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理想のヒモ生活  作者: 渡辺 恒彦
二年目
44/101

第一章2【槍術訓練】

 朝議とはその名の通り朝の会議であり、当然ながらそれが終わっても、アウラの仕事は終わらない。

 朝議を終えたアウラは、ファビオ秘書官だけを引き連れ、王宮内にある執務室へとやってきた。


「……ふう」


 仮の玉座とも言うべき、蔦と木でできた執務室の椅子に腰を落としたアウラは、緊張をほぐすように一度大きく息を吐く。


 王として高位貴族を相手取っての交渉・調整には慣れているつもりだが、今回のような『軍の出兵』が絡む大きな決断を下すのには、やはりある程度心身が疲労する。


 だが、そうしてゆっくりと疲労が抜けるのを待っていられるほど、王という立場は優雅なものではない。


「ファビオ、書類を作れ」


 椅子の上で佇まいを正したアウラは、机の中から一枚の竜皮紙を取りだすと、そう秘書官に命令する。


「はい。少々お待ちください」


 その竜皮紙を受け取ったファビオ秘書官は、滑るような足取りで部屋の隅にある小さな秘書用の執務机に向かうと、慣れた手つきで竜骨筆を走らせる。


 手慣れた中年の秘書官は、アッという間に書類を書き終えると、できあがったばかりの書類を手に、アウラの元へと戻ってきた。


「陛下。こちらになります。確認の上で、サインをお願いします」


 そう言ってファビオが書き上がったばかりの書類を、アウラの机の上にのせる。


 その竜皮紙に書いてある内容は、「ガジール辺境伯軍の領内における軍事行動の許可と、塩の街道の異変調査命令及び、その原因の排除命令」である。

 この書状を渡すことで、ガジール辺境伯は、形の上では国有地である『塩の街道』に、領主軍を踏み込ませる法的根拠と、後日王国に『事件解決の褒賞』を要求する大義名分が生じる。


「……よし、いいだろう」


 全文を二度読み直し、問題がないことを確認したアウラは慣れた手つきで、書類の下部にボールペンでサインした。


 その紙には元々カープァ王家の紋章(『開かれた扉』の中に『砂が上に流れる砂時計』が描かれている)が焼き付けられているため、そこにアウラが直筆でサインを入れれば、公式書類の完成だ。


 当然であるが、この王家の紋章が焼き付けられた竜皮紙は厳重に保管されており、アウラの許可なく持ちだした人間は、原則死罪を言い渡される。


「それでは、陛下。この書類を、ガジール辺境伯の元へお届けしてもよろしいですか?」


 確認するようにそう聞いてくるファビオ秘書官に、アウラは即座に首を横に振る。


「いや、それでは時間がかかりすぎる。塩の街道の異変は、国家の一大事だ。書類は、使者ごと直接私が『送る』。ガジール辺境伯には、配下の中から使者を選抜しておけ、と伝えろ」


 書類を託した使者を、直接『瞬間移動』の魔法でガジール辺境伯領へと送る。


 これができるのが、カープァ王国の強みだ。これが他国であれば、封鎖されている塩の街道を迂回して、騎竜を使ってリレー方式で書状を運ばせるしかない。流石に公式書類を複数作成して『小飛竜』に運ばせるのは無理だ。


 この『瞬間移動』の魔法があるからこそ、カープァ王国は広大な領土を有する大国では、例外的に、辺境領主の権限をある程度制限していられるのである。

 今回の一件にしても、他国であれば基本的にガジール辺境伯が独断で軍を出し、内々に処理した後、中央政府に後日結果だけを通達するのが一般的だ。


 シャロワ・ジルベール双王国がシャロワ王家の作る『魔道具』と、ジルベール法王家の操る『治癒魔法』を前提に国を運営しているのと同様に、カープァ王国も原則、『時空魔法』の存在がある前提で、国体が形成されているのである。


 そう考えれば、現状『時空魔法』の使い手が国王であるアウラしかいないというのが、問題視される理由も理解できるだろうし、潜在的にその力を持つ善治郎に、しつこく側室の話が持ちあがるのも理解できるだろう。


「承知いたしました。辺境伯には、そう伝えておきます。ですが、よろしかったのですか?」


 小さく頭を下げたファビオ秘書官は、用紙の文字が全て乾いたことを確認した後、木製の筒にその書類を丸めてしまいながら、そう少し意味ありげに女王に問いかけた。


 「なにがだ?」


 またいつものか。


 ウンザリという感情を堂々と表情に表しつつも、アウラは邪剣にあしらうことはなく、そう秘書官の発言を促した。


 女王の険のある視線にもまったく動じることもなく、中年の秘書官は率直な言葉を連ねる。


「此度の決定です。あえて辺境伯軍の出兵を許可しなくても、『塩の街道』ならば、国軍でも十分に大義名分は成り立ったと思いますが?」


 秘書官の口から出た問いは、アウラが予想したとおりのものだった。

 この細面の中年男は、事あるごとにこうやって、わざとアウラとは正反対の立場からの意見を言ってくるのだ。今回のように、決断が成されてからすることもあるし、決断前にふっかけてくることもある。


 無論、本心からその意見を正しいと思って提言しているわけではない。


 そうすることでアウラの思考を活性化させ、より多くの選択肢が頭に浮かぶように誘導するのが目的なのだろう。また、決断前の場合は、こうしたファビオとの会話が、その後の決定会議で反対意見を述べる人間との、事前シミュレートとしての役割も果たしてくれる。


 役に立つ男だ。それは間違いない。間違いはないのだが……。


(やはり、うっとうしい男だ)


 今日までに何度思ったか分からない感想を抱きつつ、アウラは言葉を返す。


「その場合は、プジョル・ギジェンが自ら出る可能性がある。下手な手柄を立てられれば、奴の『元帥』就任に現実味が出てくる。それは、あまり歓迎できん」


「ですが、辺境領の事件を国軍が解決したという実績ができます。うまくいけば、今後辺境領に国軍を駐留させる、よい突破口となるのでは?」


 国境の警備を領主軍主導から、国軍主導に切り替える。それは、以前からアウラが狙っている国防における大革命である。

 そういう意味では、確かにファビオ秘書官の言うとおり、こうした機会に地方へ国軍を派遣し、地方の国内有事にも国軍が出動することが「当たり前」の空気を作っていくのも、悪くない判断ではある。


 しかし、アウラは、迷うことなくきっぱりと首を横に振る。


「だめだ。国軍の強化と国境への駐留部隊派遣は、一度始めれば一気に進めなければならん問題だ。時間をかければ、それだけ諸外国に長期間隙をさらすハメになる。今はその機ではない」


「好機を狙いすぎますと、機を逸することになりかねません。下手をすれば陛下の在位中には、今以上の好機は巡ってこない可能性もございます。それでもよろしいのですか?」


「かまわん。最善を求めてすぎて、最悪の結果を招くわけにはいかぬ。国政は賭け事ではないのだ」


 アウラの返答は、どこまでも揺るぎないものだった。


 将来の脅威に迅速に対応するため、国境の警備を辺境領主軍から、国軍に転換したいとアウラが常々企んでいるのは事実だ。

 しかし、その軍事改革に、多大な危険が伴うことはアウラ自身、よく理解している。


 地方領主軍の縮小を行う前に、強引に地方に国軍を送りこめば、内乱を誘発しかねない。

 かといって、地方領主軍の縮小を先に行えば、諸外国に無防備な腹をさらけ出すハメになる。


 強引に推し進めて地方領主の暴発や、諸外国の野心を誘発するくらいならば、現状を維持する方が何倍もマシだ。そもそも、カープァ王国は大国である。大国という地位に胡座を掻くのはもってのほかだが、一か八かの博打に打って出なければならない立場にはない。


 続けて、アウラは言う。

 

「それに、現在、ガジール辺境伯領に派遣可能な国軍は、一番近くて王都の駐留軍だ。王都から軍を派遣すればその分余計な時間がかかる。領内の塩の備蓄量という時間制限がある以上、より早い対処方法が求められる」


「そこまで仰るのでしたら、万が一、ガジール辺境伯のご子息が失敗した場合に供え、国軍も待機させておくべきでは?」


「必要があるか? あの状況で、プジョル・ギジェンが準備を怠っているとは思えん。もし、辺境伯軍は失態を犯すようならば、すぐさま国軍を動かせるように、プジョルのやつは準備を整えていることだろうよ」


「ならばこそです。国軍の派遣が、プジョル将軍の要請の元行われれば、その分将軍の手柄が大きくなります。国軍の派遣は、あくまで陛下が主導するという外面を取り繕う必要はあるかと」


 ファビオ秘書官のきっぱりとした口調で放たれた忠告に、この日アウラは初めて少し、即答を控えた。


 あごに手をやり、考えることしばし。


「……それは、確かにそうだな。分かった。ならば、プジョル将軍が何か言ってくる前に、こちらから国軍に『郊外長期演習』の指示を出せ。人選は、全て将軍に任せる」


 そう、秘書官に指示を出した。演習場所は言うまでもなく、ガジール辺境伯領に一番近い演習場だ。


「承知いたしました。糧食は演習が終わった後、『塩の街道を往復』しても問題ないだけ用意しましょう。して、この演習について、ガジール辺境伯の耳に入れておいた方がよろしいでしょうか」


 ツラツラとまるで用意していたかのように、演習計画について説明する秘書官に、アウラは今度は首を横に振る。


「不要だ。ことさら隠す必要もないが、伝える必要もない。放って置いても、いずれは辺境伯の耳に届くだろうよ。わざわざこちらから伝えると、いらぬ圧力をかけていると誤解されるぞ」


「はっ、承知いたしました」


 今度こそ、言いたいことを全て言い終えたのか、中年の秘書官は、人間味を感じさせないくらいに完璧な動作で一礼をした。






 ◇◆◇◆◇◆◇◆






 女王であるアウラの日常は忙しく、慌ただしい。


 会議室では政・軍の重要会議に顔を出し、玉座の前では国内外の陳情を聞くために謁見の時間を設け、執務室では積み重なる竜皮紙に目を通す。


 すべてを万全にこなそうと思えば、それこそ執務室にLEDランタンをもちこんで、睡眠時間まで削らなければならない仕事量だ。善治郎がアウラの立場に立てば、まず間違いなくそうするであろう。


 だが、アウラはそこまで不器用な人間ではない。力の入れ方、抜き方をある程度弁えている。

 王である自分が限界ギリギリまで背負い込んで、倒れるくらいならば、日々の仕事が不完全な方が、長い目で見ればよっぽど良い。


 その割り切りのできているアウラは、今日の午後は業務を停止し、後宮で仕事から離れたリフレッシュタイムを満喫していた。





 太陽が攻撃的なまでの陽光を降り注がせる真昼。


 後宮の中庭に、カンカンと木と木をぶつけ合わせる音が響き渡る。


「ほら、右ッ!」


「クッ!」


 音の発生源は、アウラと善治郎が持つ木製の棒である。長さはどちらも一メートル五十センチほどだろうか。


短槍をもしたその棒を、薄手の軍服姿のアウラは巧みに振るい、Tシャツとスウェット姿の善治郎は、稚拙に受け止める。


「次は左ッ!」


「グッ!」


「もう一つ、右!」


「アグッ!」


 当然、アウラは十分に手加減をしているのだが、それでも善治郎にとっては一瞬の気の緩みも許されないくらいの連撃だ。


 必死の形相で、善治郎はアウラに習った『防御の基本の型』でなんとかその攻撃を受け止める。


「ほら、足元ッ!」


「アッ!? ブッ!」


 お留守になっていた足元を棒ですくわれ、善治郎は思いきり転倒した。

 柔らかい芝の上だから怪我をすることはないが、痛いことは痛い。だが、痛みにうずくまる自由も今の善治郎にはない。


「ほら、止まっていると良い的だぞ。すぐ立ち上がる! それができないんなら、せめて転がって移動するんだ」


 そう言ってアウラは、転倒した善治郎の顔の側に何度も棒を振り降ろす。


「くそっ!」


 善治郎は必死の形相で、横に転がりながら、精一杯素早く立ち上がった。転がった拍子に、まるで水から上がった犬のように、善治郎の全身から水しぶきが上がる。


 アウラも善治郎も、頭から水を被ったようにぐしょ濡れだ。その原因は、運動による汗ばかりではない。二人が槍を振るっている芝生のすぐ隣には、白い大理石作りの噴水が、常時休みなく善治郎の背丈よりも高く水を噴き上げ続けているのだ。


 アウラと善治郎は、丁度その風下で槍を振るっている。

 もちろん、わざとである。

 昼間の最高気温が四十℃を超えるような今の時期、こうしたある程度の特殊空間でなければ、とてもではないが一般人は、暑くて運動などできない。


「よし、もう一回足元ッ!」


「クォッ!」


 今度は地面に棒を突き立てるようにして、足払いを回避した善治郎であるが、アウラの攻撃はそれだけでは終わらない。


「駄目、脇が空いてるぞっ」


 アウラは、善治郎が芝に突き立てた棒と、自分の持っている棒を滑らせるようにして上に上げると、善治郎の脇に棒を引っかけ、そのままグイと引き上げる。


「うわっ!?」


 起き上がったばかりの善治郎はまた、芝の上にすっころんだ。






 わざわざ、この暑い最中、アウラと善治郎が貴重な昼の逢瀬の時間をこのような少々暴力的な運動に費やしているのには、もちろん理由がある。


 善治郎は以前から懸念していた運動不足解消のため。アウラは、妊娠中にしっかり身についてしまった全身の皮下脂肪とおさらばするため、だ。


 無事、第一王子の出産を終えたアウラであるが、子がお腹から出ていっても、その体重と体型は、妊娠前の状態には戻らなかったのである。


 当然と言えば、当然だ。


 ここが現代日本で、アウラが医者と栄養士の指導をみっちり受けていたのならば、『母子共に必要十分なだけの栄養を取りながら、なおかつ太らない食事制限』という離れ業も不可能ではないのだろうが、医療技術が発達していないこちらの世界では、そんなことをすれば、栄養不足でお腹の赤子を危険に晒すだけである。


 栄養不足になるくらいなら、多少栄養過多になる方が良い。ミシェル医師のそんな助言に従い、「二人分」の栄養をしっかりと取ったアウラが、太るのは極必然であった。


 だから、産後のアウラが太っているのは必ずしも悪い事ではないのだが、母としてはともかく、女としては今の状態を是とするわけにはいかない。


 幸いと言うべきか、不幸と言うべきか、アウラには善治郎が持ち込んだ『ガラス鏡』という無情な情報源がある。


 小さな銀鏡や水鏡でははっきりとしない自分のシルエットも、『ガラス鏡』ならば容赦なく映し出してくれる。


『ガラス鏡』で自分の緩んだあごのラインを一度見てしまえば、もう黙ってはいられない。


 幸いにして、今のところ夫の態度が余所余所しくなるような『夫婦生活の危機』の前兆は起きていないものの、そんな夫の広い心に甘えるわけにもいくまい。


『色衰えて、愛緩む』という格言は、全ての夫婦に当てはまる訳ではないが、一面の真実を映し出していることも確かなのだ。


「よし、これで最後だ。いくぞ、撃ち下ろし!」


 わざと、少し大きめのモーションで頭上に振りあげた棒を、アウラは真っ直ぐ善治郎の脳天に振り降ろす。

 いざという時は、寸止めにできる程度に手加減をしている一撃だが、善治郎にとっては、それでも反応できるギリギリの所だ。


「セイッ!」


 キン! とぶつかり合う木製の棒と棒が、まるで金属のような甲高い音を立てる。

 間一髪、頭上に水平に上げた善治郎の棒が、振り降ろされるアウラの棒の一撃を受け止めたのだ。


「…………」


「…………よし、今日はこれくらいしておこうか」


「……プファ!」


 真剣な面持ちを崩し、笑顔でそう終了を告げる妻の言葉に、善治郎は肺中の空気を吐き出すような大きな溜息と共に、そのまま芝生に倒れ込んだのだった。







「ふう……」


「ハア、ハア、ハア……」


 少し息を弾ませたアウラが、噴水のヘリに腰を掛け、背中に浴びる水しぶきに心地よさげに目を細めている間にも、芝の上に大の字になって寝転んだ善治郎は、ただ荒い息をついていた。


「善治郎、飲めるか?」


 一足先にすっかり疲労が抜けた様子のアウラは、噴水の中から水の入ったペットボトルを取り出すと、大の字に寝そべる善治郎の顔の横に置く。


「うう……はあ、はあ……グッ、ン、ググッ……」


 どうにか上体を起こした善治郎は、アウラに礼の言葉を言う余裕もなく、ペットボトルの中身を一気に喉奥へ流し込む。


 中身は、柑橘系の果物の汁と黒砂糖を混ぜた水である。噴水の水にペットボトルごと突っ込んでおいただけなのであまり冷えていないが、今はその生ぬるさかがかえって飲みやすくてありがたい。


「ふう……生き返る……!」


 五百㎜のペットボトル一本分を一気に飲み干した善治郎は、万感の思いを込めてそう言葉を発した。


 一気に水分を取ったことで、全身からドッと汗が噴き出してくる。運動による身体の火照りや、アウラに打ち込まれた軽い打撲も相まって、このまま噴水に飛び込みたい気分だ。


「どうやら、少しは息が整ってきたようだな。どうだ、打ち付ける際には十分に気を配ったつもりなのだが、どこか痛む場所はあるか?」


 そんなアウラの言葉を受けて、善治郎はまだ今一力の入らない全身をペタペタと触ってみる。


 確かに、訓練中、何度となく身体を棒で突かれたり、打たれたりしたはずなのだが、触ってみて極端に痛むところはない。


 一応、訓練に使った棒の先は、柔らかい布地で何重にも覆ってあるのだが、元は一メートル半もある堅い木の棒だ。下手に打ち込めば、筋繊維や血管の断絶はおろか、骨にヒビが入ってもおかしくはない。

 だが、アウラが上手に手加減をしてくれたのだろう。


 善治郎の自覚症状としては、軽めの打撲以上の怪我はなさそうだ。


「大丈夫みたいだね。左の脇腹と、右の太股がちょっとヒリヒリするけど、それだけ。ほら」


 そういって、善治郎はその場で立ち上がってみせる。

 まだ、疲労の抜けていない善治郎の足腰は、生まれたての子鹿のようにプルプルと震えるものの、力を入れて痛む箇所はない。


 善治郎はそのまま、先ほどアウラがそうしていたように、噴水のヘリに腰を下ろした。

 疲れ果てた身体は、油断をするとそのまま後ろの噴水に落下してしまいそうだが、もしそうなっても問題はないだろう。噴水の溜め池は、おぼれるほど深いものではない。


 いっそ、このまま後ろに倒れて、火照った身体を水に沈めてしまおうか。


 そんな誘惑にかられた善治郎が、ちらりと後ろの噴水に視線を向けたその時だった。


「で、どうであった? 初めての槍術訓練は。感想を聞かせてくれ」


 こちらに近づいてきたアウラはそう言うと、善治郎と隣り合うようにして、噴水の縁に腰を下ろす。立った状態ならば、指二本程度善治郎の方が背が高いだけなのだが、こうしてお互い座っていると、その高さは『拳一つ分』ほどまでに広がる。


 はたして、善治郎の足が短いのか、アウラの足が長いのか。深く考えてもあまり気持ちの良い結論は出なさそうだ。善治郎は、ちょっと考えればすぐに答えが出るその疑問を意識的に振り払い、アウラの問いに答える。


「いや、大変だろうとは思っていたし、最初から歯が立つとはかけらも思っていなかったけど、予想以上だったね。もう、手も足も出ないんだもんなー。高校のサッカー部時代に、Jユースとやった練習試合を思い出したわ」


 高校、サッカー部、Jユースと『言霊』の働かない単語が後半乱発したものの、前半の言葉だけでおおよそ善治郎の感想は理解できる。


「まあ、よほどの才に恵まれない限り、武術というのは素人が熟練者に対抗できる世界ではないからな。そなたも、私と同じくらい若いうちから修練を積んでいれば、今頃私よりは強くなっていたかもしれん」


 自分の戦闘力を過信していないアウラは、そう言って笑う。


 事実、アウラの武力は、せいぜい並の騎士程度である。プジョル・ギジェン将軍のような国内外にその名を轟かすような武人とでは、比べるべくもない。


 善治郎は男としては、特別体格にも運動神経にも恵まれている人間ではないが、特別劣っているという訳でもない。


 お世辞抜きで、子供の頃からアウラと同じくらい訓練を積んでいれば、今頃アウラと同程度の武技を身につけていた可能性は、高い。


 アウラの言葉に嘘がないことが分かった善治郎であるが、同時に『この歳からではどうやってもその時間がない』、と言う裏の意味も理解してしまったため、苦笑するしかない。


「あはは、ありがと。まあ、俺の場合はただの体力作りが目的だからね。武力が役立つ場面に立つ気はないし」


「それが正解だな。無論、そなたが本気で取り組みたいというのであれば止めはせぬが、そうでなくば、特に無理をする必要はない」


 アウラも夫の言葉をそう肯定し、笑い返した。


 確かに、大国カープァ王国の数少ない王族という善治郎の立場を考えれば、付け焼き刃など武力が役に立つ状況というのは、まずほとんど訪れまい。


 善治郎としても、一種のスポーツ感覚で、槍や剣を習う気はあっても、実際に戦場でその武器を振るう自分というのは想像の外にある。


「うん、俺もそこまで本気でやるつもりはないよ。そもそも、俺の腕力じゃこれ、片手じゃつらいもんなぁ……」


 善治郎はそう言って、噴水の縁に腰を掛けたまま、短槍を模した棒を右手一本で持ち上げた。


 今は、基礎の基礎と言うことで、両手で振るう扱い方しか習っていないが、実際の戦場ではこの短槍という武器は、片手に木製の盾を持ち、もう片方の手一本で扱うことが多いのだという。


 さらにいえば、いざという時は『投げ槍』として使うこともできて始めて一人前だというのだから、両手でブンブン振りまわすことしかできないうちは、健康体操と大差ないと言われても仕方がない。


「確かにな。そなたは一端の兵士として槍を振るうには、少々腕力が足りていないな」


 アウラの言葉に、善治郎は少し大げさに頭を抱える。


「うわー、言われた……。でも、まあ事実だよね。実際、アウラの打ち込み重くて、棒を弾き飛ばされそうだったもんなー」


 重い。ダイエット中の女にとって最大の禁句を平気で口にする辺り、今の善治郎は疲労でかなり頭の働きが鈍っているのだろう。日頃の善治郎であれば、まずおかさない失態である。


「そ、そうか。そんなに『重かった』か」


 さしものアウラも、パキリと表情にヒビが入る。


「うん、滅茶苦茶重かった。もう、一撃一撃が吹き飛ばされそうな重量感でさ、あれでアウラの実力が騎士としては並程度だなんて信じられないくらい。まあ、俺が弱いだけなんだろうけど」


 そう言って、善治郎は無邪気に笑う。


「あぐ……」


 重い、吹き飛ばされそう、重量感。悪意のない言葉がいちいち今のアウラには少々きつく突き刺さる。


 これはいけない。この話題を続けていたら、結婚後初めての夫婦げんかに発展しかねない。


「あ、ああ。そういえば、話は変わるが、今日の午前の朝議でちょっと問題が持ち上がってな。そなたには直接関係してこないとは思うが、一応報告しておく。


 『塩の街道』については、オクタビア殿の授業で聞いているな? その塩の街道に……」


 円満な夫婦関係を望むアウラは、明らかに普段とは違う早口な言葉遣いで、強引に話題の転換を図るのだった。

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