長安、朝霧の中で
天宝元年(742)春。
長安の朝はまだ薄い白霧に包まれ、
朱雀門の屋根も、太極宮の石畳も、
まるで見え隠れする夢のようだった。
城楼の鼓が一つ低く鳴る。
その音に押し出されるように、
大唐最大の都がゆっくりと動き出していく。
その朝の霧の中を、一人の若者が歩いていた。
監察御史——沈文琛、十九歳。
今日が初めての“朝参”だ。
御史台の重い棟門の前に立ち止まった瞬間、
思わず息を呑んだ。
その門は、堂々たる威容以上に、
「ここに入れば二度と後戻りできぬ」
という無言の圧を放っていた。
「新人のくせに、ずいぶん早いな。」
背後から声がした。
振り返ると、冷静な眼差しを持つ青年、裴冕が立っていた。
「裴御史、おはようございます。今日が初めてですので、遅れては……」
「朝参に遅れる御史などおらん。怖いのは遅れではなく、
間違った人間の機嫌を損ねることだ。」
裴冕の視線の先、霧の奥には太極宮がある。
その向こうには皇帝・唐玄宗李隆基、
そして近年権勢を強める外戚・楊氏の影。
沈文琛の胸は強く脈打つ。
この場所で、正義を語ることがどれほど危険なのか、
彼はまだ知らない。
朝参後、御史台へ戻った沈文琛は、
御史大夫・劉秉仁に呼ばれた。
劉大夫は机上に密封した竹簡を置き、
低声で言う。
「昭明倉から、銀二千両と麦四千石が消えた。
戸部も吏部も互いに責任を押しつけておる。」
沈文琛は息を呑む。
昭明倉——皇室と中央官庁を支える巨大な倉庫だ。
「倉印は破られていない。見回りも異常なし。
つまり内部の人間が“正しい手順”で開けた。」
劉大夫の目が鋭く光る。
「問題は、太平公主の残党が関わっているとの密告があったことだ。」
沈文琛の背筋に冷たいものが走る。
太平公主の死から十数年。
その影がまだ長安で生きているというのか。
「沈文琛、これがお前の初任務だ。
だが……目立つな。命が惜しければ。」
夕刻。
沈文琛は、大理寺へ向かった。
昭明倉の鍵印管理は大理寺の管轄であり、
調査には彼らとの協力が不可欠だ。
竹林の影が長く伸びる静かな庭で待っていたのは、
紫の官袍をまとった若い女性だった。
「あなたが、沈文琛御史?」
凛とした声。
まっすぐな瞳。
杜若薇——大理寺外判官。
叔父は名高い大理寺少卿。
「昭明倉の件、こちらでも調べています。
倉印は破られていません。つまり——
内部協力者がいます。」
沈文琛が言葉を失う前に、
若薇は机の上の木札を指した。
「当直三名のうち、一名が行方不明です。」
「逃げた……?」
「逃げたのか——」
若薇の瞳が月光に揺れる。
「それとも、消されたのか。」
沈文琛は竹簡を差し出した。
「御史台の密奏では、
『倉庫に太平公主の紋章に似た紙片が残されていた』
とあります。」
若薇が小さく息を呑む。
その瞬間――
大理寺の外で、人の走る影が見えた。
「沈御史!杜判官!大変です!」
役人が血相を変えて駆け込む。
「行方不明だった当直官が……
城外の溝で死体となって見つかりました!
喉を一刀で斬られ、
口には黒い紙が……!」
黒い紙。
太平公主の残党が密かに使用していた“死の印”。
若薇と沈文琛は、静かに視線を交わした。
夜霧は深まり、
長安の都は静かに、
しかし確実に巨大な闇へと沈み始めていた。




