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理想のヒモ生活  作者: 渡辺 恒彦
一年目
38/101

第八章1【魔力の目覚め】

 カープァ王国には、日本のような明確な四季は存在しない。


 一応、気温の変化があるため、無理矢理十二月(閏月のある年は十三月)を無理矢理三ヶ月ずつにわければ、春夏秋冬と呼ぶことは出来るが、秋だからと言って植物が紅葉するわけでもないし、冬だからと言って雪が降ったり、草花が枯れたりするわけでもない。


 だが、そんな中で唯一例外なのが、『春』に相当する三ヶ月間だ。

 この時期だけは、貴族も平民も区別なく、カープァ王国民は明確に「ああ、今年もそんな時期か」と感じずにはいられない。


 善治郎が異世界にきてから十ヶ月。善治郎は、カープァ王国で初めての『雨期』を体験していた。





「良く降るな」


 後宮の一室で、窓から外を見ていた善治郎は、思わずそうポツリと漏らす。


 音を立てて振り続けるその雨は、日本の梅雨のような可愛らしい物ではない。強い風こそ伴わないものの、雨量だけで言えば台風を思わせるような豪雨だ。今は木戸を開け放っているが、もし閉じていたとしても、その音は屋内まで響いていた事だろう。


 善治郎の対面に座る栗色の髪の淑女――マルケス伯爵夫人オクタビアは、柔らかな笑みを浮かべたまま、視線を窓の外に向けて答える。


「ええ。この辺りでは、一年の雨量の大部分がこの三ヶ月に集中していますから。しばらくは、三日に二日は雨の日だと、思った方がよろしいかと」


 授業の内容から見れば紛れもなく脱線だが、王国の風土・気候を語ることも重要だと考えたのだろう。オクタビアは魔法の講義をいったん中断して、そう説明を始めた。


「そんなにか? それでは、この時期は外での仕事は滞るのではないか?」


 善治郎の問いに、オクタビアは小さく首を縦に振り、答える。


「はい。ですから、この時期は原則どこも活動は最小限になりますね。農村も漁村も、畑や港の決壊を防ぐだけで手一杯ですし、戦時中の軍でも雨期と猛暑期は通常、自然休戦となるのが一般的です」


「なるほど。しかし、そんなに雨が一時期に固まって問題はないのか? 河川の氾濫や、地滑りが起こりそうだが。逆に雨の降らない時期に水不足は起きないのか? それに、三ヶ月も仕事が止まれば、貧困層には大打撃がありそうだ」


 思いついた問いを率直に口にする善治郎に、オクタビアは心地よい声色で答える。


「大丈夫です。元々カープァ王国は国土の八割が森林ですので、地滑りの危険は低いですし、森林が雨期に貯水した水が河川や泉となって利用可能になっておりますので、乾期でも水源が完全に枯渇した例はありません。

 雨期に仕事を失う貧困層の問題だけは、未だに根本的解決が出来ていないようですが、それでも戦後は、餓死者はほとんどでなくなっています。雨期中でも王都のような人口多い街ならば、全く仕事がないわけではないですからね。


 もっとも、『雨期に働く日雇い』という言葉が、『計画性のない愚か者』の比喩として使われていたりもしますけれど」


「なるほどな。蟻とキリギリスのキリギリスのようなものか……」


「えっ? 蟻と?」


「いや、何でもない。こっちの話だ。取り合えず、雨期の問題点と言うのは、大体解決済みという認識でよいのだな?」


「はい、左様です。無論、予期せぬ水害はほぼ毎年のように国内のあちらこちらで聞かれますが、国力の低下に繋がるような大事には至っておりません」


 ごまかすようにそう言った善治郎に、オクタビアは頷いた。


(なるほどね。それでも、実害や貧困層の失職者がゼロじゃない以上、何とかした方が良いんだろうけど、素人の俺じゃ役に立つ知識はないな)


 同じ現代日本人でも、土木工事の専門家やダムの設計者であれば、なにか妙案を出せるかも知れないが、生憎善治郎はキャリア五年にも満たない、中小企業のサラリーマンである。あまり力にはなれなさそうだ。

 それでも、なにか有益なアイディアが思いついたら、アウラかファビオ秘書官に提言しておこうと、善治郎は頭の片隅に水害の話を記憶しておいた。


 善治郎の様子から、天候に関する話が一段落したことを察したオクタビアは、脱線していた授業内容を本筋へと戻す。


「それでは、ゼンジロウ様。引き続き、魔法の授業を続けてもよろしいでしょうか?」


「ああ、分かった。また、『瞑想』か?」


「はい。目を瞑り、自然体で座ったまま、私を『見よう』と意識して下さい」


「うむ……」


 善治郎は言われるまま目を瞑り、意識を集中させる。

 オクタビアの講義の中で、もっとも退屈で、非生産的に感じるのがこの『瞑想』の時間だ。こうして瞑想を続ける内に、唐突に魔力視認能力に目覚めるのだというのだが、実際にやっていることは、目を瞑って一時間近くぼーとしているだけである。

 善治郎の日常で、もっとも退屈で長く感じる時間だと言っても過言ではない。

 子供を魔力に目覚めさせる最難関が、この瞑想を毎日やらせることだというのも、納得のいく話である。大の大人である善治郎でも苦痛なのだ。十歳未満の子供に、毎日一時間身動ぎもせず瞑想を続けさせるのは、かなり無理がある。


「魔力が視認できるようになることを、俗に『目が開く』と申します。その言葉通り、その瞬間は一瞬で訪れます。それまでは全く手応えが無く、不毛に思えるかも知れませんが、その日々の努力が『第三の目の瞼』をゆっくりと押し上げているのです」


「…………」


 この言葉も聞き続けて、もう八ヶ月以上になる。全く実感がわかない言葉だが、アウラに聞いても「魔法習得の初期はそういったものだ」と言っていたから、恐らく事実なのだろう。


 それにしても、先ほどからザーザーという雨音が気になって、意識を集中できない。こんな状態での瞑想など、無意味なのではないか。


(ああ、そう言えば、今日の午後は久しぶりに、俺もアウラも何の予定も入っていなかったんだっけ。帰ったら、アウラのお腹の音を聞かせてもらおう。もう、随分大きくなってきたよなあ)


 最近は、愛妻の腹に耳を付けて、我が子の動く音を聞くのが何よりの楽しみとなっている善治郎が、ついそんな事を考えた、その時だった。


「!?」


『目を閉じている』善治郎の視界に、強い光が突き刺さる。


「グッ!?」


「ゼンジロウ様?」


 思わず瞑想を辞めて目を開いた善治郎の視界に、心配そうにこちらを除き込むオクタビア夫人の姿が映る。


「いかがされましたか、ゼンジロウ様? ……ひょっとして」


 何かに気づいたのか、椅子の上から少し身を乗り出して、そう問いかける家庭教師を善治郎は手で制する。


「ああ。恐らく、お前が想像しているとおりだ。今の私の目に映っている、風景。お前や私の身体から立ち上っている光。これが『魔力』なのか」


 そう答える善治郎の視界には、全身から強い光を霧のように立ちこめながら、嬉しそうに笑うオクタビア夫人の満面の笑顔が映っていた。






 ◇◆◇◆◇◆◇◆





 その日の午後、リビングルームとして使っている後宮の一室で、妻であるアウラと再会した善治郎は、まるで街中で虎に出会ったような引きつった形相で、一歩後ろに後退った。


 挙動不審な夫の様子に、アウラは一瞬不思議そうに首を傾げたが、すぐにその理由を思いつき、ニヤリと笑う。


「その様子からすると、どうやら本当に魔力を視認出来るようになったのだな。おめでとう」


 妻から祝福の言葉をかけられ、少し冷静さを取り戻した善治郎は背中に冷や汗をかいたまま、身重の妻に近づき、手を貸してやりながら、言葉を返す。


「ああ、うん、ありがとう。お陰様でやっと魔力が見えるようになったよ。それにしても凄いな。これが本物の王族の魔力か」


 アウラの手を引く善治郎は、感嘆の言葉を発し、妻の身体から立ち上る魔力に魅入る。


 魔法の家庭教師役であるオクタビア夫人は、後宮の侍女達と比べると隔絶した魔力を纏っていたが、そんな彼女でも善治郎自身と比べれば、その魔力は半分ほどしかなかった。

 そのため、オクタビアの言う『血統魔法が使える王族の方は、魔力量も別格なのです』という言葉にそれなりに納得していたのだが、こうしてアウラと比べると、自分が井の中の蛙に過ぎないことが、よく分かる。


「俺の三割り増しか、下手すると四割り増しくらいかな? 流石に五割り増しとまではいかないと思うけど」


 善治郎に手を引かれ、ソファーにゆっくりと腰を下ろしたアウラは、一つ息をつくと、夫の言葉に答える。


「まあ、それくらいだろうな。私の魔力は、歴代カープァ王族の中でも、比較的上位に位置するからな。おかげで、消費魔力量が多い『時空魔法』でも、よほどの大呪文でない限り連発が可能だ。助かっているよ」


 妊娠から約七ヶ月を経たアウラのお腹は、もう誰が見ても一目で妊婦と分かるくらいに大きく膨らんでいる。

 善治郎は、ゆったりとしたドレス姿でソファーの上でくつろぐ妻のために、電気ポットからお湯を注ぎ、地球から持ち込んだココアを入れてやりながら、答える。


「俺はあくまで『準王族級』か。うん、実感したわ」


「そう悲観することはないぞ。そなたほどの魔力があれば、いずれは自分の身一つならば、『瞬間移動』を一日に二回使えるだろうからな。これが出来れば、カープァ王家では一人前の使い手と認められる」


「なるほど、ギリギリ一人前ってことか。まあ、俺の血筋を考えれば、それでも十分たいした物なのか。はい、これ。飲むでしょ」


 アウラは、善治郎に手渡された、暖かいココアの入ったマグカップを受け取り、小さく頷く。


「うむ、ありがたくもらおう。まあ、そう言うことだな。元々そなたに期待していたのは、次代に血統魔法を継承させうる最低限の魔力だ。そなた自身が曲がりなりにも『時空魔法』が使用可能というのは、こちらとしては僥倖以外の何物でもないのだ」


 熱くて甘いマグカップの中身を啜りながら、アウラはそう言葉を返した。


 カープァ王国でもっとも気温が下がるのは、雨期の前の三ヶ月だが、体感的には雨が降っている雨期の方が寒く感じられる。

 カープァ王国で、氷を浮かべた飲み物より、暖かいココアやコーヒーが好まれるのは、この雨期の最初の一月だけだろう。


 妊娠の影響か、それとも妊婦ゆえの運動制限の影響か、最近とみに指先がかじかむアウラは、両手で暖かいマグカップを包むように持ち、その熱で手指を温める。


 自分用にインスタントコーヒーを入れたマグカップを手に持ち、アウラの隣に腰を下ろした善治郎は、大きく溜息をつく。


「まあ、時空魔法が使えるだけまだマシと思うしかないか。あ、そう言えばオクタビアが、「この後は、アウラ陛下に習われる方が適切かと存じます」とか言っていたけど、どういうこと?」


 前向きに話を進めようとする夫を、女王は眼を細めて見つめると、ちょっと考えた後、やがて得心がいったような表情で口を開いた。


「ああ、魔力操作を覚えるための最初の魔法か。確かに、それは私の領分だな。そなたくらい魔力があると、下手な四大魔法を使うと大惨事だからな」


「どういうこと?」


 首を傾げる夫に、身重の妻は丁寧に分かりやすく説明する。


「魔力を視認できるようになれば、次は魔力の操作だ。ようは発動させる呪文に適した魔力を込める技術だな。この感覚を覚えるために、最初は本人の『垂れ流しの魔力量』にもっとも近い消費魔力の呪文で練習をするのだ」


 そう言えば、この世界の魔法は込める魔力が少なすぎても、多すぎても発動しないという話を善治郎は思い出した。


 簡単に言えば、垂れ流し状態の魔力量が五十の初心者にとって、もっとも発動が容易な魔法は消費量五十の魔法であり、消費量一の小魔法というのは、消費量九十九の大魔法と同じくらい技量的には難しいのである。


「ああ、なるほど。王族としては最低レベルでも一般から見ると十分多い俺の『垂れ流しの魔力量』にあわせた四大魔法を発動させると、大惨事になる恐れがあるのか」


 四大魔法はその名の通り、地・水・火・風を生み出したり、操作したりする魔法である。どの属性の魔法を発動させたとしても、後宮の中ではそれなりに大きな被害が予想される。


「そういうことだ。それに比べてカープァ王家の血統魔法である『時空魔法』は魔力消費量が多い割に、見た目の効果が地味な物が多いからな。そなたが魔力操作の為に最初に覚える魔法は『時空魔法』にしておいたほうが良いだろう」


 筋道の立ったアウラの説明は、善治郎にも理解のしやすいものだった。


「なるほどね、そう言うことなら分かったよ。それじゃ、早速だけど今、教えてもらっても良いかな? 俺が最初に練習する呪文は、どんなのが良いと思う?」


 初めての魔法の使用に、高揚する気持ちを隠せない善治郎は、ソファーの隣に座る妻の方に、身を乗り出すようにして問いかける。


「うむ。ミシェル医師から『移動系の魔法は胎児に悪い』と使用を禁じられているからな。『時間系』は消費量が馬鹿高いからこれも除外。となると、やはり『結界系』か。ゼンジロウ、左手を私の右手にあわせてくれ」


「ええと、こう?」


 アウラの言葉に善治郎は、素直に左手を差し出し、アウラの右手に重ね合わせた。ちょうど鏡写しのように、善治郎の左手の平とアウラの右手の平が合わさる。


 そして、アウラは、重なり合った自分と夫の手から立ち上る魔力量を凝視し、自らの身体から立ち上がる魔力量を絞り、夫の魔力量へと近づけていく。


「そなたの垂れ流しの魔力量は……うむ、おおよそこれくらいか。これで発動可能な魔法というと……」


 善治郎の垂れ流しの魔力量を大体把握したアウラは、その魔力量で発動可能な呪文を頭の中で思い出す。


 やがて、適切と思われる呪文を思いついたアウラは、あわせていた手を放す。


「うむ。恐らくこれが一番無難だろうな。害はないはずだが、一応動くな。いくぞ」


「あっ、ちょっと待って」


 そう断って、呪文を唱え始めるアウラを制した善治郎は、素早く部屋の隅の棚へ向かうと、デジタルカメラを手に持って戻ってきた。


「せっかくだから、呪文をそのまま録音しておくよ。そうすれば後で、練習に使えるから。よし、いいよ、アウラ。始めて」


「うむ、ではいくぞ」


 デジカメの動画モードで撮影された状態で、アウラはソファーに身体を預けたまま、呪文を唱え初める。


『我が指先を基点に、球形に世界を切りとれ。その代償として我は、空精に魔力三百五十九を捧げる』


 何度聞いても魔法言語というのは不思議なものだ。アウラはほんの少し口を動かしただけにしか見えないのに、善治郎の耳には、長々と言葉が聞こえる。


 善治郎がそんなことを考えている間に、アウラの魔法は効果を発揮した。


 アウラと善治郎が並んで座る、黒い革張りのソファーをすっぽり覆うように、半球状の光のドームが形成される。


「へえ。すごいな」


「簡易結界魔法だ。空間を切り離すことで外部からの干渉を遮断する。防御力は強固だが、魔法の常で長くは持たない。実践で使う場合は、時間操舵と組み合わせて、効果時間をごまかさないと使い物にならんな」


 キョロキョロと周囲を見渡す善治郎に、アウラがそう説明をしている間に、結界は消え失せた。

 善治郎の体感では、三十秒も持たなかったように思える。なるほど、これでは確かに使用用途が限られることだろう。


 だが、効果範囲も狭いし、発動しても周囲に被害を及ぼすこともない。練習用の魔法としては使い勝手が良さそうだ。


「よし、それじゃ試してみるか」


 善治郎は早速今撮った動画を再生して、アウラの使った呪文を確かめる。

 機械で録音した音には、言霊は働かないため、魔法語の正しい発音を知ることが出来る。


『モョティムヴァ』


「ええと……ミョティムバ、かな? ……言霊が翻訳してくれない所を見ると、違うか。やっぱり、魔法語は発音が難しいな」


 早速、デジカメを再生し、今アウラが使った呪文のマネをしてみる善治郎であるが、簡単にその場で正しく発音出来るほど、魔法語というのは生やさしいものではない。


「まあ、しばらくは呪文の正しい発音練習だな。普通は、魔法語の正しい発音を覚えるために、師に当たる人間が、言霊が発動しないように魔力を抑えて、何度も言い聞かせるのだが、そなたの場合はその『デジカメ』とやらがあるから、かなり有利だな」


「うん。一人で暇な時間を使って練習しておくよ。何はともあれ、呪文を正しく発音出来ないと、どうにもならないから」


 そう言って善治郎は、デジカメの電源を切り、テーブルの上に置いた。魔力視認という魔法使用の第一歩を踏み出した今、魔法の練習をしたいという欲求はあるが、それだけにかまけるわけにはいかない。


「まあ、そんな感じで、今日の午前中は、やっと魔法の習得がちょっと進んだんだ。そっちはどうだった?」


 善治郎の転換させた話題に、アウラは素直に乗り、答える。


「そうだな。こちらは、午前の間に、双王国の使者と密談を進めたよ。近日中には、密約文章にサインをするところまでいけそうだ。調印の場には、そなたにも同席して貰う事になるから、そのつもりでいてくれ」


「了解。アウラを信用していない訳じゃないけど、調印式の前に文章の確認はさせてもらうからね」


 基本、自分の身の振り方に関しては、アウラに一任している善治郎であるが、流石にそこまで何もかもを人任せには出来ない。一応、交渉の経過はそのたびにアウラから聞いている善治郎であるが、最終的な書類に目を通しておかなければ、一抹の不安は解消されない。


 書類にサインをする際には、条文を最低三度読み返し、疑問点は絶対に自己解釈で納得したりせず、全て相手に確かめておく。良くも悪くも、善治郎の心身に染みついている常識である。


 夫のもっともな主張に、女王は素直に首肯する。


「分かった。だが、そなたはまだ、この国の文字を読めるようにはなっていなかったはずだな?」


「うん。納税関係の書類を表計算ソフトに打ち込んだりして練習しているから、国内の地名や数を表す単語なんかは読めるけど、正式な書類は、まだまだお手上げだね」


 善治郎は少し言い訳がましくそう答えて、小さく肩をすくめた。

 善治郎がこちらの世界に来てまだ一年にも満たない。そんな短時間で、異国の正式文書を読み解けるような語学力があれば、今頃善治郎は英語とドイツ語を自在に操るトライリンガルになっている。


「それならば、今度私が読み上げよう。なにか、気になった点があれば、遠慮無く言ってくれ。そなたの将来に大きくかかわる密約だからな」


「うん、流石にこの件ばかりは遠慮する気はないから」


「うむ。最悪の場合は、条約締結を先延ばしにしても良い。この件はそのくらいだな。後は変わったことと言えば……ああ、そうだ。天然重曹(トロナ鉱石)がどうやら、手に入りそうだ。埋蔵地は生憎、王家の直轄地ではなく、とある辺境伯の領内だがな。これで、ガラスの製造技術開発を始められるぞ」


「うわぁ、まだ諦めていなかったんだ……」


 一転して、ニヤリと笑みを浮かべるアウラに、善治郎はちょっと呆れたように、そう呟いた。

 重曹とは、とあるTV番組で紹介していたガラスの原材料となる三つの一つである。残り二つは、白砂、石灰(焼いた貝殻)であるため、重曹の目処が立てば、材料は一通り揃うことになる。


 天然重曹(トロナ鉱石)という固有名詞に言霊が働く以上、南大陸のどこかでそれがすでに発見されていることは確定されていたのだが、アウラは貴族や部下の騎士達にそれとなく聞いて回り、それがどこにあるのか突き止めたのだ。


 アウラがそこまでして、ガラス製造に意欲を燃やすには、もちろんそれなりの訳がある。どうやらアウラは、双王国との交渉で、ガラス玉が極めて優れた『付与魔法』の媒体であるという確信を持ったらしい。


「当たり前だ。そなたと私の間の子が、『付与魔法』を使える可能性は極めて低いが、以後カープァ王家の血筋には、いつ付与魔法の使い手が現れてもおかしくはないのだからな。その時のために、ガラス製造技術を進めておく必要がある」


 アウラはきっぱりとそう言い切る。

 どちらかというと安定志向のアウラだが、これでも戦乱の勝者となった大国カープァ王国の女王である。国力増強のために、表に裏に手を回すだけの才覚と度量は持ち合わせている。


「でも、最悪の場合、ガラス製造の技術が双王国に流出して、カープァ王国には付与魔法の使い手は現れないって未来もあり得ると思うけど? そうなったら拙くない?」


 考え得る限り、一番都合の悪い未来を告げる善治郎に、アウラは素直に首を縦に振ると、


「ああ、確かにそれはまずい。だが、それを言えば、ガラスが製造可能な物質である以上、例えこっちでその技術を研究しなくても、双王国が独自に開発する可能性もあるのだ。かなり低い可能性だとは思うが、すでにビー玉を一つイザベッラ王女に渡してしまったからな。


 ならば例え付与魔法の使い手が生まれなくても、こちらがガラス製造技術を先に確立すれば、双王侯に対し、ガラス輸出国としてある程度の発言力を有することが出来るかもしれぬ。


 それに、ガラスの使い道は、付与魔法の媒体だけではないからな」


 そう答えて、視線をちらりと部屋の隅に向けた。

 アウラが視線を向けたのは、以前に飲み終えたブランデーの瓶と、善治郎が毎朝ひげ剃りの際に使っている、足つきの鏡だ。


 そういったガラス細工の製造技術を独占できれば、国庫を支える柱にもなり得る。


 アウラの言っていることに大きな間違いはないのだが、善治郎には少々期待しすぎに見える。所詮、善治郎の手元にあるのは、ガラス製造に挑戦した企画番組のDVDに過ぎず、技術的な細かなノウハウは無いのだ。

 実際、透明で気泡の混じらないガラスを製造するには、重曹(炭酸水素ナトリウム)よりソーダ灰(炭酸ナトリウム)の方が良いのだが、そういった知識もDVDには出てこない。


 ブランデーの瓶や、ましてやガラス鏡に使用できるような透明で歪みのない板ガラスを製造適量になるには、どれだけ技術を進歩させなければならないのか、想像もつかない。


「うーん。まあ、原材料と大まかなやり方は判明しているわけだから、気長に何年も時間を掛けてトライアンドエラー方式で技術を向上させていけば、いずれはそれなりのものが出来る、かなあ?」


 それでも、野心に燃える妻に水を差すのも悪いと思ったのか、出来るだけ楽観的な言葉を並べ、善治郎はそう言う。


「大丈夫だ。私もそう簡単に結果が出るとは思っていないし、不確かな新技術に国の命数を託すつもりもない。ガラス製造につぎ込む予算は、不正発覚で浮いた予算の一部だ。うまくいったら儲けものぐらいのつもりだ」


 自信なさげに首を傾げる夫を励ますように、アウラは笑顔でそう答えるのだった。

主人公善治郎とヒロインアウラの出会いシーンのイラストを、書いていただきました。


ンポー様、ありがとうございました。

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