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第6話:束の間の訓練とマッサージチェア。

覚悟を決めたお好み焼きの夜から数日後。

俺の日常は、その姿を大きく変えていた。

行き先は会社ではなく、和泉さんが手配した『キャビネット』のセーフハウス。都心から少し離れた倉庫街にある、秘密のハイテク基地だ。

俺はそこで、来るべき決戦に向けた、奇妙な合宿生活を送っていた。


「いいですか、田中さん。結界術の基本は、精神の集中と、術式の正確なトレースです。あなたの指先をペン、空間をキャンバスだと認識してください。そして、頭の中に完璧な『完成図』を描くのです」


だだっ広い訓練スペースで、俺は和泉さんの指導のもと、空中に指を滑らせていた。

目の前には、ホログラムで映し出された複雑な魔法陣のような紋様。俺の任務は、これを霊的なエネルギーで描き出し、天使の攻撃を防ぐ『防御結界』を習得することだ。

和泉さん曰く、「料理も一種の術式です。正しい材料を、正しい手順で組み合わせれば、美味しいという『結果』が生まれる。結界も同じです」とのこと。

とんでもない無茶ぶりに聞こえるが、もうやるしかない。


指先に、意識を集中させる。

イメージしろ。俺が今描いているのは、聖なる力を弾く、光の壁だ。料理で言うなら、これは生地作り。小麦粉と水と卵を、完璧な比率で混ぜ合わせる、最も重要な工程だ。


だが、そうすればするほど、余計な雑念が頭に浮かんできた。

(……あ、今日の特売の卵、買い忘れたな)

(帰りにスーパー寄らないと……)

(そういえば、トイレットペーパーも残り少なかったような……)


その瞬間、俺が描いていた光の線が、ふっと霧のようにかき消えた。


「……集中力が途切れましたね」

背後から、和泉さんの冷静な声が飛んでくる。

「すみません……」

「お好み焼きの生地を混ぜている最中に、テレビのクイズ番組に気を取られるようなものです。それでは、決して美味しいお好み焼きは作れません」


的確すぎる料理の例えに、ぐうの音も出ない。

もう一度、気合を入れ直して術式を描き始めるが、今度は焦りすぎて線を一本間違えてしまった。紋様はぼんやりと光ったかと思うと、パン! とシャボン玉のように弾けて消えてしまう。


「手順を間違えましたね。それは、ハンバーグをこねる前に、玉ねぎを炒めるのを忘れるのと同じくらい、致命的なミスです」

「うっ……。すみません……」


もう、心が折れそうだ。

俺には、やっぱり才能なんてないんじゃないか。


俺が床にへたり込んでいる間、ルナは別の任務に励んでいた。

彼女の役割は、ひたすら食べて、決戦の時に備えて魔力を最大限まで蓄えること。

セーフハウスのキッチンで、俺は毎日、高カロリーで、ルナが言うところの「魔力変換効率の良い」食事を作り続けている。山盛りの唐揚げ、大皿のナポリタン、てんこ盛りのカツ丼。俺のレパートリーは、日に日に茶色く、そして脂っこくなっていった。


「うむ! 見事な布陣だ、下僕よ!」

テーブルの前に陣取ったルナが、目をキラキラと輝かせながらカツ丼にがっついている。その姿は、もはや元魔王の威厳など微塵もない。ただの、食いしん坊な黒猫だ。


そして、彼女にはもう一つ、重要な日課があった。

以前、秋葉原へ向かう前に立ち寄った家電量販店。あそこで遭遇したマッサージチェアの衝撃が、よほど忘れられなかったらしい。

その話を聞いた和泉さんは、どこからか猫用の小さなハンディマッサージャーを調達してきた。


「外部からの継続的な物理刺激は、魔力循環の促進に極めて有効です」

和泉さんは真顔でそう言って、俺の訓練の合間に、ルナをマッサージすることを許可した。


訓練に疲れ果てた俺が床に座り込んでいると、食事を終えたルナが、てくてくと歩み寄ってきた。そして、俺の足元にちょこんと座ると、ハンディマッサージャーのスイッチを、器用に前足で押した。


ウィーン……。

心地よい振動が、ルナの体を優しくほぐしていく。

彼女は、気持ちよさそうに目を細めながら、俺に言った。


「……何を落ち込んでいる、下僕。貴様らしくもない」

「だって、全然うまくいかないんだよ。俺なんかが、本当に天使の攻撃を防げる壁なんて、作れるのか……?」


弱音を吐く俺に、ルナはふん、と鼻を鳴らした。


「当たり前だ。貴様は、ただの人間。非力で、愚かで、すぐ腹が減る、ただの下僕だ」

「そこまで言わなくてもいいだろ……」

「だがな」


ルナは、マッサージャーの振動に身を任せながら、続けた。


「貴様の作る飯は、美味い。我は、認めよう。貴様の作る唐揚げは、天界のどんな神聖な供物よりも、我が魂を奮わせる。貴様が焼くお好み焼きは、魔界のどんな晩餐よりも、我が心を満たす」


それは、彼女なりの、最大限の賛辞だった。


「結界とやらが、料理と同じだというのなら、貴様にできぬはずがない。貴様は、ただの料理人ではない。この魔王ルナが、その味を認めた、世界一の料理人なのだからな。……もっと、自信を持つが良い」


そのぶっきらぼうな励ましの言葉が、俺のささくれだった心に、じんわりと染み込んでいった。

そうだ。

こいつは、俺の料理を信じてくれている。

俺が作った唐揚げを武器に、天使と戦ってくれたんだ。

俺が、こいつを信じないでどうする。


「……ありがとな、ルナ」


俺は、ルナの頭をそっと撫でた。彼女は、気持ちよさそうにゴロゴロと喉を鳴らした。


俺は、もう一度立ち上がった。

そして、再びホログラムの紋様に向き直る。

今度は、雑念を振り払うために、あることをイメージした。


これは、結界じゃない。

これは、ルナを守るための、熱々で、サクサクの、巨大な唐揚げの衣だ。

どんな攻撃も、このジューシーな衣が、優しく受け止めてくれる。


守りたい。

あいつが、腹いっぱい飯を食って、だらしなく昼寝できる、そんな日常を。


俺は、祈るような気持ちで、指先を動かした。

ゆっくりと、丁寧に、レシピの工程を一つ一つ確認するように。

混ぜて、こねて、形を整えて、揚げる。


すると、どうだろう。

今までとは比べ物にならないくらい、指先から放たれる光の線が、力強く、そして安定していた。

俺が描いた紋様が、淡いオレンジ色の、温かい光を放ち始める。


それは、まだ不格好で、今にも消えてしまいそうな、小さな光の盾だった。

だが、確かに、そこに『形』を成して、存在していた。

ほんの数秒間だけ。


「……できた……」


俺は、自分の指先から生まれた小さな奇跡を、呆然と見つめていた。

それは、天使の強力な攻撃を防げるような、完璧な結界にはほど遠い。

でも、ゼロじゃなかった。

確かな、第一歩だった。


後ろで見ていた和泉さんが、小さく息をのむのが分かった。

ルナが、満足そうにひとつ、にゃあと鳴いた。


決戦の日は、刻一刻と近づいている。

でも、俺はもう、何も怖くなかった。

俺の手には、世界最強のレシピと、最高の相棒がついているんだから。

俺は、汗をぬぐうと、不敵に笑ってみせた。

さあ、訓練の続きだ。もっと美味い『結界』を、作ってやる。

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