第9話:魔王、覚醒。
都庁ビルの中は、不気味なほど静かだった。
俺とルナは、いくつもの階を駆け上がり、数えきれないほどの天使の番兵たちを退けてきた。俺が結界で攻撃を防ぎ、その隙にルナが闇の力で敵を消し去る。セーフハウスでの訓練と、これまでの戦いで培われた俺たちの連携は、自分たちでも驚くほどうまくいっていた。
だが、最上階へと続く最後の階段を上るにつれて、肌を刺すような神聖なエネルギーは、どんどん濃密になっていく。息をするだけで、肺が焼けるようだ。
そして、ついに俺たちは、展望フロアへと続く、巨大な扉の前にたどり着いた。
「……この先に、ヤツがいるんだな」
「うむ。覚悟は良いか、下僕」
「とっくにできてる」
俺たちは顔を見合わせると、重い扉を押し開けた。
そこに広がっていたのは、信じられない光景だった。
展望フロアの壁や天井は全て消え失せ、代わりに、宇宙のような、無数の星が輝く空間が広がっていた。そして、その中心。東京の夜景を、まるでミニチュアのように眼下に見下ろす場所に、その男は静かに立っていた。
大天使、ウリエル。
彼は、ゆっくりとこちらを振り返った。
穏やかな笑みを浮かべている。だが、その瞳には、何の感情も映っていなかった。俺たちのことなど、道端の石ころくらいにしか思っていない、絶対的な存在の目だった。
「―――よく来ました、穢れたる魂と、それに与する人間よ」
頭の中に、直接、声が響き渡る。
その声だけで、全身の血が凍りつくような、圧倒的なプレッシャーが俺たちを襲った。
「抵抗は無意味です。世界の再生のために、静かに光へ還りなさい」
ウリエルが、そっと指を一本、こちらに向ける。
ただそれだけの動作で、彼の指先から、太陽のように眩い光の球が放たれた。
「させるかよ!」
俺は、ありったけの力で叫んだ。
(イメージしろ! 分厚い衣だ! 決して焦げ付かない、最強の唐揚げの衣を!)
「喰らいやがれ! 『からあげウォール・スペシャル』!」
俺の目の前に、今までで一番分厚く、そして濃いオレンジ色に輝く防御結界が出現した。
だが、ウリエルの光の球は、そんな俺のけなげな壁を、まるで熱したナイフがバターを切るように、いとも簡単に貫通した。
「なっ!?」
結界は、一瞬で蒸発して消え失せる。
残った光のエネルギーが、俺の体を吹き飛ばした。
「ぐはっ!」
俺は壁に叩きつけられ、その場に崩れ落ちた。全身が痺れて、力が入らない。
「下僕!」
ルナが、怒りに震える声を上げた。
彼女の体が黒いオーラに包まれ、その影から無数の棘がウリエルへと殺到する。
だが、ウリエルは微動だにしない。彼に届く寸前で、全ての影の棘は、聖なる光に触れて浄化され、霧のように消えてしまった。
「……哀れですね。それが、あなたの全力ですか、元魔王ルナ」
ウリエルは、心底つまらなそうに言った。
次元が違う。
ルナが言っていた言葉の意味を、俺は骨の髄まで理解した。
唐揚げも、たこ焼きも、俺のちっぽけな結界も、この絶対的な存在の前では、何の意味も持たない。
ウリエルは、もう俺たちに興味を失ったようだった。
彼は、再び東京の夜景に視線を戻すと、両手をゆっくりと広げた。
彼の背後に浮かぶ、巨大な光の紋様が、さらに輝きを増していく。
『聖別計画』の、最終段階が始まろうとしているんだ。
「終わりです。この星の、全ての穢れと共に、眠りなさい」
ウリエルが、ルナに向かって、そっと手をかざす。
彼の掌に、今までとは比べ物にならないほど巨大で、そして純粋な、光のエネルギーが集まっていく。
あれを食らったら、終わりだ。
ルナの魂ごと、この世界から完全に消滅させられてしまう。
ダメだ。
それだけは、絶対にダメだ。
俺は、痺れる体に鞭を打ち、床を蹴った。
理屈じゃない。考えるより先に、体が動いていた。
「航汰!?」
ルナの、初めて俺の名前を呼ぶ声が聞こえた。
俺は、彼女の小さな体をかばうように、その前に飛び出した。
そして、世界が、光に包まれた。
熱さも、痛みも感じなかった。
ただ、真っ白な光の中で、俺の意識はゆっくりと薄れていく。
ああ、そうか。
俺、死ぬのか。
まあ、いいか。
ただのサラリーマンが、神様にケンカを売ったんだ。上出来すぎるくらいだ。
最後に、頭に浮かんだのは、世界の平和でも、東京の未来でもなかった。
初めて会った、雨の日の路地裏。
俺の作った飯を、夢中で食べる、小さな黒い背中。
「下僕、腹が減ったぞ」と、偉そうに響く声。
……ああ、そうだ。
俺、あいつが腹いっぱい飯を食って、だらしなく昼寝してる、あの光景が、好きだったんだ。
それだけで、良かったのにな。
「……る……な……」
俺の口から、最後の言葉がこぼれた。
そして、俺の意識は、完全に闇に沈んだ。
「………………」
「………………」
「………………下僕……?」
ルナは、目の前でゆっくりと倒れていく、航汰の姿を、ただ呆然と見つめていた。
自分の身代わりになって、光に焼かれた、ただの人間。
いつも文句ばかり言って、でも、必ず温かいご飯を作ってくれた、不器用で、優しい飼い主。
「……あ……ああ……」
ルナの青い瞳から、ぽろり、と涙がこぼれ落ちた。
そして、その涙が、航汰の血だまりに落ちた瞬間。
何かが、変わった。
悲しみ。
後悔。
そして、魂を焦がすほどの、燃え盛るような怒り。
守りたい。
この男だけは、絶対に、失いたくない。
その強い想いが、引き金になった。
ルナの体の奥底で、砕け散って、失われたはずの『何か』が、再び鼓動を始めた。
航汰を守りたいという純粋な想いが、バラバラになった魔王の核の欠片を、奇跡的に一つに結びつけていく。
「……あああああああああああああああああああああっ!!」
ルナの体から、凄まじい黒いオーラが、嵐のように吹き荒れた。
展望フロアの床がひび割れ、星空だったはずの空間が、闇に塗りつぶされていく。
「ほう……?」
ウリエルが、初めて、わずかに驚いたような声を上げた。
彼の目の前で、小さな黒猫の体が、光を放ちながら、その姿を変えていく。
体はしなやかな女性のシルエットへと変わり、美しい黒髪が伸びていく。頭からは、威厳のある二本の角が生え、その背中からは、夜の闇そのものでできたような、巨大な翼が広がった。
そして、ゆっくりと開かれたその瞳は、燃えるような、真紅の色をしていた。
そこに立っていたのは、もう、小さな猫ではない。
圧倒的な存在感を放つ、美しく、そして恐ろしい、真の『魔王』の姿だった。
彼女は、床に倒れる航汰を、そっと優しい眼差しで見下ろした。
そして、ゆっくりと顔を上げ、憎しみの全てを込めて、目の前の大天使を睨みつけた。
その口から放たれた声は、もはや猫のものではない。
威厳に満ちた、魔王の声だった。
「―――ウリエル。貴様だけは、我が魂にかけて、塵も残さず消し去ってやる」




