母親と幼馴染を溺愛する旦那様を大切にしていたら、殺されました
結婚して一年が経った夜のことを、私はずっと覚えているだろうと思っていた。
でも、まさかこんな形で記憶に刻まれるとは思わなかった。
ベルクサス公爵邸の廊下は夜になると深海のように静まり返る。蝋燭の灯りがちらちらと石壁に揺れて、まるで水中を漂う光のようだった。私——ミリナ・ヴァルカン、いや、今はミリナ・ベルクサスは、そんな廊下をいつものように音を立てずに歩いていた。
音を立てないのは癖だった。
義母のヘレナ様が昼寝をしていることがある。リリアが読書をしていることがある。アルフレッドが書類仕事で疲れているかもしれない。そういう「かもしれない」を積み重ねて、私はいつの間にか存在そのものを薄くする術を身につけていた。
伯爵家の令嬢として生まれ、公爵家に嫁いだ。傍から見れば恵まれた話だろう。でも実際のところ、私という人間はこの屋敷のどこにも、ちゃんとした場所を持てていなかった。
夫のアルフレッドは優しい人だ。それは本当のことだ。
背が高くて、黒い髪が少し乱れていて、金色の瞳が笑うとくしゃっとなる。初めて会ったとき、私は素直に綺麗な人だと思った。そして彼の笑顔が向けられたとき——たとえそれが政略結婚の顔合わせの席であっても——心臓が少し跳ねた。
でも彼の笑顔が一番輝くのは、私に向けられたときじゃなかった。
義母のヘレナ様に「アルフレッド、これを食べなさい」と言われたとき。
幼馴染のリリアが「アルフィー!」と呼びかけたとき。
そういう瞬間に、彼は本当に嬉しそうに笑う。私への笑顔は——悪くはない。ただ、種類が違う。
最初はそれでいいと思っていた。
家族を大事にする人なんだ、と思っていた。
お義母様もリリアも、彼にとって大切な人なのだから、私も一緒に大切にすればいい。そう考えて、義母には丁寧に仕えて、リリアにも笑顔で接してきた。
一年間、ずっと。
——それが限界だったのかもしれない、と今の私は思う。
その夜、アルフレッドは書斎に籠っていた。
月が中天に差し掛かる頃、私は温めたミルクを持って廊下を歩いていた。疲れているだろうと思って。喜ぶかもしれないと思って。ほんの少し、私のことを見てくれるかもしれないと思って。
我ながら情けない動機だ。
書斎の扉が少し開いていた。中から声が聞こえた。
「——ミリナさんって、なんで来たんだろ」
リリアの声だった。
私は足を止めた。
「ベルクサス家に来る前から、あの人おかしいと思ってたんだ。笑顔が完璧すぎて、なんか怖い。ねえアルフィー、あなたもそう思わない?」
アルフレッドが何か答えようとした気配があった。でも私には聞こえなかった。
耳が、うまく機能しなくなっていたから。
ミルクを持ったまま、私は廊下の途中で立ち尽くした。
怖い。
私が。怖い。
そうか。一年間、笑顔でいたのは「怖かったから」に見えていたのか。
なんだろう、この感覚。怒りでもなく、悲しみでもなく、ただ何かがすっと抜けていく感じ。コップの底に穴が開いたみたいに、ゆっくりと何かが漏れ出していく。
踵を返した。
書斎から離れながら、私は思った。
いつまでこうしているんだろう。
——その答えは、思いがけず早く出た。
廊下の角を曲がったところで、リリアが立っていた。
書斎から出てきたのだろう。私が立ち止まった気配を感じたのか、それとも最初から追ってきたのか。彼女は赤い髪を夜の空気に揺らして、猫のような目で私を見つめていた。
「ミリナさん」
いつもより声が低かった。
「何か聞こえてた?」
「いいえ」
即座に答えた。反射だった。
リリアの目が細くなった。
「嘘つき」
「……リリアさん」
「いいよ、聞こえてたんでしょ」彼女は一歩前に出た。「ねえ、ミリナさん。正直に言ってもいい? 私、あなたのことが最初から好きじゃなかった」
ミルクの入ったカップが、指の中でひやりとした。
「あなたが来てから、全部変わった。アルフィーのそばにいられなくなった。お義母様も忙しくなった。私の居場所がなくなった」
「……それは」
「あなたがいなくなればいい」
静かな声だった。
怒鳴るわけでも、泣くわけでもなく、ただ静かに。
それが余計に、背筋を凍らせた。
リリアの手が動いた。
私がそれに気づいたとき、すでに遅かった。
彼女の手には、小さなナイフがあった。
——どこから出てきたんだろう、と私は場違いなことを考えた。
衝撃は、思ったより静かだった。
熱い、とも冷たい、とも違う。ただ何か鋭いものが体を通り抜けた、という感覚だけがあって。
カップが床に落ちた。陶器が砕ける音がした。温かいミルクが石の床に広がっていく。
私は壁に背をついて、ゆっくりと崩れた。
リリアは動かなかった。ナイフを持ったまま、私を見下ろしていた。その顔に浮かんでいたのは——怒りでも、恍惚でもなく、ただ虚ろな、空白のような表情だった。
遠くで誰かが叫んでいる気がした。
視界が滲んでいく。
私はその瞬間、不思議なほど冷静に思った。
——なんで、こうなったんだろう。
笑顔でいた。我慢した。空気を読んだ。誰かを怒らせないようにした。ずっとずっと、いい妻でいようとした。
それでもこうなった。
ならば、私はいったい何のために——
意識が、ふっと途切れた。
ーー
目が覚めたとき、見慣れた天井があった。
でもそれは公爵邸の天井じゃなかった。
白い、薄い布が天蓋として張られていて、窓から差し込む光が朝のものだった。鳥の声がした。季節の匂いがした。
——実家の、私の部屋だ。
上半身を起こすと、体が軽かった。傷がない。血もない。ナイフで刺された感覚は夢のように遠かった。
でも夢じゃなかった。
私はリリア・エヴァレットに刺されて死んだ。それは確かな事実として、頭の中にある。
鏡台の前に座って、自分の顔を見た。
銀髪。薄い青の瞳。十九歳の顔。
——まだ、結婚前だ。
机の上のカレンダーを確認した。日付を見た。目を細めて、もう一度見た。
「……一年以上前?」
アルフレッドとの婚約が成立して、でも結婚式はまだの時期。私がベルクサス公爵邸に足を踏み入れる前。
死んで、戻ってきた。
普通なら混乱するべき状況だった。でも私の頭はひどく冷静で、最初にしたのは現状の整理だった。
なぜ、私は殺された。
問いは単純だった。でも答えを出すのに、私は三日かかった。
実家の部屋に引きこもって、ひたすら考えた。
最初の結論は「リリアが狂っている」だった。
確かにそうだ。どんな事情があっても、人を刺すのはおかしい。彼女は感情のコントロールができなかった。それは事実だ。
でも。
——「それだけ」で片付けていいのか。
考え直した。
リリアが言っていたことを、もう一度丁寧に思い出した。「居場所がなくなった」。「あなたが来てから全部変わった」。
彼女は幼い頃に両親を亡くして、ヘレナ様に育てられた。アルフレッドは家族で、ベルクサス家は唯一の拠り所だった。
そこに私が来た。
私がどんなに笑顔でいても、いい妻でいようとしても、リリアにとって私は「家族を奪う女」だった。
そしてヘレナ様は——
私はそこで、思考が一段階深くなる感覚がした。
完璧な貴婦人。上品で優雅で、息子を溺愛する母親。
彼女は私のことを、どう見ていたのか。
「息子を奪う女」。
リリアと、同じように。
——深く考えるのは、後でいい。
今は、まず動くことだ。
私は鏡の中の自分を見た。銀髪。青い瞳。十九歳の顔。
死に戻ったということは、やり直せるということだ。
でも「いい妻になる」のは、もうやめにしよう。
今度は——真実を、見極める。
そのために。
婚約式の日、私はアルフレッド・ベルクサスと初めて正式に顔を合わせた。
金の瞳が、私を見た。
「よろしく、ミリナ嬢」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
笑顔を返した。でも今回の笑顔は、前回とは少し違う。
前回の笑顔は「嫌われたくない」から来ていた。
今回の笑顔は「あなたを見極める」から来ている。
アルフレッドは屈託なく笑った。悪意のない、温かい笑顔だ。
そうなのだ。この人は悪い人じゃない。ただ、鈍い。
家族の間にある歪みに気づかない。皆が笑顔でいれば万事丸く収まると信じている。
その鈍さが、どれほど人を傷つけるか、彼はまだ知らない。
式の後、ヘレナ様が私のそばに来た。
「ミリナさん、これからよろしくね」
完璧な微笑みだった。隙がない。
「はい、どうぞよろしくお願いいたします」
私も完璧な微笑みを返した。
互いに、完璧な微笑みの仮面をつけたまま、握手を交わした。
——さて。
私は内心で静かに息を吐いた。
今度こそ、ちゃんと見よう。
この家の、本当のことを。
ーー
公爵邸に入ってから最初の一週間、私は「観察」に徹した。
表向きは「良き妻」として動く。義母に丁寧に仕える。リリアにも笑顔で接する。アルフレッドを立てる。
でも今回は、ただ「嫌われたくない」からじゃない。
目的がある。
この家の構造を、正確に把握する。
誰が誰を愛していて、誰が誰を恐れていて、誰が誰を支配しているのか。
観察して最初に気づいたのは、ヘレナ様の「完璧さ」の中にある統制だった。
彼女は食事の献立を決める。使用人のスケジュールを管理する。客人の訪問時期を調整する。それ自体は公爵夫人として当然のことだ。
でも彼女が管理しているのは、それだけじゃなかった。
アルフレッドの一日のスケジュールも。
リリアの交友関係も。
そして——私がアルフレッドと二人でいる時間も。
さりげなく、しかし確実に。
「アルフレッド、今日はリリアの馬術の練習を見てあげてちょうだい」
「アルフレッド、お客様が来る前に執務を片付けておいた方がいいわよ」
用事が次々と入る。私とアルフレッドが二人になれる隙間は、気づくと埋まっている。
前回の私は、それを「偶然」だと思っていた。
今回の私は、「設計」だと気づく。
リリアとの距離を縮めることに、私は力を入れた。
これは前回との最大の違いだ。
前回の私は、リリアのことを「仲良くしなければならない存在」として接していた。表面上は笑顔で、でも心の奥でどこか身構えて。
今回は違う。
私は本当に、彼女のことを理解したいと思っている。
なぜなら、彼女が私を刺した理由を知りたいから。
ある午後、庭でリリアが薔薇の世話をしているのを見かけた。
「お手伝いしてもいいですか」
彼女はちょっと驚いたような顔をした。
「……別にいいけど。ミリナさん、園芸なんてするの?」
「不得手ですけど、学びたくて」
一緒に薔薇の株の世話をしながら、私はそっと聞いた。
「リリアさんは、ここに来て何年になるんですか?」
「十二年」彼女は手を動かしながら答えた。「七歳のときに、両親が亡くなって。お義母様が引き取ってくれた」
「七歳で……大変でしたね」
「別に」でも声が、少しだけ揺れた。「ここが私の家だから。アルフィーもお義母様も、私の家族だから」
私は手を止めなかった。
「大事な家族ですね」
「そう」リリアが横目で私を見た。「だから」
続きは言わなかった。
でも私にはわかった。
——だから、奪わないで。
声には出さなかった言葉が、空気の中にあった。
私は薔薇の葉に触れながら、ゆっくりと言った。
「私は、あなたの家族を奪いに来たんじゃないです」
リリアは答えなかった。でも少しだけ、肩の力が抜けた気がした。
アルフレッドとの関係は、ゆっくりと変化した。
前回の私は「存在感を消すこと」に慣れすぎていた。意見を言わない。好みを主張しない。彼に合わせるばかりで、私自身がどういう人間なのかを、彼に見せていなかった。
今回は違う。
夕食の席で、本を読んでいると「何を読んでいるの?」と聞かれた。
前回なら「たいしたものじゃないですよ」と濁しただろう。
今回は答えた。
「北部の民俗誌です。あそこの婚姻制度が面白くて」
「民俗誌?」アルフレッドが興味深そうな顔をした。「珍しいね。どんなところが面白いの?」
話した。
思ったことを、普通に話した。
アルフレッドは驚いたように聞いていた。途中から自分の意見も挟んで、気づくと二人で一時間話し込んでいた。
ヘレナ様が「もう遅いわよ」と声をかけるまで。
その夜、私は自室に戻りながら、少しだけ可笑しかった。
一年間、こんな簡単なことをしていなかった。
ただ自分の話をする、ということを。
でも同時に、気づいてしまった。
ヘレナ様の「もう遅いわよ」は、何かを終わらせるための一言だった。
彼女はずっと、そういうことをしていたのだ。
変化は、リリアの方でも起きた。
ある日、彼女が私の部屋の前で立ち止まった。
扉越しに気配を感じて、私が開けると、リリアが少し居心地悪そうな顔で立っていた。
「……あのさ」
「はい」
「薔薇、一緒に植えてみる? 新しい苗が届いたから」
私は笑った。
「ぜひ」
リリアは素直に喜ぶわけじゃなかった。相変わらず猫のような目で私を伺いながら、でも少しずつ、距離を詰めてくる。
そしてある夕方。
薔薇の世話を終えて、二人で縁側に腰掛けていたとき、リリアが突然言った。
「ミリナさんって、怖くない」
「……以前は怖いと思っていましたか」
「うん」あっさりと。「笑顔が完璧すぎて、何考えてるかわからなかった。でも最近は……まあ、普通の人だなって」
「普通、と言われると複雑ですが」
「褒めてるんだけど」
リリアが少しだけ笑った。
それは初めて見る、作り物じゃない笑顔だった。
私は、じわりとした気持ちを覚えた。
と——同時に、自分の中で何かが引っかかった。
——「笑顔が完璧すぎて怖かった」。
リリアは今回だけじゃなく、前回も同じことを思っていたはずだ。
そして、殺した。
でも今回、彼女は笑っている。
ということは——前回と今回の違いは、私の行動だけじゃない。
何か他のことが、前回の世界では起きていた。
私が気づいていない何かが。
転機は、思わぬところからやってきた。
アルフレッドの友人で、騎士団所属のシシルが屋敷を訪ねてきた日のことだ。
シシルは二十五歳で、アルフレッドとは幼馴染の——あ、違う、学院からの友人だという。茶色い髪を無造作にして、目が真っすぐな、見るからに「正直者」な顔をしていた。
夕食の席に同席させてもらった際、彼は開口一番こう言った。
「ベルクサス夫人、お話は聞いていますよ。アルフレッドが最近楽しそうで、周りは驚いてます」
アルフレッドが「シシル」と短く制した。
でもシシルは続けた。
「いや、本当に。こいつ、昔から母親とリリアのことで手いっぱいで、自分の話を誰かにするって習慣がなかったんです。夫人と話すようになって、変わりましたよ」
ヘレナ様が、テーブルの端でティーカップを置いた。
陶器の音が、やけにはっきりと聞こえた。
夕食が終わって、シシルが帰り際に私に近づいてきた。
「一つだけ言ってもいいですか」
「どうぞ」
彼は声を低くした。
「お義母さんのこと、気をつけた方がいい。あの人、笑顔で全部管理する人だから」
私は静かに答えた。
「知っています」
シシルは少し驚いたように目を開いて、それからふっと笑った。
「そうか。なら大丈夫かな」
——大丈夫かどうかは、まだわからない。
でも、少なくとも私は今回、目を閉じていない。
ーー
それは雨の日だった。
アルフレッドが王都へ用事で出かけて、屋敷に私とリリアとヘレナ様と使用人だけが残った日。
リリアが私の部屋に来た。
扉を少しだけ開けて、中を覗き込んで、それから入ってきた。
「座っていいよ」と私が言うと、彼女はソファの端に腰を下ろした。
しばらく、二人とも黙っていた。
窓の外で雨が降っている。
「……ミリナさん」
「はい」
「変なこと聞いていい?」
「どうぞ」
リリアは膝の上で手を組んで、窓の方を見ながら言った。
「私、夢を見るんだけど」
「夢?」
「変な夢。もう一つの世界みたいな夢」
私の手が、少しだけ止まった。
「……どんな夢ですか」
「私が——誰かを刺す夢」
部屋の空気が変わった。
リリアは私の顔を見なかった。窓の外の雨を見たまま、続けた。
「夢の中で、私はナイフを持ってる。誰かに向かって歩いてる。でも——なんか、そこで終わるんだ。誰を刺したのか、わからなくて目が覚める」
私は息を、ゆっくりと吐いた。
「怖いですね、そういう夢は」
「うん」リリアが初めて私を見た。「でもそれより怖いのが、目が覚めたとき、私が何かをしようとしてたんじゃないかって気がすることで」
「……どういう意味ですか」
「私、最近ぼんやりする瞬間がある。気づいたら別の場所にいるとか、時間が飛んでるとか。それが怖くて」
私は慎重に言葉を選んだ。
「誰かに相談しましたか」
「できるわけない。お義母様に言ったら——」
そこで彼女は止まった。
「お義母様に言ったら?」
「……なんでもない」
リリアは視線を逸らした。
でも私は、その「なんでもない」の中に、何かとても重いものがあると感じた。
次の日。
私は思い切ってリリアに聞いた。
「昨日の話の続き、教えてもらえますか」
リリアは少し固まったけど、「……部屋に来て」と言った。
彼女の部屋は、可愛らしくて、でもどこか窮屈な感じがした。ぬいぐるみが多かった。小さい頃から集めたのだろう。
リリアはベッドに座って、私は椅子に座った。
「お義母様は」と彼女は低い声で言った。「私のことを心配してる。すごく。でもその心配の仕方が——なんか、苦しい」
「苦しい?」
「外に出るな、とか。変な男に近づくな、とか。友達も選んでくれるし、お茶会に行くときも必ず誰かをつける」
私は黙って聞いた。
「最初はありがたかった。孤児になった私を引き取ってくれて、守ってくれて。でも最近は……」
「最近は」
「私が誰かと仲良くなりかけると、お義母様がその人に何か言う。そしたらその人は来なくなる。それが何度もあって——」
リリアが静かに息を吐いた。
「私の友達って、今、誰もいないんだ。アルフィーだけ」
私はじわりと、何かを理解しはじめた。
ヘレナ様が管理しているのは、アルフレッドの時間だけじゃない。
リリアも。
リリアがヘレナ様に「依存せざるを得ない状態」を、彼女自身が作っていた。
それは——愛ではなく。
支配だ。
三日後。
リリアが私の部屋に飛び込んできた。
青い顔をしていた。手が震えていた。
「ミリナさん」
「どうしたんですか」
「——聞いてほしいことがある」
彼女が話したのは、偶然見てしまったものについてだった。
ヘレナ様の私室の扉が開いていて、中に見知らぬ男の姿があった。ヘレナ様は静かな声で何かを指示していた。男は頷いて、帽子を目深に被って出ていった。
リリアはその一部始終を廊下から見てしまった。
「なんの話をしてたか、わかったの?」
「……全部は聞こえなかった。でも」
リリアは一度目を閉じた。
「私の名前が聞こえた。それと——ミリナさんの名前も」
部屋が静かだった。
雨はもうやんでいた。
「リリア」私は初めて、さん付けなしで呼んだ。「その男の人を、また見かけたことは?」
「ない。でも……」彼女は唇を噛んだ。「お義母様、最近私に何かを勧めてくることがある。お茶とか、薬草茶とか。飲んだ後、ぼんやりするんだ」
私の中で、何かがはっきりとした形を取り始めた。
薬。
記憶の飛び。
夢の中でナイフを持つ自分。
「リリア」
「うん」
「一つだけ、聞かせて」
私は彼女の目を見た。
「あなたは——本当に、私を刺したいと思ったことがある?」
リリアは目を見開いた。
そしてゆっくりと、首を振った。
「思ったことはある。消えてほしいって。でも、刺すとか、そんなの——」
声が細くなった。
「私、そんなことできない。怖くて」
私は、ゆっくりと息を吸った。
そして確信した。
前回の世界で私を刺したのは——リリアではなかった。
少なくとも、リリアの意志ではなかった。
その夜、私は一人で考えた。
前回の世界の記憶を、細かく辿った。
リリアが「あなたがいなくなればいい」と言った。
ナイフが出てきた。
でも——リリアは「ぼんやりする瞬間がある」と言った。「気づいたら別の場所にいる」と。
薬で意識を朦朧とさせられた状態で、ナイフを渡されたら。
「あなたがいなくなればいい」という感情を持っている人間が、薬で朦朧として、目の前にナイフと標的がいたら。
そして——その場を設定できるのは誰か。
私とリリアが廊下で二人になる状況を作れるのは誰か。
ナイフを用意できるのは誰か。
あの夜、なぜ誰も廊下に来なかったのか。
——全部、繋がる。
私は天井を見上げた。
ヘレナ・ローゼンベルク。
完璧な貴婦人。完璧な母親。完璧な管理者。
リリアを道具として使い、私を排除した。
そしてリリアは——自分が何をしたか、覚えていないまま。
これは復讐じゃない、と私は思った。
これは、解体だ。
この家の歪んだ構造を、丁寧に解体しなければならない。
ーー
翌朝、私はリリアに全部話した。
部屋の扉を閉めて、使用人も遠ざけて、二人だけで。
彼女は最初、信じなかった。
「……お義母様が? そんな、なんで」
「あなたもアルフレッドも、彼女の傍に置いておきたいから」
「でも、お義母様は私を守ってくれてて——」
「守ってるんじゃなくて、閉じ込めてるんです」
リリアは反論しようとして、止まった。
私はゆっくりと続けた。
「あなたの友達が全員いなくなったのは、なぜですか。あなたが外に出ようとするたびに誰かがついてくるのは、なぜですか。お茶を飲んだ後にぼんやりするのは、なぜですか」
リリアは答えなかった。
でも答えを知っていた。ただ、認めたくなかっただけだ。
「……証拠はあるの」
「集めます。一緒に」
長い沈黙だった。
リリアは窓の外を見て、それから手元を見て、それから私を見た。
「……なんであなたが、私のためにそんなことするの」
「私のためでもあります」
「でも——」
「それだけじゃなくて」
私は少し間を置いた。
「あなたが、私の気持ちを誰かに利用されるのが嫌だから」
リリアの目が、少しだけ揺れた。
「……本当は、私のことが怖いでしょ」
「少し怖いです」正直に答えた。「でも、嫌いじゃない」
また沈黙。
それからリリアが、小さな声で言った。
「……わかった。手伝う」
証拠を集めるのに、十日かかった。
まずシシルに連絡を取った。
「頼みがあります」
シシルはすぐに動いてくれた。騎士団の伝手を使って、ヘレナ様が密会していた男の身元を調べた。
結果——王都の裏社会と繋がりのある、薬の売人だった。
次に、リリアに協力してもらった。
「今日、お義母様がお茶を勧めてきたら、受け取って。でも飲まないで。こっそり瓶に移してください」
「……それを何かに使うの?」
「調べてもらいます」
シシルの伝手でその液体を調べると——記憶と意識に干渉する薬草の成分が出た。
少量なら「ぼんやりする」程度。多量なら「記憶が飛ぶ」。
前回の世界でリリアが私を刺したあの夜——彼女は多量を飲まされていたのだろう。
そして三つ目。
これが最も決定的だった。
ヘレナ様が例の男に宛てた手紙を、シシルが入手した。
内容は直接的ではなかった。でも読めばわかる。
「あの娘の気性を利用したい。適切な状況を整えてほしい。報酬は約束通り」
——あの娘。
リリアのことだ。
私はその手紙を手に持って、静かに息を吐いた。
これで、揃った。
アルフレッドが王都から戻った夜、私はシシルと一緒に彼に話した。
全部を。
アルフレッドは最初、信じなかった。
当然だ。自分の母親が、妻を排除するために友人の少女を道具として使ったなんて、信じたくないだろう。
「でも——シシル、これは本当か」
「俺が調べた。間違いない」
アルフレッドは立ち上がって、歩き回って、椅子に座り直した。
金色の瞳が揺れていた。
「……母さんが」
「はい」
「なぜ」
「あなたを手放したくなかったから」私は静かに言った。「そしてリリアも、手放したくなかったから。全部、自分の傍に置いておくために」
アルフレッドは両手で顔を覆った。
長い沈黙の後、彼は顔を上げた。
その顔には、子供のような混乱と、大人としての決意が、同時に浮かんでいた。
「……どうする?」
「話し合いをしましょう」私は言った。「証拠を持って、正面から」
「逃げないか」
「逃げさせません。リリアも一緒に来ます」
アルフレッドは私を見た。
初めて、本当の意味で私を見た気がした。
「……ありがとう、ミリナ」
——お礼を言われる筋合いじゃない、と私は思った。でもそれは口に出さなかった。
翌日の午後、私たちはヘレナ様の私室を訪ねた。
私、アルフレッド、リリア、シシルの四人で。
ヘレナ様はソファに座って刺繍をしていた。私たちの顔を見て、目を細めた。
完璧な微笑みだった。
「まあ、皆さんで何事?」
「お話があります」アルフレッドが言った。
テーブルに、手紙と薬の入った瓶が置かれた。
ヘレナ様の手が、一瞬止まった。
でも笑顔は変わらなかった。
「これは何かしら」
「お義母様」
私が口を開いた。
「全部、知っています」
部屋が静まった。
ヘレナ様の刺繍針が、ゆっくりと布の上に置かれた。
そして彼女は私を見た。
微笑みが、少しだけ変わった。
いままで見せたことのない——剥き出しの何かが、その奥に見えた。
「……そう」
と、彼女は言った。
ただそれだけ。
ーー
「全部あなたのせいよ」
ヘレナ様はそう言った。
私に向かって。
アルフレッドが「母さん」と低い声で言ったが、彼女は息子を見なかった。私だけを見ていた。
「あなたが来たから、こうなった」
「……私が来たから?」
「あなたが来て、アルフレッドを変えた。リリアを不安にさせた。この家の均衡を壊した」
均衡。
私はその言葉を、頭の中で反芻した。
「——お義母様、一つだけ聞かせてください」
「なに」
「前の——前回、という言い方は変ですが」私は言葉を選んだ。「もし私とアルフレッドの結婚がなかったとしたら、この家の『均衡』は保たれていたと思いますか」
ヘレナ様は答えなかった。
「保たれていたとしたら——それはただ、あなたがアルフレッドとリリアを閉じ込めて、二人が他の誰かと繋がれないようにしていた、ということじゃないですか」
「閉じ込めていない。守っていたの」
「守ることと、閉じ込めることは違います」
「あなたには——」ヘレナ様の声が低くなった。「わからない。私がどれだけ、この子たちのために」
「わかります」
私は、真っすぐに彼女を見た。
「あなたが本当にアルフレッドとリリアを愛しているのは、わかります。でもその愛し方が、二人を——特にリリアを、壊しかけた」
リリアがびくりと体を震わせた。
そこで、ヘレナ様の表情が初めて、崩れた。
微笑みが消えた。完璧な貴婦人の仮面が、音もなく落ちた。
残ったのは——疲れた顔をした、一人の母親だった。
「リリアを……壊しかけた?」
その声に、初めて本物の動揺が混ざった。
「お義母様」リリアが立ち上がった。「私、最近ずっとぼんやりしてた。夢で誰かを刺してる。それがお義母様のお茶のせいだって、わかって——」
「リリア」
「怖かった。自分が怖かった。でも一番怖かったのは」
リリアは声が震えたが、続けた。
「お義母様が私を大切にしてるんじゃなくて、手元に置きたいだけだったかもしれないって、思ったとき」
沈黙だった。
長い沈黙だった。
ヘレナ様は両手を膝の上に置いて、下を向いた。
「……薬は」と彼女はやっと言った。「あなたが外に出たがるから。外で何かあったら困るから。少しだけ落ち着かせようと思って」
「それが」アルフレッドが静かに言った。「母さんの『守る』だったの?」
ヘレナ様は答えなかった。
でもその沈黙が、答えだった。
アルフレッドが立ち上がって、母親の隣に座った。
「話そう、ちゃんと。今日から」
ヘレナ様の肩が、かすかに揺れた。
その夜、私は一人で屋敷の庭に出た。
月が出ていた。
薔薇の植え込みの前に立って、私は空を見上げた。
全部が解決したわけじゃない。ヘレナ様の行為は許されることじゃないし、これからどうするかはアルフレッドが決めることだ。
法的な問題もある。シシルが介在した以上、ある程度の処理が必要になる。
でも今夜は——ただ、月を見たかった。
足音が近づいてきた。
リリアだった。
彼女は私の隣に立って、同じように空を見上げた。
「……どうするの?」
「何が?」
「これから。ミリナさん、どうするの? アルフィーとの結婚」
私は少し考えた。
「まだわかりません」
「わからない?」
「ここに残ることも、去ることも、考えています」
リリアが横を向いた。
「……去るの?」
「わかりません、と言いました」
彼女はしばらく黙っていた。
「……私さ」
「うん」
「ミリナさんのこと、最初に嫌いだと思ったのは本当で」
「知ってます」
「でも今は——いなくなってほしくない、と思う」
私は彼女を見た。
リリアは少し赤い顔をして、それでも目を逸らさなかった。
「友達、いないって言ったじゃん。あなただけだから。その、友達って呼んでいいかどうかわかんないけど」
私は笑った。
心から笑えた。
「呼んでいいですよ」
「じゃあ——いなくなるな」
「……考えます」
リリアは「むっ」とした顔をした。けれど、それ以上は言わなかった。
二人並んで、月を見た。
アルフレッドと話したのは、翌日の朝だった。
書斎で、二人きりで。
彼は疲れた顔をしていたけれど、目は真っすぐだった。
「ミリナ」
「はい」
「俺は——今まで、ちゃんと見えてなかった」
私は黙って聞いた。
「母のことも。リリアのことも。そして、君のことも」
「そうですね」
「すまなかった」
シンプルな謝罪だった。言い訳も説明もなかった。
私は一呼吸おいて、言った。
「アルフレッド様」
「うん」
「私は——あなたの妻として、何かを我慢し続けることが、正しいことだと思っていました。それが愛情だと思っていた」
「……」
「でも違うと、今はわかっています。愛することと、自分を消すことは、違う」
アルフレッドは静かに聞いていた。
「私がここに残るとしたら——対等でいたい。私の意見も、好みも、感情も、ちゃんと場所がある関係でいたい」
「それは当然のことだ」
「当然のことが、この一年できていませんでした」
アルフレッドは顔をしかめた。
「俺が——」
「あなただけのせいじゃないです」私は続けた。「私も、言わなさすぎた。我慢しすぎた。それも私の問題です」
沈黙。
「一からやり直せますか」彼が言った。
「わかりません」
「わからない?」
「でも——やってみたいとは、思っています」
アルフレッドは少しだけ笑った。
それは、私が初めて見る、少し不安そうな、でも本物の笑顔だった。
「俺も、やってみたい」
それから三ヶ月が経った。
ヘレナ様は、王都の別邸へ移ることになった。処罰と呼ぶには軽いかもしれないが、アルフレッドが選んだことだ。彼女は最後まで「守るためだった」と言い続けた。それは本当のことだろうと私は思う。ただ、守り方が歪んでいただけで。
リリアは、初めて自分で友人を作った。近くの町に住む商人の娘と知り合って、二週間に一度茶会をするようになった。帰ってくるたびに少し表情が柔らかくなる。
シシルは相変わらず、突然屋敷に来ては「それおかしくない?」と言う。アルフレッドが「うるさい」と言い、私が笑う。
アルフレッドは——変わろうとしている。
完璧ではない。まだ鈍いし、空気を読み違えることもある。でも今は、気づいたとき自分で「あ、ごめん」と言える。そういう人間になろうとしている。
それで、十分だ。
ある夕暮れ時、庭で薔薇の世話をしていたら、リリアが横に来た。
「ねえ」
「うん」
「ミリナさんは——結局、残ることにしたんだ」
「そうなりましたね」
「なんで?」
私は薔薇の葉を一枚、丁寧に指で触れた。
「誰かを奪う愛より、誰も壊さない愛を選びたかったから」
「……それって、どういう意味?」
「私が完璧な妻を演じ続けることは、ある意味でアルフレッドを独占することでした。彼が自分の家族と正直に向き合えないような状況を、私が作っていた部分もある」
リリアが眉をひそめた。
「それ、自分を責めすぎじゃない?」
「少しはそうかもしれません」私は笑った。「でも、本当のことでもあります」
「……難しいな」
「難しいです」
二人でしばらく薔薇を見た。
「でも」私は続けた。「難しいまま、ちゃんと考え続けることが大事だと思って」
リリアは「ふーん」と言った。
それからちょっと間を置いて。
「……私も、考える」
「何を」
「私の居場所。誰かに決めてもらうんじゃなくて、自分で」
私は彼女を見た。
赤い髪。猫のような目。でもその目の奥に、今は何か柔らかいものがある。
「いい考えです」
リリアは少し笑った。
夕陽が庭を染めた。
薔薇が、静かに揺れた。
ーー
人の愛は、時に鎖になる。
守りたいという気持ちが、相手を縛る。
独占したいという気持ちが、相手を壊す。
私は一度死んで、もう一度この世界に戻ってきた。
それで何を学んだかというと——
愛することは、相手に自由を渡すことだ、ということだ。
相手が自分から離れても、他の誰かと繋がっても、それでも願える。あなたに幸せでいてほしい、と。
そういう愛が、たぶん一番難しくて、一番壊れにくい。
誰かを奪う愛より、誰も壊さない愛を選びたかった。
それだけのことで、世界はずいぶん、違って見えた。
完




