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第六倉の影

長安の夜明け前。

薄雲の切れ間から差し込む光が、太極宮の屋根を静かに照らし始めた。

皇城の瓦は露を含み、きらりと反射する。

しかし、その美しさとは裏腹に、沈文琛の胸には、重い鉛が沈んでいた。


昨夜の死体、黒札、

そして死者が握っていた「六」の字——

すべてが昭明倉の第六倉を指している。


第六倉。

皇室用の特別倉庫。

外戚や上級貴族に関わる物資が収められ、

一般官吏は立ち入れない場所。


「……そこに踏み込むということは、

外戚派、つまり——楊国忠を敵に回すことと同じだ。」


御史台の廊下を歩きながら、沈文琛は唇を引き結んだ。

まだ十九歳。

頭の中の理想は燃え盛っているが、

政治の炎に触れれば、簡単に焼かれ死ぬ。


気のせいか、胸の奥に

「この真相に踏み込めば、一生戻れない」

という予感があった。


その思考を破るように、

御史台外門で待つ人影が声をかけた。


「沈御史、朝が早いのね。」


紫の官袍を風に揺らし、

杜若薇が立っていた。


提灯を持つ手が細いのに、

どこか芯の強さがあった。


「夜明け前に動く人間こそ、

最も疑われる者を捕まえやすい。」

沈文琛は軽く返した。


若薇は微かに笑みを浮かべる。


「まるで“御史らしい”言葉ね。

あなた、本当に十九歳なの?」


沈文琛は一瞬、言葉に詰まった。

褒められたのか、呆れられたのかわからない。

しかしその表情は、昨夜よりも柔らかい。


——不思議だ。

この女性の前では、心のどこかが落ちつく。


「では、第六倉へ向かいましょう。」

若薇が言うと、朝霧の中をゆっくり歩き出した。


彼女の歩幅は穏やかで、

音もなく進むように見えた。

沈文琛はその隣に並ぶと、

ゆっくりと呼吸が整っていくのを感じた。


(……十年後、二十年後、この瞬間をどう思い出すのだろうか?)

そんなふうに想像した自分に、驚いた。


まだ何も始まっていない。

けれど胸の奥で、何かが静かに芽吹いていた。


第六倉だいろくそう


昭明倉の外郭は朝日で赤く染まり、

鉄の門が巨獣の顎のように沈んで見えた。

倉庫を守る兵の表情はこわばり、

明らかに緊張を隠しているようだった。


沈文琛が符牒を示すと、副官が深く頭を下げた。


「御史様……

朝から“第六倉”に入るおつもりで?」


沈文琛は冷静に頷く。


「昨夜の死者が指し示していたのがここだ。

鍵の管理を記録した帳簿を見せてほしい。」


しかし副官は一瞬、ためらい、

視線を泳がせた。


その挙動に、沈文琛はすぐ反応した。


「何か問題があるのか?」

声が低くなる。


副官は唇を噛み、

申し訳なさそうに言った。


「……昨夜、第六倉の帳簿だけ、

“持ち出し記録”が消えているのです。」


沈文琛は息を吸い、

若薇は眉を鋭く跳ね上げた。


「帳簿が……ない?」

若薇の声は冷たかった。


「泥棒が帳簿を盗むか?」

沈文琛は問う。


「盗む必要があるのは——

“帳簿を見られて困る者”です。」


副官はさらに震える声で付け加えた。


「倉を開けた形跡はありません。

鍵も印も異状はなし。

しかし……倉の中身が減っているのです。」


沈文琛と若薇は目を合わせた。


——鍵を使い、倉印を破らず、

中身だけを盗むことができるのは。


「内部の高官しかいない。」


若薇の言葉が静かに落ちた。


「そして——

第六倉を開けられる高官といえば」


二人の脳裏に、同じ名が浮かんだ。


楊国忠。


外戚、権力の怪物、

皇帝の寵姫・楊貴妃の兄。


沈文琛は深い呼吸をした。


「まず倉を確認したい。

鍵を開けてくれ。」


だが副官は青ざめた。


「そ、それが……

“今朝から鍵が見つからない”のです。」


沈文琛は動きを止めた。


若薇の瞳が細くなる。


「鍵が……消えた?」


沈文琛は考えを巡らせ、

地面の土に跪いた。


倉の前に落ちている小さな木片を拾い上げる。

削れた跡。

乾いた泥。

土の踏みつぶし跡。


「若薇、見てください。」

自然に呼び名が口に出た。


若薇は少し目を見開くが、

そのまま身をかがめる。


沈文琛は、倉前の跡を示して説明した。


「昨夜、誰かが倉の前に来た形跡がある。

だが足跡は少ない。

つまり——一人ではなく、“抑え込まれて連れられた”ように見える。」


若薇はゆっくりと視線を倉門に移した。


「死者……

第六倉に入ったあと、連れ出されて殺された?」


「おそらく。」


「では、“鍵を持つ者”は内部にいる。

鍵を使った者も、帳簿を消した者も。」


沈文琛は立ち上がり、

冷たい風に晒されながら、静かに言った。


「若薇……

この件は、御史台の若造一人が扱うには重すぎる。」


若薇は彼を見上げた。

十九歳の青年の目は、恐れではなく——

覚悟で濡れていた。


「それでも、やるんでしょう?」

若薇の声はかすかに笑っていた。


沈文琛は少しだけ目を伏せ、

深く息を吐いた。


「……やらねばならない。」


若薇は提灯を持ち直し、

霧のかかる倉庫を見据えた。


「私も付き合うわ。

あなたがたとえ十九歳でも、

“真実を追う人”の目をしている。」


沈文琛は胸の奥の何かが溶けるような感覚を覚えた。

それが何なのかまだわからない。

それでも、心のどこかに確かに灯火がともった。


夜が明けきる前の薄光の中、

二人は並んで第六倉へ歩を進めた。


長安の深い闇は、

まだ何も語ってくれない。


だが——

その闇の奥には確実に、

巨大な影が潜んでいる。


そして、その影はまだ彼らの名を知らない。

だがいずれ必ず、

二人の人生を飲み込み、

また照らすことになる。

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