第二章3【女王夫妻の朝の風景】
枕元においたある携帯電話が、無機質な電子音を奏でる。
「ん……ンン?」
半ば夢うつつのまま、善治郎は右手を伸ばし、手探りで探し当てた携帯電話のモーニングコールを止めると、そのまま顔の前に持ってきて時計部分を見る。
5:30 AM
現代日本に生きるサラリーマンの起床時間と比較すれば随分早い時間帯だが、この世界の基準ではこれでも遅い部類に入る。
照明が、自然の火以外にほぼ存在していない文明では、太陽の出ている時間帯は貴重だ。
一般人は、日の出の時刻である四時過ぎには起き出すのが一般的であり、こんな時刻までゆっくりと寝ているのは、それだけでずいぶんと贅沢な時間の使い方と言える。
しかし、善治郎に限って言えば、本来こんな時間にわざわざ目覚ましをセットしてまで目を醒ます必要はない。
善治郎には、LEDスタンドライトという夜を明るく照らす手段があるうえ、昼に急いでやらなければならない仕事もない身なのだ。
そんな善治郎があえてサラリーマン時代から愛用している携帯電話の目覚まし機能を使ってまで、早起きした理由はただ一つ。
昨夜、無事初夜を迎えた妻――アウラとすれ違いにならないためである。
一緒に床に入り、目が醒めた時にはすでに嫁さんは仕事にいった後だった。というのは、流石にちょっと寂しいものがある。
携帯電話を元あった場所に戻した善治郎が、ベッドに寝そべったまま身体を左に向けると、そこには無防備な寝顔を晒し、スースーと心地よい寝息を立てるアウラの姿があった。
昨夜は行為に及んだ後、濡らしたタオルで身体を拭いただけでそのまま寝たため、善治郎もアウラも一糸まとわぬ裸である。
一応、薄手の毛布のような掛け布団を二人仲良く被っているが、その薄手の掛け布団すら鬱陶しく思えるほど、カープァ王国の夜は蒸し暑い。
「…………」
善治郎は半ば無意識のまま、隣で寝る妻の背中に手を回す。
横向きに寝たまま、抱き寄せるようにアウラの背中に右手を回した善治郎は、そのままあやすようにアウラの背中をトントンと手の平で軽く叩いた。
胸元に掛かるアウラの寝息と、手の平に感じる肌触りが、善治郎に昨夜の行為を思い起こさせる。
「アウラ……」
確かに自分は、昨晩この女と肌を合わせたのだ。
その実感が、急速にアウラへの愛情を育てる。アウラの裸の乳房が、自分の胸板にくっつように抱き寄せ、善治郎は何度も何度も愛おしげに、アウラの背中や赤い頭髪を撫でる。
そんな事をすれば、アウラが目を醒ますのも必然である。
「ン……アア……? ゼンジロウ、か」
目を醒ましたアウラは、抱き寄せる善治郎の腕に身を任せ、素直に裸身を善治郎に密着させると、甘える猫のように、善治郎の首の辺りに顔を擦りつけ、喉を鳴らす。
(あー、なんだか、猫っていうより、雌ライオンとか雌虎とか、そう言う猫科の大型肉食獣を手なずけた気分だなあ)
首元に感じるくすぐったくて心地よい感触に眼を細めた善治郎は、そんな事を考えつつ、アウラを抱きしめる力を強める。
ちまたではよく女を猫に例えることがあるが、アウラの迫力はそんな可愛らしい生き物には、収まらない。雌豹という例えでもまだ足りない。獅子や虎、そういった食物連鎖の頂点に君臨するような、覇者の雰囲気を漂わせている。
しばしの間、互いの体温を実感し合うように、裸のまま抱き合っていた二人であったが、やがてアウラは善治郎の腕の中からスルリと抜け出すと、そのままベッドの外に降りた。
実るべきところは豊かに実り、締まるべきところは締まっている魅惑的な裸身を惜しげもなくさらしながら、アウラはベッドの脇に用意してある水桶にタオルを浸し、身体を拭う。
「ふう……」
一応、行為を済ませた後、寝る前に身体を拭いたとはいっても、この熱帯夜で男女が寄り添って一夜を過ごせば、気持ち悪くなるくらいには汗も掻く。
「ああ、終わったら貸してくれ。俺も身体を拭きたい」
アウラと比べると随分と色白な善治郎も、そう言って裸のままベッドから降りると、身体を拭いている妻に近づく。
「ああ、良いとも。なんだったら、私が拭いて差し上げようか? 旦那様」
そうイタズラっぽく笑い返す新妻の誘惑に、一瞬負けそうになった善治郎であったが、頭を振って答える。
「それは凄く魅力的だけど、魅力的すぎて中途半端で済ませられなくなりそうだ。朝から最後まで付き合ってくれるんなら、もう飛びつくんだけど」
「それは残念だ。生憎仕事が立て込んでいて、そこまで時間の余裕がない。すまないが、今夜までまってくれ」
手早く身体を拭き終えたアウラは、水桶にタオルを浸しきつく絞ると、その絞ったタオルを善治郎にほうり投げる。
「了解、滅茶苦茶楽しみにしてる。そう言えば、今日はこの後どうなるのかな? 食事とかは」
絞ったタオルで身体を拭きながら、善治郎はふと思い出したように、服を着込んでいているアウラにそう尋ねる。
アウラは、
「ああ、朝食と昼食に後宮まで足を伸ばす余裕はなさそうだ。夕食時には、うまくすれば後宮に来られるかもしれない。一緒に食事を摂りたいと言うのであれば、ゼンジロウが王宮の方に来れば、一応可能だが」
と言って、少し探るような視線で善治郎の方を見る。
(王宮で食事って、アウラ以外の貴族達と鉢合わせになる可能性が結構ありそうだよな。何も知らない今の俺がへたにそういう奴等と会話を交わしたら、予想もしない方向からアウラの足を引っ張りかねないよな)
あまりにも堂々としたその振る舞いから、つい忘れがちだが、男系社会のこの国では、女王であるアウラの権力は、決して不動のものではないのだ。万が一にも夫である善治郎の口から、アウラへの不満や批判と捉えられるような言葉が発せられたら、それだけでアウラには十分なダメージとなりうる。
(考え過ぎかも知れないけど、用心に越したことはないか)
「いや、王宮までわざわざ足を伸ばすのも面倒くさいし、ここでダラダラ適当に過ごしてるわ。あ、でも、近いうちにこの国の常識とかマナーとか、恥を掻かない程度に覚えたいな。外に出る機会が全くないとも限らないし」
それは、善治郎からの「アウラの足を引っ張るような行動は可能な限り差し控える」という宣言であった。
善治郎の言わんとしていることを的確に読みとったアウラは、愛おしげに笑い返すと、
「そうか。それならば、何としてでも夕食までには職務をおえて見せよう。夜まで、一人で寂しいだろうが、我慢してくれ。常識やマナーについては、私が直接教えてやれればいいのだが、そこまで時間はないな……分かった。適当な人間を見繕っておく」
そう、軽く請けおった。
「悪いな、世話をかける」
「気にするな。不便を強いているのはこちらの方だ」
やがて、服を着終えたアウラと善治郎は、どちらともなく歩み寄る。
「それじゃあ、行ってくる」
「ああ、行ってらっしゃい」
これじゃホントに男女が逆だ。そう思いつつも善治郎は、アウラと軽く口づけをかわし、女王としての仕事に向かう妻を、笑顔で見送ったのだった。
◇◆◇◆◇◆◇◆
「さて、それでは今日は何をするか」
仕事に向かうアウラを見送った善治郎は、元の世界から持ち込んだTシャツとトランクスの上から、この世界の民族衣装らしき白いタックのない太めのズボンを履いた格好で、茶の間のソファーに身体を横たえ、寛いでいた。
昨日までは発電機の設置やら、結婚式の準備やらで、なんだかんだと忙しい日々をおくっていた。
本格的な「何もしないダラダラ生活」は、今日のこの時から始まる。
いずれは暇を持て余すようになるのかも知れないが、今のところはやりたいことが山ほどある。
サラリーマン時代に、取るだけ取って、全く見ることが出来なかったDVD。買うだけ買って、封も開けていないゲームソフト。
大学時代からひいきにしていたバンドや歌手の曲も、ネットのダウンロード販売で半ば惰性で買い続けていたが、聞くのは通勤時の電車の中だけ。
買うだけ買って、まだ一度も聞いていない曲も多数ある。
「やっぱり最初は、取り溜めたテレビ番組かな。あ、でも今見始めたら途中で朝食の時間になるか」
朝食の時間になれば、後宮に配属されている侍女が声を掛けてくれることになっている。
一応、善治郎はこの後宮の主であるため、その気になればその日の気分で食事の時間をずらすことも可能ではあるのだが、それはそう気安く言い出せることではない。
なにせ、この世界には電子レンジはおろか、ガスコンロや水道すらないのだ。食事の時間を早めると言うことは、その分下働きの人間が短い時間で水くみを終えなければならないということだし、食事の時間を遅くすということは、その時間に合わせてもう一度作り直させることを意味する。
現代日本のように、できあがった料理を取っておいて、レンジでチンするような簡単な物ではない。
「所詮は、入り婿の分際だからなあ。下働きの人達の不評を買うのは危険すぎるわ。ええと、持ち込んだ食料はどれくらい残ってるかな?」
何となく小腹が空いた気がする善治郎は、冷蔵庫を開けて中をのぞき込む。
冷蔵庫の中には、この世界の果物や酒と一緒に、善治郎が日本から持ち込んだ酒や食料品も入っている。
もっとも、善治郎が持ち込んだ食料品は、リュックに詰め込んでいた、チョコ、乾パン、ビスケットの類と、後は学生の頃から愛用している粒タイプのキシリトールガムくらいだ。
「チョコは、ちょっと勿体ないかなぁ。アウラに聞いた感じじゃ、カカオ自体知らないみたいだもんなあ。こっちで入手できる可能性はゼロに近い。幸い砂糖は豊富にあるみたいだけど、かなり雑な黒砂糖なんだよなあ」
恐らく、サトウキビかそれに相当する糖分の多い植物のエキスを絞って越しただけの代物なのだろう。この世界の砂糖は、日本の上白糖と比べると、独特の風味がある。
一応、持ち込んだパソコンには、ケーキやクッキー、プリンなどの作り方を写真入りで説明しているネットのホームページをオフライン閲覧できるようにしてあるのだが、この世界の砂糖や小麦粉で果たして、まともな物が出来るのか、少々疑問である。
そもそも、ハンドミキサーも電子レンジも善治郎はこっちに持ち込んでいないのだから、現代日本のような手軽さでお菓子作りは出来ないだろう。
善治郎としては、一ヶ月の準備期間で可能な限り、必要な物を揃えたつもりでいたのだが、いざこうして異世界生活をスタートさせてみると、「なぜ、俺はあれを持ってこなかったんだ!」と後悔する物が、多数出てきている。
その最たる物が、「窓ガラス」だ。
善治郎が木戸を開け放ち、外気が容赦なく吹き込む窓と、その下にひとまとめにしてあるエアコンとその取り付けセットに視線を向けて、うつろな声を上げた。
「完璧、盲点だったよなぁ。日本じゃ、建物の中は密閉された空間で当たり前だから、考えてもみなかったや……」
窓ガラスがないこの部屋に、もしエアコンを取り付けたとしても、善治郎が臨むような快適な室温は保たれないだろう。窓を全開にした状態では、エアコンの恩恵も半減などというものではない。
かといって、真昼間から木戸を閉め切って日光を遮り、LEDスタンドライトで生活するというのは、流石に少々不健康すぎる。
「まあ、どのみちエアコンは設置に失敗する可能性の方がずっと高い訳だから、最初から無かったものとして諦めるかな」
少なくとも、窓ガラスの変わりになるような、光を通して熱気を遮断する何かを入手するまでは、エアコンの設置に力を注ぐ気にはなれない。
「はあ」
溜息をついた善治郎は、当面の間、エアコンと窓ガラスの問題については考えるのは辞めることにする。幸い、扇風機の前に氷の塊を置けば、局地的には思った以上に涼が取れることが分かっている。
「まあ、いいや。不景気なことばっかり考えててもしょうがないし、不便なら不便なりに楽しむことを考えよ」
善治郎は、そう割り切ったことを言うと、DVDを大量に納めてある収納バッグを開けて、今日見る番組を模索し始める。
「ええと、あの番組はどこまで見てたっけ? ソーラーカーは、牛相撲やってる島まで行ってたよな? VS百人刑事鬼ごっこの第三回を見たのが最後か?」
善治郎は、食事を終えたらすぐにDVD鑑賞会に入れるよう、先に見るDVDの用意を済ませるのだった。