第5話:覚悟のお好み焼き。
秋葉原からの帰り道、満員電車の揺れがやけに現実離れして感じられた。
車内の喧騒も、色とりどりの広告の光も、全てが遠い世界の出来事のようだ。
俺の頭の中は、さっき堕天使ラミエルから聞いた、たった一つの言葉で埋め-尽くされていた。
『聖別計画』
東京に住む、一千万の生命エネルギーを刈り取る。
そのための起動キーが、ルナの『魔王の核』。
冗談じゃない。
スケールが大きすぎて、もはや理解が追いつかない。
今までは、俺とルナが、変な天使たちに命を狙われているだけの、個人的なトラブルだと思っていた。唐揚げやたこ焼きで撃退できる、どこかコミカルな戦いだと思っていた。
だが、違った。
俺たちが今立っているこの場所は、とんでもなく巨大で、悪質な計画の、まさに中心地だったんだ。
俺の肩に下げたキャリーバッグの中は、いつもなら騒がしいルナが、珍しく押し黙っていた。
ラミエルの口から出た『大天使ウリエル』という名前。それが、かつて彼女を打ち破った宿敵の名だと知ってから、彼女はずっとこの調子だ。
メッシュの窓から見える青い瞳は、ただ一点を、虚空を見つめているようだった。
アパートに帰り着いても、部屋の中には重い沈黙が流れていた。
俺はスーツの上着を脱ぐと、そのままソファにどさりと体を沈めた。
どっと、疲れが全身にのしかかる。
「……なあ、ルナ」
俺は、キャリーバッグから出てきて床にうずくまっているルナに、力なく話しかけた。
「……ウリエルってやつは、そんなに強いのか?」
ルナは、しばらく何も答えなかった。
やがて、絞り出すような、か細い声が頭の中に響いてきた。
「……次元が違う」
その声は、震えていた。
いつもの、尊大で自信に満ち溢れた魔王様の声ではなかった。ただの、恐怖に怯える小さな生き物の声だった。
「奴の前では、我の魔法も、我が配下の軍勢も、全てが無意味だった。ただ、圧倒的な光の前に、全てが塵のように消し去られた……。我は、何もできなかった。ただ、砕け散る自分の核を、見ていることしか……」
ルナの言葉は、彼女が負った傷の深さを物語っていた。
それは、ただ戦争に負けたというだけじゃない。存在そのものを否定され、心を折られた、絶対的な敗北の記憶だった。
俺は、かける言葉が見つからなかった。
最強の魔王様でさえ、手も足も出なかった相手。
そんなヤツが、この東京にやってくる。
俺たちに、一体何ができる?
逃げるか?
どこへ? 日本中、いや、世界中のどこにいたって、あいつらは追いかけてくるだろう。
それに、もし俺たちが逃げたら、この街はどうなる?
俺が毎日通勤している会社も、たまに飲みに行く居酒屋も、このボロアパートも、全部、消えてしまうのか?
そこに住んでいる、顔も知らないたくさんの人たちが、皆……。
「……無理だ」
俺の口から、本音がこぼれた。
「無理だよ、そんなの……。俺は、ただのサラリーマンなんだぞ。世界の危機とか、東京の運命とか、そんなもん背負えるわけないだろ……!」
俺は頭を抱えた。
怖い。
心の底から、怖いんだ。
俺は英雄じゃない。特別な力なんて、何一つ持っていない。
得意なことといえば、ちょっと料理がうまいことと、ゴキブリ退治が素早いことくらいだ。
そんな俺が、神様みたいな連中と戦って、勝てるわけがない。
部屋の隅で、ルナがびくりと体を震わせた。俺の弱音を聞いて、さらに絶望を深めているのかもしれない。
インカムの向こうの和泉さんも、黙って俺たちのやり取りを聞いている。彼女も、政府のエージェントとして、この事態の深刻さを誰よりも理解しているはずだ。
重苦しい空気が、部屋を支配する。
もう、おしまいだ。
俺たちが何をしようと、結末は変わらないんじゃないか。
そう思った、その時だった。
ぐぅぅぅぅぅぅ……。
静まり返った部屋に、盛大な腹の音が鳴り響いた。
音の発生源は、床にうずくまっていたルナだった。
彼女は、はっとしたように自分の腹を押さえ、バツが悪そうに顔をそむけた。
その音を聞いた瞬間、俺の頭の中で、何かが切り替わった。
そうだ。
腹が、減ってるんだ。
絶望してても、怖がってても、腹は減る。
俺も、ルナも、生きてるんだ。
俺は、ゆっくりとソファから立ち上がった。
そして、無言でキッチンへと向かう。
冷蔵庫を開け、中に入っていた食材を取り出した。
豚肉、キャベツ、卵、小麦粉。
「……下僕……?」
ルナが、不思議そうな声を上げた。
俺は、彼女の問いには答えず、ただ黙々と調理を始めた。
キャベツを、一心不乱に千切りにする。
ザク、ザク、ザク。まな板を叩くリズミカルな音が、部屋の沈黙を破っていく。
豚肉を焼き、ボウルで生地をかき混ぜる。
熱したフライパンに油をひき、生地を流し込む。
ジュウウウウウウ……。
ソースの香ばしい匂いが、部屋に満ちていく。
俺が作っていたのは、お好み焼きだった。
特別な料理じゃない。俺が時々、無性に食べたくなって作る、ただの粉もんだ。
何かに取り憑かれたように料理に集中しているうちに、俺の頭の中は、少しずつ整理されていった。
そうだ。俺は、英雄じゃない。
世界なんて、救えるわけがない。
でも。
俺は、焼きあがったお好み焼きを皿に乗せ、ソースとマヨネーズを綺麗にかけた。
鰹節を乗せると、熱でゆらゆらと踊りだす。
俺は、その皿を、ルナの前にそっと置いた。
そして、自分の分もテーブルに置き、椅子に座った。
「食えよ、ルナ」
俺は、ぶっきらぼうに言った。
ルナは、目の前のお好み焼きと、俺の顔を、交互に見つめている。
「……俺は、ただのサラリーマンだ。だから、世界がどうなるとか、一千万人の命がどうとか、正直、実感が湧かない。怖すぎて、考えたくもない」
俺は、お好み焼きを一口、頬張った。
うん、美味い。我ながら、最高の出来だ。
「でもな」
俺は、まっすぐルナの青い瞳を見つめて、言った。
「俺が毎日乗ってる満員電車で、俺の隣で疲れた顔してるオッサンとか。昼飯を食いに行く定食屋の、人のいいおばちゃんとか。そういう人たちが、ある日突然、いなくなるのは、ムカつく」
「俺が汗水たらして稼いだ金で買った、このボロアパートが、勝手に浄化されて消えちまうのも、納得いかねえ」
「そして、何より」
俺は、床に座る小さな黒猫を、指でそっと示した。
「俺の家で、俺の作った飯を、美味そうに食ってるウチの猫が、わけのわかんねえ神様の都合で、殺されるのは……絶対に、許さねえ」
それは、世界の英雄の言葉じゃない。
ただの、ちっぽけなサラリーマンの、個人的な怒りだった。
「だから、俺は戦う。世界のためじゃない。東京のためでもない。俺が守りたい、このクソみたいな、でも、飯だけは美味い俺の日常のためにだ。神様だろうが、大天使だろうが、俺の日常に手ぇ出すヤツは、フライパンでぶん殴ってやる」
俺がそう言い切ると、黙って俺の話を聞いていたルナの瞳から、ぽろり、と一粒の涙がこぼれ落ちた。
そして、彼女は顔を上げ、いつもの、不敵な笑みを浮かべてみせた。
「……ふん。ようやく、下僕らしい覚悟が決まったようだな。それでこそ、この魔王ルナの第一下僕だ」
彼女はそう言うと、目の前のお好み焼きに、がぶりと食らいついた。
その食べっぷりは、いつも以上に、力強かった。
耳のインカムから、ずっと沈黙を守っていた和泉さんの声が聞こえてきた。
その声は、少しだけ、震えているようだった。
《……承知しました、田中さん。あなたの覚悟、しかと受け取りました。『キャビネット』も、総力を挙げて、あなたの『日常』を守るために戦いましょう》
絶望的な状況は、何も変わっていない。
これから、想像もつかないような、厳しい戦いが待っているだろう。
でも、もう、俺は怖くなかった。
守りたいものが、はっきりと見えたから。
俺は、お好み焼きをもう一口、食べた。
ああ、やっぱり美味い。
こんな美味いものが食える日常を、終わらせてたまるか。
俺は、心の中で、まだ見ぬ大天使ウリエルに向かって、宣戦布告をした。
お前の相手は、この俺と、腹ペコの元魔王様だ。覚悟しておけよ、と。




