第7話:大天使、降臨。
セーフハウスでの合宿生活が始まって、一週間が過ぎた。
俺の結界術は、まだお世辞にも完璧とは言えないまでも、なんとか形にはなってきた。料理に例えるなら、「レシピを見ながらなら、なんとか作れる」レベルだ。サクサクの唐揚げの衣をイメージすることで、防御結界は温かいオレンジ色の光を放つようになった。
一方のルナは、俺の作る高カロリー食と、お気に入りのハンディマッサージャーのおかげで、その身に宿す魔力量が、日に日に増していくのが分かった。キャットタワーのてっぺんで昼寝をする彼女の周りには、時々、小さな黒い稲妻のようなものがバチバチと走っている。不気味だが、頼もしい光景だった。
俺とルナの間には、いつの間にか、言葉にしなくても伝わる、奇妙な信頼関係のようなものが生まれていた。
俺はルナのために飯を作り、ルナは俺の飯を食って強くなる。
俺はルナを守るために結界の練習をし、ルナはその結界の中で、俺を守るために牙を研ぐ。
俺たちは、二人で一つの、奇妙なコンビになっていた。
そんな、束の間の平穏が続いていた、ある日の午後。
その時は、突然訪れた。
訓練スペースで、俺が結界の練習をしていると、セーフハウス全体に、けたたましい警報音が鳴り響いた。
「これは……!?」
俺が驚いていると、司令室のメインモニターを見ていた和泉さんが、今まで聞いたこともないような、緊張した声で叫んだ。
「総員、第一級戦闘態勢! 目標、東京上空に出現!」
壁一面の巨大モニターに、カメラが捉えた東京の空の映像が映し出される。
青く晴れ渡っていたはずの空の中心に、まるで穴が空いたかのように、巨大な光の渦が生まれていた。渦の中心は、眩いばかりの黄金色に輝いている。
テレビのニュース速報も、一斉にその映像に切り替わった。
『ただいま、東京上空に、謎の巨大な光が発生した模様です! 専門家も、原因は全く分からないと……』
街は、大パニックに陥っていた。人々が空を見上げ、叫び声を上げ、逃げ惑っている。
俺は、その光景を、ただ呆然と見つめていた。
間違いない。
ついに、来たんだ。
「エネルギー反応、計測不能! 凄まじい神聖エネルギーです……! 間違いありません、大天使ウリエルです!」
和泉さんの言葉と共に、光の渦の中心から、一体の存在がゆっくりと地上へと降りてくる。
美しい銀色の長髪をなびかせ、純白のローブをまとった、穏やかな笑みを浮かべた男。
先日、ホログラムで見た、あの姿だ。
ウリエルは、まるでそこに階段があるかのように、ゆっくりと空を歩き、やがて、新宿にある東京都庁の、一番高い塔のてっぺんに、音もなく降り立った。
彼が地上に降り立った瞬間、東京を覆っていた光の渦は、さらにその輝きを増した。
そして、俺たちの頭の中に、直接、声が響き渡ってきた。
それは、男の声でも女の声でもない、神々しく、そして一切の感情を感じさせない、絶対的な存在の声だった。
《―――我が名は、ウリエル。天界の意志を代行する者》
その声は、おそらく、東京中にいる全ての人間の耳に、同時に届いていたのだろう。
街の喧騒が、ぴたりと止んだ。
《穢れたる地上の子らよ。これより、この東京の地において、神の御業たる『聖別』を執り行う。これは、罰ではない。古き世界を終わらせ、新しき聖域を創造するための、祝福である》
ウリエルが、そっと右手を掲げる。
すると、彼の背後に、巨大な魔法陣のような、光の紋様が描き出された。
その紋様は、まるで生き物のように脈動し、空全体へと広がっていく。
《抵抗は、無意味。ただ、安らかに、聖なる光にその身を委ねよ。世界の再生の礎となることを、光栄に思うが良い》
その言葉を最後に、ウリエルは静かに目を閉じた。
だが、彼の背後で広がり続ける光の紋様は、どんどんその輝きを増していく。
都庁の周辺から、目に見えない壁のようなものが広がり、街の一部を隔離していくのが分かった。おそらく、あの内側が、聖別計画の中心地になるのだろう。
セーフハウスのモニターに、無数のデータが表示される。
《都庁を中心に、半径三キロ圏内が、強力な神聖結界によって封鎖されました! 外部からの物理的干渉、ほぼ不可能です!》
オペレーターの一人が、悲鳴のような声を上げた。
決戦の火蓋は、切って落とされた。
いや、これはもう、戦いですらない。
ただの一方的な、世界の終わりを告げる儀式だ。
俺は、自分の手が、ぶるぶると震えているのに気づいた。
怖い。
今まで戦ってきた天使たちとは、比べ物にならない。
画面越しに伝わってくるだけで、魂が凍りつきそうなほどの、圧倒的なプレッシャー。
あんなものに、俺たちが勝てるわけがない。
俺が絶望に打ちひしがれていると、足元で、ふわりと柔らかいものが擦り寄ってきた。
見ると、ルナが俺の足に、自分の体をすりつけていた。
彼女も、震えていた。
かつて自分を打ち破った宿敵の登場に、恐怖を感じないはずがない。
だが、その青い瞳は、モニターに映るウリエルを、まっすぐに見据えていた。その瞳の奥には、恐怖よりも強い、怒りの炎が燃えているのが分かった。
俺は、ルナの小さな頭を、そっと撫でた。
震えが、少しだけ収まった。
そうだ。
俺は、もう覚悟を決めたじゃないか。
怖いのは、当たり前だ。相手は、神様みたいなもんなんだから。
でも、だからって、黙ってこの日常を明け渡すつもりなんて、これっぽっちもない。
俺は、隣に立つ和泉さんに向き直った。
彼女も、厳しい表情でモニターを睨みつけていた。
「和泉さん」
「……はい」
「俺たちを、都庁まで送ってください」
俺の言葉に、和泉さんは驚いたように目を見開いた。
だが、すぐにその表情は、決意を固めた戦士の顔へと変わった。
「……承知しました。これより、最終作戦を開始します。『キャビネット』が持つ全ての技術と情報を、あなたたちのために使います。生きて、帰ってきてください」
「もちろんです」
俺は、不敵に笑ってみせた。
心の中では、まだ足がガクガク震えている。
でも、もう、俺は一人じゃない。
隣には、最強の腹ペコ魔王様がいて。
背中には、クールで有能なエージェントがついていて。
そして、俺の手には、世界一美味い唐揚げのレシピがある。
「行くぞ、ルナ」
(うむ、下僕よ!)
俺とルナは、顔を見合わせた。
目指すは、敵の本拠地、東京都庁。
これから始まるのは、世界の運命を賭けた戦いなんかじゃない。
ただのサラリーマンが、愛する日常と、腹ペコの猫を守るための、ちっぽけで、だけど絶対に負けられない、最後の戦いだ。
俺は、固く拳を握りしめ、来るべき決戦の地へと、歩き出した。




