第1期02話 「ねぇ、マスター。 僕は人を美しいと思ったのはあれが初めてだ。」
――いったん荷物を置こうと思い直して、泊まる予定だった旅館に数百メートル近づいたとき、僕はすでに諦めかけていた。一枚板の大きな看板は傾き、そこに書かれているはずの文字が色あせて消えかかっている。ということは、今夜は素朴な田舎料理と土地の酒を楽しむことは、できそうにない。
宿の前まできたが案の定もう営業していなかったので、僕は立ち止まらずにそのまま歩き続けた。
代わりの宿が見つかればそれはそれでいいし、なければないで、野宿すればいい。リュックサックには、念のため携帯食と防寒具を詰め込んである。だから気楽に構えて歩き続けていった。――
カウンターでそう語る常連客に、私は淹れたての一杯を差し出した。
彼はいつものように薄青色の絣の袖を少し引き、骨ばった指で珈琲茶碗を受け取り、机の上にそっと置いた。
胸元のはだけかかった和装の雑な着方には、だらしない印象が否めない。だがこの繊細なしぐさは、この男の神経の機敏さを示した。
「ねぇ、マスター。」
彼は珈琲を一口飲み、顔を上げて、例の、愛想の良さそうな、それでいて隙のない切れ長の目を私に向けた。
「僕のことを時々“機械仕掛けの男”と、感情の欠落した人間のようにマスターは言うし、あなたがそう言うなら、そうなのかもしれないと、僕自身も思う。」
――けれどそんな僕でさえ、
あの時ほど陰鬱な、すさんだ気持ちになったことはないよ。
目に入るものといえば、
収穫あとの虚しい畑の脇に積み上げられた廃材の山だったり、
窓ガラスが粉々に割れたまま放置されているガソリンスタンドだったり。
動くものといえば、
時折トラックが狭い道を砂埃と排気ガスを撒き散らして通っていくだけ。
のどかとはお世辞にも言えないわびしい風景がいつまでも続いて、
おまけに空までどんより曇っていた。
たとえ地上に何一つ拾うべき光がなくても、
素晴らしい夕焼けさえあれば少しは心の慰めになっただろうに。
虚しい気持ちで二時間ほど歩いたら、畑よりも民家が少し多くなった。
畑のあいだを小さな河が横切っていて、石橋がかかっていた。
目指す場所に近づいたかなと思って、ポケットから地図を引っ張り出しつつ、石橋の低い欄干に腰を下ろした。地図を広げて、自分の位置を確かめようとしたとき、誰かが近づいてくる気配がして、僕は橋から伸びている道のほうをみた。
その道はT字路で、縦棒の部分が橋に当たる。Tの横棒、つまり僕から見て正面はこんもりとした森で、右は村の中心部へ、左は数キロ先の比較的大きな街へ向かう。どちらも細い田舎道だ。
その舗装さえされていない、肌色の砂道を、銀座から歌舞伎座へ向かうように、上品な小袖姿の女性がしゃなりしゃなりと、村の方から来て街の方へと通り過ぎていく。
僕の心の陰鬱なものがふきとんだ。
匂い立つような色香がその一帯の景色まで変えてしまったかのようだった。
彼女は僕に気づいて、視線を向けた。
僕は地図を広げたまま、ぽかんと口を開けて彼女を見つめていた。
彼女はふ、と笑顔を作り、橋のほうへと足を向け、僕に近づいてきた。
「どちらへ行かれるの?」
訛りのない言葉で彼女は聞いた。
僕が、道に迷って困っているように見えたのだろう。
「あ、いえ。迷っているわけではないんです。
中村旅館に泊まりたかったんですが、営業していなくて。」
僕は人に会えた嬉しさに、思わず笑顔になった。
「あそこは去年に廃業したのよ。」
僕は、この村に来た理由も、駐在とのやり取りも、目的地も知らせずに、戸神市から来たこと、ほかに宿がないか探しながら歩いていたこと、それだけを伝えた。
若い女性だった。
歳は三十代、服装によっては二十代で通るだろう。
線の細い、上品な、なんとも整った顔立ちをしていた。
「そう、戸神から……。
懐かしいわ、私、以前あの街に住んでいましたの。
夫が戸神市の人で……。」
女性は顔を緩めながらそう言って、すぐ暗い顔をした。
それから僕を確かめるように見た。
「あなた、学生?」
事務的な聞き方だった。
「はい。といっても今年度で卒業ですけど。掬星台学院大学発達科学部です。」
財布の中から、学生証を取り出して、見せた。
この国では、特に田舎では、学歴ってのは信頼を勝ち取る友好的な方法の一つだ。
彼女は少し間を置いて、言った。
「この先歩いても村に旅館はないわ。うちに泊まっていらっしゃいな。」
柔らかな物腰だったが、どこか心を決めたような、そんな言い方だった。
僕は遠慮の素振りを見せても無駄なようだと思って、学生証をしまい、素直に感謝の意を述べた。
「うちというのは……。」
「すぐそこの、村のはずれ。ちょうどこの森に面した、小さな家よ。」
彼女は歩きながらちらりと左手を見た。
先程、橋の欄干からは正面に見えていた森。その森が、村へ向かう道に差し掛かると左手に迫る。
うっそうと黒く茂って人の侵入を許さない。まるで暗い壁のようだった。
ほんの数十分のことだったが、彼女は少しだけ自分のことを話した。
そして――。
「神隠し。ですか。」
ぎょっとして、思わずオウム返しにそう答えた。
「ええ。息子が二人、いたんです。」
いや、驚いたよ。
さっき駐在に聞いた、その事件の当事者に、こんな形で出会うなんて。
彼女の名前は塔野小夜子。若い時に駆け落ちのように家を出たが、妊娠中に夫に先立たれ、途方に暮れて田舎の父の家に帰ってきた。けれど一年も経たず、唯一の頼りだったその父も死んでしまった。その後さらに三年前には、双子の弟が神隠しにあったという。この女性の暗い影は、生来のものではなく、その薄幸な人生のせいなのだ。
「仲のいい双子でした。だから残ったほうが可愛そうで。
今は私と二人きり、この何もない寒村で寂しい暮らし。」
彼女は残された息子についても話した。言葉の端々に情愛がにじんでいた。
ほどなくして彼女はある小さな家の前の道で、すっと止まった。
彼女の家らしかった。僕が彼女のうなじ越しに前を見ると、家の前庭にキラキラ光るマウンテンバイクと、学生服の少年がいた。
「美優、帰ってたの。」
少年は、学生鞄を脇に置いて、しゃがんで自転車のギアのあたりをいじっていたが、母親に声を掛けられ、ゆっくり立ち上がった。
そして、僕の顔をまっすぐ見捉えた。
五メートルほど離れていても、強烈な印象のある、突き刺さるような視線だった。
アーモンドのような整った両眼に収められた、好奇心を隠した輝く瞳。二重のまぶたは微動だにしなかった。薔薇の花びらみたいな口元、端正な顔の形、ふわりとそれをふちどる霧のような亜麻色の髪。
ねぇ、マスター。
僕は人を美しいと思ったのはあれが初めてだ。――
……私は、ほかの客のために淹れていた珈琲を思わず取り落とすところだった。
「一、お前……。」
思わず声を掛け、言葉を止めた。彼がしょんぼりとした顔でうつむいて珈琲茶碗を眺めていたので。
同性の少年に対しそんなふうに思ってしまったことに、後ろめたさがあるらしい。
「なるほどな。」
この話が、その少年についての意見を求められたことがきっかけだったと思い出して、私はそう呟いた。
常連客、つまり伏木一は、冷めかけた珈琲を一口飲むと、続きを話し始めた。
――「お客様なの。よろしくね。それじゃ伏木さん、せっかくだから何泊かゆっくりしてって。よかったら、美優の勉強、見てやってください。」
彼女が踵を返したので、僕は慌てて帽子を取って、お世話になりますと頭を下げた。彼女ったら、この見知らぬ若者と息子を残して、振り向きもせずに去ってしまったのさ。もともと、用事があって家を出たのに、僕のために引き返して時間を潰してしまったから、少し急いでいるみたいだった。でも少し信用しすぎじゃないか。
彼女を見送った後、少しためらいながら僕は振り返った。少年は家の脇に自転車を止め、ひょいと学生鞄を持ち上げて、また僕をじっと見た。今度は、猫が少し距離を置いて人を見るように、こちらの行動を窺っているような感じだった。
「伏木一といいます。よろしく。」
僕は胸に帽子を当てて、礼儀正しく述べた。
「塔野美優です。」
彼は、ポツリと言って玄関を開けた。驚くことに、鍵をかけていなかった。聞けば鍵なんてかけたことがないという。
家はL字型で、ちょうど玄関はLの横線、横棟の真ん中だ。左手に台所と居間、その先に縁側から続く廊下を隔てて母親の居室がある。廊下の右手は風呂場と客間につづき、その先に息子の部屋がある。
僕は客間に通され、荷物を置いた。縁側には草の伸び放題の荒れた庭があり、その先に森が広がっていた。昔ながらのガラス戸は、差し込んで回すタイプの鍵だったが、壊れて取れていた。家の周りには囲いがないので、縁側に回れば誰でも入ることができる。
「ぶっそうだなぁ。」
僕は壊れたガラス戸の鍵穴を見て思わずつぶやいた。
「いいんだ。うちには高価なものなんてないし。」
彼は僕の隣に立つと、ガタガタとガラス戸をあけた。もう日は暮れかかっていて、いつの間にか空は晴れて、夕日の最後の名残が森の向こうに赤く滲んでいた。涼しい夕風が、舞い込んできた。
「母上の着物や君の自転車は?」
それらは質素な田舎暮らしには似つかわしくない高級なものだった。
「あれって、高いの?」
彼は、逆に聞いてきた。そういえば僕も中学生の頃は物の値段なんて知らなかったことを思い出した。いつか、祖父の買ってくれた高価なものを、それと知らずにぞんざいに扱ってマスターに怒られたことがあったね。きっと彼にとって、自転車や着物もそういうたぐいのものだったのだろう。
「それなりと見た。」
僕は簡潔に答えた。
「何しにきたの?」
「少なくとも、盗人ではないよ。」
そのあとすぐにお風呂が用意されて、湯に浸かりながら、これまでの経緯を考えた。
実は、彼女に連れられて家まで歩いてくる途中、一人の村人とすれ違っていたんだ。
ちょうどトラックが狭い道を向かってきたので、僕らは道の脇に寄ったのだが、その時、畑にいたおばあさんが僕に向かって必死の様子で手を振るので、僕は何事かと畑に降りていった。
おばあさんは嫌悪感をむき出しにして僕に聞いた。あの女とどんな関わりなのかと。自分はただの宿を逃した大学生であり、たまたま出会って泊めてもらうことになったとだけ告げた。そしたらおばあさん、「関わるんじゃないよ、あの女、地主さんの妾だよ。お見合いすっぽかして親の顔に泥を塗って出てってよ、帰ってきたら、こんどは色仕掛けで地主さんに取り入って、ほんとに悪い女だよ」と畳み掛けるように言った。
小夜子さんが五メートルほど離れていたので、トラックの騒音と距離のせいで、声が届いていないことを祈りたかった。おそらく彼女はこのような中傷の中で日々を送っていたのだろう。あんな綺麗ないい人が、こんな冷たい場所で一生埋もれて過ごすだなんて、人の世はままならないものだ。
彼女の細い面立ちは、あの猫のような少年の顔の造りとは似ていない。おそらく美優くんは父親似なのだろう。駆け落ちしたくらいだから、よっぽどの人だったに違いない。そして、彼の顔を思い浮かべていたら、突然風呂場のドアががらっと開いて、当の本人がいたので、僕はお湯から飛び起きた。
彼は腰にタオルだけまいて、裸だった。僕は呆然と彼を見つめた。
「お背中流します。」
どうもとか、なんとか、答えたんだと思うが、あんまり狼狽えたもんだから、よく覚えてない。すると彼は「嘘だよ」と言い捨ててパン、と風呂の戸を閉めた。後で彼に聞いたら、僕があんまり自分をじろじろと見つめてくるので、自分から近づいたらどういう反応をするか見たくて、からかったそうだ。
風呂から上がると、持ってきていた浴衣を着こんだ。彼は地酒を用意してくれていてね。居間は質素だけど綺麗に片付いた空間で、真ん中の座卓には料理が並べられていた。味噌汁とご飯と肉じゃがとかなんとか……。で、僕はまず酒と自家製の浅漬けで一杯始めたんだが、実に気まずかった。
「小夜子さんはいつ戻るんだい?」
二人ではこの沈黙を抜け出せる自信がなかったので、自然と僕の関心は母親の帰宅に向かった。
「二、三日は帰らないよ。週末はお屋敷で過ごすから。」
「あぁ、地主っていう人のとこ?ここに来る途中、聞いたよ。」
「地主は名前じゃない。みんな地主さんて呼んでるけど。昔はあの家がこの辺一帯の地主だったから。裏の森、全部あいつの土地。母さん、あいつの妾なんだ。」
「ふーん。……ということは、地主氏は別居中か……」
「別居?あいつに奥さんなんか、いないよ。」
「それじゃ妾は変だろう。妾ってのは、奥さんのいる男性の、愛人のことを言うんだ。」
「でも、学校で……。」
言いかけて、彼は口をつぐんだ。
「君、学校で何か言われてるのかい。
気にするなよ。誰にも責められることじゃない。独身同士の関係は恋人っていって……。」
「母さんはあいつの恋人なんかじゃない!あいつのことなんか好きじゃない!」
不意に彼が声を荒げたので、びっくりして酒をこぼした。彼は我に返って冷静さを取り繕い、布巾を僕に渡したが、その手が怒りに震えているのがわかった。
「母さんがあいつのいいなりになってるのは、俺のためだと思う。」
彼の目は赤くなっていた。
僕は座卓を拭きながら、道すがら小夜子さんから聞いた息子の自慢話を思い返していた。
「……学費?」
彼はうつむいたまま頷いた。
「君、優秀なんだってね。私立受けるんだろ。」
「母さんは俺を戸神市の高校に入学させたいんだ。
あんた、掬星台の学生だろ。学生証、見せてもらったぜ。
家庭教師なのか?」
「いや……。」
一瞬、彼にそう思わせておいたほうがいいのかなと思って、僕は答えを濁した。
「悪いけど俺、そのつもりないから。」
彼はきっぱりといった。
「なぜ?」
「ここを離れるわけにいかないから。」
それきり、彼は黙った。
夕食が終わると、客間に布団が用意された。母子二人きりのわびしい暮らしには、客用の布団の準備などなかった。彼は母の部屋から布団を運んで客間に敷いてくれたよ。だけど、女性の寝床に横たわるのは躊躇われた。部屋は六畳ほどの和室で、縁側のガラス戸の前には小さな座卓が置かれていたので、僕はそこに落ち着いた。駐在に呼び止められるまでに、いくつかの古い冊子を手に入れていたから、それに目を通しながら朝までしのごうと決めた。
リュックサックから一冊取り出して、古いランプのスイッチを押した。
灯りは、それ一つだけ。
机のもとをかろうじて照らすと、闇がその光の裾を吸い込み、部屋の輪郭さえ見えなかった。まるで、檻に閉じ込められたような、息苦しい暗闇だった。
しばらく冊子をめくっていた。人間ってのは不思議なもので、数時間もたてば、重かった暗闇が、穏やかな薄闇に感じられていた。腕時計を見ると、時刻は二時。
そこでやっと妙なことに気づいた。僕を客間に通して自室に入った彼は、それ以降、物音一つ立てていない。椅子を引く音も、寝床に入る音も、この数時間、何も聞いていない。こんな薄っぺらなお粗末な壁の造りで、隣の人間の生活の音がまるでしないなんて、変だ。
「起きているかい?美優くん。」
僕は扉をノックした。扉と言っても、綻びた襖だが。
「美優くん。」
返事はない。
僕は襖を開け放った。何か得体のしれない予感が胸をよぎったからだ。
襖が枠に当たってガタンと音を立てた。
物音は、それだけだった。
畳の部屋を、月明かりが満たしていた。
勉強机、シングルベッドに箪笥、そして、開け放たれたガラス戸。
彼はどこにも、居なかった。




