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昭明倉の黒札

長安の夜は、昼の喧騒がまるで嘘のように静まり返っていた。

皇城の上を漂う薄雲が月を隠し、街灯となる油灯さえ心許なく映える。

大理寺の白壁に月光が流れ込み、竹林が風に揺れるたびに、

影はまるで“何かが潜んでいる”ような形に伸び縮みした。


沈文琛は、死体が発見されたという報告を聞き、

大理寺から急ぎその現場へ向かっていた。


「杜判官、あの男は……口封じされた可能性が高いですね。」


隣を歩く杜若薇は、手に提灯を持ちながら、

振り返らずに答えた。


「目撃者が生きている限り、彼らにとっては危険だから。

太平公主の残党……十年隠れて生き延びた者たちは、

慎重で、そして容赦がない。」


その声は低く、しかし静かだった。

恐怖ではなく、冷ややかな確信を帯びている。

沈文琛は、その冷静さにわずかな驚きを覚える。


——この人は、ただの官吏ではない。

生死の境を見てきた者の声だ。


夜気が深まるほどに、長安の空気は重く、冷たく、

まるで濃い水の中を歩いているようだった。


やがて、死体の見つかった城外の水路へ到着した。


水路は狭く、湿った土と草の匂いが鼻に刺さる。

月が雲から顔を出し、死体の輪郭を青白く照らした。


若い役人の身体は横たわり、

首には深い一閃が走っている。

まるで抵抗する間もなく落とされたような、

一撃必殺の切り口だった。


沈文琛は息を整え、ゆっくりと膝をついた。

血はすでに乾き、黒く凝固している。

水路の浅い水が、彼の衣の裾を濡らした。


杜若薇は提灯を掲げ、低く囁く。


「沈御史、口を……」


男の口から取り出されたのは、

折り畳まれた小さな黒い紙片。


油の煤が練りこまれた、異様な黒さ。

紙の中央には、細い赤墨で描かれた“半月”の紋。


沈文琛は眉を寄せた。


「太平公主が好んだ紋……

“半月の影”。」


「そう。これは“死を意味する符号”として使われていたと聞く。」


若薇の声はわずかに震えていた。

冷静だが、心の奥では不安を抱えているのがわかる。


沈文琛は紙片を光に透かし、

その質感を確かめながら言った。


「この紙……普通の紙ではありませんね。

手触りと厚みが均一ではない。」


「紙ではなく、絹を混ぜた特製の札です。

密談や暗号に使われる。

長く保存でき、火や水に強い。」


若薇はわずかに目を細める。


「数年前、叔父たちが処理した“太平旧事”の際、

同じ黒札が押収されたと聞いています。」


沈文琛の胸がざわめいた。


太平公主は死んだ。

だがその残党は、

いまだ闇の奥で息を潜め、生き続けている。


沈文琛は死体の手元を調べ、

僅かな砂を指で拾い上げた。


「杜判官、この砂……倉庫の内側に撒かれる防虫砂と似ていませんか?」


杜若薇は驚いたように沈文琛を見る。


「……気づいたの?」


「昨夜、昭明倉を歩いたときに踏んでしまって。

靴底の感触が同じでした。」


若薇は提灯を近づけ、砂を照らした。


「確かに、この色と粒の大きさ……

昭明倉の“内倉”にしか使われていない砂です。」


沈文琛は息を整えた。


「つまり、亡くなった役人は昨夜、

確実に昭明倉の内部にいた。」


「そして、その後に消される理由があった。」


若薇の瞳に影が差す。


沈文琛は、死体の手が微かに握っているものに目を留めた。

慎重に指を開く。


そこには、小さな木片。

薄く削られた木には、粗い筆跡で一文字だけ刻まれていた。


「六」


沈文琛の胸に戦慄が走る。


「六……?六庫(第六倉)のこと?」


若薇も息を呑む。


昭明倉には複数の倉があり、

その中でも“第六倉”は皇室用の特別倉庫。

一般官吏は立ち入りできない。


しかも、そこには……

近年の豪奢な宮廷楽器、装飾具、

そして楊氏一族関係者の私物までもが保管されていた。


「沈御史。」

若薇の声が、微かに震えていた。

「これは……外戚派が関わる案件かもしれない。」


「太平公主の残党が……外戚楊氏に手を伸ばしている?」

沈文琛は呟いた。


「それとも——」


若薇は息をのみ、沈文琛を見つめ返した。


「外戚が、太平公主の残党を利用しているのか。」


沈文琛の心臓が大きく脈打つ。


どちらにせよ、

これは小さな盗難ではない。


昭明倉——

朝廷の中枢に近い倉庫で起きた不自然な失踪。

内部犯行を示す砂。

口封じされた役人。

そして“黒札”。


太平公主の影が再び動いたのか、

外戚が裏で糸を引いているのか、

それとも両者の何かが交錯しているのか。


沈文琛は立ち上がり、深夜の空を見上げた。


長安の雲が、月を覆い隠すように流れていく。

風が草を揺らし、遠くで犬が吠えた。


この都は――

明かりの数だけ陰謀がある。


それを暴き出すのが、

自分の役目だ。


「杜判官。」沈文琛は静かに言った。

「第六倉——まずはそこから調べましょう。」


若薇は頷き、提灯を強く握った。


「分かりました。命を懸ける覚悟で。」


沈文琛は、もう一度死体を見下ろした。

冷たい水が袖口を濡らしたが、

その冷たさよりも、胸の奥に燃える感覚の方が勝っていた。


——闇が深いほど、光は必要だ。


長安の霧はまだ消えない。

その深い霧の中へ、

二人の影が並んで歩き出した。

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