門下秘伝・初級魔法教本
今日は、俺が王立アークレイン魔法学院に入学して初めての日だ。
俺の担当教師として割り当てられたのは、世界にその名を轟かせる魔法の天才――『ダンブルドア・ドアブルダン』教授だった。
この世界では、誰もが生まれながらにしてある程度の魔力を持っている。
だが、魔力を持っているからといって、誰もが魔法を使えるわけではない。
魔法を扱うための技術は、生まれつき備わっているものではないからだ。
ほとんどの人間は、後天的に体系立てて魔法を学び、努力を重ねることで、ようやくそれぞれの術を使えるようになる。
そして、この教授が「天才」と呼ばれている理由は、まさにそこにある。
彼は魔法を体系立てて学んだ経験など一度もない。それにもかかわらず、独学だけで魔法を極め、今や世界でも最強格とされる魔導士の一人にまで上り詰めたのだ。
それだけではない。
噂によれば、教授はすでに「世界の真理」すら悟ったのだという。
まさしく、生ける伝説と呼ぶにふさわしい人物だった。
そんな数々の功績と称号を持つ教授なのだから、直々に教えを受けたいと願う者が後を絶たないのも当然だろう。
しかし、教授は弟子選びに関しては非常に気難しい。
自らの目で見て、十分な素質があると認めた者しか弟子には取らず、時には何年もの間、一人も新しい弟子を迎えないことさえある。
その代わり、一度弟子として認められた者たちが大成する確率は、恐ろしいほど高い。
何しろ、現在「十大魔導士」と呼ばれている十人のうち、実に五人が教授の教え子なのだから。
そして今日、新入生の入学式で、誰が俺の指導を担当するのかを決めることになった時――。
普段は滅多に弟子を取らない教授が、珍しく自ら手を挙げた。
「その少年は、私が引き取ろう」
そして、よりにもよって俺を指名したのだ。
当然、その場にいた誰もが驚いていた。
それも無理はない。傍から見れば、俺にはこれといって特別な才能があるようには見えないからだ。
学業の成績だって特別優秀というわけではないし、適性試験で測定された魔力量も、ごく平均的な数値だった。
だからこそ、当の俺自身が誰よりも困惑していた。
なぜ教授が俺を選んだのか、さっぱり分からない。
そんな疑問を抱えたまま、俺はダンブルドア教授に連れられ、彼の研究室へと向かうことになった。
「さて……アレン・ブラウン……つまり、アレン君で合っているかな?」
「あっ、は、はい!」
「まあまあ、そんなに緊張しなくていい。私は普段、研究に籠もっていることが多くてね。なかなか手が離せないものだから、基本的には先輩たちに君の面倒を見てもらうことになる」
白髪に白い髭を蓄えた老賢者――俺の師匠はそう説明すると、目の前にいる先輩たちに俺を紹介した。
「こんにちは、アレン君。これからは僕たちがいろいろ面倒を見るから、よろしくね」
「そうそう! これからはお姉さんにどーんと任せなさい!」
二人は揃ってにこやかな笑顔で俺に挨拶すると、親しげに手を差し出し、握手を交わしてくれた。
もっとも、この二人については、教授に紹介してもらうまでもない。
どちらも俺ですら知っているほどの有名人だったからだ。
レオン・アルフォード。
今年学院を卒業したばかりにして、史上最年少で「十大魔導士」の一角に名を連ねた天才魔導士。現在はダンブルドア教授の助手として、この学院に残っている。
それだけではない。
実家は王家の傍系に連なる名門貴族で、おまけに本人も金髪の文句なしのイケメンだ。
もし「若くして将来を嘱望されるエリート」という言葉をそのまま人間にしたら、きっとレオン先輩みたいな人になるんだろう。
そして、もう一人。
フィオナ・クラリス。
学年首席にして生徒会長。そして、学院一の美女と名高い先輩だ。
彼女も貴族の血を引いており、実技試験では、去年レオン先輩が打ち立てた記録を塗り替えてしまったらしい。
燃えるような赤い長髪が印象的な彼女は、学院中の男子生徒たちの憧れの的だった。
「あ……ありがとうございます、先輩たち」
「どういたしまして、後輩君」
「そうそう、気にしなくていいのよ。それに、これからは同じ師匠のもとで学ぶ仲間なんだから。もう家族みたいなものよ」
「そうとも、そうとも。この二人なら、師匠である私に代わって君の面倒をしっかり見てくれるだろう」
「……あの、師匠。俺を弟子にしてもらえたのはすごく嬉しいんですけど……俺、先輩たちみたいに優秀じゃないし、自分にはあまり才能がないような気がして……」
俺は少し自信なさげにそう口にした。
「そうかそうか。まあ、心配することはない。ほら、これを君にあげよう」
そう言って、師匠は一冊の本を俺に差し出した。
「私の門下に入った弟子には、必ずこれを渡すことにしている。私が自ら書き上げた、非常に貴重な初級魔法の教本だ。どれほど素質が乏しくても、これさえきちんと学べば立派な魔導士になれる。何しろ、私が育てた弟子たちが皆それなりの成果を上げていることは、君も知っているだろう? もちろん、君も例外ではないよ」
おお、なるほど!
だから先輩たちは、揃いも揃ってあんなに凄いのか。
まさか、こんな秘伝の教本があったとは……!
「本当ですか!? ありがとうございます、師匠! 本当にありがとうございます! 師匠は俺の人生の恩人です!」
俺は目を輝かせながら、そのボロボロの教本を両手で受け取った。
そして、感謝のあまり師匠に向かって何度も深々と頭を下げる。
ありがたや、ありがたや。
これで俺みたいな何の取り柄もない凡人でも、ついに人生を変えられるんだ!
一流の魔導士へと成り上がるのだって、もう夢じゃない!
「ははは、もういいから顔を上げなさい。ただし、一つだけよく覚えておくんだよ。その教本を読んでいいのは明日になってからだ。今日は絶対に読んではいけない。今日はゆっくり休みなさい」
師匠は何度も念を押すように、そう俺へ言い聞かせた。
そしてその後、転移魔法を使ってその場から姿を消し、研究室には俺と二人の先輩だけが残された。
「そうだね。アレン君も今日はあまり難しいことを考えず、ゆっくり休むといい。ぐっすり眠って、明日からまたしっかり鍛錬していこう」
そう言うと、二人は荷物を持った俺を、弟子専用の寮へと案内してくれた。
……ただ、気のせいだろうか。
寮へ向かう途中、二人の視線が何度も俺の手元――大事に抱えているあの教本へ向けられているような気がした。
◇◇◇
――その日の深夜。
「……んぅ……」
何か、聞こえたような気がした。
カチャ……。
扉が開くような、小さな音。
眠い。
ものすごく眠い。
せっかく気持ちよく寝ていたのに、一体何なんだ……。
重たい瞼をほんの少しだけ開ける。
けれど、まだ半分以上眠っているせいか、視界はぼんやりとしていてよく見えない。
「……誰……?」
薄暗い部屋の中に、誰かがいるような気がした。
黒っぽい格好をした人影が、ちょうど俺のベッドのそばから離れていくところだった。
……なんだ?
夢でも見てるのか、俺……。
そう思っているうちに、その人影は足早に扉のほうへ向かっていく。
そして、部屋から出ていこうとした、その瞬間。
窓から差し込んだ月明かりが、相手の後ろ姿をほんの一瞬だけ照らした。
暗闇の中で揺れる――鮮やかな赤い長髪。
「……赤……?」
なんだか、今日どこかで見たような髪だな……。
「……フィオナ先輩……みたいな……」
いやいや。
いくらなんでも、そんなわけないか。
学院一の美女で、生徒会長で、おまけに貴族令嬢でもあるフィオナ先輩が、夜中に黒ずくめの格好で俺の部屋に忍び込んでくる?
……ないない。
そんな意味不明なこと、あるわけがない。
きっと夢だ。
そう結論づけた俺は、眠気に逆らうこともなく、そのまま再び目を閉じた。
…………。
…………。
……まあ、いいか。
明日になったら、師匠からもらったあの教本をじっくり読もう。
あれさえあれば、俺だってきっと――。
そんなことを考えながら、俺の意識は再び眠りの底へと沈んでいった。
◇◇◇
――翌朝。
「ない!」
机の上を見る。
「ない!」
ベッドの下を覗く。
「ない!」
鞄をひっくり返す。
「ないないないない! 俺の教本がないぃぃぃぃっ!」
朝っぱらから、俺は半泣きになりながら部屋中を探し回っていた。
おかしい。
昨日、確かにベッドのそばに置いたはずだ。
何しろあれは、伝説の大魔導士である師匠が自ら書き上げた秘伝の教本。
平凡な俺の人生を変えてくれるかもしれない、超がつくほどの貴重品なのだ。
そんなものを適当な場所に放り投げるわけがない。
「一体どこに……って、あれ?」
その時だった。
昨夜の記憶が、突然頭の中に蘇った。
黒っぽい人影。
部屋から逃げていく後ろ姿。
そして――赤い長髪。
「む……」
赤い長髪。
俺の知っている人間で、あんなに目立つ赤い長髪をしている人物。
「フィオナ先輩じゃねぇか!」
いや待て。
落ち着け、俺。
まだ証拠はない。
赤髪の人間なんて、探せば他にもいるはずだ。
たぶん。
きっと。
……いるよな?
◇◇◇
とはいえ、昨夜の記憶自体がかなり曖昧だ。
フィオナ先輩がそんなことをする理由も思い当たらないし、そもそも俺の見間違いだった可能性だって十分にある。
だから俺も、最初は本当に「念のため聞いてみるか」くらいのつもりだった。
そして、学院内でフィオナ先輩を見つけると、さっそく声をかけてみた。
「フィオナ先輩、ちょっと聞きたいことが――」
「わ、私は何も知らないわよ!?」
「…………」
「…………」
「俺、まだ何も聞いてませんけど」
「…………」
「…………」
「きょ、今日はいい天気ねぇ!」
フィオナ先輩は俺から露骨に顔を逸らした。
「先輩、今日めちゃくちゃ曇ってますよ」
「そ、そうだったかしら! あははは……」
「…………」
「…………」
「昨日、俺の教本がなくなったんです」
「~~♪」
「なんで急に口笛吹いてるんですか?」
「べ、別に? なんとなく吹きたくなっただけよ?」
「じゃあ、なんでさっきから目を合わせてくれないんです?」
「~~~~♪」
さらに口笛が大きくなった。
いや、もう絶対この人だろ。
◇◇◇
「レオン先輩! 聞いてください! 俺の教本を盗んだ犯人を捕まえました!」
「人聞きの悪いこと言わないでよ!」
俺はフィオナ先輩を引っ張ったまま、レオン先輩にこれまでの事情を説明した。
「なるほど……」
話を聞き終えたレオン先輩は、少し考え込んだ後、フィオナ先輩を見る。
「フィオナ」
「は、はい!」
「君、アレン君の教本を盗んだのか?」
「盗んでません!」
「彼女曰く、盗んでいないそうだ。」
「信じるの早すぎません!?」
「いや、だって……」
レオン先輩は困ったように眉を下げた。
「フィオナが今さら初級魔法の教本なんて盗んでどうするんだ?」
「…………確かに。」
「でも怪しいんですよ! めちゃくちゃ怪しいんです!」
「~~♪」
「今も口笛吹いてますし!」
「アレン君」
「はい」
「証拠もないのに人を疑って、泥棒扱いするのはよくないよ」
「…………はい」
「ちゃんと反省するように」
「……すみませんでした」
「~~♪」
「…………」
納得いかねぇ……
……もしかして、俺が悪かったのか?
半分寝ぼけていた時の記憶だけで、フィオナ先輩を疑ってしまった。
確かにレオン先輩の言う通り、証拠もないのに泥棒扱いするのは――。
「………」
ん?
俺と目が合ったフィオナ先輩が、こっそり腰元へ手を伸ばした。
そして――。
スッ。
「…………!?」
見覚えのある、ボロボロの一冊。
間違いない。
俺の教本だ。
「ひひひ……」
フィオナ先輩はそれを俺にだけ見えるようにちらつかせると、ニヤリと意地悪そうに笑った。
そして次の瞬間には――。
サッ。
何事もなかったかのように、再び腰元へ隠した。
「…………」
俺は目を擦った。
もう一度フィオナ先輩を見る。
「~~♪」
口笛を吹きながら、知らん顔をしていた。
こいつぅぅぅぅぅぅっ!!
やっぱり犯人じゃねぇか!!
◇◇◇
それから数日。
「返してぇぇぇぇ! 俺の教本返してよぉぉぉぉ!」
俺は床をゴロゴロ転げ回りながら、来る日も来る日もフィオナ先輩の悪行を訴え続けた。
だが、正義が勝つことはなかった。
むしろ――。
「アレン君。三十日間、反省房」
「なんで俺がぁぁぁぁぁ!?」
ついにレオン先輩から直々に処分を言い渡され、俺は研究室の地下へ強制連行された。
そして、重たい扉の向こうにあったのは――。
ベッド。
便器。
机。
椅子。
そして鉄格子。
「…………」
いや。
これ反省房じゃないだろ。
どう見ても独房じゃねぇか。
というか、なんで師匠の研究室の地下に独房があるんだよ!?
◇◇◇
しばらくすると、レオン先輩とフィオナ先輩が様子を見にやってきた。
二人は牢の外に立ち、鉄格子越しに俺へ話しかけてきた。
その時、フィオナ先輩の表情が変わった。
「…………ふふっ」
小さな笑い声。
そして、ゆっくりと吊り上がっていく口元。
そこにいたのは、いつも明るく笑っていたフィオナ先輩ではなかった。
まるで今まで被っていた仮面を脱ぎ捨てたかのような、冷たい笑み。
「な、なんですか……?」
俺の問いには答えず、フィオナ先輩は悠然と腰元へ手を伸ばす。
そして今度は隠そうともせず、一冊の本を俺の目の前へと差し出した。
「――それ……!」
見間違えるはずがない。
俺がずっと探し続けていたあの『初級魔法教本』だった。
「レオン先輩! 見てください! あれ、俺の教本ですよ!」
俺は鉄格子にしがみつきながら、すぐ隣のレオン先輩へ助けを求めた。
今度こそ証拠は目の前にある。
これなら、レオン先輩だって――。
「…………」
だが。
レオン先輩はフィオナ先輩の手にある教本を一瞥しただけだった。
その目は、不自然なほど冷たかった。
「……僕には何も見えないよ」
「…………は?」
何を言っているんだ?
そこにある。
誰がどう見たって、そこにあるじゃないか。
なのにレオン先輩は、まるで本当に何も存在していないかのように俺を見つめている。
その隣では、フィオナ先輩が冷たい笑みを浮かべたまま、俺の教本を見せつけていた。
「…………まさか」
その瞬間、ようやくすべてが繋がった。
俺は、とんでもない勘違いをしていたのだ。
フィオナ先輩だけじゃない。
レオン先輩も――。
こいつら、最初から二人してグルだったのか……!
「それじゃあ――ここで死なないことを祈っているよ、後輩君」
「Bye Bye。せいぜい三十日間、生き延びてみてね。……まあ、無理だと思うけど」
そう言い残した二人の口元に、不気味な笑みが浮かぶ。
そして次の瞬間――。
「ふふふふふ……」
「ははははは……!」
地下牢に甲高い笑い声を響かせながら、二人はゆっくりと俺の前から立ち去っていった。
やがて足音さえ聞こえなくなる。
残されたのは、冷たい石壁に囲まれた地下牢と――俺一人。
ようやく理解した。
俺は、裏切られたのだ。
師匠から授けられた秘伝の教本を奪われ、その秘密を知った俺まで消されようとしている。
ここなら、誰にも気づかれない。
俺が助けを求めても、その声が地上まで届くことはないだろう。
そして俺が死ねば、研究に籠もっている師匠には適当な理由をでっち上げればいい。
そうして俺は、最初から存在しなかったことにされる。
誰にも知られず。
何一つ成し遂げることもなく。
この暗い地下牢で――ひっそりと死んでいくのだ。
◇◇◇
一日目。
俺は鉄格子にしがみつき、声が枯れるほど大声で助けを求め続けた。当然のことながら、誰からも返事はない。
二日目。
叫びすぎて声もすっかり枯れてしまった俺は、これ以上無駄に体力を消耗しないため、助けを求めて叫ぶのをやめた。
五日目。
もう体力はほとんど残っていない。
喉が渇いて仕方がない。
身体もまともに動かせなくなってきた。
……俺は、このまま誰にも知られずここで死ぬんだろうか。
……水さえあればなぁ。
七日目。
脱水で死にかけていた俺は、ただひたすら水を求めていた。
水が欲しい。
水さえあれば――。
そう全身全霊で水を渇望した瞬間、身体の魔力が自然と動き出した。
「……え?」
次の瞬間、俺の手の中に水が生まれていた。
どうやら俺は、無意識のうちに初級の水魔法を発動していたらしい。
こうして俺は、自ら生み出した水によって、どうにか喉の渇きを潤すことができた。
十日目。
水を手に入れたことで、俺はどうにか生き延びることができた。
俺は爪を使って石壁に印を刻み、閉じ込められてから何日経ったのかを数え始めた。
石壁は硬く、爪を立てるたびに指先が痛んだ。
やがて爪が傷つき、血まで流れ始める。
それでも俺はやめなかった。
自分の中にある憎しみを、決して忘れないために。
俺は必ずここから出る。
そして――。
あいつら、全員ぶっ殺してやる。
十五日目。
飢えのせいで、以前よりも感覚が鋭くなってきた。
それが原因なのかは分からないが、魔力量まで増えているように感じる。
しかも最近では、体内の魔力をかなり自由に操れるようになってきた。
十七日目。
魔力が身体中に満ちているのを感じる。
そのせいなのかどうかは分からない。
ただ、不思議なことに――もう腹は減らなくなっていた。
二十日目。
ここに閉じ込められてからの日数が増えるにつれ、石壁に刻まれた傷も一本、また一本と増えていった。
そして、それに呼応するかのように――俺の中に渦巻く憎しみも、日に日に膨れ上がっていった。
二十五日目。
試しに、適当にいくつかの魔法の名前を唱えながら魔力を込めてみた。
すると驚いたことに、どの魔法も問題なく発動した。
それどころか、どの属性の魔法も上級以上の威力に達していた。
二十八日目。
「よし……」
あと二日。
三十日目になれば、あの卑怯者どもも、俺が死んだかどうか確かめにここへやってくるはずだ。
その時こそ――。
「まずはこうして……それからこうして……最後にこうだ……」
完璧だ。
これであいつらを一人残らずぶっ殺せる。
三十日間積み重ねてきた、この恨み。
一気に晴らしてやる……!
「くくくく……」
「あはははははははははは!!」
「わーっはっはっはっはっはっはっ!!」
待ってろよ、先輩ども。
あと二日だ……!
三十日目。
石壁に刻まれた三十本目の傷を、俺は静かに見つめていた。
――ついに、この日が来た。
今日こそ、すべての恨みを晴らす。
あいつらが俺の死を確認しに地下牢へ降りてきた、その瞬間が勝負だ。
俺は全身を巡る膨大な魔力を両腕へと集中させる。
左手に生まれたのは、灼熱の火球。
右手に纏うのは、青白く迸る雷撃。
バチバチと弾ける雷光と、轟々と燃え盛る炎。
三十日前の俺なら、想像すらできなかった力だ。
来い。
フィオナ先輩。
レオン先輩。
この三十日間の恨み――。
まとめて返してやる。
◇◇◇
カツン、カツン――。
静まり返った地下牢に、階段を下りてくる二人分の足音が響き始めた。
来た。
間違いない。
あいつらだ。
やがて姿を現したのは、やはりレオン先輩とフィオナ先輩だった。
二人は鉄格子の向こうに並ぶと、まるで何事もなかったかのような気楽な様子で俺に声をかけてきた。
「やあ、アレン君。元気にしてたかい?」
「おはよう、アレン君♪ ちゃんと生きてた?」
「…………」
こいつら……!
なんでそんな平然とした顔で俺に話しかけられるんだ!?
三十日だぞ。
俺は三十日間、ずっとこの瞬間を待っていたんだ。
この恨み、今ここで全部返してやる!
俺は左手の炎をさらに燃え上がらせ、右手に雷を集中させる。
あとは、この二人に叩き込むだけ――。
「はい、これ返すね」
ぽいっ。
「……え?」
フィオナ先輩が鉄格子の隙間から何気なく放り投げてきたものを、俺は反射的に両手で受け止めた。
手元に目を落とす。
ボロボロになった表紙。
この三十日間、一日たりとも忘れたことのない一冊。
見間違えるはずがない。
俺の『初級魔法教本』だった。
「これ……俺の教本?」
一瞬、頭が状況についていかなかった。
さっきまで燃え上がっていた復讐心すら、思わずどこかへ吹き飛びそうになる。
なんで?
なんで今さら、これを俺に返すんだ?
――って。
「違う! 今さらこんなの返されてどうしろっていうんだよ!?」
思わず教本を握りしめながら叫んだ。
「こっちはもう上級魔法まで普通に使えるようになってるんだぞ! 今さら『初級魔法教本』なんか要るかぁぁぁっ!!」
そんな俺を見て、レオン先輩とフィオナ先輩は顔を見合わせ、困ったように苦笑した。
その後、俺は二人に連れられてようやく地下牢を出ることになった。
そして研究室へ戻ると、二人は何事もなかったかのようにお茶を淹れ始め、その理由を俺に説明してくれた。
◇◇◇
レオン先輩は、最初に会った時の穏やかで優しい雰囲気に戻ると、俺に説明を始めた。
「実は、この世界で魔法が成功するかどうかを決めるのは『想像』なんだ」
「想像?」
「そう。だけど普通の人たちは、教本に書かれた知識をもとに、体系的に魔法を学んでいる。だからこそ、誰もが同じような『魔法とはこういうものだ』という想像を持つようになってしまった」
確かに、体系化された学習方法を使えば、多くの人が安定して魔法を発動できる。
だが、その一方で――。
「皆が『体系』と呼んでいるその共通認識が、逆に人々の想像力を一つの枠の中へ閉じ込めてしまっているんだ」
「本来ならもっと自由であるはずの魔法も、皆が同じ理論を当然だと思い込むことで、その威力まで無意識のうちに制限されてしまう。そういうことだよ」
「そして、その『共同想像』が生み出した枷を突破し、魔法の力を高めるために必要なのが『決意』なんだ」
「決意ですか?」
「そう。例えば、生き延びたいという決意。自分の正しさを証明したいという決意。復讐を果たしたいという決意。そして、悪事を働いた僕たち先輩を殺してやりたいという決意」
レオン先輩は、穏やかな笑顔でそう言った。
「師匠は新しい弟子を取るたびに、僕たち先輩に悪役を演じさせるんだ」
レオン先輩は、まるで大したことでもないようにさらりと言った。
「わざと後輩の教本を取り上げて、理不尽な目に遭わせる。そうやって怒りや悔しさを煽って、何としてでも見返してやりたいっていう闘志を引き出すんだよ」
「だからあの時、フィオナ先輩が教本を持ってるのを見ても、何も見えないなんて言ったんですか!?」
「うん。あれも必要な演出だったからね」
必要な演出で済ませていいのか、あれ。
「それから、逃げ場のない抑圧された環境に置いて、肉体も精神も限界寸前まで追い込む。生きたい、負けたくない、絶対にここから出てやる――そういう強烈な『決意』を引き出すためにね」
そこでフィオナ先輩も、楽しそうに話へ加わった。
「そうそう。私の時も同じだったわよ。教本を取られて、地下に放り込まれてさ。あの時は私も、本気で先輩を殺してやろうと思ったもん」
「えっ」
「殺す方法まで毎日考えてたわ」
にこやかな笑顔で、とんでもないことを言う。
するとレオン先輩も懐かしそうに笑い、フィオナ先輩と顔を見合わせた。
この人たちも、俺とまったく同じ道を通ってきたらしい。
なんだ、この狂った伝統。
「じゃあ……この教本は?」
俺は手元に戻ってきた、ボロボロの『初級魔法教本』へ目を落とした。
これだけの騒動の原因になったものだ。
何か特別な秘密くらい、本当にあるんじゃないのか?
「ああ、それ?」
レオン先輩はあっさりと答えた。
「それも代々受け継がれてきたものではあるよ。見ての通り、もうボロボロだけどね」
「やっぱり秘伝の――」
「でも、それを使って魔法を学んだ弟子は一人もいないよ」
「は?」
今、なんて?
「一人も?」
「うん。一人も」
フィオナ先輩が笑いながら教本を指差した。
「気になるなら開いてみなさいよ」
言われるがまま、俺は期待と疑念を抱きながら表紙をめくった。
最初のページ。
『卵、牛乳、小麦粉、玉ねぎ、紅茶――』
「買い物リストじゃねぇか!!」
慌てて次のページをめくる。
今度は意味不明な魔物らしき落書き。
その次は途中で放り出された計算式。
さらにその次には、『昼寝中。起こすな』とだけ書かれていた。
「魔法どこだよ!?」
「だから言ったでしょ? 師匠の買い物リストとか落書きとか、どうでもいいものばっかりよ」
三十日間。
俺はこんなもののために、あれほど必死になっていたのか。
「あっ、でも最後のほうはちゃんと歴代の弟子たちが書き足してるわよ」
「本当ですか!?」
ようやくそれらしい話が出てきた。
俺は急いで最後の数ページを開く。
『クソ師匠。いつか絶対ぶっ飛ばす』
『この恨み、一生忘れない』
『地獄に落ちろ』
『次の弟子へ。騙されるな。あのジジイは悪魔だ』
「呪詛しか書いてねぇじゃねぇか!!」
「それも伝統よ」
「そんな伝統いらねぇよ!」
フィオナ先輩とレオン先輩は、とうとう堪えきれなくなったように笑い出した。
「まあまあ、そんなに怒らないで」
フィオナ先輩が俺の肩をぽんぽんと叩く。
「来年、新しい後輩が入ってきたら、今度はアレン君が面倒を見てあげてね」
「はい?」
「教本を取り上げて、悪役をやって、ちゃんと『決意』を引き出してあげるの」
「俺もやるの!?」
「もちろん。代々受け継がれてきた伝統だもの」
俺は手の中のボロボロの教本を見下ろした。
買い物リスト。
落書き。
歴代の弟子たちによる師匠への呪詛。
◇◇◇
「そういえば、まだ一つ納得できないことがあるんですけど」
「何かな?」
「師匠は、どうして俺を弟子に選んだんです?」
あの日のことは、今でも鮮明に覚えている。
新入生の中から担当する弟子を決める時、師匠は珍しく自分から手を挙げて俺を指名した。
学業成績は平凡。
魔力量も平均。
そんな俺を、世界最強クラスの大魔導士がわざわざ選んだのだ。
きっと師匠だけには見えていたのだと思っていた。
俺の中に眠る、まだ誰にも気づかれていない特別な才能が――。
「いじめたら面白そうだったからだって」
「は?」
レオン先輩の一言で、俺の美しい想像は粉々に砕け散った。
「師匠がそう言ってたよ。『あの子、なんかからかったら面白そうじゃない?』って」
「それだけ!?」
「それだけ」
「俺の隠された才能とかは!?」
「特に何も言ってなかったなあ」
「そんなぁぁぁぁっ!!」
「仕方ないわよ。師匠って、ああ見えてかなり性格悪いもの」
フィオナ先輩が呆れたように肩をすくめる。
「レオン先輩を含めて、歴代の先輩たちが何人も十大魔導士にまでなったのだって、半分くらいはあのクソジジイをいつかぶっ殺すために死ぬほど修行した結果なんだから」
「世界最高峰の魔導士を生み出す原動力が師匠への殺意なの!?」
「でも困ったことに、あの人めちゃくちゃ強いのよね」
「そうなんだよ。僕もまだ殺せる気がしない」
「レオン先輩まで本気だったの!?」
なんなんだ、この師門。
外から見れば、現役十大魔導士の半数を輩出した伝説の大魔導士と、その優秀な弟子たち。
だが蓋を開けてみれば、その実態は――師匠を殺すために弟子たちが必死で強くなり続ける、怨念まみれの集団だった。
「というわけで、アレン君」
フィオナ先輩が笑顔で教本を差し出した。
「最後に師匠への悪口と罵詈雑言、それから呪いの言葉を書いてね」
「なんで!?」
「それを書いたら、正式に私たちの仲間入り」
「そんな入門儀式聞いたことないんですけど!」
「大丈夫。みんな書いてるから」
俺は教本の最後のページを開いた。
歴代の先輩たちが残した、目を覆いたくなるような罵詈雑言の数々。
その一番下には、俺のためと言わんばかりに空白が残されていた。
俺はペンを握る。
「……何文字まで書いていいんです?」
「好きなだけ」
「じゃあ、遠慮なく」
三十日分だ。
書きたいことなら、山ほどある。
◇◇◇
――あれから、二年が経った。
俺の実力はこの二年間で飛躍的に伸び、今では十大魔導士の候補の一人にまで数えられている。
学院でも将来を期待される超新星として、何かと注目を集めるようになった。
だが――。
あの新入生初日に味わった恨みと屈辱を、俺は一日たりとも忘れたことはない。
いつか必ず、あのクソジジイをぶっ殺す。
その決意だけは、二年経った今も変わっていなかった。
まあ、それはさておき。
今年も新入生の季節がやってきた。
レオン先輩とフィオナ先輩から聞いた話では、どうやらあのクソジジイが今年も新しい弟子を一人連れてきたらしい。
今度は、可愛らしい女の子の後輩だそうだ。
「さて、と」
俺は椅子から立ち上がり、大きく伸びをした。
思い返せば二年前。
俺もこうして何も知らないまま、あのボロボロの『初級魔法教本』を渡されたんだったな。
そして、その日の夜――。
フィオナ先輩にまんまと盗まれた。
あれから二年。
とうとう俺にも、この役目が回ってきたらしい。
さて――。
今年は俺が、教本を盗みに行く番だ。
(Fin)




