第5話 名前と専属指名
王城の北側に位置する大温室は、朝の光を浴びて真珠色に輝いていた。
私は手に持った探知用の魔導具を調整しながら、一歩前を行く背中を追う。
「……殿下、歩幅を少し緩めていただけますか。測定値が乱れます」
カイ殿下は足を止め、振り返った。
その視線が、私の足元から顔へとゆっくり移動する。
「……すまない。お前の体力を失念していた」
殿下はそう言って、私が追いつくのを待った。
今日の殿下は、昨日までの軍服ではなく、少し軽装な装いだ。
それでも漂う威圧感は変わらない。
私は手元の水晶版に視線を落とした。
周囲に生い茂る魔導植物から放たれる微弱な魔力が、波形となって表示されている。
「テストは順調です。この感度なら、不純物の混じった魔石も即座に見分けられるでしょう」
「そうか。……リュシア、こっちへ来い」
不意に呼ばれた呼び名に、私の思考が止まった。
今、なんと。
「殿下、今、何とおっしゃいましたか」
「リュシアと言った。……不服か?」
殿下は無表情のまま、私の顔を覗き込んできた。
「いえ、不服というわけでは。……ただ、私はあくまで公爵家の娘であり、一介の職人です。殿下に呼び捨てにされるような間柄では……」
「仕事中は無駄な敬称を省くと決めた。お前も、私のことは好きに呼べ」
好きに呼べ、と言われても困る。
王族を名前で呼ぶなど、断罪イベントを加速させるようなものだ。
私はあえて深く一礼し、距離を取った。
「礼儀を失するわけにはまいりません。殿下、次の測定地点へ向かいましょう」
【ナレーション】
(リュシアにとって、名前を呼ばれることは「個」として認識されることを意味した。それは彼女が望む「目立たない裏方」という方針に真っ向から対立する。一方、カイにとって名前を呼ぶことは、彼女を自分の守備範囲内にある「守るべき対象」として確定させるための宣言であった)
温室の奥へと進むと、ひときわ強い光を放つ花があった。
月光草。
夜間にしか咲かないはずの花が、魔導具の力で擬似的な夜を作り出され、静かに揺れている。
「……綺麗ですね」
思わず独り言が漏れた。
前世では、こんな幻想的な光景を見る余裕なんてなかった。
「これの管理をしているのは、古い魔導具だ。調整が難しく、枯れる花も多い」
カイ殿下が月光草の根元にある魔導回路を指差した。
確かに、回路が焼き付いている。
「私が見ましょうか」
「いや、今日はいい。お前は昨晩も遅くまで作業していただろう。顔色が悪い」
殿下の手が、私の頬をかすめるように伸びた。
驚いて身を固くする。
だが、その指先は私の髪に付いていた小さな葉を払っただけだった。
「……休むのも仕事のうちだ、リュシア。お前に倒れられては、私の計画が狂う」
計画。
やっぱり、そうなのだ。
この人は、私の技術を最大限に利用するための「資産」として私を見ている。
だからこそ、道具のメンテナンスと同じように、私の体調を気にしているのだ。
そう結論づけると、胸のざわつきが少しだけ収まった。
「……ご心配なく。私は頑丈ですから。それより、この月光草の回路、今の私ならもっと効率的な……」
「仕事の話は終わりだと言った」
殿下の声に、逆らえないほどの重みが増した。
彼は懐から、一通の羊皮紙を取り出した。
そこには、王家の印章である青い蝋が押されている。
「これは?」
「昨晩、陛下に提出し、承認を得た。……本日より、リュシア・エヴァンスを第二王子個人付きの専属魔導具職人に任命する」
頭が真っ白になった。
専属。
それは、私が他の誰の依頼も受けず、カイ殿下のためだけに技術を振るうという契約だ。
「……待ってください。私はまだ工房に配属されたばかりの新人です。それに、第一王子殿下との婚約の話もまだ……」
「兄上のことは気にするな。あの方は、お前が魔導具を打てることさえ、まともに理解していない」
カイ殿下が一歩、私との距離を詰める。
「お前を公爵家の令嬢としてではなく、職人として、そして一人の人間として、私が独占する」
独占。
その言葉の響きに、私はめまいを覚えた。
【ナレーション】
(この専属指名は、リュシアが恐れていた「第一王子との関わり」を断つ強力な盾となる。しかし同時に、彼女は王国で最も注目される第二王子の「唯一のお気に入り」という、最も目立つ立ち位置へ引きずり出されることになった)
「……拒否権は、ないのですか?」
「ない。これは王命だ」
カイ殿下はそう言って、私に羊皮紙を押し付けた。
震える手でそれを受け取る。
目立たず、静かに生きる。
そのはずだった私の計画が、音を立てて崩れていく。
目の前の男は、獲物を仕留めた猟師のような目で私を見つめている。
私は気づいていなかった。
彼が私のことを「有能な駒」だと言いながら、その指が私の手に触れた時、わずかに震えていたことに。
「……よろしく頼むぞ、私のリュシア」
その囁きに、私は返事もできず、ただ羊皮紙を強く握りしめた。




