第3話:キッチンカーとたこ焼き地獄。
和泉詩織と名乗る、自称・政府のエージェントは、油まみれの俺の部屋を、まるで美術館の展示でも見るかのように落ち着き払って眺めていた。
俺は、その非現実的な状況についていけず、ただ呆然と立ち尽くすことしかできない。
「……監視、してたんですか? 俺たちのことを?」
俺がようやく絞り出した声に、和泉さんはにこりと微笑んだ。
「ええ。田中さんがこのアパートに引っ越してこられた時から、ずっと。まさか、元魔王様を拾ってくるとは、さすがの私たちも予想外でしたが」
彼女は、俺の膝の後ろに隠れて警戒しているルナに、優しい視線を向けた。
「初めまして、元魔王ルナ様。『キャビネット』へようこそ」
「……きゃびねっと?」
ルナが、訝しげに呟く。
和泉さんの説明は、俺のちっぽけな常識を粉々に打ち砕くには、十分すぎるものだった。
彼女が所属する『キャビネット』とは、この国に存在する、天使や悪魔、妖怪といった『超常存在』を監視・管理する、政府の秘密機関らしい。
そして、彼らの目的は、そういった存在が一般社会に悪影響を及ぼすのを未然に防ぐこと。
「本来であれば、あなたのように強大な魔力を持つ存在は、発見次第、速やかに確保するのが我々の任務です。ですが……」
和泉さんは、壊れたドアと窓をちらりと見た。
「今回の一件は、少々事情が異なります。天界の連中は、自分たちの『正義』のためなら、人間界への被害を全く考慮しない。このまま彼らが好き勝手に力を振るい続ければ、この街に大規模な災害が発生する可能性があります。それは、我々としても絶対に避けたい」
なるほど。彼女たちは、俺たちを助けたいわけじゃない。
自分たちの仕事の邪魔になるから、天使の暴走を止めたい、ということか。
「そこで、あなた方に、提案があります」
和泉さんは、まっすぐ俺たちの目を見て言った。
「我々は、あなた方を『保護対象』として扱い、身の安全をある程度保証します。その代わり……あなた方には、我々に協力していただきたい。これ以上、天使たちがこの街で暴れないよう、彼らを食い止めるための『戦力』として、です」
「戦力って……俺はただのサラリーマンですよ!?」
「ですが、あなたは既に二度、天使を撃退しています。特に昨夜のキッチンでのゲリラ戦術は、我々の過去のデータにも前例がありません。あなたは、ただのサラリーマンではありません。類まれなる才能を持つ、『戦闘料理人』です」
戦闘料理人。
なんだか強そうな響きだが、やっていることはただの揚げ物だ。
俺に断る選択肢なんて、あるはずもなかった。こうして、俺とルナは、半ば強制的に、国の秘密機関に協力することになった。
◇
それから数日後。俺たちの日常は、和泉さんという監視者兼協力者が加わったことで、さらに奇妙なものになっていた。
そんなある日の午後、会社を早退させられた俺は、和泉さんの運転する黒塗りのセダンに乗せられ、新宿へと向かっていた。
「緊急事態です。新宿御苑の一帯で、これまでにない強力なエネルギー反応を観測しました。おそらく、セラフィエルたちとは比較にならない、上級天使です」
インカムを通して聞こえてくる和泉さんの声は、いつも通り冷静だった。
だが、俺の心臓は、恐怖でバクバクと音を立てている。
上級天使? この前来たパーカーの奴より、さらに強いのか?
「安心してください、田中さん。あなたのための『戦場』は、用意してあります」
俺たちが連れてこられたのは、新宿御苑近くの裏通りに停めてあった、一台の小さなトラックだった。側面には可愛らしいパンのイラストが描かれている。
「キッチンカー……?」
「ええ。『キャビネット』が保有する特殊車両です。内部には、天使の力に干渉されにくい特殊合金製の調理器具が完備されています。移動式の戦闘糧食製造拠点、とお考えください」
呼び方がいちいち物々しい。
作戦はこうだ。俺はこのキッチンカーの中で、ひたすらルナのためのエネルギー食を作り続ける。ルナは、それを食べて魔力を回復させながら、天使と戦う。和泉さんは、セダンの中からモニターで戦況を監視し、俺たちに指示を送る。
完璧な布陣……なのか?
俺は覚悟を決め、キッチンカーの荷台へと乗り込んだ。
中は、確かに最新の調理設備が整った、完璧な厨房だった。
俺は用意されていた食材の中から、手早く作れて、数がこなせて、そしてルナが『弾丸』として飛ばしやすいであろうメニューを選び出した。
「……よし。たこ焼きだ」
俺は粉と水をかき混ぜながら、人生で一番スリリングなたこ焼きパーティーを開始した。
その頃、キッチンカーの外では、ルナが夜の闇に包まれた新宿の空を、鋭い目で見上げていた。
やがて、夜空に二つの強い光が現れ、ゆっくりと御苑の芝生の上に降り立つ。
光が収まると、そこに立っていたのは、荘厳なローブをまとった銀髪の男天使カシエルと、軽装の鎧を着た赤髪の女天使リゼルだった。
「ここね。魔王の気配がするのは」
「油断するな、リゼル。報告によれば、トリッキーな攻撃を仕掛けてくる人間が側にいるそうだ」
二人の天使が、ゆっくりとこちらに歩いてくる。
その前に、ルナが立ちはだかった。
「我は魔王ルナ! この先へ進みたければ、この我を倒していくが良い!」
「あら、猫が喋ったわ。面白い冗談ね」
リゼルが余裕の笑みを浮かべたまま、指を軽く振るう。光の障壁が現れ、突進してきたルナをいとも簡単に弾き返した。
まずい!
その瞬間、俺の耳につけたインカムから、和泉さんの声が響いた。
《田中さん、第一陣、揚がります!》
「焼き上がります、だろ!」
俺はツッコミを入れながら、鉄板の上で完璧な球体に仕上がったたこ焼きを、ピックで次々とひっくり返した。
ソースとマヨネーズをかける時間はない!
「行けい、ルナ!」
俺の叫びに応じて、キッチンカーの窓から、熱々のたこ焼きが十数個、マシンガンのように撃ち出された。
「くらえ! 我が必殺、『たこ焼きラッシュ』!」
ルナの叫びと共に、たこ焼きは意志を持ったかのように、リゼルへと殺到する。
「な、なによこれ! 食べ物!?」
リゼルは驚きながらも、光の短剣でたこ焼きを次々と迎撃していく。
だが、叩き斬られたたこ焼きは、中から熱々のタコと、とろりとした生地をまき散らし、リゼルの綺麗な顔や鎧を汚した。
「熱っ! べとべとする! 最低よ!」
「……なるほど。これが、報告にあった食事による攻撃か。下品極まりない」
冷静なカシエルが、光の壁を展開して相方を守る。
だが、このままではジリ貧だ。たこ焼きが当たるだけでは、彼らにとって致命傷にはならない。
どうする?
俺はキッチンカーの中を見渡した。何か、何か使えるものはないか!
その時、俺の目に、いくつかの異質な食材が飛び込んできた。
真っ赤なキムチ、とろけるチーズ、そしてドクロのマークが描かれた『世界一辛いデスソース』の小瓶。
これだ!
俺の頭の中で、悪魔的なレシピが閃いた。
「ルナ! 和泉さん! 新しいのを試します! 二人を引きつけてください!」
俺は叫ぶと、猛烈なスピードで調理を再開した。
焼きあがったたこ焼きのいくつかに、チーズを乗せ、キムチを詰め込む。
そして、たった一つのたこ焼きにだけ、あのデスソースを数滴、慎重に垂らした。
「行け、俺のスペシャルたこ焼き!」
第二陣のたこ焼きが、天使たちへと撃ち出される。
リゼルがチーズたこ焼きを切り裂いた瞬間、中から溶けたチーズが溢れ出し、彼女の武器や髪に絡みついた。
「いやああああ! 私の髪がチーズまみれに!」
一方、カシエルを防いでいた光の壁には、キムチたこ焼きが命中。強烈な匂いと辛味成分が拡散し、彼の完璧な集中力を乱す。
狙い通り、二人の連携は完全に崩れた。
そして、とどめだ。
最後に残しておいた『デスソース入り』のたこ焼きが、チーズで身動きが取れなくなっているリゼルの口元へと、吸い寄せられるように飛んでいった。
彼女は、それをただのたこ焼きだと思い、苛立ち紛れに、パクリと一口で食べてしまった。
一瞬の静寂。
そして、次の瞬間。
「からああああああああああああああああああああああああああっっっ!!!」
新宿御苑の夜空に、天使とは思えない、壮絶な絶叫が響き渡った。
リゼルは口から火を噴くような勢いで、その場をのたうち回り始めた。
その最大の隙を、ルナは見逃さなかった。
「思い知るが良い! 『魔王流奥義・ねこぱんち・マキシマム』!」
ルナの光り輝く肉球が、悶絶するリゼルの鳩尾に、寸分たがわず叩き込まれた。
リゼルは白目をむいて、綺麗に気絶した。
「……なんという、邪道な戦い方だ……」
相方のカシエルは、悔しそうに歯を食いしばると、気絶したリゼルを抱えたまま、空へと舞い上がっていった。
「お、覚えていなさい……! 次に会う時までに、必ず、激辛対策をしてきてやるわ……!」
遠ざかる中で、リゼルが一瞬だけ意識を取り戻し、そんな意味不明な捨て台詞を残していった。
戦いは、終わった。
残されたのは、静寂と、ソースもかかっていない、ただのたこ焼きが散らばる、シュールな戦場だけだった。
俺は、キッチンカーの中でへたり込んだ。
俺は、ただ平和に暮らしたい、普通のサラリーマンだったはずなのに。どうして、激辛たこ焼きで上級天使を撃退する、戦闘料理人なんてものになっているんだろう。
俺は、ぐったりと疲れ果てたまま、次の給料日には、美味しいお酒でも飲もう、と心に固く誓った。もちろん、デスソース抜きで。




