第11話 契約と打算の温度
首筋に触れるカイ殿下の指先が、酷く熱い。
ペンダントの冷たい鎖とは対照的な、生きている人間の温度。
私は呼吸を止め、彼の手が離れるのをじっと待った。
やがて、彼はゆっくりと一歩下がり、再び私と視線を合わせた。
「……これで、お前の身に何かあれば、即座に私が駆けつける。だが、物理的な防護だけでは足りない」
殿下は机の上から、別の封筒を差し出した。
「これを読め」
私は震える手で封を切り、中の書類に目を通した。
……言葉を失った。
そこには「王室直轄特別保護対象者」という項目が並んでいた。
法的に私を第二王子の管理下に固定し、他者のいかなる介入……たとえそれが王太子であっても、拒絶できるという特権的な契約書だ。
「殿下、これは。……あまりに、度が過ぎています」
「なにがだ」
「私は公爵令嬢です。このような契約を結べば、私は事実上、お父様の庇護を離れ、殿下の『所有物』になると言っているようなものです」
「そうだ。その代わり、兄上もお前の父も、お前に無理な注文を出すことはできなくなる」
カイ殿下は淡々と告げた。
【ナレーション】
(王室庇護契約。それは本来、亡命した高名な学者や、国家機密を握る重要人物にのみ適用される法制度である。これを適用された者は、王室への絶対的な忠誠を誓う代わりに、あらゆる司法・政治的干渉から免除される。リュシアはこれを「究極の囲い込み」だと認識した)
私は書類を握りしめた。
(……徹底している。本当に)
カイ殿下にとって、私はそれほどまでに失いたくない「駒」なのだ。
第一王子派に私の技術が渡ることは、彼にとって軍事バランスが崩れることを意味する。
だからこそ、これほどまでに強固な檻を用意した。
「命以上に優先すべき成果はない」という言葉も、今なら納得がいく。
私が死ねば、彼の描く「国家修復計画」そのものが頓挫するからだ。
「……殿下。この契約を飲めば、私は一生、貴方の手から逃げられないということですね」
「逃げるつもりがあるのか?」
カイ殿下の問いは、低く、鋭かった。
「……いえ。私にはここしか居場所がありません。原作……いいえ、今の状況を考えれば、殿下のそばにいるのが一番安全だと理解しています」
「ならば迷う必要はない」
「ですが、条件があります」
私は顔を上げ、彼の瞳を真っ向から見た。
「私は道具ではありません。……契約後も、私の研究と工房での自由を完全に保証してください。殿下にとって不利益になる改造はいたしません。ですが、私のやり方を否定されるなら、この契約書には署名できません」
最後の抵抗だった。
「便利な道具」として、思考すら奪われるのは御免だ。
カイ殿下は、わずかに目を見開いた。
そして。
「くっ……ふはっ」
彼は不意に、声を上げて笑った。
私は驚いて立ち尽くす。
彼がこんな風に、腹の底から笑う姿なんて見たことがなかった。
「面白い女だ。この期に及んで、王子の庇護よりも自分の仕事場を心配するとは。……いいだろう。お前のその『職人気質』まで含めて、私は買った」
彼は笑みを収めると、私の手首をそっと掴んだ。
「契約の内容に、お前の自由意志の尊重を追加させよう。……明日、出発するまでに書き直しておく」
「……よろしいのですか? 管理しにくくなりますよ」
「お前は、そのままがいい」
彼の手のひらから、伝わってくる熱。
……どうして。
どうして、この人はそんなに優しそうな顔で私を見るのか。
道具の性能を確認するような、冷たい目ではない。
まるでお気に入りの宝物を、壊さないように慈しむような。
(……惑わされては駄目よ、リュシア)
私は自分に言い聞かせた。
彼は冷静沈着な、第二王子なのだ。
私という「才能」を、より効率よく働かせるために、機嫌を取っているだけ。
そうに決まっている。
「……分かりました。その条件が含まれるのであれば、私は殿下の提案をお受けします」
「正式な署名は、国境の任務が終わってからだ。それまでは、暫定的な受諾として扱う」
カイ殿下は私の手を放し、満足げに頷いた。
「今夜はもう戻れ。……リュシア、明日の朝、迎えに行く」
「はい。殿下……おやすみなさいませ」
私は深々と一礼し、逃げるように彼の私室を後にした。
【ナレーション】
(リュシアは、自分の価値をあくまで「技術」に求めた。彼女の謙虚さと前世の記憶が、カイの向ける情熱を歪めて解釈させていた。しかし、彼女がこの時結んだ「暫定的な契約」は、すでに王宮中の貴族たちにとって『事実上の婚約内定』として認識される準備が整っていた)
長い廊下を歩きながら、私は首元のペンダントに触れた。
まだ少しだけ、彼の指の熱が残っているような気がした。
混乱している。
安全を確保したはずなのに、何かが、取り返しのつかない方向へ動き出しているような。
私は冷たい夜風を求めて、足早に馬車へと向かった。
明日。
いよいよ、私は「悪役令嬢」が本来立つべきではない、戦場へと向かう。
私の技術で、この国の運命を変えてみせる。
その先に何が待っているのか、今はまだ、考えないことにした。




