幕間2【言葉と文字と言霊】
録画したアウラの言葉が理解できない。驚きの事実を告白した善治郎に、アウラが首を傾げ、不思議そうに問い返す。
「それはつまり、この道具は音は取れても『言霊』は取れないということなのではないか? 実際、この道具からは魔力が感じられないからな」
「は……? 『言霊』?」
全く聞き覚えのない言葉を、平然と言ってよこすアウラに、善治郎は理解が追いつかない惚けた表情で、オウムのように言葉を返す。
善治郎の表情を、しばらく不思議そうに見ていたアウラであったが、どうやらこれは、根本的な所で話が通していないようだと気づく。
「まて、ゼンジロウ。最初から順番に話していこう。まず、そなたは何をそんなに驚いているのだ?」
アウラの問いに善治郎は、戸惑いを隠せない声で言葉を返す。
「それは、普段は普通に聞こえているアウラの言葉が、デジカメを通したら全く理解できなくなったから……って、考えてみれば、そもそもここが異世界なのに、日本語が普通に通じているのがおかしかったんだなぁ」
最初の転移から一月半、こっちに棲みついてからすでに半月近くがたっているというのに、不覚にも善治郎はその事実を、今の今まで全く疑問にも思っていなかった。
「よし、そこだ。根本的に話が食い違っているのはそこだな。ゼンジロウ。ひょっとして、そっちの世界では、異なる言語を使用する者同士は会話が成立しないのか?」
あまりに当たり前の事を言ってくるアウラに、善治郎は一瞬「当たり前だ」と返しそうになるのをグッと堪える。
「うん、それはごく当たり前のことなんだと思ってたけど、その言い方だと、ひょっとしてこっちの世界は違うのかな?」
「うむ。この世界でも、国が異なれば言語も異なる。大陸だけに限っても北部と南部、東部と西部、それぞれが全く異なる言語体系を持っているが、会話を交わすことにはなんら支障は無い。なぜならば、複数の人間が同じ認識を持つ音には、『言霊』が宿るからだ。
これは、この世界では、ほとんどの人間が意識すらしていない常識中の常識なせいで、今まで説明する必要性すら感じていなかったが、まずは聞いてくれ」
そう言うと、アウラはこの世界では一般常識にも等しい存在、『言霊』について説明を始めるのだった。
一通り、アウラの説明を受けた善治郎は、頭の中で今聞いた言葉を整理するように言葉にする。
「ええと、つまりこの世界では、言葉には等しく『言霊』というのが宿っていて、例え異なる言葉を使っている人間同士でも、意思の疎通には不自由はないってこと?」
「そうだ。だから、この世界では、『言葉が通じない』という現象は原則あり得ない」
頷くアウラに、善治郎は、解消されない疑問点を矢継ぎ早にぶつける。
「ええと、そんな便利なものがあったら、言葉を覚えるのに支障があるんじゃないの? ほら、適当に『あー』とか『うー』とか言ってるだけで意味が通じちゃうんじゃ」
「いや、それはない。言霊は、あくまで『万人が共通の認識を持つ正しい音』に宿るのだ。例えば生まれたての乳飲み子が『オッパイ』と言う意味を『あー』と言う音に込めたとしても、その赤子だけがそう思っていただけでは、言霊は働かない。最低でも数千人単位の人間が『あー』という音に『オッパイ』という意味を認識していなければな」
「へー、以外とよくできてるんだな。それなら、例えば悪い大人が、小さな子供に『椅子』の事を『机』、『机』の事を『椅子』って教えたとして、その子が別な言葉を話す人に机のつもりで『椅子』って言っても、相手の人には『椅子』としか聞こえないってこと?」
「そうだ。言霊が宿るのはあくまで『共通の認識を持つ正しい音』だ。本人の意思には、関係はない」
「なるほど……。ん? でも、それじゃなんで、今録画化した画像の音は理解できなかったのかな? 音は正しく再生されているよね?」
善治郎の当然の疑問に、アウラは小さく頷き、答える。
「それはその道具に魔力がないからだろう。私達も日頃使っているときには全く意識していないが、『言霊』による意思疎通にも微弱な魔力を使用しているのだ。魔力の宿らない音は、例え『正しい音』を再現できても、『言霊』は働かない」
「なるほど、なるほど。それじゃ、この世界では、複数の言語を使用できる人間ってほとんどいないんじゃないの? どれか一つでも言葉を覚えていれば、事が足りるだろうし、勝手に翻訳されちゃうんだったら、二つめの言語を覚えるのも難しいよね」
例えば、アメリカ人が「アップル」と言っても日本人の耳には自動的に「りんご」と聞こえてしまうわけだ。これでは、日本人が後天的に英語を学ぶのは不可能に近い。
それは、事実その通りだったようで、アウラは深く頷いた。
「そうだ。だから、複数の言語を覚えている人間というのはごく一部の魔術師に限られる。熟練した魔術師は、意識的に魔力の放出を抑えられるからな。この様に」
と言って、アウラは意識的に魔力を遮断すると、
「Amo Zenjiro」
と、短く言葉を発する。その言葉は、さきほどパソコンで再生したデジカメの動画同様、善治郎には未知の言語にしか聞こえない。
「こうやって、魔力制御の出来る異国の魔術師に、教えて貰うのだ。逆に、自分が魔力制御できれば、自分の魔力を遮断するだけでも、言霊は働かなくなる。言霊の発動には、話し手と聞き手、双方が魔力を有していることが条件だからな。また、場所によっては魔力の発動を根本的に遮断するような特殊空間も存在するらしい。そういうところでは、言霊も働かないだろう」
アウラの言っていることが正しいのだとすれば、地球は丸ごと魔力の発動が遮断される特殊空間であるか、地球人の九十九パーセントが魔力を全く持たない人種であるかのどちらかだ。
どちらにしても、百五十年前、地球に駆け落ちしてきた善治郎のご先祖様は、さぞかし苦労したに違いない。なにせ、『言葉が通じない』という概念すらない人間が、誰とも言葉通じない世界に放り出されたのだから。
無事生き延びて、子孫を残したことが奇跡にすら思えてくる。
「へー。この世界で複数の言語を覚えるのって、大変なばっかりでメリットはほとんどないみたいだな。でも、一部の魔術師はわざわざそれだけの苦労をして、覚えてるって事だよね? なんで、そこまでして覚えるのかな? 必要もなさそうなのに」
そういう善治郎のもっともな疑問に、アウラは小さく笑って答える。
「それは、言葉を覚えるよりも『文字』を覚えるためだ。文字とは言語の発音を書き記した代物。会話も出来ないのに、文字を覚えるというのは難しいからな。文字には言霊は宿らないゆえ、そうやって覚えないと、異国の書物は読めぬ」
「あ、そうか。そう言えば、この世界の文字ってまだ見てないな。ねえ、ちょっと書いてもらえるか?」
もののついでとばかりに善治郎は、パソコンの横に置いてあるコピー用紙とボールペンをアウラにわたす。
「ふむ。これは、随分と白くて薄い皮紙だな。こっちのペンも不思議な形をしている。インク壺はどこだ?」
「ああ、違う。それは、動物の皮じゃなくて植物から作られてて、ってまあいいや。そのペンもボールペンっていって、そのまま押しつければ普通に書けるから。インクは中に入ってるんだ」
初めて触れる現代日本の筆記用具に最初は戸惑っていたアウラであったが、元々ボールペンの扱いというのは、ツケペンと比べて特別難しいものではない。すぐに慣れて、感嘆の声を上げる。
「ほう、これは便利だな。インクに浸す手間がなくなるだけでも助かるし、何よりこんな薄い皮紙でも引っかかって破いたりしないくらいになめらかだ」
「紙はともかく、ボールペンはダース単位で買ってきてるから、よかったら一、二本持ってく? 色も、黒だけじゃなくて、赤とか、青もあるよ」
「ありがたく、貰っていく。ふむ、書けたぞ。我が国を中心とした大陸南西岸部で使用されている文字は、この様な三十字からなっている」
やがて、アウラはコピー用紙に見たこともない三十種類の記号を書き出し、善治郎に見せた。
「へえ、予想はしていたけどやっぱり表音文字なんだな。数が三十ってことは、アルファベットに近いのかな? ねえ、アウラ。そこに、『あ』『い』『う』『え』『お』。『あ』『か』『さ』『た』『な』って書いてみて」
「む、なんだと? すまん、もう一度言ってくれ」
「うん、一つずつ行くよ。最初は『あ』……」
幸い意味を持たない、短音であれば、『言霊』も働きようがないらしく、善治郎の発音はそのままアウラの耳に届く。
そうして書いてもらううちに、この国の文字が、おおよそ元の世界のアルファベットと同じ作りをしていることが判明する。
言語学的に母音と子音という明確な区別があるわけではないが、複数の文字を連ねて一つの発音を作る辺りは、全く同じだ。ただし、RとLの区別がなかったり(Lに相当する文字が存在しない)、Mに相当する文字が複数存在したりと、細かな違いは多々あるが、三十文字の内大多数は、アルファベットに直接置き換えて書き記すことが出来そうだ。
他に、明確な違いを挙げるとするのならば、大文字、小文字といった差がない点だろうか。細かなニュアンスを書き記すのに不自由しそうだが、一から覚えるには数が少ない分、若干楽そうだ。
「ああ、これなら三十個の文字を覚えるだけなら簡単そうだな。そこから、文章全体を覚えるのは骨だろうけど。でも、どうせなら、文章より先に数字を覚えたほうが役に立ちそうだな。アウラ、この世界の『数字』を教えてくれないかな?」
アウラが発音するとおり、三十個の記号にカタカナで読み仮名を振り終えた善治郎は何の気なしにアウラにそうお願いする。
しかし、アウラの反応は、善治郎の予想を大きく覆すものだった。
「『数字』? ようは数の文字表記のことか? いきなり数を全て覚えるの大変だと思うが」
そう言ってアウラは、別のコピー用紙に、ツラツラと単語を書き始める。
「これが一、これが二、これが三だ。最初は十まで位にしておいた方が良いと思うぞ。商人や軍人ならばともかく、一般的な貴族でも『億』や『十億』といった単語表記は、知らない者も珍しくないからな」
「…………」
思わず無言で善治郎は、アウラの手元を見る。そこには、アウラが、『一』『二』と言う度に、複数の文字を組み合わせて、単語を書き記しているのが見える。
ちょうどアルファベットで一を『one』、二を『two』、三を『three』と印すように。
「……ひょっとして、この国には『数字』って存在してないわけ?」
一瞬、そんな馬鹿な、と思う善治郎であったが、考えて見れば日本もその昔、アラビア数字が入って来るまでは漢数字や、算木、ソロバンなどを用いて、結構複雑な計算をこなしていた。
鶴亀算に代表されるような初期の連立方程式や、水面から顔を出している水草を横に引っ張ってその長さの変化から、三平方の定理を用いて、水堀の深さを計算するようなマネもやってた。戦国時代の商家や大名の補給物資管理なども、残っている文献を調べると、予想以上に綿密な計算がされている例もあるらしい。
そう考えれば、数字が存在しないイコール数学が存在しないということではないのだろう。そもそも、これだけ立派な王宮を建てている時点で、建築学にある程度の高等数学が含まれていないはずがない。もし、万が一、経験則だけでこの王宮を建てているのだとすれば、そっちのほうがすさまじい。ほとんど、魔法の領域だ。
しかし、数字がある場合とない場合では、計算能力に対する『底辺人口』に明確な違いが出る。
凡人の筆算能力を向上させるためには、ゼロを含む十進数の数字の概念は、必須だ。
「数字。数を印すための特別な文字、ということか? 興味深いの。それがあると、どのような利点があるのだ?」
興味深げに問いかけるアウラに、善治郎は思わず熱心に数字の有効性について説く。
「ああ、まず何より覚えるのが、簡単だ。十進数だとすれば、ゼロも含めて十個の文字だけを覚えればすむし、後はそこに、+、-、×、÷の四つの記号を覚えれば大抵の人間が簡単な四則演算くらいなら二,三年で……」
「ふむふむ……」
いつの間にか善治郎は、転移する前に自分に誓った「出来るだけ目立つ成果は上げないようにしよう」という自戒も忘れて、熱心に数字の有効性について説明するのだった。