第155話 皇帝の問い
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――帝国暦三二一年・秋初め ヴェリア帝国・帝都アウレシア 皇城《アルケイオン宮》――
帝都の朝は、静かだった。
少なくとも、皇城の奥は。
外の喧騒は、厚い壁に遮られている。
磨かれた床。
高い天井。
重い扉。
そのすべてが、ここが帝国の中枢であることを示していた。
アシュレイ・ヴェル=ヴェリアは、皇帝の執務室へ入った。
「失礼いたします」
短く頭を下げる。
机の向こうで、皇帝が書類から顔を上げた。
静かな目だった。
だが、その奥には、帝国全土を見る者の重さがあった。
「騎士団領の件か」
「はい」
アシュレイは資料を差し出す。
「東ロンバルディア騎士団領について、現時点で判明している範囲をまとめました」
皇帝は資料を受け取る。
すぐには開かない。
「話せ」
「はい」
■ヴェリア帝国・帝都アウレシア 皇城《アルケイオン宮》・皇帝執務室
「ヴァルド・エイゼン総長は、この秋をもって退任する見込みです」
アシュレイは淡々と告げる。
「後任は、第三騎士団団長グラナート・グランフェルトが有力です」
「グランフェルトか」
「はい」
「妥当だな」
皇帝は短く言う。
そこに驚きはなかった。
グラナート・グランフェルト。
厳格な実力主義者。
成果で人を見る男。
騎士団領の次を任せるなら、候補に上がらない方がおかしい。
「ただし」
アシュレイは続ける。
「騎士団領では、総長交代と並行して、新体制の準備が進んでいるようです」
「新体制?」
「また、今後さらに騎士団を増設する構想もあるようです」
皇帝の目が、わずかに細くなる。
「まだ増やすつもりか」
「そのようです」
「理由は」
「正式には不明です。ただ、南方情勢への備えと見るのが自然かと」
皇帝は黙る。
南方。
サルヴァディア王国。
兵の集結。
交易制限。
情報の遮断。
帝都にも、断片的な報告は届いていた。
「続けろ」
「はい」
アシュレイは資料をめくる。
「中央区画に、大規模な建設が進んでいます」
簡略化された配置図が示される。
総庁。
第七騎士団本庁。
各騎士団庁舎。
そして。
中央区画に建設中の巨大施設。
皇帝は目を細めた。
「用途は?」
「正式には明かされておりません」
「ただ、規模から見て、単独騎士団の庁舎ではありません」
「総庁の拡張か」
「その可能性もあります。ですが、配置がやや違います」
「では」
「新体制の中枢となる施設かと」
アシュレイは言葉を選んだ。
確証はない。
ヴァルド・エイゼンは、必要になるまで詳しいことを語らない男だ。
だから、帝都側でも掴めているのは輪郭だけだった。
「第十二騎士団の庁舎建設が、一時停止しているとの情報もあります」
「止まっている?」
「資材と人員が、中央区画へ回されている可能性があります」
皇帝は少し黙った。
「つまり、騎士団領は何かを隠しているのか」
「隠しているというより」
アシュレイは静かに答える。
「まだ形にしている途中かと」
「ヴァルド・エイゼンなら、完成するまで余計なことは言わないでしょう」
「老狐め」
皇帝が低く呟く。
不快そうだった。
だが、同時に。
少しだけ理解している声でもあった。
■ヴェリア帝国・帝都アウレシア 皇城《アルケイオン宮》・皇帝執務室
「中心は誰だ」
皇帝が問う。
「実務上は、レオンハルト・ヴァイスの影響が強まっています」
「若い騎士団長だったな」
「はい」
「第七だけではなく、第十、第十二も見ていると聞いた」
「そのとおりです」
アシュレイは頷く。
「現在、複数騎士団の運用、基準統一、人員調整、補給申請の整理などに関与しています」
「一人に集めすぎではないか」
「その懸念はあります」
否定はしない。
できない。
だが。
「ただ、結果は出ています」
「ほう」
「基準統一後、騎士団間の連携速度は改善。補給誤差、報告経路の混乱、人員応援時の不整合も減少傾向です」
「数字が出ているのか」
「はい」
皇帝は資料を読む。
その顔に、感情は出ない。
だが、関心はあるようだった。
「その若造が、それほどか」
「少なくとも」
アシュレイは静かに答える。
「騎士団領は、彼を中心に動き始めています」
皇帝は資料を閉じた。
しばらく沈黙が落ちる。
騎士団領。
帝国の中でも、特殊な軍事領域。
貴族の論理より、実力と現場が強い場所。
その場所が、新たな形へ変わろうとしている。
しかも、南方は不穏。
サルヴァディア王国の動きも読めない。
帝都として、放置できる話ではなかった。
「詳細は」
「まだ不明です」
「探らせろ」
「すでに」
アシュレイは短く答える。
皇帝は、それ以上言わなかった。
そして。
次の問いは、少しだけ低かった。
「それで」
「イリスは」
■ヴェリア帝国・帝都アウレシア 皇城《アルケイオン宮》・皇帝執務室
空気が変わった。
騎士団領の報告。
新総長。
中央区画の建設。
レオンハルト・ヴァイス。
そのどれよりも。
皇帝にとっては、こちらが本題だったのかもしれない。
アシュレイは少しだけ目を伏せた。
「現在、自室にて反省を命じられています」
「当然だ」
皇帝の声は冷たい。
「皇女が、騎士団領で任官したいなどと」
「客人としての立場を捨てるなどと」
静かだが、怒っていた。
「子どもの願いではないのです」
アシュレイが言う。
皇帝の視線が向く。
「恐れながら」
「イリスは、騎士団領に一年近く滞在しました」
「見てきたものがあります」
「人も、仕組みも、欠点も」
「そして、おそらく」
「自分の居場所も」
皇帝は黙った。
表情は変わらない。
だが、部屋の空気は重くなる。
「それが危ういと言っている」
皇帝は低く言う。
「皇女が、一軍事領域に深く入りすぎる」
「しかも、特定の騎士団長に近い」
「帝都の者がどう見るか」
「貴族たちがどう騒ぐか」
「騎士団領がどう利用されるか」
「分からぬほど、あれは愚かではあるまい」
「分かっているはずです」
「ならば、なぜ言い出した」
アシュレイは少しだけ沈黙した。
そして、答える。
「分かっていても、そうしたいと思ったのでしょう」
「それが問題だ」
皇帝の声が重くなる。
「皇族は、望むだけでは動けん」
正論だった。
帝国の中枢にいる者として。
あまりに正しい。
けれど、アシュレイは、それでも続けた。
「騎士団領側から、正式な書状が届いています」
皇帝の目が、わずかに細くなる。
「誰の名でだ」
「ヴァルド・エイゼン総長です」
その名が出た瞬間。
皇帝は少し黙った。
「老狐め」
二度目だった。
今回は、さらに苦々しかった。
■ヴェリア帝国・帝都アウレシア 皇城《アルケイオン宮》・皇帝執務室
アシュレイは書状を差し出す。
皇帝は受け取る。
封は開かれている。
すでに皇太子が確認したものだ。
内容は簡潔だった。
だが、弱くはない。
皇女イリスの騎士団領任官について、騎士団領側は受け入れ可能であること。
騎士団領は新体制移行中であり、帝都との連絡調整役を必要としていること。
皇女イリスは、すでに騎士団領の実情を一定以上理解していること。
客人として扱い続けるより、正式な役職と責任を与える方が、安全管理上も望ましいこと。
そして。
統括統合管理官周辺の連絡補佐として、適性があること。
皇帝は最後まで読む。
読み終えても、すぐには何も言わなかった。
「よく書いている」
低い声だった。
「はい」
「言いたいことだけ言い、余計な火種は避けている」
「ヴァルド総長の書状です」
「本人が書いたかは怪しい」
鋭かった。
アシュレイは少しだけ目を伏せる。
「いずれにせよ、総長印は本物です」
「そこが厄介だ」
皇帝は書状を机に置く。
「騎士団領は、イリスを受け入れると言っている」
「はい」
「ただの滞在ではなく、役職を与えるつもりだと」
「そのようです」
「レオンハルト・ヴァイスの周辺か」
「文面上は、統括統合管理官周辺の連絡補佐です」
「ぼかしているな」
「はい」
皇帝は椅子にもたれる。
「イリスは」
低い声。
「その男のために動いているのか?」
アシュレイは、すぐには答えなかった。
そして。
「それだけではないと思います」
静かに言う。
「もちろん、レオンハルト・ヴァイスの影響は大きいでしょう」
「ですが、イリスは騎士団領そのものを見ています」
「客人として眺めるのではなく」
「責任を持つ側へ入りたいのだと思います」
皇帝は黙る。
長い沈黙だった。
■ヴェリア帝国・帝都アウレシア 皇城《アルケイオン宮》・皇帝執務室
「帝国は反対する」
皇帝が言う。
「はい」
「貴族も騒ぐ」
「はい」
「皇女を軍事領域に置くなど、前例としても面倒だ」
「承知しています」
「南方も不穏だ」
「はい」
「その中で、イリスを騎士団領へ戻す理由があるのか」
アシュレイは、まっすぐ皇帝を見る。
「あります」
短く答えた。
「騎士団領は変わります」
「帝都との距離を、今のままにはできません」
「かといって、帝都からただ命じても、あの土地は動きません」
「ならば」
「両方を理解できる者が必要です」
皇帝は動かない。
「それがイリスだと?」
「少なくとも、候補にはなり得ます」
「身内だから甘く見ているのではないか」
「ならば、父上が直接お確かめください」
アシュレイの声は静かだった。
だが、引かなかった。
皇帝は、しばらくその顔を見る。
そして。
「……イリスを呼べ」
アシュレイが目を上げる。
「面会をお許しに?」
「許すとは言っていない」
皇帝は低く返す。
「聞く」
「あれが、何を捨てるつもりで」
「何を得るつもりなのか」
「直接聞く」
アシュレイは深く頭を下げる。
「承知しました」
退室の前。
アシュレイは、一度だけ振り返った。
皇帝は、騎士団領からの書状を見ていた。
表情は硬い。
怒りは消えていない。
許したわけでもない。
だが、その書状を破り捨てることもしなかった。
帝都と騎士団領。
皇族と軍事領域。
客人と任官。
すべてが、少しずつ動き始めている。
アシュレイは静かに扉を閉めた。
皇帝は、まだ許してはいなかった。
だが、初めて。
イリスの意思を、聞こうとしていた。
★人物情報一覧★
レオンハルト・ヴァイス
仕事を減らしたいのに昇進と兼任で仕事が増え続ける主人公。
エリシア・グランフェルト
レオンを「団長」と呼び、隣で支える冷静有能な副官。
リリア・ヴァイス
レオンの妹で第七書記官、周囲から「姫様」と呼ばれる空気を和らげる存在。
イリス/イリスティア
客人ではなく仲間になりたくて騎士団領へ戻ろうとする皇女。
メリエラ・エイゼン/メリー
レオンを「お兄様」、イリスを「お姉様」と呼ぶ実務最強の統括管理官補佐。
クリス
第七の中隊長でツッコミ役、今後は嫌々ながら大隊長候補。
ヴァルト
第十騎士団副官の苦労人で、ヴァイス騎士団改編後は大隊長候補。
カイル・レヴェルト
第十二騎士団副官で真面目だが叱られると喜ぶ大隊長候補。
フィアナ・ルクス
第十二書記官で有能だが可愛いもの好き、リリアやメリーを補給したがる。
ココ=カラナ
第七所属の書記官で、リリアを過保護に見守るリリア専用警戒係。
ノイン
元第七副団長で現第十一騎士団長、リリアへの静かな情を持つ。
シエラ
第十書記官で分析型、クリスとの関係に独特の距離感がある。
ヴァルド・エイゼン
現総長でメリーの祖父、退任前にレオンを新体制へ押し込む老獪な改革者。
グラナート・グランフェルト
エリシアの父で次期総長候補、情ではなく必要性で判断する厳格な実力主義者。
アルヴェルト・ヴァイス
第九騎士団長でレオンとリリアの父、レオンに似た合理型の人物。
アシュレイ・ヴェル=ヴェリア
皇太子でイリスの同母兄、帝都側から事態を調整する戦略家。
皇帝
イリスの騎士団領任官に条件を出す帝国最高権力者。




