが、その周囲に落ちている、短槍や単弓の残骸から、十分な戦闘員がいたことを窺わせる。


 チャビエル自身、『実戦訓練』の一環として、『群竜』退治におもむいた経験があるのだが、その経験からすると、これだけの戦力で、『群竜』の群れごときを撃退できないというのは、ちょっと想像ができない。


 だが、ひげ面の狩人は、厳しい表情で首を横に振る。


「チャビエル様。『群竜』というのは、群のボスの器量次第で、どこまでも数を増やすんです。大概のボスは、十匹に満たない群を作るのがせいぜいですが、年を取って成長した大ボスの中には、二十匹、三十匹の群を作る固体もいます。


 デカイ群を率いるボスというのは、でかくて強いだけじゃありません。それだけの数の部下を喰わせることができるってことですからね。大概、異常なくらいに頭が良くて、狡猾な狩りをおこないます」


「では、この塩商人達を襲った、群竜は……」


 狩人の説明に、状況を理解したチャビエルは、表情を固くする。


「はい。大ボスに率いられた、大規模な群竜の群れ、でしょうね。いくら塩商人達が護衛を連れているとは言っても、統率の取れた『群竜』が二十も三十も襲い掛かってくれば、不覚を取ることは十分に考えられます。


 見ての通り、街道のこの当たりは左右の木々が密集していますからね。


 奇襲を受ければ、為す術もなくやられても、おかしくはありません」


「二十か三十、か」


 ひげ面の狩人の説明に、チャビエルは眉間に皺を寄せた難しい表情で、呟く。


 しかし、狩人は、渋い表情のまま、今一度首を横に振る。


「違います、チャビエル様。最低でも二十か、三十です。実のところ、俺は、今回の群は少なく見積もっても『五十』を超えると睨んでます」


「五十だと!? 根拠はあるのか?」


 予想を遙かに超える数に、チャビエルは驚きを露わにする。


 よく見ると、今発言したひげ面の狩人以外の狩人達も、驚いた表情をしている。つまりこれは、このひげ面の狩人一人の意見なのだろう。


 ひげ面の狩人は、チャビエルの言葉を待っていたかのように、とうとうと自説を展開する。


「ここからでも見えるでしょう。塩商人達の荷竜車を引いていた『鈍竜』の死体を見て下さい。全部ではありませんが、何体か、この背中の部分を喰われているでしょう?


 あそこは、肉質が固くて、不味いんですよ。獲物が十分にあれば、大概の肉食竜はあそこの部分は喰いません。


 そして、ここにはかなりの数の人間と、合計八頭の鈍竜がいた。それなのに、鈍竜の背中まで喰われているとなると……」


「相当数の人間と鈍竜の柔らかい部分を食べ尽くしても、なお満たされないだけの、『群竜』がいた、ということか」


「はい、俺はそう考えます」


「その数が、五十越えだと?」


「そこは、あくまで大ざっぱな俺の推測ですがね。塩商人と、荷竜車の御者。積み卸しの人足に護衛の兵士。それに、八頭の『鈍竜』の柔らかくて比較的美味い部分を食い尽くしてなお、腹を空かせた奴がいるとなると、まあ、そのくらいの数はいてもおかしくはない、と思います」


「むう……」


 大ざっぱではあるが、説得力のある髭の狩人の言葉に、チャビエルは下唇を噛んだまま、難しい顔で考え込んだ。


 群竜が五十匹。


 その予想が事実であるとするならば、それはチャビエルの率いている、百人の軍勢にとっても、容易ならざる敵である。


 流石に敗北する、とまでは思わない。だが、先の大戦を終えたばかりのカープァ王国に取って、若い兵士は貴重な存在だ。


 人的被害の許容範囲は、狭い。


 今回の一件を、「息子に手柄を立てさせるほどよい障害」と見なしたガジール辺境伯が、少々強引に自領軍で解決するという方向に持って来たこの一件だが、この先の状況次第では、不本意な二択を迫られるかも知れない。


 すなわち、手柄を優先して、貴重な自領の兵士を死なせるか。はたまた、兵士の命を護るために、手柄を投げ捨て、王軍に援軍を優先するか、の二択だ。


(難しい、な)


 チャビエルの心情としては、自分の手柄などより、自領の兵士の命を優先したいのだが、そうした感情的な判断が許される立場ではないことは、チャビエル自身自覚している。


 近い将来、辺境伯の地位を継承するチャビエルが、『名声を得る』ということは、カープァ王国におけるガジール辺境伯領の権益を守ることと直結する。


 名誉か、兵士の命か。


 無論、チャビエルが名誉を得て、兵士も死なせないのが、最善であることは間違いないのだが、髭面の狩人の『敵は群竜五十匹の群れ』という推測が当たっていた場合、人的被害を出さずに討伐に成功する可能性は、かなり低いと言わざるを得ない。


 グルグルと思考が袋小路に入りかけた事を自覚したチャビエルは、ひとまず目の前の事態を解決することに意識を集中する。


「わかった。何はともあれ、まずは死体と荷竜車を処分するぞ。このままでは行軍もままならん」


 騎乗状態のチャビエルは、巧みな手綱さばきで『走竜』をその場で反転させると、後方に控える部下達に、そう大きな声で宣言する。


 そんなチャビエルの命を受け、間髪入れずに、細かな指示を追加するのは、騎士ジョゼップだ。


「聞こえたな? 斧持ちは、脇の森を切り開き、火葬できるスペースを確保しろ。


『乾燥』と『風の刃』が使える者は、切り倒した木から、火葬用の燃料チップを作製。


 その後、死体と荷竜車の残骸を火葬スペースに移動させて『発火』だ。死体を動かすときには、マスクと手袋を忘れるな。間違っても素手で、触れるんじゃないぞ。死肉の毒にやられたくなければな。


 ああ、積み荷の塩も焼却処分だ。こっちも、死肉の毒が回ってい可能性がある。


 火葬の際には、周囲に燃え広がらないように、注意しろ。万が一の為に、『水操作』を使える者が水樽の横で待機しておけ。


 残りの者は、続けて周囲の警戒だ。


 分かったか? よし、分かったな。チャビエル様」


「う、うむ」


 騎士ジョゼップの細やかな指示に、少し圧倒されながらも、水を向けられたチャビエルは自分の役割を忘れず、一つ大きく息を吸うと、


「では、状況開始!」


 そう、大きな声で開始の宣言をするのだった。






 ◇◆◇◆◇◆◇◆






 同日の夕刻、王都。


 酷暑期特有の長い昼休みを、アウラと満喫した善治郎は、王宮にて多数の貴族を相手取り、とある責務を果たしていた。


 玉座の隣に設けられた、王の配偶者の席にどっかりと腰を下ろした善治郎の前に、着飾った貴族達が順番に進み出て、頭を下げていく。


「パントハ男爵家、現当主。トマスにございます、ゼンジロウ様。


 我がパントハ男爵家は、今年もこの私めが妻と共に王都屋敷につめております。今後とも、変わらぬ忠誠を、王国と王家に捧げる所存です」


「了解した。パントハ男爵。貴公の忠誠、嬉しく思う。アウラ陛下の代行として、そなたの言葉を陛下にお伝えすることを約束しよう」


 そう言って善治郎が頷くと、目の前の中年の男――パントハ男爵トマスは、もう一度深く頭を下げて後、ゆっくりと下がっていった。


 代わりに、部屋の後方に控えていた、老人が善治郎の前に進み出る。


「お初にお目にかかります、ゼンジロウ様。ボボネ騎士家前当主、ブラスにございいます。当家は今年もこの老骨が、王都勤めを継続することとなりました。


 両陛下のご下命とあらば、この老骨に鞭を打ち、いかような責務を果たしてごらん入れまする」


「分かった、ブラス卿。そなたの変わらぬ忠誠、アウラ陛下に伝えておく」


 老人もまた、深々と頭を下げ、後ろへと下がっていった。


 続いて今度は、年若い騎士が進み出る。


「ゼンジロウ様、カバジェロ騎士家当主コンラドが長子、フランセスクにございます。当家の王都勤めは、昨年同様この私めが……」


 口上は皆、同じようなものだ。


 要は、自分が家の代表として、王都に務めると宣言し、善治郎がそれを承認する。


 これは、そういう、儀礼的なやり取りである。


 元々、封建国家としては例外的なまでに王家の力が強いカープァ王国では、各地方領主貴族達は、現当主、前当主、次期当主のいずれかを、王都に常駐させるのが、不文律となっていた。


 元々は、王家に対する『人質』の意味合いから始まった風習なのだが、昨今では、王家にとっても地方領主貴族にとっても、メリットが大きいため、特に遺恨もなく継続されている。


 先にも言ったとおり、カープァ王国における王の権限は、極端に高い。そのため、一族の中でもトップに近い決定権を持つ者が、王都に駐在するというのは、貴族達にとってもメリットの方が大きいのである。


 そうして大貴族が王都に集中することにより、王都の経済は大幅に活性化する。経済が潤えば、それだけ地方から王都に民衆が集まってくる。


 王都の人口が増え、経済力が高まれば、それだけ王都には数多くの利権が生まれる。その利権を手に入れるため、もしくは手に入れた利権を手放さないため、貴族は王都から離れられなくなる。


 そうした理由で、貴族の各家々は、一年一度、家を代表してお家に務める人間が、王にその宣言をして、王から王都駐留の許可を貰うのである。


 本来であれば、女王であるアウラがおこなうべき儀礼だが、今日『駐留宣言』を予定している貴族は、皆前年の担当者がそのまま継続するだけの者達ばかりだ。そのため、忙しいアウラに代わって、善治郎が代役を務めていた。


(代替わりをする場合は、色々面倒な手続きや調整があるみたいだけど、そうじゃない場合は、ただの挨拶だけだからね。これくらいは、アウラの手を煩わせなくても、俺のほうで、ね)


 椅子に座ったまま、連続して貴族達の挨拶を受ける善治郎は、真面目な表情を取り繕ったまま、内心ではそんなことを考える。


 アウラは今頃、王宮の別室で、シャロワ・ジルベール双王国の外交官を相手に、難しい腹の探り合いをやっているはずだ。


 そんなアウラの負担を少しでも軽減するために、善治郎はこうして代役として、表舞台に立つのである。


 無論、女王から王配への『権力の移行』と見なされるような大舞台には単独では立たないし、難しい判断が必要とされるような場面には立てない。


 善治郎が代役として立つのは、今回のような『王族』という肩書きさえあれば、音声再生機能付きのぬいぐるみでも、代役が務まるような代物だけである。


 やりがいのある仕事、とは言い難いが、そうすることでアウラが「助かる」と言ってくれるのだから、善治郎はそれ以上望まない。


 だが、そんな善治郎の心情を、この世界の貴族達が理解できるはずもない。そのため、中にはこの様な場を使って、様々なアプローチをかけてくる人間も出る。


 丁度今、善治郎の前で膝を付く、中年の貴族がそのタイプだ。


「ドゥラン伯爵家、現当主、ディエゴにございます。当家は今年も引き続き、私が王都に務めさせていただきます。いや、それにしても王都は暑いですな。我が領地は高地にあります故、王都の暑さには未だ慣れませぬ。


 王都と比べればなにもない田舎町ですが、この時期ばかりは、故郷が懐かしくて仕方がありませぬ」


 ベラベラと、不必要な世間話を続ける中年貴族に、善治郎は瞳の奥に少しだけ警戒の色を滲ませた。


 そんな善治郎の小さな変化に気づく様子もなく、中年貴族はしゃべり続ける。


「なにもない田舎ではありますが、風光明媚な景色と、澄んだ空気だけはどこにも負けていないと、自負しておりまする。 ゼンジロウ様に避暑に来ていただけたならば、これに勝る名誉はございません。その時は、一族をあげて歓迎しますぞ」


 中年貴族の言葉に、表情を固めていた善治郎の眼が、僅かに細まる。


 ちょっと聞いただけでは、単なる避暑地への誘いだが、その意味するところは、それだけに留まらない。


 現状、カープァ王国において、乳飲み子であるカルロス=善吉を除けば、王族と呼べるのは、アウラと善治郎の二人のみ。その一人である善治郎が『避暑』のため、王都を離れれば、必然的に、女王であるアウラは、何があっても政治の中枢である王都から動けなくなる。


 つまり、この中年貴族は、アウラを伴わない、善治郎一人の身を自領に招きたい、といっているに等しい。


(あー、やっぱりこれは、まだ、俺が現状の立場に不満を持っているって、見なされているのかな?)


 内心、少しウンザリしつつ、善治郎は、目の前に跪く貴族の頭の中を推測する。


 男尊女卑のこの国の価値観に照らし合わせば、確かに善治郎の置かれている立場は、不本意に見えるかもしれない。


 一般的なカープァ王国の男貴族ならば、家長が妻で、自分が日陰者など、自尊心が許せるはずもあるまい。


(まあ、善意にせよ、悪意にせよ、こうした事を提案してくる人間は、絶対にいなくならないだろうね。だからといって、無視するわけにもいかないのが、面倒なんだけど)


 溜息は心の中だけに止めておき、善治郎はわざとらしく笑い声を上げて、言葉を返す。


「ほう、それは、魅力的だな。善吉が成人したあかつきには、アウラ陛下と共に一度訪れてみたいものだ。


 その時には、案内を頼む」


 冗談めかしたその言葉を翻訳すれば、「現状、アウラと距離を取るつもりは毛頭ない」といった当たりだろうか。


「は、ははあ。それは随分と先の話となりますな。はい、その際には、喜んで案内させて頂きます」


 善治郎の真意が伝わったのだろう。


 中年の貴族は、瞳の奥に善治郎に対する失望の色を滲ませ、深々と頭を下げる。


「うむ。覚えておこう」


 善治郎は、そんな中年貴族変化に全く気づいていない風を装い、平然とそう返したのだった。





 三時間近い長い昼休みが設けられている酷暑期の王宮は、その昼の時間ロスを少しでも取りもどさんと、日が昇っている間は、ずっと業務が続けられる。


 そのため、善治郎が後宮に戻ったのは、足元もおぼつかないくらいに、当たりが暗くなった頃合いだった。


 金属製のランタンのような証明を持った侍女に先導され、後宮のリビングルームへと戻ってきた善治郎は、短く侍女に「ありがとう」と告げると、そのまま一人でリビングのドアを潜る。


「……ふう」


 もう薄暗いリビングルームへと帰ってきた善治郎は、まずは何をさておいても、LEDスタンドライトのスイッチを入れる。


 夕闇になれた眼には、LEDの白色光が少し眩しい。


 明るい白色光に照らし出されるリビングルームで、善治郎はおもむろに服を脱ぎ出す。


 太いダホッとしたズボン。和服のように前を閉じるタイプの上着。その上から着込む、チョッキの様な赤い飾り服。


 いずれも、南国らしい通気性の高い生地で作られているのだが、作りがしっかりしている分、やはり正装は暑い。


 アッという間にそれらを脱ぎ捨て、Tシャツとトランクスだけになった善治郎は、一瞬視線を壁際に設置してある5ドア冷蔵庫の冷凍室に向けたが、しばし考え込んだ後、頭を振り、誘惑を振り切った。


「駄目だな。今、氷を出したら夜まで持たないや」


 せめて、アウラが戻ってくるまで、氷扇風機の恩恵は我慢しておくべきだろう。


 代わりに善治郎は、冷蔵庫から銀の水差しを取り出すと、その中身をガラスのコップに注ぎ、一息であおった。


「ふう……」


 まるで飲んだ水分が、そのまま即座に汗腺から吹き出たかのように、善治郎の全身から汗が噴き出す。


「あー。アウラを待たないで、先に風呂に入っちゃうか?」


 そんな誘惑にかられた善治郎は、無意識のうちに視線を、入浴道具を収納している棚に向け、そこであることを思い出した。


「……そういえば、石鹸作りは、全くうまくいっていなかったんだよなぁ」


 数日前から、灰汁と植物油による石鹸製造に着手していた善治郎であるが、今のところ、その努力は実っているとは言い難い。


 一日目に出来たのは、ズバリ『灰の混ざった油』だったし、その後は比較的乳化が進んだ例もあったのだが、実用レベルまで『鹸化』した例は、今のところない。


 悪いのは、油なのか、灰汁なのか。それとも、善治郎の手際なのか。分からないことだらけで、試行錯誤がしばらく必要なのは間違いなさそうだ。


「場合によっては、苛性ソーダの製造からやった方が良いのかな? いや、でもどう考えても、天然自然の材料から苛性ソーダを作る方が、苛性ソーダなしで石鹸を作るより難しそうだよなあ」


 善治郎の悩みは尽きない。


 現代では、手作り石鹸という物は、植物油に水酸化ナトリウム水溶液(苛性ソーダ水溶液)を反応させて作るのが一般的である。


 灰汁を使うのは、もっと古い時代のやり方であり、苛性ソーダがあるのであれば、それを使う方が、石鹸の製造は遙かに容易なのだ。


 一応、その苛性ソーダの作り方も、善治郎はパソコンに落としてきてはいるのだが、当然ながら、実際に試してみたことは一度もない。


 善治郎が落としてきた、苛性ソーダの製造方法は二種類ある。


 一つは、塩水を電気分解して作るやり方だが、これは電気分解に必要不可欠な『イオン交換膜』が、入手不可能なので諦めるしかない。


 だから、今善治郎が考えているのは、もう一つの方法である。


 それは、『水酸化カルシウム』と『炭酸ナトリウム』を複分解反応(二種類の化合物を反応させ、別な二種類の化合物に変化させる反応のこと)させて、『水酸化ナトリウム(苛性ソーダ)』と『炭酸カルシウム』に作り替えるやり方である。


 必要な物は、水酸化カルシウムと炭酸ナトリウム。


 まず、水酸化カルシウムは、別名『消石灰』と呼ばれる。これは、貝殻を焼いて作った『生石灰』を水に反応させれば、出来る。


 もう一つ、炭酸ナトリウムは、炭酸水素ナトリウム――『重曹』を加熱することで、得られる、らしい。


 つまり、突き詰めれば、『貝殻』と『天然重曹』があれば、理屈の上では、『苛性ソーダ』は製造可能ということになる。


『貝殻』と『天然重曹』


 奇しくもこの二つは、ガラス製造に必要とされる資源であり、その関連からすでにアウラが、王宮にある程度の数を取り寄せている代物だ。


 すでに、原材料は、王宮にあるのだ。善治郎が、『苛性ソーダ』製造に食指を延ばしかけるのも、無理もないのかも知れない。


 しかし、言うまでもなく、『貝殻』と『天然重曹』から、『苛性ソーダ』を精製するまでには、いくつもの工程が存在する。

 善治郎のような全くの素人が、指導者の指示も仰がずにやって、簡単に成功するモノではないはずだ。


 もっとも楽観的に考えても、各段階を一つクリアするまでに、月単位の時間が必要だと覚悟した方が良い。


 そして万が一、その全ての工程をクリアして『苛性ソーダ』の精製に成功したとしても、『苛性ソーダ』は、少し眼に入っただけでも失明の恐れがあるくらいの、劇物だ。


 しかも、空気中の二酸化炭素と反応して変質したり、水蒸気を取り込んで液状化してしまうくらい、取り扱いの難しい物質である。


 やはり、冷静に考えれば、『苛性ソーダ』を精製して、石鹸を作るくらいならば、今のまま、灰汁から石鹸を作るやり方を煮詰めていくほうが、現実的に思える。


「よし、やっぱり、今のやり方でしばらくは進めてみよう。取り合えず、乳化現象は起き始めているんだし。今度は、灰汁と油の成分をX軸、Y軸にとって、表にして傾向を調べてみるかな?」


 思考が回り始めた善治郎は、そのままパソコンに向かい、電源を入れると、すぐさま表計算ソフトを立ち上げる。


「まず灰汁の材料になる灰を、何種類か用意して、植物油も、複数用意して。場合によっては、ブレンドもした方がいい、かな? いや、まずは、全体の傾向を出すのが先か。


 悪いけど、侍女の人達には協力して貰わないとなー」


 結局、善治郎はそのまま、アウラが戻ってくるまで、一人パソコンに向かい、今後の計画表を埋める作業に没頭し続けたのだった。

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