第10話 囁かれる噂と夜の召喚
「永劫の盾」修復のための出発を明日に控え、私は資料室へ向かっていた。
石造りの長い廊下。
角を曲がろうとした時、数人の侍女たちが足を止め、こちらを見てひそひそと話し始めるのが分かった。
「……あの方よ。例のエヴァンス公爵家の」
「本当に出入りしているのね。あんな場所へ」
私は聞こえないふりをして、足早に通り過ぎた。
やはり、噂になっている。
「高慢な悪役令嬢が、工房で煤にまみれている」
彼女たちからすれば、格好の酒の肴なのだろう。
以前の私なら、ここで怒鳴り散らしていたかもしれない。
だが今は、胸を締め付けるのは怒りではなく、焦燥感だった。
目立てば目立つほど、断罪の刃は研ぎ澄まされる。
【ナレーション】
(リュシアは自分の悪評が広まっていると信じて疑わなかったが、実際に城内で囁かれていたのは「あの公爵令嬢の腕は本物だ」「第二王子を支える才女が現れた」という、驚嘆と賞賛の混じった噂であった)
「リュシア様!」
背後から声をかけられ、私は肩を震わせた。
振り返ると、そこには一人の若い騎士が立っていた。
以前、工房へ野苺を届けてくれたあの班の男だ。
「この度は、国境の任務に同行されるとか。……我ら一同、リュシア様がいてくださることを心強く思っております」
騎士は深々と頭を下げた。
私は一瞬、言葉に詰まった。
……心強い?
(カイ殿下に、そう言わされているのかしら)
そうでなければ、公爵令嬢が同行することを喜ぶはずがない。
足手まといだと思われて当然の状況なのだ。
「……ありがとうございます。期待を裏切らないよう、最善を尽くします」
私は事務的な微笑みを浮かべ、その場を離れた。
誰の視線も信じられない。
今はただ、目の前の仕事に没頭するしかない。
工房に戻ると、私は最後の仕上げに取り掛かった。
国境までの長旅。
馬車の揺れを吸収し、搭乗者の疲労を軽減する「制振魔導板」。
これを四隅に配置した特別仕様の馬車が、すでに中庭で待機している。
「よし……。これで魔力回路の安定性は確保できた」
私は額の汗を拭った。
ふと、窓の外を見る。
日はすでに落ち、王城は深い藍色に包まれている。
原作であれば、この時期にはすでに第一王子と聖女が仲を深めているはずだった。
だが、第一王子の噂を聞けば聞くほど、聞こえてくるのは彼の横暴な振る舞いばかりだ。
……シナリオはどうなっているのかしら。
聖女の姿を、一度も見ていない。
それがかえって、嵐の前の静けさのように感じられて怖かった。
コンコン、と扉が叩かれる。
「リュシア様。カイ殿下がお呼びです」
入ってきたのは、殿下の近習だった。
「殿下が? まだ何か、出発の準備に不備が?」
「いえ。殿下の執務室……ではなく、私室の方へお越しいただきたいとのことです」
私室。
その言葉に、指先が冷たくなった。
深夜の呼び出し。しかも公的な執務室ではない。
……まだ、安全だと思っていたのに。
【ナレーション】
(王族が異性を私室に呼ぶ。それは、夜会の誘いよりも遥かに深い意味を持つ。リュシアはその事実を理解していたが、同時に「自分は道具として、深夜の緊急調整を命じられるのだ」という歪んだ確信で、その恐怖を塗り潰していた)
近習に導かれ、私は王城の東翼へと向かった。
カイ殿下の私室の前。
重厚な扉の前に立つだけで、彼の持つあの圧倒的な魔力圧を感じる。
「入りなさい」
扉越しに聞こえた声は、いつも通り低く、感情が読み取れない。
私は意を決して扉を開いた。
部屋の中は、予想に反して質素だった。
壁一面の本棚と、大きな地図。
そして、暖炉の前で椅子に深く腰掛けるカイ殿下。
彼は上着を脱ぎ、シャツの袖を捲っていた。
その無防備な姿に、私はどこを見ていいか分からず視線を泳がせる。
「……夜分に失礼いたします、殿下。緊急の要件とお聞きしましたが」
「ああ。座れ」
彼は対面の椅子を指差した。
私は震える足で歩み寄り、椅子の端に腰を下ろした。
カイ殿下はしばらく無言で、揺れる火を見つめていた。
やがて、彼は机の上に置かれた小さな木箱を、こちらへ差し出した。
「これを持って行け」
「……これは?」
「お前は明日から、城の外へ出る。そこには城内のような警備はない」
彼は箱を開けた。
中に入っていたのは、細い銀のチェーンに通された、青い魔石のペンダントだった。
「……綺麗。でも、これだけではありませんね?」
私は職業病のように、その魔石に刻まれた術式を読み取ろうとした。
……絶句した。
幾重にも重なった防御障壁。
そして、発動と同時に「特定の位置」へと空間を繋ぐ、緊急転移の術式。
「殿下、これは……。王族が身を守るための、最上級の防護具ではありませんか」
「お前に何かあれば、国境の結界は直せない。これは、国の資産を守るための措置だ」
彼はそう言ったが、一度も私と目を合わせなかった。
「国の資産」。
その言葉に、私は少しだけ胸が痛んだ。
やはり、彼は私の技術しか見ていない。
このペンダントも、精密機械にカバーをかけるようなものなのだ。
「……ありがたく、拝借いたします」
私はペンダントを手に取った。
その時。
カイ殿下が椅子から立ち上がり、私の方へ歩み寄ってきた。
逃げる間もなかった。
彼の大きな手が、私の首筋に伸びる。
「……殿下?」
「じっとしていろ」
至近距離で、彼の体温を感じた。
石鹸の匂いと、微かな魔力の香りが鼻をくすぐる。
彼は迷いのない手つきで、私の首にチェーンを回した。
冷たい銀の感触が肌に触れる。
「……いいか、リュシア。一つだけ約束しろ」
耳元で、彼の吐息が聞こえた。
「危なくなったら、迷わずこれを使え。……たとえ、作業の途中であってもだ。お前の命以上に優先すべき成果など、この世には存在しない」
その声は、義務感から出るものにしては、あまりに切実で。
私は、自分が何と答えればいいのか、分からなくなった。
彼が私の肩に置いた手に、力がこもる。
この人は、何を考えているのだろうか。
私は混乱したまま、彼のシャツの襟元を見つめ続けるしかなかった。
引き返せない明日が、すぐそこまで迫っていた。




