第一章5【緊張の一瞬、運命の日】
数日後、期日の近かった仕事を一通り終わらせた善治郎は、新人研修の時以来となる定時帰宅を果たした自宅のパソコンの前で、苦悩のうなり声を上げていた。
「グオオ……、三年、たった三年の為に百五十万か……」
善治郎をうならせているのは、ハイブリッド発電機、家庭用水力発電機それぞれの販売会社からの返答メールである。
善治郎が問い合わせた内容は、大ざっぱに言って「そちらで販売している発電機は、自分で設置できる物なのか?」、「そのメンテナンスは、自分で可能なのか?」、「可能だとすれば、自己メンテナンスで稼働保証期間はどの程度か?」という三つであった。
それに対する二社の返答はほぼ同じ物であり、「お客様ご自身の手で設置は可能であるが、不安があるようならば、設置も弊社に任せて欲しい」、「購入時の資料に目を通せば、表面的な自己メンテナンスは可能だが、保証は出来かねる。出来れば、修理もこちらに一任して欲しい」、「稼働保証期間は三年」という善治郎の希望を打ち砕く、無情なものであった。
「三年、たった三年か……」
善治郎は、うつろな目で呟く。
元からある程度覚悟はしていた。そもそも、万が一メンテナンスフリーで善治郎が死ぬまで稼働してくれる夢の発電機があったとしても、肝心の家電――エアコンや冷蔵庫自体にも寿命はあるのだ。
エアコンや冷蔵庫のメーカー保証期間は、おおよそ十年弱。
どのみち、それくらいの時間がたてば、文明の利器から切り離された異世界生活に突入することは決まっている。
だから、持ち込む電化製品は、異文明になじむまでのいわば『補助輪』のようなものと、善治郎は考えていた。
「十年あればあっちの気候にも多少は身体が慣れるだろうし、場合によってはアウラさんに無理を言って、昔のマハラジャの宮殿みたいな、壁から水が流れる部屋とかも作ってもらえるかも知れないしなー」
善治郎は、マウスから手を話すと、両手を天井に突き上げるようにして、伸びをした。
こちらも、ネットで調べた知識なのだが、かつてエアコンなどという上等な物がなかった時代、莫大な財力を有するインドのマハラジャの中には、壁一面から水が流し、床の溝を伝わって外に排水されるという、大がかりで原始的な仕組みによって、涼を取っていた者もいたという。
原理的には、昔の日本で行われていた『打ち水』などと一緒だ。水が蒸発する際に発生する吸熱現象を利用して、室温を下げるのである。
これならば、異世界の技術でも製造は可能そうであるが、いかんせん素人の善治郎が見ても、建築コストがバカみたいに掛かることは、予想できる。
向こうの国は、長い戦乱の世を勝ち抜いて、今まさに復興の真っ最中だとアウラは言っていた。
そんなときに、女王の伴侶と言う名の種馬ごときが、そこまで財力と労働力を浪費することを、アウラが許すだろうか?
少なくとも、三年後ではまず無理だ。だが、十年後ならば、順調に国力が回復していれば、ある程度の贅沢も許されるのではないか。そう考えていたのだが。
「三年じゃ無理だよなー、どう考えても。やっぱりネックはバッテリーかー」
善治郎は、パソコンに向かい会い、考える。
ハイブリッド発電機には、色々と精密が部品も使われているが、水力発電機に限れば問題は、ベアリング(プロペラ回転部分の軸受け)と、バッテリーに限られた。
考えて見れば当たり前のことであるが、どのような発電機でも、バッテリーは必ずと言って良いほど組み込まれているのである。
そのバッテリーの寿命が約三年。幸い、元々消耗品であるため、バッテリーの交換は説明書を見れば素人でも十分に可能な仕組みになっているのだが、だからといって「予備のバッテリーを大量に買っていけばOK」と言うことにはならない。
メーカーがばら売りをしてくれない、と言うことではない。元々水力発電機は、日本の法律上と都心部の河川には設置できないため、購入者の大半は、安易にメーカーに修理を頼めないような所に住んでいる者が多い。
そのため、不慮の事故などに対応するため、発電機の購入者が予備バッテリーも合わせて購入すること自体は、さほど不自然ではないのだが、問題は、予備は所詮予備だということだ。
確かに、使用していないバッテリーは、二十四時間三百六十五日使い続けているバッテリーと比べれば遙かに劣化していないが、それでも三年もたてば、素人の保管状態では劣化はする。
少々乱暴な例えだが、買いだめしておいた電池が、五年後、十年後、メーカーの保証通りの性能を発揮するか? と考えて見ると、少し理解しやすいのではないだろうか。
「けどまあ、予備のバッテリーを三つくらい持って行けば、ある程度は持つかなー? 何とか十年は持たせたいなー。ベアリングの方は十年保証だし、取り替えも難しそうだから要らないか? あ、でもどのみち十年後なら家電の大半は寿命なんだから、ダメ元で自己修理に賭ける価値はあるか」
最初の数年を楽しむためだけで終わったとしても、電力の持ち込みは諦めたくない。
学生の頃は、よくテレビやレンタルDVDを見ていた善治郎であったが、社会人になってからは取り溜めするばかりで、見る時間がなく、ハードディスクから落としたDVDばかりがドンドンと溜まっていった。
サッカーのアフリカワールドカップもテレビのニュースで結果を見ただけだし、ヨーロッパチャンピオンシップサッカーも、取るだけ取って一度も見ていない。
ネットで評判の良かったドラマのたぐいは、年に二、三本は録画していたし、善治郎が中学生の頃からずっと見続けていた、某アイドルグループがやっている日曜夜七時の一時間番組も、社会人になってからはまだ一度も見ていないのだ。
仕事もせず、衣食住が満たされ、ただダラダラ取り溜めたテレビ番組を見る時間。
恐ろしく、非生産的な時間の過ごし方であるが、仕事に疲れた今の善治郎には、その生活がこの上なく魅力的なものに思えてならない。
たとえ、頭の片隅で「そのうち、そういう生活に飽きてきて、身の置き所がなくなったりしないかなあ?」とう疑問がわいていても、今は抗えないくらいに魅力的だ。
「所詮持って行けるものは、絨毯一枚分しかないんだし、日本円は持っていてもしょうがないもんな。いっちょぱーっと使ってやるか!」
開き直った善治郎は、持って行く家電製品の情報を調べ始める。
「ええと、エアコンも頑張れば自分で設置できるよな。あれ? でも、室外機の配管はどこを通せばいんだ? あの宮殿の外壁、確かめっちゃ分厚い大理石作りだったよな? そもそも、あの滅茶苦茶広くて天井の高い部屋を普通のエアコンで、冷却できるのか? 二十畳用でたりる、か……?」
冷静になれば、異世界での家電生活には数多くの壁が立ちはだかっているようだ。
それでも、よりよい未来を一秒でも長く継続させるため、善治郎はさして性能の良くない頭をフル回転させるのだった。
◇◆◇◆◇◆◇◆
一ヶ月という準備期間は、アッという間に過ぎ去る。
この一ヶ月で出来る限りの準備を整えた善治郎は、床が抜けそうなくらいにぎっしりと物が詰まった六畳間の真ん中で、バクバクなる心臓を抑え、深呼吸を繰り返していた。
「そろそろか? いや、まだか……ちょっとして、あれは全部夢だったんじゃ? いやいや、そんなことねーだろ。現に絨毯も指輪もあるし。……けど、何らかの不測の事態が起きて、俺の再召喚がご破算になるってことはあるよな?」
右手に持つカッターナイフで、定期的に左の小指の傷をほじくり、絨毯に血を垂らし続ける善治郎は、この期に及んで最大級の不安にかられていた。
すでに、異世界に渡るための準備は整えてしまっている。
会社はどうにか後腐れなく辞めてきたし、ガス、電気、水道、電話、携帯電話など、ライフラインの契約も全て解除してある。アパートの管理人にも今月いっぱいでこの家を出ると伝えてある。
銀行や郵便局の口座はそのままにしてあるので、来月の十日には最後の給料が入金されることだろうが、善治郎がその糧の自分の手で掴むことはないだろう。ないはずだ。あっては困る。
ここまで準備を整えて、万が一にも召喚されなかったりすれば、善治郎は使い道のない家庭用水力発電機や、バカみたいに長い延長コードなどを手に、ひたすら路頭迷うはめになる。
「やばい、頭がクラクラしてきた。血、出し過ぎたか?」
目の前が暗くなってきた錯覚に襲われた善治郎がそう呟くが、そんなはずはない。先ほどから、流している血の量など、病院で年に一度受けている血液検査で抜かれる量の十分の一にも満たない。
そのめまいや視界が狭まる感覚は、全て精神的な物に起因している。
「忘れ物はないよな? 台車の上に発電機はあるし、延長コードもある。エアコン、冷蔵庫、パソコンにお土産の酒類。各種グラスや皿とか食器も持ったし、指輪はポケット中、と」
現在善治郎は、持っている中で一番値の張るスーツを着ている。仮にも、結婚を申し込みに行くのだ。たとえ、異文化、異世界の嫁の元とはいえ、こちらにもそれなりの格好がある。
最初は、披露宴で新郎が着るような白スーツを用意しようかとも思ったのだが、その馬鹿げた高値に即刻それは諦めた。あれは、庶民が一度しか着ない衣類に、かけてよい金額を大幅に踏み越えている。
「結局、アウラさんに買っていくものは、指輪以外には酒だけになっちゃったけど、大丈夫だよな? アウラさん、酒好きみたいだったし」
絨毯の片隅には、ブランデーやらウィスキーやら、はてには日本酒やワインのボトルが纏めて陳列されている。
日頃、酒と言えば発泡酒、極まれに一本千五百円程度のウィスキーを飲む程度の善治郎にとっては、一本一万円とか二万円とか値の付いた酒など、正気の沙汰には思えないのだが、仮にも女王の土産には、そのくらい張り込む必要があるだろう。
そう言えば、向こうで出された酒は、度数の薄い果実酒しかなかったことを思い出した善治郎は、急きょ家庭用の蒸留器を購入したのだが、果たしてこれで蒸留酒がちゃんと造れるのか、まだ試したことはない。
まあ、成功すれば設け物、ぐらいの気持ちである。
善治郎は、ふと冷静になって、肩に食い込んだリュックサックのヒモが、一張羅のスーツにシワを作っていることに気づく。
「うわっ、やばい。向こうで、スーツのしわ伸ばしなんて出来るのかな? だからといって、これを置く勇気はないからな。仕方ないと割り切るべきかー」
背中に背負っているリュックの中身は、着替え一式と予備の靴。契約を解除した携帯電話とソーラー充電器。他には、乾パン、チョコレート、水のペットボトル、ダース買いしたライターとツールナイフ、手回し式のLEDライトと熱材製の毛布など、俗に言う『非常用袋』の中身に近い物がぎっしりと詰まっている。
もし、万が一、召喚される場所が狂ったら。召喚される時間が狂ったら。絨毯の魔方陣が上手く働かず、身につけている物しか持ち込めなかったとしたら。そんな不測の事態を考えると、多少服にシワをつけても、リュックを絨毯に下ろす気にはなれない。
もちろん、ある意味一番大事な代物であるアウラに送るペアリングは、箱ごとしっかりスーツの内ポケットにしまってある。
善治郎は不意に、ポケットにしまった指輪を再度確認したい衝動にかられたが、生憎右手にはカッターナイフを持ったままだし、左手は小指の先からポタポタと血を流している最中だ。
一度カッターナイフを絨毯の下ろして、内ポケットを探ってみようか。善治郎がそう考えた、ちょうどその時だった。
「ぐっ……!?」
身に覚えのある軽い酩酊感が、絨毯の上にしゃがみ込んだ体勢の善治郎を襲う。
とっさにカッターナイフを投げ捨て、両手を絨毯の上に付いた善治郎が、右隅のほうから『ガチャン』という音を聞いた次の瞬間、頭上から一ヶ月ぶりに聞く、迫力のある女の声が降り注ぐ。
「ようこそ、婿殿。二度目の召喚もうまくいったようで何よりだ。今度こそ、真の意味で貴方にこう言うことが出来る。この世界、我が国にようこそ。歓迎しよう、我が生涯の伴侶殿」
「アウラさん……」
見事、絨毯丸ごと転移を果たした善治郎は、立ち上がることも忘れて、両手を広げて歓迎の意を示す女王を、惚けたように見上げるのだった。