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理想のヒモ生活  作者: 渡辺 恒彦
一年目
32/101

第六章1【希望は無謀】

「ううっ、くう!」


 開けはなった窓から差し込む朝日の下、8日ぶりにパジャマを脱ぎ、Tシャツとズボンに着替えた善治郎は、全身の凝りをほぐすように思い切り伸びをした。


 まだ少し赤みを帯びている朝日と、窓から吹き込む清涼な風が、善治郎の身体を心地よく撫でる。

 

「はあ、健康が最大の財産、って月並みな言葉だけど真実だなぁ」


 差し込む朝日の下、コキコキと首をならした善治郎は、万感の思いを込めてそう呟く。

『森の祝福』とやらを発病したこの7日間。医者から完治のお墨付きをもらったのは、昨日の事。診察を受けたのが遅かったこともあり、昨晩は7日ぶりに本格的な入浴を堪能しただけで、そのまま大事を取って就寝した。


 そのため、善治郎の感覚としては、今日のこの時より復帰という感覚が強い。


「そういえば、今日の気温は……お、まだ25℃だ。かなり下がってきてるな。道理で涼しいわけだ」


 壁に掛けてある温度計に目をやった善治郎は、赤い液の上がっている目盛りを読み、ちょっと驚いたような声を上げた。

 明け方のまだ涼しい時間帯とはいえ、25℃とは、随分と過ごしやすくなったものだ。

 この分ならば、今日は氷や扇風機を使わずに、一日過ごしてみても良いかも知れない。


 気温が体温を上回るような日は、流石に四の五の言っていられないが、最高気温が30℃の前半くらいで留まってくれるのならば、少しは我慢して身体をこの国の陽気にならすことも必要だ。


「扇風機や冷蔵庫だって、いつまで持つか分からないんだからな」


 考えたくはないが、電化製品の寿命というのは人間の寿命よりも短い。スペアがない以上、将来的にはいずれ、電化製品を手放すときは来るはずだ。

 それ以前に、例え電化製品がまだ動いていたとしても、先の立食会のように後宮から一歩外に出れば、そこは灼熱のカープァ王国だし、イザベッラ王女の見舞いの時のように部外者が来れば、家電製品を隠す必要にかられるケースも十分に考えられる。

 余裕のあるうちに、この国の気候に身体を慣らしておくのは、将来的に決して無駄にはなるまい。


「あー、当たり前だけど一気に身体が衰えた感じだな。筋トレとリフティングでもやっておくか?

 確か、大学時代に買ったサッカーボールと空気入れは持ってきたはずだけど」


 善治郎は、Tシャツとズボンの上から自分の身体をペタペタとさわり、そう独り言を呟く。

 7日も寝込めば、身体は鈍るのを通り越し、衰え始めていてもおかしくはない。

 このまま、元の引き籠もり生活に戻れば、色々と危険だ。この若さで、起きたり歩いたりするだけで息が切れるような身体にはなりたくない。善治郎は、自主トレーニングの必要性を感じた。


「発電機を設置した中庭くらいなら出ても大丈夫かな? やっぱり、ある程度は身体を動かしておく必要があるよな」


 善治郎は、部屋の隅から探し出した白と黒のサッカーボールを絨毯の上でバウンドさせ、その空気の入り具合を確認しながら、そう漏らす。

 今までは、「身体が鈍るなぁ」と思いつつも、つい引き籠もり生活を満喫してきた善治郎であったが、こうして一度病床に付けば、体力を維持しておく事の大事さは身に染みた。


「リフティングは、流石にここじゃちょっと危ないか」


 数回、左足の甲でリフティングをした後、空中でボールを掴まえた善治郎は室内を見渡し、リフティングを中断する。

 善治郎が茶の間として使用しているこの部屋は、日本の庶民の感覚から見れば「馬鹿げて広い」と言えるが、その広い室内には、中庭から引いた電源コードと、そこからタコ足状に引かれた各種電化製品のコードがあちこちに伸びている。


 足を引っかけたりすることがないように出来るだけ端に寄せてはあるのだが、家電の配置位置と電源コードの長さの関係上、何カ所かは部屋を横切るようにコードが伸びているところもある。

 万が一にも、そのコードを足で引っかけたりしたら、目も当てられない。


「後でどっか空いてる部屋を用意してもらうのが一番かな。どうせ、部屋は余ってるだろうし」


 善治郎がそう呟いたその時だった。


「失礼します、ゼンジロウ様。ご所望のモノをお持ちしました」


 コンコンと、入り口のドアをノックする音に続き、聞こえてきたその言葉に、善治郎は即座に反応する。


「はい、今開ける」


 そう答えた善治郎は、脇に抱えていたサッカーボールをソファーの上に置くと、ドアへと向かう。

 ドアを開けるのは本来侍女達の役割なのだが、「ご所望のモノをお持ちした」という言葉から、恐らく侍女の手が塞がっているだろうと察した善治郎は、こちらからドアを開けてやる。


 すると、善治郎の予想通り、カープァ王国では珍しい金髪の若い侍女が、大きな木皿を両手で持ち、姿勢良く背筋を伸ばして立っていた。


「厨房の者に頼み、ご指示通りに作らせました」


 そう言う侍女が持つ木皿に盛られているのは、薄くスライスして油で揚げたバナナだ。味付けは上から振りかけた粗塩のみ。


『バナナチップス』という菓子は、現代日本にも存在するが、これはむしろポテトチップスの代用品として作ってもらったモノである。

 病床に付いているとき食べさせてもらった、マッシュバナナのあんかけがジャガイモに近い味わいだったため、試しにその料理用バナナをポテトチップスもどきに調理してもらったのである。


「どれどれ、一つもらうよ」


 そう言って善治郎は、侍女が差し出す皿の上からバナナチップスを一枚取り、口の中に放り込んだ。パリパリと音を立てて、また暖かいバナナチップスをかみ砕く。


「んー……」


 善治郎の口の中に、塩と良質な油の素朴な味が広がる。土台となっている素材が若干異なるため、ポテトチップスそのものとは言えないが、代用品としては十分な味わいだ。


「いかがですか、ゼンジロウ様?」


「うん、美味しい。ただちょっと分厚いかな。次作るときはもうちょっと薄く切るように言っておいてもらえるかな?」


「畏まりました、そのように伝えておきます」


「うん、お願い」


 ペコリと小さく頭を下げる侍女の手から木皿を受け取った善治郎は、そのまま部屋へと戻っていた。


 善治郎は、木皿をソファーの前に設置してある足の短いテーブルの上に置くと、ソファーに腰を下ろす。


「んー、ちょっと固いけど、十分ポテチの代わりになるな、これは。デザートバナナみたいな甘みもないし」


 その味わいは、美味しいというより懐かしい。


 善治郎がこの世界に転移してきて数ヶ月。日本を懐かしがるにはまだ早いとは思うのだが、昨日までベッドの上で日本の食べ物を何度も思い出したのは、紛れもない事実だ。


 善治郎は自分を食にあまり拘りのない人間だと思っていたし、事実日頃はこの世界の食事に不満を感じたこともない。しかし、心身が弱ったときは全く話が違うことを今回の一件で痛感した。

 すぎた贅沢や我が儘を言うつもりはないが、後宮で自分や料理長にお願いすれば実行可能な範囲でならば、日本の料理をこちらで再現するのも悪くはない。


 善治郎は社会人になってからは、スナック菓子の類はほとんど口にしなくなっていた筈なのに、今はこのポテトチップスもどきが「美味しい」と感じるのだから、味覚に基づく望郷の念というのは、無視しがたいものがある。


「幸い、この国は砂糖が普通に使われているみたいだし、お菓子関係から色々やってみるかな? あ、でも、卵はともかく乳製品が凄く高いんだっけか。ミルクやバターを一切使わないお菓子となると……うーん。そんなレシピ、持ってきてたかな?」


 熱帯雨林気候に近いカープァ王国の家畜の8割は、『竜』――爬虫類である。当然ながら、爬虫類は乳を出さない。卵は産むには産むが、鳥類の卵とはかなり異なった代物である。

 もっとも、地球ではアフリカ赤道付近の国やインドなど、カープァ王国より暑い季節を有していながら、牛や豚を普通に飼育している国がある事からも分かるとおり、ほ乳類の飼育が根本的に不可能という訳ではない

 南大陸で、ほ乳類の家畜が一般的ではないのは、気温の問題よりも大陸の生態系の問題なのだろう。


 だが、現実として、カープァ王国に牛や山羊は少なく、乳製品は貴重だ。特に、遠心分離器など存在しないのだから、バターや生クリームは超がつく高級品である。


「ましてや、ハンドミキサーも、電気式のオーブンレンジもないんだからな。自前で作れるモノなんて無いに等しいか」


 一人暮らしの経験があるとはいっても、所詮は若い男の一人暮らしだ。料理など、「カレー」「シチュー」「ハヤシライス」、あとはチャーハンだの野菜炒めだの、善治郎のレパートリーなどその程度である。



「あとは、果物関係かな? 林檎に近いモノがあったらアップルパイくらいは作れそうだけど。林檎はかなり北の果物だからなぁ」


 ソファーに座り、バナナチップスを摘む善治郎は、暇つぶしにテレビの電源を入れてDVD観賞を初めながら、そう呟くのだった。






 ◇◆◇◆◇◆◇◆






 その日の夜、夕食と入浴を済ませたアウラと善治郎は、7日ぶりに後宮の一室で夫婦水入らずの時間を過ごしていた。


「つまり、鈍らない程度に身体を動かしたい、ということか?」


「うん、簡単に言えばそんなとこかな。どうだろ、中庭か後宮の一室を俺の運動部屋にしちゃってもいい?」


 一つのソファーに仲良く隣り合って座るアウラと善治郎は、互いの肩を抱けそうな至近距離で言葉を交わす。

 話の内容は、善治郎が朝から一人で考えていた『健康のための身体作り』に関してだ。

 本来後宮の主は善治郎なのだから、適当な一室を片付けさせてリフティングをするのも、中庭でドリブルをするのも、誰の許可もいらないのだが、こうしていちいちアウラにお伺いを立てる辺り、『後宮の主』であるという自覚の無さが表れている。


「そのサッカーとやらがどのような運動なのかは分からぬが、身体が鈍らないようにしたいというのであれば、武術を嗜む気はないのか? 『十術』は身につけておいて損はないぞ」


 アウラは、そう言ってテーブルの上の木皿から、バナナチップスを一枚口の中に入れる。


「十術?」


「うむ。カープァ王国で、武人がたしなみとして身につけておくべき武術十種のことだ。走術、槍術、弓術、騎竜術、木登術、水術、野営術、投石術、剣術、徒手武術の十種だな。

 とは言っても、全てを納めている者は騎士でもごく僅かだ。必須なのが、走術、槍術、弓術の三つで、騎兵を目指すならば、それに加えて騎竜術、残りは特技として一つ二つ身につけておけばつぶしが利く、と言ったところだな」


「へえ……」


 善治郎は感心したような声を上げる。昔の日本で言うところの『武芸十八般』のようなものだろうか? 20歳もとうに過ぎた身で、今更まともに身につくとも思えないが、興味はある。しかし、善治郎は少し考えて問い返す。


「面白そうだけど、その場合その十術ってのは、誰に習うことになるのかな?」


「ん? それは無論、王軍の中から指導に長けたモノを選抜することになると思うが?」


 バナナチップスを摘みながら答えるアウラの返答に、善治郎は「ああ、やっぱり」といった表情できっぱりと首を横に振る。


「ああ、それなら駄目だわ。王軍ってことは、その人男でしょ? てことは、教えてもらうために俺が後宮から出ることになるよね。そうなると多分、面倒ごとが頻発すると思う。それに、例え武術という限られた範囲でも『師弟』という関係を持つのは色々やばそう」


 中学、高校とサッカー部だった善治郎は、部活の顧問の顔を思い出しながらそう答えた。

 高々部活の顧問程度でも、街中でばったり顔を合わせれば、つい反射的に背筋が伸びるものだ。それが、生き死にを教える武術の師となれば、善治郎にもっと強い影響力を持つことだろう。

 その『師弟』の関係を糸口として、善治郎に何らかのアプローチを掛けようとする人間はまず間違いなく現れる。


 そんな面倒くさい人間は、魔術と教養の師である、オクタビア一人で十分だ。


 善治郎の返答に、バナナチップスを呑みこんだアウラは苦笑を隠さず答える。


「ゼンジロウ、そこまでいちいち配慮してくれなくても良いのだぞ? もう少し自由に振る舞ってくれても、私はそれを許容出来る程度の度量は持ち合わせている」


 妻の返答に、善治郎はポリポリと顔を掻き、


「いや、もちろんアウラに迷惑を掛けたくないって思いもあるけど、これはどっちかというと俺の都合だよ。ようは武術には興味があるけど、それをやることで面倒を増やすくらいならやらなくてもいい、って程度の興味なんだ」


 そう言葉を返した。


 善治郎の返答に偽りがないことを理解したのか、アウラは「分かった」と首を縦に振る。


「そういうことならば、無理強いはせぬ。ああ、そうだ。後宮から出ずに武術をやってみたいというのであれば、暇を見て私が相手をしてやっても良いぞ」


「アウラが?」


 問い返す夫に、アウラはバナナチップスを数枚纏めて口に放り込み、咀嚼しながら頷いた。


「ああ。私が身につけてるのは、基本の3術と、後は騎竜術と剣術だけだがな」


「へー、すごいな。それなら、暇があったら頼もうかな」


「うむ、任せろ」


 善治郎の返答に、アウラは満足げに頷くと、木皿からバナナチップスを数枚纏めてすくい上げた。


「…………」


「…………」


 しばしの間、パリパリとアウラがバナナチップスを食べる音だけが後宮の一室に響き続ける。


 口の中のバナナチップスを呑みこんだアウラが、もう一度木皿に手を伸ばしたところで、流石に見咎めた善治郎が声を上げる。


「なー、嫁さん、嫁さん」


「ん? なんだ、婿さん?」


 右手でバナナチップスを掴んだ体勢で、首だけこちらに向ける妻に、善治郎は一瞬躊躇した後、振り切るようにして口を開く。


「俺の故郷の菓子を気に入ってくれたのは嬉しいけど、その辺にしておいた方がいいんじゃないか。俺、嫁さんの体型がちょっと心配」


 大皿にいっぱいあったバナナチップスが、夜の短い時間ですっかりアウラに食べ尽くされている。


「む? 言われてみれば、ちょっと食べ過ぎたか」


 言われてやっとバナナチップスに手を伸ばすのを止めたアウラを見て、ソファーから立ち上がった善治郎は、冷蔵庫から冷やした濡れタオルを取り出すと、アウラに差し出す。


「ほら、これで手の油を拭いて」


「おお、すまん」


「やっぱり、夕食を残したのがきいてるんじゃないの? こんなジャンクなモノでお腹を膨らませると良いことないよ」


 非常に珍しい夫のお叱りに近い言葉に、ソファーの上で手を拭いていたアウラは殊勝に首をすくめる。


「うむ、そう言われると返す言葉もないのだが、どうも今晩の魚料理は泥臭くてな」


 大国であるカープァ王国には、海岸線も存在するが、王宮のある王都は完全な内陸の都市だ。そのため、宮殿料理として食卓に並ぶ魚は、ほぼ例外なく皆川魚である。

 一般的に川魚は、海の魚に比べると泥臭いものが多い。


「ええ、そうか? 特に今日の魚だけ、特別泥臭かったとは思わなかったけどな」


 善治郎は、そう言って首を傾げる。日本では海の魚しか食べたことのなかった善治郎は、少し川魚を苦手としている。川魚になれているアウラが気になるほど泥臭いようならば、自分が先に気づくのではないか? そう考えた善治郎であるが、味覚や嗅覚というのは、体調次第で変化するモノだ。


 病気上がりのせいで、自分の嗅覚が鈍っていたのだろう。善治郎は勝手にそう結論づけて、それ以上追求することはなかった。


「そもそも、私は揚げ物のような油をふんだんに使った味の濃い料理はあまり好んでいなかったはずなのだがな。今日はなぜか、手が止まらなかった」


 右手に付いていたバナナチップスの油を丹念に、タオルで拭き取ったアウラがそう言い訳をするが、当然ながら善治郎は取り合わない。


「いや、木皿いっぱいあったバナナチップスをそれだけ食べておいて、実はあまり好きではない、って言われても全く説得力が無いんだけど」


 苦笑を浮かべ、隣に座る夫にアウラは不満げに口をとがらせ、なおも言い訳を重ねる。


「まあ、我ながら説得力が無いとは思うが、本当なのだ。私はどちらかと言うと、こういう味の濃い油っぽいものは好まぬ。嫌いなわけではないが、積極的に食べるものではない……はずなのだが」


「はいはい、分かったから。残りは明日にしようね」


 ソファーに戻った善治郎は、あしらうようにそう言ってバナナチップスの入っている木皿に蓋をした。


「むう……」


 異論はあるのだが、現状の形勢不利を理解したアウラは、それ以上抗弁に固執せず、話題の転換を図る。


「ああ、そう言えば、私とそなたの『結婚指輪』を魔道具にしてもらうため、イザベッラ殿下にお渡ししたのだ。あと、あの『ビー玉』と『ビーズ』とやらも殿下に見定めてもらってな、礼として『ビー玉』を一つ殿下に進呈したのだ。すまぬな、病床のそなたの断りもなく」


 アウラには珍しい、かなりあからさまな話題転換であったが、これ以上妻をからかう悪癖のない善治郎は、素直にその話に乗る。


「ああ、別にいいよ、それは。元々転送に失敗したときの保険ぐらいにしか思っていなかったものだし。その辺りの取り扱いに関しては、アウラに任せるって言ってたでしょ?」


「ああ、確かにな。ただ、ビー玉にはちょっと予想外の高値が付いてな。その辺りの事情も、持ち主であるそなたにはしておく必要があるだろう」


 少し真剣な面持ちを取り戻したアウラは、ソファーの上で座り直すと、とうとうと語り始めたのだった。






「ふーん、ビー玉1個が金貨50枚か」


 話を聞き終えた善治郎の態度は、今一要領を得ないものであった。


「たしか金貨1枚が、大体銀貨100枚なんだっけ? でも、この世界の物価が分からないから、金貨50枚と言われても、ちょっとピンと来ないな」


 なにぶん、善治郎は異世界人である。その上、この世界に来てからは後宮に籠もりっぱなしで、買い物も外食も経験がない。各領地の税収をパソコンの表計算ソフトに打ち込む作業を行ったので、基本的な通貨ぐらいは把握しているが、正直なところ全く実感がわかない。


「金貨50枚あれば、下級貴族ならばギリギリ恥ずかしくないくらいの家が買えるな。宝玉1個の値段としては、これは破格だぞ」


「家1軒? 流石にそれはすごいな」


 具体例を挙げられれば、善治郎にもそのすごさが少しは伝わる。


(家1軒って、日本円に直したら1千万円近いってことか? あ、でも、この世界では、家や土地の価値が、現代日本ほどない可能性もあるか)


 とりあえずは、自分の予想を遙かに超えた値が付いた、とだけ理解しておけばよい。善治郎は、そう自分に言い聞かせ、細かな疑問は纏めてほうり投げる。


「世界が変われば、ものの価値が変わるってことはある程度予想していたけど、ちょっと凄いな」


「その言い方からすると、あのビー玉とやらは、そなたの世界ではさほど高価なモノではないのだな?」


 興味津々なアウラに、善治郎は何でもないような口調で答える。


「うん、安物もいいところだよ。はっきり言えばあれは子供のおもちゃ。1つ10円から高くても30円程度かな。ちなみにこの世界とは物価が違うから単純比較は出来ないだろうけど、新築の家はどんなに安くても1千万円はすると思って欲しい」


 善治郎の言葉にアウラは素早く頭の中で計算し、唸るような声を上げた。


「その価値で計算すれば、銅貨1枚でそのビー玉が2つ買えてしまう計算になるな」


 実際には、労働者の労働単価で比較した場合、主食となる米や麦の価格で比較した場合、一般的な食堂の一食の金額で比較した場合など、それぞれ別な計算結果が出るため、銅貨1枚イコール20円とは言い切れないのだが、大ざっぱな比較にはなる。


 向こうでは一粒10円ちょっとのビー玉が、こちらでは金貨50枚。単純計算では、百万倍だ。


「うん、だから流石にちょっと驚いている。この世界でビー玉をしこたま作ったら、アッという間に億万長者になれるんじゃないの? いや、だめか。こういうのは希少価値が重要なんだもんな。大量生産なんかしたら、アッという間に値崩れを起こすか」


 なおも善治郎は、あーでもないこーでもないと話し続けているが、途中からその言葉はアウラの耳に届いていなかった。

 途中で聞こえてきた、あまりに衝撃的な言葉に、アウラは半ば思考が停止したまま、隣に座る夫の腕を掴む。


「アウラ?」


「……待て、そなた、今、何と言った? その『ビー玉』を作る、と言ったのか?」


「あ、うん、言ったけど」


 腕を掴み、爛々と光る目でこちらを見る妻の迫力に押された善治郎は、ソファーの上で仰け反りながらそう答える。


「それは、鉱物ではないのか? 水晶や瑪瑙のように自然にあるモノを削り出すような……」


「ち、違うよ、ビー玉はガラス。砂とか石灰とかを混ぜて、人工的に作るモノだよ」


「砂に石灰……そなたは、その作り方を知ってるのか?」


 ここまで言われれば、アウラが何を期待しているのか、善治郎にも分かる。

 善治郎は苦笑を漏らすと、首を横に振った。


「無理無理。ガラス製造は紀元前からある技術だから、この世界でも再現は不可能ではないだろうけど、かなり専門的な知識と技術が必要だからね。俺みたいな素人が見よう見まねで再現できるモノじゃないよ」


 善治郎の返答に、アウラは途端に勢いを失う。


「……そうか。流石にそこまで都合の良い話はない、か」


 善治郎の右腕を両手で掴んだまま、アウラはしょぼんとソファーの上で項垂れた。

 嫁の心底がっかりした様子に、いらぬ罪悪感を感じた善治郎は、つい反射的に慰めの言葉を口にする。


「あ、でも、確か俺が取り溜めたDVDの中で、ガラス作りに挑戦している回があったはずだよ。どうせそれを見ても、再現は出来ないだろうけど、見るだけ見てみる?」


 その言葉に対する、アウラの反応はまた劇的だった。


「見る!」


「分かった、用意する」


 善治郎は、強く握っている妻の手の中から右腕を抜き取ると、ソファーの向かいに設置してあるテレビとDVDの電源を入れるするため、ソファーから立ち上がった。






 ◇◆◇◆◇◆◇◆






 数分後、善治郎とアウラは、仲良くソファーの上で肩を並べ、テレビの画面に向かっていた。


 テレビに映っているのは、善治郎が取り溜めた日曜の夜にやっていたとあるテレビ番組だ。アイドルグループが、村を一から作り、農業やら物作りに挑戦するというその番組の中で、ガラス工芸に挑戦した回を選び出し、再生している。


 真剣な面持ちで食い入るように画面を凝視しているアウラの隣で、善治郎はリモコンを操作し、何度も一時停止を繰り返しながら、番組のナレーターや登場人物の言葉を通訳、解説する。

 なにせ、機械の言葉には『言霊』が働かない。善治郎が通訳をしてやらないと、アウラには画面の向こうから聞こえてくる説明は一切理解できない。


「ええと、ガラスをとかすのには、千三百度以上の温度が必要なんだ。だから、まずはその高温に耐えられる炉を作るために、『耐火煉瓦』を組んでガラス竃を作る」


「ほほう、なるほど。その『耐火煉瓦』とやらだけでも、十分に価値があるな。ところで、千三百度というのはどれくらいの熱なのだ?」


「確か、前の回で鉄を打ったとき、鋳鉄の融解温度が千二百度って言ってたから、混ざりモノが多い固い鉄が溶ける温度より、もう百度高い温度かな」


「なんと。鉄を溶かす温度以上か。鉄を液状化できる炉は、南大陸にはないぞ」


「ってことは、南大陸以外にはある?」


「うむ、製鉄に関しては北大陸が先進国だ。向こうには、鉄を溶かして鋳造する技術が存在していると聞く」


「へえ、この世界でも技術格差はあるんだな」


 真剣な面持ちで画面に見入るアウラであったが、善治郎の説明を聞くにつれて、段々とその顔は険しくなっていく。


「まて、今何と言った?」


「だから、普通の粘土をこねただけじゃ『耐火煉瓦』にはならないから、割れた『耐火煉瓦』を粉に砕いたモノを混ぜて、『耐火煉瓦』を作ったんだって」


「……では、割れた『耐火煉瓦』が手に入らないときには、どうやって『耐火煉瓦』を作るのだ?」


「さあ?」


 アウラの機嫌が少し悪くなったまま、DVDは先へと進む。


「まて、どういう事だ?」


「いや、だから『耐火煉瓦』を焼き上げるのにはかなりの高温が必要だから、『耐火煉瓦』を焼くための竃を特別に作ったんだって」


「その竃は、なにで、作ったのだ?」


「余所からもらってきた『耐火煉瓦』で」


「……では、『耐火煉瓦』をもらうあてがないときは、どこで耐火煉瓦を焼きあげればよいのだ?」


「さあ?」


 さらに不機嫌に嫁の横で、善治郎はちょっとビクビクしながら説明を続ける。


 実際、そうやって怒られても困るのだ。これはあくまでテレビの娯楽番組を録画したものに過ぎず、本格的なガラス工芸の製造マニュアルなどではない。この映像を見ただけで、再現できるほどガラス製造という技は容易くはない、と事前に言っておいたはずなのだが、アウラには今一届いていなかったようだ。


 やはり、ガラスは製造可能な物体である、という期待感が大きすぎたのだろうか。


 まあ、確かにアウラの言いたいことも分かる。


『耐火煉瓦』の作り方の説明で、粉に砕いた『耐火煉瓦』を混ぜた粘土を型に填め、『耐火煉瓦』で作られてた竃でじっくり焼き上げる、などと言われれば、善治郎でもちょっと突っ込みを入れたくはなる。


『耐火煉瓦』の作り方の、用意するモノの欄に『耐火煉瓦』と書かれているようなものだ。流石にこれは、ちょっと理不尽だろう。


「だから、最初に作られた『耐火煉瓦』は、『耐火煉瓦』を使わずに作られたのだろう? その作り方はやっていないか?」


「ない」


「ううう……」


 珍しく不機嫌を全快にするアウラの背中を、善治郎はリモコンを持っていない方の手でポンポンと叩く。


「落ち着け、嫁さん」


「無理だ、婿さん」


「どうどう」


「ガウガウ」


 いちいち善治郎の軽口に付き合ってくれる辺り、アウラも本当に真から不機嫌になっているわけではないのだろう。


「で、どうする? どのみち役に立たないのなら、この辺りで中断しておくか?」


 横目で時計を確認した善治郎がそう提案するが、アウラはちょっと考えた後首を横に振った。


「……いや、せっかくだから最後まで見よう。ひょっとすると、どこかに突破口があるかもしれん」


「無いと思うけどなあ」


 善治郎の呟きは極小さな声だったので、隣に座るアウラの耳にも届かなかった。


 時計が指し示す時刻は、普段であればもうとっくに仲良く寝室に入っている時間帯だ。

 病床についていた関係上、この7日間ずっと独り寝が続いていた善治郎としては、今夜という時間は随分と楽しみにしていたのだが、どうやらまだお楽しみタイムには間があるようだ。


「では、続けてくれ、婿さん」


「了解、嫁さん」


 アウラに見えないように死角で苦笑を漏らした善治郎は、愛妻の背中に回していた手を肩へと移動させると、グッと妻の身体を抱き寄せながら、番組の通訳と説明を続けるのだった。

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[良い点] 『ドウドウ 』  『ガウガウ』が狂おしいほど大好き
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