表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

母親と幼馴染を溺愛する旦那様を大切にしていたら、殺されました

作者: 風谷 華
掲載日:2026/03/04

結婚して一年が経った夜のことを、私はずっと覚えているだろうと思っていた。


でも、まさかこんな形で記憶に刻まれるとは思わなかった。


ベルクサス公爵邸の廊下は夜になると深海のように静まり返る。蝋燭の灯りがちらちらと石壁に揺れて、まるで水中を漂う光のようだった。私——ミリナ・ヴァルカン、いや、今はミリナ・ベルクサスは、そんな廊下をいつものように音を立てずに歩いていた。


音を立てないのは癖だった。


義母のヘレナ様が昼寝をしていることがある。リリアが読書をしていることがある。アルフレッドが書類仕事で疲れているかもしれない。そういう「かもしれない」を積み重ねて、私はいつの間にか存在そのものを薄くする術を身につけていた。


伯爵家の令嬢として生まれ、公爵家に嫁いだ。傍から見れば恵まれた話だろう。でも実際のところ、私という人間はこの屋敷のどこにも、ちゃんとした場所を持てていなかった。


夫のアルフレッドは優しい人だ。それは本当のことだ。


背が高くて、黒い髪が少し乱れていて、金色の瞳が笑うとくしゃっとなる。初めて会ったとき、私は素直に綺麗な人だと思った。そして彼の笑顔が向けられたとき——たとえそれが政略結婚の顔合わせの席であっても——心臓が少し跳ねた。


でも彼の笑顔が一番輝くのは、私に向けられたときじゃなかった。


義母のヘレナ様に「アルフレッド、これを食べなさい」と言われたとき。


幼馴染のリリアが「アルフィー!」と呼びかけたとき。


そういう瞬間に、彼は本当に嬉しそうに笑う。私への笑顔は——悪くはない。ただ、種類が違う。


最初はそれでいいと思っていた。


家族を大事にする人なんだ、と思っていた。


お義母様もリリアも、彼にとって大切な人なのだから、私も一緒に大切にすればいい。そう考えて、義母には丁寧に仕えて、リリアにも笑顔で接してきた。


一年間、ずっと。


——それが限界だったのかもしれない、と今の私は思う。





その夜、アルフレッドは書斎に籠っていた。


月が中天に差し掛かる頃、私は温めたミルクを持って廊下を歩いていた。疲れているだろうと思って。喜ぶかもしれないと思って。ほんの少し、私のことを見てくれるかもしれないと思って。


我ながら情けない動機だ。


書斎の扉が少し開いていた。中から声が聞こえた。


「——ミリナさんって、なんで来たんだろ」


リリアの声だった。


私は足を止めた。


「ベルクサス家に来る前から、あの人おかしいと思ってたんだ。笑顔が完璧すぎて、なんか怖い。ねえアルフィー、あなたもそう思わない?」


アルフレッドが何か答えようとした気配があった。でも私には聞こえなかった。


耳が、うまく機能しなくなっていたから。


ミルクを持ったまま、私は廊下の途中で立ち尽くした。


怖い。


私が。怖い。


そうか。一年間、笑顔でいたのは「怖かったから」に見えていたのか。


なんだろう、この感覚。怒りでもなく、悲しみでもなく、ただ何かがすっと抜けていく感じ。コップの底に穴が開いたみたいに、ゆっくりと何かが漏れ出していく。


踵を返した。


書斎から離れながら、私は思った。


いつまでこうしているんだろう。


——その答えは、思いがけず早く出た。





廊下の角を曲がったところで、リリアが立っていた。


書斎から出てきたのだろう。私が立ち止まった気配を感じたのか、それとも最初から追ってきたのか。彼女は赤い髪を夜の空気に揺らして、猫のような目で私を見つめていた。


「ミリナさん」


いつもより声が低かった。


「何か聞こえてた?」


「いいえ」


即座に答えた。反射だった。


リリアの目が細くなった。


「嘘つき」


「……リリアさん」


「いいよ、聞こえてたんでしょ」彼女は一歩前に出た。「ねえ、ミリナさん。正直に言ってもいい? 私、あなたのことが最初から好きじゃなかった」


ミルクの入ったカップが、指の中でひやりとした。


「あなたが来てから、全部変わった。アルフィーのそばにいられなくなった。お義母様も忙しくなった。私の居場所がなくなった」


「……それは」


「あなたがいなくなればいい」


静かな声だった。


怒鳴るわけでも、泣くわけでもなく、ただ静かに。


それが余計に、背筋を凍らせた。


リリアの手が動いた。


私がそれに気づいたとき、すでに遅かった。


彼女の手には、小さなナイフがあった。


——どこから出てきたんだろう、と私は場違いなことを考えた。


衝撃は、思ったより静かだった。


熱い、とも冷たい、とも違う。ただ何か鋭いものが体を通り抜けた、という感覚だけがあって。


カップが床に落ちた。陶器が砕ける音がした。温かいミルクが石の床に広がっていく。


私は壁に背をついて、ゆっくりと崩れた。


リリアは動かなかった。ナイフを持ったまま、私を見下ろしていた。その顔に浮かんでいたのは——怒りでも、恍惚でもなく、ただ虚ろな、空白のような表情だった。


遠くで誰かが叫んでいる気がした。


視界が滲んでいく。


私はその瞬間、不思議なほど冷静に思った。


——なんで、こうなったんだろう。


笑顔でいた。我慢した。空気を読んだ。誰かを怒らせないようにした。ずっとずっと、いい妻でいようとした。


それでもこうなった。


ならば、私はいったい何のために——


意識が、ふっと途切れた。




ーー


目が覚めたとき、見慣れた天井があった。


でもそれは公爵邸の天井じゃなかった。


白い、薄い布が天蓋として張られていて、窓から差し込む光が朝のものだった。鳥の声がした。季節の匂いがした。


——実家の、私の部屋だ。


上半身を起こすと、体が軽かった。傷がない。血もない。ナイフで刺された感覚は夢のように遠かった。


でも夢じゃなかった。


私はリリア・エヴァレットに刺されて死んだ。それは確かな事実として、頭の中にある。


鏡台の前に座って、自分の顔を見た。


銀髪。薄い青の瞳。十九歳の顔。


——まだ、結婚前だ。


机の上のカレンダーを確認した。日付を見た。目を細めて、もう一度見た。


「……一年以上前?」


アルフレッドとの婚約が成立して、でも結婚式はまだの時期。私がベルクサス公爵邸に足を踏み入れる前。


死んで、戻ってきた。


普通なら混乱するべき状況だった。でも私の頭はひどく冷静で、最初にしたのは現状の整理だった。





なぜ、私は殺された。


問いは単純だった。でも答えを出すのに、私は三日かかった。


実家の部屋に引きこもって、ひたすら考えた。


最初の結論は「リリアが狂っている」だった。


確かにそうだ。どんな事情があっても、人を刺すのはおかしい。彼女は感情のコントロールができなかった。それは事実だ。


でも。


——「それだけ」で片付けていいのか。


考え直した。


リリアが言っていたことを、もう一度丁寧に思い出した。「居場所がなくなった」。「あなたが来てから全部変わった」。


彼女は幼い頃に両親を亡くして、ヘレナ様に育てられた。アルフレッドは家族で、ベルクサス家は唯一の拠り所だった。


そこに私が来た。


私がどんなに笑顔でいても、いい妻でいようとしても、リリアにとって私は「家族を奪う女」だった。


そしてヘレナ様は——


私はそこで、思考が一段階深くなる感覚がした。


完璧な貴婦人。上品で優雅で、息子を溺愛する母親。


彼女は私のことを、どう見ていたのか。


「息子を奪う女」。


リリアと、同じように。


——深く考えるのは、後でいい。


今は、まず動くことだ。


私は鏡の中の自分を見た。銀髪。青い瞳。十九歳の顔。


死に戻ったということは、やり直せるということだ。


でも「いい妻になる」のは、もうやめにしよう。


今度は——真実を、見極める。


そのために。





婚約式の日、私はアルフレッド・ベルクサスと初めて正式に顔を合わせた。


金の瞳が、私を見た。


「よろしく、ミリナ嬢」


「こちらこそ、よろしくお願いします」


笑顔を返した。でも今回の笑顔は、前回とは少し違う。


前回の笑顔は「嫌われたくない」から来ていた。


今回の笑顔は「あなたを見極める」から来ている。


アルフレッドは屈託なく笑った。悪意のない、温かい笑顔だ。


そうなのだ。この人は悪い人じゃない。ただ、鈍い。


家族の間にある歪みに気づかない。皆が笑顔でいれば万事丸く収まると信じている。


その鈍さが、どれほど人を傷つけるか、彼はまだ知らない。


式の後、ヘレナ様が私のそばに来た。


「ミリナさん、これからよろしくね」


完璧な微笑みだった。隙がない。


「はい、どうぞよろしくお願いいたします」


私も完璧な微笑みを返した。


互いに、完璧な微笑みの仮面をつけたまま、握手を交わした。


——さて。


私は内心で静かに息を吐いた。


今度こそ、ちゃんと見よう。


この家の、本当のことを。


ーー




公爵邸に入ってから最初の一週間、私は「観察」に徹した。


表向きは「良き妻」として動く。義母に丁寧に仕える。リリアにも笑顔で接する。アルフレッドを立てる。


でも今回は、ただ「嫌われたくない」からじゃない。


目的がある。


この家の構造を、正確に把握する。


誰が誰を愛していて、誰が誰を恐れていて、誰が誰を支配しているのか。


観察して最初に気づいたのは、ヘレナ様の「完璧さ」の中にある統制だった。


彼女は食事の献立を決める。使用人のスケジュールを管理する。客人の訪問時期を調整する。それ自体は公爵夫人として当然のことだ。


でも彼女が管理しているのは、それだけじゃなかった。


アルフレッドの一日のスケジュールも。


リリアの交友関係も。


そして——私がアルフレッドと二人でいる時間も。


さりげなく、しかし確実に。


「アルフレッド、今日はリリアの馬術の練習を見てあげてちょうだい」


「アルフレッド、お客様が来る前に執務を片付けておいた方がいいわよ」


用事が次々と入る。私とアルフレッドが二人になれる隙間は、気づくと埋まっている。


前回の私は、それを「偶然」だと思っていた。


今回の私は、「設計」だと気づく。





リリアとの距離を縮めることに、私は力を入れた。


これは前回との最大の違いだ。


前回の私は、リリアのことを「仲良くしなければならない存在」として接していた。表面上は笑顔で、でも心の奥でどこか身構えて。


今回は違う。


私は本当に、彼女のことを理解したいと思っている。


なぜなら、彼女が私を刺した理由を知りたいから。


ある午後、庭でリリアが薔薇の世話をしているのを見かけた。


「お手伝いしてもいいですか」


彼女はちょっと驚いたような顔をした。


「……別にいいけど。ミリナさん、園芸なんてするの?」


「不得手ですけど、学びたくて」


一緒に薔薇の株の世話をしながら、私はそっと聞いた。


「リリアさんは、ここに来て何年になるんですか?」


「十二年」彼女は手を動かしながら答えた。「七歳のときに、両親が亡くなって。お義母様が引き取ってくれた」


「七歳で……大変でしたね」


「別に」でも声が、少しだけ揺れた。「ここが私の家だから。アルフィーもお義母様も、私の家族だから」


私は手を止めなかった。


「大事な家族ですね」


「そう」リリアが横目で私を見た。「だから」


続きは言わなかった。


でも私にはわかった。


——だから、奪わないで。


声には出さなかった言葉が、空気の中にあった。


私は薔薇の葉に触れながら、ゆっくりと言った。


「私は、あなたの家族を奪いに来たんじゃないです」


リリアは答えなかった。でも少しだけ、肩の力が抜けた気がした。





アルフレッドとの関係は、ゆっくりと変化した。


前回の私は「存在感を消すこと」に慣れすぎていた。意見を言わない。好みを主張しない。彼に合わせるばかりで、私自身がどういう人間なのかを、彼に見せていなかった。


今回は違う。


夕食の席で、本を読んでいると「何を読んでいるの?」と聞かれた。


前回なら「たいしたものじゃないですよ」と濁しただろう。


今回は答えた。


「北部の民俗誌です。あそこの婚姻制度が面白くて」


「民俗誌?」アルフレッドが興味深そうな顔をした。「珍しいね。どんなところが面白いの?」


話した。


思ったことを、普通に話した。


アルフレッドは驚いたように聞いていた。途中から自分の意見も挟んで、気づくと二人で一時間話し込んでいた。


ヘレナ様が「もう遅いわよ」と声をかけるまで。


その夜、私は自室に戻りながら、少しだけ可笑しかった。


一年間、こんな簡単なことをしていなかった。


ただ自分の話をする、ということを。


でも同時に、気づいてしまった。


ヘレナ様の「もう遅いわよ」は、何かを終わらせるための一言だった。


彼女はずっと、そういうことをしていたのだ。





変化は、リリアの方でも起きた。


ある日、彼女が私の部屋の前で立ち止まった。


扉越しに気配を感じて、私が開けると、リリアが少し居心地悪そうな顔で立っていた。


「……あのさ」


「はい」


「薔薇、一緒に植えてみる? 新しい苗が届いたから」


私は笑った。


「ぜひ」


リリアは素直に喜ぶわけじゃなかった。相変わらず猫のような目で私を伺いながら、でも少しずつ、距離を詰めてくる。


そしてある夕方。


薔薇の世話を終えて、二人で縁側に腰掛けていたとき、リリアが突然言った。


「ミリナさんって、怖くない」


「……以前は怖いと思っていましたか」


「うん」あっさりと。「笑顔が完璧すぎて、何考えてるかわからなかった。でも最近は……まあ、普通の人だなって」


「普通、と言われると複雑ですが」


「褒めてるんだけど」


リリアが少しだけ笑った。


それは初めて見る、作り物じゃない笑顔だった。


私は、じわりとした気持ちを覚えた。


と——同時に、自分の中で何かが引っかかった。


——「笑顔が完璧すぎて怖かった」。


リリアは今回だけじゃなく、前回も同じことを思っていたはずだ。


そして、殺した。


でも今回、彼女は笑っている。


ということは——前回と今回の違いは、私の行動だけじゃない。


何か他のことが、前回の世界では起きていた。


私が気づいていない何かが。





転機は、思わぬところからやってきた。


アルフレッドの友人で、騎士団所属のシシルが屋敷を訪ねてきた日のことだ。


シシルは二十五歳で、アルフレッドとは幼馴染の——あ、違う、学院からの友人だという。茶色い髪を無造作にして、目が真っすぐな、見るからに「正直者」な顔をしていた。


夕食の席に同席させてもらった際、彼は開口一番こう言った。


「ベルクサス夫人、お話は聞いていますよ。アルフレッドが最近楽しそうで、周りは驚いてます」


アルフレッドが「シシル」と短く制した。


でもシシルは続けた。


「いや、本当に。こいつ、昔から母親とリリアのことで手いっぱいで、自分の話を誰かにするって習慣がなかったんです。夫人と話すようになって、変わりましたよ」


ヘレナ様が、テーブルの端でティーカップを置いた。


陶器の音が、やけにはっきりと聞こえた。


夕食が終わって、シシルが帰り際に私に近づいてきた。


「一つだけ言ってもいいですか」


「どうぞ」


彼は声を低くした。


「お義母さんのこと、気をつけた方がいい。あの人、笑顔で全部管理する人だから」


私は静かに答えた。


「知っています」


シシルは少し驚いたように目を開いて、それからふっと笑った。


「そうか。なら大丈夫かな」


——大丈夫かどうかは、まだわからない。


でも、少なくとも私は今回、目を閉じていない。


ーー




それは雨の日だった。


アルフレッドが王都へ用事で出かけて、屋敷に私とリリアとヘレナ様と使用人だけが残った日。


リリアが私の部屋に来た。


扉を少しだけ開けて、中を覗き込んで、それから入ってきた。


「座っていいよ」と私が言うと、彼女はソファの端に腰を下ろした。


しばらく、二人とも黙っていた。


窓の外で雨が降っている。


「……ミリナさん」


「はい」


「変なこと聞いていい?」


「どうぞ」


リリアは膝の上で手を組んで、窓の方を見ながら言った。


「私、夢を見るんだけど」


「夢?」


「変な夢。もう一つの世界みたいな夢」


私の手が、少しだけ止まった。


「……どんな夢ですか」


「私が——誰かを刺す夢」


部屋の空気が変わった。


リリアは私の顔を見なかった。窓の外の雨を見たまま、続けた。


「夢の中で、私はナイフを持ってる。誰かに向かって歩いてる。でも——なんか、そこで終わるんだ。誰を刺したのか、わからなくて目が覚める」


私は息を、ゆっくりと吐いた。


「怖いですね、そういう夢は」


「うん」リリアが初めて私を見た。「でもそれより怖いのが、目が覚めたとき、私が何かをしようとしてたんじゃないかって気がすることで」


「……どういう意味ですか」


「私、最近ぼんやりする瞬間がある。気づいたら別の場所にいるとか、時間が飛んでるとか。それが怖くて」


私は慎重に言葉を選んだ。


「誰かに相談しましたか」


「できるわけない。お義母様に言ったら——」


そこで彼女は止まった。


「お義母様に言ったら?」


「……なんでもない」


リリアは視線を逸らした。


でも私は、その「なんでもない」の中に、何かとても重いものがあると感じた。





次の日。


私は思い切ってリリアに聞いた。


「昨日の話の続き、教えてもらえますか」


リリアは少し固まったけど、「……部屋に来て」と言った。


彼女の部屋は、可愛らしくて、でもどこか窮屈な感じがした。ぬいぐるみが多かった。小さい頃から集めたのだろう。


リリアはベッドに座って、私は椅子に座った。


「お義母様は」と彼女は低い声で言った。「私のことを心配してる。すごく。でもその心配の仕方が——なんか、苦しい」


「苦しい?」


「外に出るな、とか。変な男に近づくな、とか。友達も選んでくれるし、お茶会に行くときも必ず誰かをつける」


私は黙って聞いた。


「最初はありがたかった。孤児になった私を引き取ってくれて、守ってくれて。でも最近は……」


「最近は」


「私が誰かと仲良くなりかけると、お義母様がその人に何か言う。そしたらその人は来なくなる。それが何度もあって——」


リリアが静かに息を吐いた。


「私の友達って、今、誰もいないんだ。アルフィーだけ」


私はじわりと、何かを理解しはじめた。


ヘレナ様が管理しているのは、アルフレッドの時間だけじゃない。


リリアも。


リリアがヘレナ様に「依存せざるを得ない状態」を、彼女自身が作っていた。


それは——愛ではなく。


支配だ。





三日後。


リリアが私の部屋に飛び込んできた。


青い顔をしていた。手が震えていた。


「ミリナさん」


「どうしたんですか」


「——聞いてほしいことがある」


彼女が話したのは、偶然見てしまったものについてだった。


ヘレナ様の私室の扉が開いていて、中に見知らぬ男の姿があった。ヘレナ様は静かな声で何かを指示していた。男は頷いて、帽子を目深に被って出ていった。


リリアはその一部始終を廊下から見てしまった。


「なんの話をしてたか、わかったの?」


「……全部は聞こえなかった。でも」


リリアは一度目を閉じた。


「私の名前が聞こえた。それと——ミリナさんの名前も」


部屋が静かだった。


雨はもうやんでいた。


「リリア」私は初めて、さん付けなしで呼んだ。「その男の人を、また見かけたことは?」


「ない。でも……」彼女は唇を噛んだ。「お義母様、最近私に何かを勧めてくることがある。お茶とか、薬草茶とか。飲んだ後、ぼんやりするんだ」


私の中で、何かがはっきりとした形を取り始めた。


薬。


記憶の飛び。


夢の中でナイフを持つ自分。


「リリア」


「うん」


「一つだけ、聞かせて」


私は彼女の目を見た。


「あなたは——本当に、私を刺したいと思ったことがある?」


リリアは目を見開いた。


そしてゆっくりと、首を振った。


「思ったことはある。消えてほしいって。でも、刺すとか、そんなの——」


声が細くなった。


「私、そんなことできない。怖くて」


私は、ゆっくりと息を吸った。


そして確信した。


前回の世界で私を刺したのは——リリアではなかった。


少なくとも、リリアの意志ではなかった。





その夜、私は一人で考えた。


前回の世界の記憶を、細かく辿った。


リリアが「あなたがいなくなればいい」と言った。


ナイフが出てきた。


でも——リリアは「ぼんやりする瞬間がある」と言った。「気づいたら別の場所にいる」と。


薬で意識を朦朧とさせられた状態で、ナイフを渡されたら。


「あなたがいなくなればいい」という感情を持っている人間が、薬で朦朧として、目の前にナイフと標的がいたら。


そして——その場を設定できるのは誰か。


私とリリアが廊下で二人になる状況を作れるのは誰か。


ナイフを用意できるのは誰か。


あの夜、なぜ誰も廊下に来なかったのか。


——全部、繋がる。


私は天井を見上げた。


ヘレナ・ローゼンベルク。


完璧な貴婦人。完璧な母親。完璧な管理者。


リリアを道具として使い、私を排除した。


そしてリリアは——自分が何をしたか、覚えていないまま。


これは復讐じゃない、と私は思った。


これは、解体だ。


この家の歪んだ構造を、丁寧に解体しなければならない。


ーー




翌朝、私はリリアに全部話した。


部屋の扉を閉めて、使用人も遠ざけて、二人だけで。


彼女は最初、信じなかった。


「……お義母様が? そんな、なんで」


「あなたもアルフレッドも、彼女の傍に置いておきたいから」


「でも、お義母様は私を守ってくれてて——」


「守ってるんじゃなくて、閉じ込めてるんです」


リリアは反論しようとして、止まった。


私はゆっくりと続けた。


「あなたの友達が全員いなくなったのは、なぜですか。あなたが外に出ようとするたびに誰かがついてくるのは、なぜですか。お茶を飲んだ後にぼんやりするのは、なぜですか」


リリアは答えなかった。


でも答えを知っていた。ただ、認めたくなかっただけだ。


「……証拠はあるの」


「集めます。一緒に」


長い沈黙だった。


リリアは窓の外を見て、それから手元を見て、それから私を見た。


「……なんであなたが、私のためにそんなことするの」


「私のためでもあります」


「でも——」


「それだけじゃなくて」


私は少し間を置いた。


「あなたが、私の気持ちを誰かに利用されるのが嫌だから」


リリアの目が、少しだけ揺れた。


「……本当は、私のことが怖いでしょ」


「少し怖いです」正直に答えた。「でも、嫌いじゃない」


また沈黙。


それからリリアが、小さな声で言った。


「……わかった。手伝う」





証拠を集めるのに、十日かかった。


まずシシルに連絡を取った。


「頼みがあります」


シシルはすぐに動いてくれた。騎士団の伝手を使って、ヘレナ様が密会していた男の身元を調べた。


結果——王都の裏社会と繋がりのある、薬の売人だった。


次に、リリアに協力してもらった。


「今日、お義母様がお茶を勧めてきたら、受け取って。でも飲まないで。こっそり瓶に移してください」


「……それを何かに使うの?」


「調べてもらいます」


シシルの伝手でその液体を調べると——記憶と意識に干渉する薬草の成分が出た。


少量なら「ぼんやりする」程度。多量なら「記憶が飛ぶ」。


前回の世界でリリアが私を刺したあの夜——彼女は多量を飲まされていたのだろう。


そして三つ目。


これが最も決定的だった。


ヘレナ様が例の男に宛てた手紙を、シシルが入手した。


内容は直接的ではなかった。でも読めばわかる。


「あの娘の気性を利用したい。適切な状況を整えてほしい。報酬は約束通り」


——あの娘。


リリアのことだ。


私はその手紙を手に持って、静かに息を吐いた。


これで、揃った。





アルフレッドが王都から戻った夜、私はシシルと一緒に彼に話した。


全部を。


アルフレッドは最初、信じなかった。


当然だ。自分の母親が、妻を排除するために友人の少女を道具として使ったなんて、信じたくないだろう。


「でも——シシル、これは本当か」


「俺が調べた。間違いない」


アルフレッドは立ち上がって、歩き回って、椅子に座り直した。


金色の瞳が揺れていた。


「……母さんが」


「はい」


「なぜ」


「あなたを手放したくなかったから」私は静かに言った。「そしてリリアも、手放したくなかったから。全部、自分の傍に置いておくために」


アルフレッドは両手で顔を覆った。


長い沈黙の後、彼は顔を上げた。


その顔には、子供のような混乱と、大人としての決意が、同時に浮かんでいた。


「……どうする?」


「話し合いをしましょう」私は言った。「証拠を持って、正面から」


「逃げないか」


「逃げさせません。リリアも一緒に来ます」


アルフレッドは私を見た。


初めて、本当の意味で私を見た気がした。


「……ありがとう、ミリナ」


——お礼を言われる筋合いじゃない、と私は思った。でもそれは口に出さなかった。





翌日の午後、私たちはヘレナ様の私室を訪ねた。


私、アルフレッド、リリア、シシルの四人で。


ヘレナ様はソファに座って刺繍をしていた。私たちの顔を見て、目を細めた。


完璧な微笑みだった。


「まあ、皆さんで何事?」


「お話があります」アルフレッドが言った。


テーブルに、手紙と薬の入った瓶が置かれた。


ヘレナ様の手が、一瞬止まった。


でも笑顔は変わらなかった。


「これは何かしら」


「お義母様」


私が口を開いた。


「全部、知っています」


部屋が静まった。


ヘレナ様の刺繍針が、ゆっくりと布の上に置かれた。


そして彼女は私を見た。


微笑みが、少しだけ変わった。


いままで見せたことのない——剥き出しの何かが、その奥に見えた。


「……そう」


と、彼女は言った。


ただそれだけ。


ーー




「全部あなたのせいよ」


ヘレナ様はそう言った。


私に向かって。


アルフレッドが「母さん」と低い声で言ったが、彼女は息子を見なかった。私だけを見ていた。


「あなたが来たから、こうなった」


「……私が来たから?」


「あなたが来て、アルフレッドを変えた。リリアを不安にさせた。この家の均衡を壊した」


均衡。


私はその言葉を、頭の中で反芻した。


「——お義母様、一つだけ聞かせてください」


「なに」


「前の——前回、という言い方は変ですが」私は言葉を選んだ。「もし私とアルフレッドの結婚がなかったとしたら、この家の『均衡』は保たれていたと思いますか」


ヘレナ様は答えなかった。


「保たれていたとしたら——それはただ、あなたがアルフレッドとリリアを閉じ込めて、二人が他の誰かと繋がれないようにしていた、ということじゃないですか」


「閉じ込めていない。守っていたの」


「守ることと、閉じ込めることは違います」


「あなたには——」ヘレナ様の声が低くなった。「わからない。私がどれだけ、この子たちのために」


「わかります」


私は、真っすぐに彼女を見た。


「あなたが本当にアルフレッドとリリアを愛しているのは、わかります。でもその愛し方が、二人を——特にリリアを、壊しかけた」


リリアがびくりと体を震わせた。





そこで、ヘレナ様の表情が初めて、崩れた。


微笑みが消えた。完璧な貴婦人の仮面が、音もなく落ちた。


残ったのは——疲れた顔をした、一人の母親だった。


「リリアを……壊しかけた?」


その声に、初めて本物の動揺が混ざった。


「お義母様」リリアが立ち上がった。「私、最近ずっとぼんやりしてた。夢で誰かを刺してる。それがお義母様のお茶のせいだって、わかって——」


「リリア」


「怖かった。自分が怖かった。でも一番怖かったのは」


リリアは声が震えたが、続けた。


「お義母様が私を大切にしてるんじゃなくて、手元に置きたいだけだったかもしれないって、思ったとき」


沈黙だった。


長い沈黙だった。


ヘレナ様は両手を膝の上に置いて、下を向いた。


「……薬は」と彼女はやっと言った。「あなたが外に出たがるから。外で何かあったら困るから。少しだけ落ち着かせようと思って」


「それが」アルフレッドが静かに言った。「母さんの『守る』だったの?」


ヘレナ様は答えなかった。


でもその沈黙が、答えだった。


アルフレッドが立ち上がって、母親の隣に座った。


「話そう、ちゃんと。今日から」


ヘレナ様の肩が、かすかに揺れた。





その夜、私は一人で屋敷の庭に出た。


月が出ていた。


薔薇の植え込みの前に立って、私は空を見上げた。


全部が解決したわけじゃない。ヘレナ様の行為は許されることじゃないし、これからどうするかはアルフレッドが決めることだ。


法的な問題もある。シシルが介在した以上、ある程度の処理が必要になる。


でも今夜は——ただ、月を見たかった。


足音が近づいてきた。


リリアだった。


彼女は私の隣に立って、同じように空を見上げた。


「……どうするの?」


「何が?」


「これから。ミリナさん、どうするの? アルフィーとの結婚」


私は少し考えた。


「まだわかりません」


「わからない?」


「ここに残ることも、去ることも、考えています」


リリアが横を向いた。


「……去るの?」


「わかりません、と言いました」


彼女はしばらく黙っていた。


「……私さ」


「うん」


「ミリナさんのこと、最初に嫌いだと思ったのは本当で」


「知ってます」


「でも今は——いなくなってほしくない、と思う」


私は彼女を見た。


リリアは少し赤い顔をして、それでも目を逸らさなかった。


「友達、いないって言ったじゃん。あなただけだから。その、友達って呼んでいいかどうかわかんないけど」


私は笑った。


心から笑えた。


「呼んでいいですよ」


「じゃあ——いなくなるな」


「……考えます」


リリアは「むっ」とした顔をした。けれど、それ以上は言わなかった。


二人並んで、月を見た。





アルフレッドと話したのは、翌日の朝だった。


書斎で、二人きりで。


彼は疲れた顔をしていたけれど、目は真っすぐだった。


「ミリナ」


「はい」


「俺は——今まで、ちゃんと見えてなかった」


私は黙って聞いた。


「母のことも。リリアのことも。そして、君のことも」


「そうですね」


「すまなかった」


シンプルな謝罪だった。言い訳も説明もなかった。


私は一呼吸おいて、言った。


「アルフレッド様」


「うん」


「私は——あなたの妻として、何かを我慢し続けることが、正しいことだと思っていました。それが愛情だと思っていた」


「……」


「でも違うと、今はわかっています。愛することと、自分を消すことは、違う」


アルフレッドは静かに聞いていた。


「私がここに残るとしたら——対等でいたい。私の意見も、好みも、感情も、ちゃんと場所がある関係でいたい」


「それは当然のことだ」


「当然のことが、この一年できていませんでした」


アルフレッドは顔をしかめた。


「俺が——」


「あなただけのせいじゃないです」私は続けた。「私も、言わなさすぎた。我慢しすぎた。それも私の問題です」


沈黙。


「一からやり直せますか」彼が言った。


「わかりません」


「わからない?」


「でも——やってみたいとは、思っています」


アルフレッドは少しだけ笑った。


それは、私が初めて見る、少し不安そうな、でも本物の笑顔だった。


「俺も、やってみたい」





それから三ヶ月が経った。


ヘレナ様は、王都の別邸へ移ることになった。処罰と呼ぶには軽いかもしれないが、アルフレッドが選んだことだ。彼女は最後まで「守るためだった」と言い続けた。それは本当のことだろうと私は思う。ただ、守り方が歪んでいただけで。


リリアは、初めて自分で友人を作った。近くの町に住む商人の娘と知り合って、二週間に一度茶会をするようになった。帰ってくるたびに少し表情が柔らかくなる。


シシルは相変わらず、突然屋敷に来ては「それおかしくない?」と言う。アルフレッドが「うるさい」と言い、私が笑う。


アルフレッドは——変わろうとしている。


完璧ではない。まだ鈍いし、空気を読み違えることもある。でも今は、気づいたとき自分で「あ、ごめん」と言える。そういう人間になろうとしている。


それで、十分だ。


ある夕暮れ時、庭で薔薇の世話をしていたら、リリアが横に来た。


「ねえ」


「うん」


「ミリナさんは——結局、残ることにしたんだ」


「そうなりましたね」


「なんで?」


私は薔薇の葉を一枚、丁寧に指で触れた。


「誰かを奪う愛より、誰も壊さない愛を選びたかったから」


「……それって、どういう意味?」


「私が完璧な妻を演じ続けることは、ある意味でアルフレッドを独占することでした。彼が自分の家族と正直に向き合えないような状況を、私が作っていた部分もある」


リリアが眉をひそめた。


「それ、自分を責めすぎじゃない?」


「少しはそうかもしれません」私は笑った。「でも、本当のことでもあります」


「……難しいな」


「難しいです」


二人でしばらく薔薇を見た。


「でも」私は続けた。「難しいまま、ちゃんと考え続けることが大事だと思って」


リリアは「ふーん」と言った。


それからちょっと間を置いて。


「……私も、考える」


「何を」


「私の居場所。誰かに決めてもらうんじゃなくて、自分で」


私は彼女を見た。


赤い髪。猫のような目。でもその目の奥に、今は何か柔らかいものがある。


「いい考えです」


リリアは少し笑った。


夕陽が庭を染めた。


薔薇が、静かに揺れた。



ーー


人の愛は、時に鎖になる。


守りたいという気持ちが、相手を縛る。


独占したいという気持ちが、相手を壊す。


私は一度死んで、もう一度この世界に戻ってきた。


それで何を学んだかというと——


愛することは、相手に自由を渡すことだ、ということだ。


相手が自分から離れても、他の誰かと繋がっても、それでも願える。あなたに幸せでいてほしい、と。


そういう愛が、たぶん一番難しくて、一番壊れにくい。


誰かを奪う愛より、誰も壊さない愛を選びたかった。


それだけのことで、世界はずいぶん、違って見えた。




 完

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ