第2話:監視者は壁の向こうに。
部屋に漂うのは、焦げ臭い匂いと、殺虫剤の甘ったるい匂いが混じった、なんとも言えない異様な空気だった。
俺はスプレー缶を握りしめたまま、床にへたり込んでいた。
目の前には、砕け散った窓ガラスと、段ボール箱からそろりと顔を出した元魔王様。
「……見事であった、下僕よ」
頭の中に、どこか感心したようなルナの声が響く。
「あの天使を、まさか人間界の道具だけで追い払うとはな。貴様、何者だ?」
「俺はただのサラリーマンだ!」
俺は叫びながら立ち上がった。もう、こいつに振り回されるのはごめんだ。
「事情聴取の時間だ! お前が何者で、なんで追われているのか、全部話せ!」
俺は、半ばヤケクソでルナを問い詰めた。
ルナは最初こそ「下僕の分際で!」と威張っていたが、俺がもう一度殺虫剤のスプレー缶を手に取ると、観念したようにおとなしくなった。
ルナの話は、俺のちっぽけな想像をはるかに超えるものだった。
彼女は本当に元魔王で、天界との大きな戦争に負けて、力の源である『魔王の核』を砕かれ、魂だけの存在でこの世界に逃げてきたらしい。そして、たまたま近くにいた、この黒猫の体に入り込んだ、と。
あの白スーツの天使セラフィエルは、ルナの魂を完全に消滅させるために送り込まれた、天界の後始末部隊の下っ端だという。
「じゃあ、なんで魔力とか使えないんだよ。魔王なんだろ?」
「核を失ったからだ、愚か者め。今の我は、ガソリンの入っていない車のようなもの。魔王としての力は、ほとんど残っておらん」
なるほど。だからあんなに怯えて、段ボール箱に逃げ込んだのか。
話の辻脤は、一応合っている。信じがたいことだけど。
「……分かった。で、お前、これからどうするんだ?」
俺が一番大事なことを聞くと、ルナは気まずそうに視線をそらした。
「……それは……その……」
「つまり、何もできないってことか?」
「…………うむ」
俺は天を仰いだ。とんでもない厄ネタを拾ってしまった。
このままじゃ、また天使が来たら俺たちは終わりだ。
俺が絶望していると、ルナが何かを思い出したように、はっと顔を上げた。
「……いや、一つだけ、手があるやもしれん」
「なんだよ、それ!」
「貴様の作る食事だ」
「……は?」
「今朝、キャットフードを食しただろう。あの後、ほんの僅かだが、体の中に魔力が戻るのを感じたのだ。おそらく、この世界の食物には、我らの世界の者にとって、非常に効率の良いエネルギーが含まれているらしい!」
つまり、俺が美味い飯を作り続ければ、ルナの魔力は少しずつ回復していく、ということか。
世界の命運が、俺の料理の腕にかかっている?
なんだそりゃ。アホらしくて笑えてきた。でも、もうそれしか生き残る道はないらしい。
こうして、俺と役立たずの元魔王様の、奇妙で危険な共犯関係が始まった。
◇
天使セラフィエルを撃退してから、三日が過ぎた。
壊れた窓は、とりあえず段ボールで塞いでいる。冷たい隙間風が入ってきて、みすぼらしさ満点だ。
あの後、天使は一度も現れなかった。もしかしたら、もう諦めて帰ったんじゃないか? そんな甘い考えが、俺の頭をよぎり始めていた。
俺の日常は、ルナという同居人が増えたこと以外は、以前とあまり変わらなかった。
朝は俺がルナの分も食事を作り、昼間は俺が会社に行っている間、ルナは部屋で留守番。夜、俺が帰ってくると、また食事の準備をする。
ルナは俺の作る生姜焼きやカレーライスを、「魔力が漲る!」と絶賛しながら、毎日すごい勢いで平らげた。そのおかげか、ガリガリだった体も、少しだけふっくらしてきたように見える。
その日の夜、俺は週末だからと少し奮発して、唐揚げを作ることにした。ルナも肉が好きだし、きっと喜ぶだろう。
鶏肉と唐揚げ粉、それに自分の分のビールを買って、アパートへの帰り道を歩く。
その時だった。
背後に、ふと人の気配を感じた。
俺の心臓が、ドクンと嫌な音を立てる。数日前の、あの夜と同じ感覚。
振り返ると、そこに立っていたのは、ラフなパーカーを着た、茶色い髪の若い男だった。一見すると普通の大学生みたいだが、その目は笑っていなかった。にやにやと、人を馬鹿にしたような笑みを浮かべて、俺のことを見ている。
「……どちら様ですか?」
俺が震える声で尋ねると、男はクスクスと笑った。
「へえ。それが、あの元魔王様の今夜のディナーってわけか。鶏肉の唐揚げ? 安っぽいねえ」
こいつも、天使だ! しかも、セラフィエルとは違う、新しい刺客!
俺は考えるより先に体が動いていた。
振り返り、全力で走る。アパートに向かって、とにかく、走る!
階段を駆け上がり、自分の部屋のドアに鍵を差し込んだ瞬間、すぐ耳元でヒュッ!と空気を切り裂く鋭い音がした。銀色の鞭が、俺の顔のすぐ横を通り過ぎ、ドアに突き刺さっていた。
俺は悲鳴を上げながら部屋に転がり込むと、内側から鍵をかけた。
「ルナ! 敵だ! 新しいのが来たぞ!」
俺が叫んだのと、玄関のドアが外側から蹴破られたのは、ほぼ同時だった。
バキィィン! という轟音と共に、安物のドアは蝶番から外れ、部屋の中に吹き飛ぶ。
ドアがあった場所には、あのパーカーの男が、にやにやと笑いながら立っていた。
「お邪魔しまーす。さてさて、どこからいただこうかなあ。そこの元魔王様? それとも、噂のサラリーマン飯?」
男の言葉に、俺とルナは息をのんだ。こいつ、俺の料理がルナの魔力を回復させることを知っている!
「セラフィエルのヤツが、報告書にバカ正直に書いたんだよ。『敵は人間界の食事によって魔力を回復する』ってな。おかげで俺は、あんたを消すだけじゃなく、その『食事』とやらも処分しろって命令を受けるハメになったんだ」
まずい。こいつは、俺のことも明確にターゲットとして認識している。
武器は、このスーパーの袋に入った鶏肉だけ。もう、万事休すか……。
俺が絶望しかけた、その時。頭の中に、ルナの焦った声が響いた。
《下僕! 聞こえるか! 今すぐ、その鶏肉で唐揚げを作るのだ! 調理したての、温かい食事の方が、より魔力の変換効率が高い!》
(はぁ!? この状況で!?)
《やるしかない! 貴様が料理をする時間くらい、我がなんとか稼いでやる! 貴様の毎日の食事のおかげで、少しだけなら魔力が戻っておる!》
ルナはそう言うと、俺の前に飛び出し、パーカーの男を睨みつけた。
「雑兵よ! この魔王ルナが、直々に相手をしてやろう!」
「へえ? やる気になったのか、チビ猫ちゃん。いいぜ、遊んでやるよ」
もう、迷っている時間はない。俺は覚悟を決め、男に背を向けてキッチンへと走った。
人生で一番、命がけのクッキングの始まりだった。
俺はビニール袋に鶏肉と唐揚げ粉、醤油と生姜を放り込み、ガシャガシャと振って混ぜ合わせる。
背後からは、「オラオラ! どうした!」「シャーッ!(物理的な衝撃波)」「うおっ、今のちょっと効いたぞ!」などと、激しい戦闘音が聞こえてくる。ルナが、必死に時間を稼いでくれているんだ。
フライパンに油を注ぎ、コンロの火力を最大にする。
油が温まったのを確認し、俺は肉を次々と投入した。
ジュワアアアアアアッ!
揚げ物特有の、最高の音が部屋に響き渡った。
香ばしい匂いに、パーカーの男の動きが一瞬だけ止まる。
その隙を突いて、フライパンの中で揚がったばかりの唐揚げの一つが、ふわりと宙に浮いた。そして、弾丸のようなスピードで、男の顔面へと飛んでいったんだ。
「なっ……ぶげらっ!?」
熱々の唐揚げが、見事に男の鼻にクリーンヒットした。
男は奇妙な悲鳴を上げ、後ろにひっくり返る。
「下僕! 何をしている! もっと揚げるのだ! 弾幕が薄いぞ!」
ルナの檄が飛んでくる。弾幕って、唐揚げのことか!?
俺は雄叫びを上げながら、フライパンの上の唐揚げをひっくり返す。いいきつね色だ。
「ふざけやがって!」
我に返った男が、鞭を振るいながら俺に向かってくる。
その瞬間、フライパンから唐揚げが三つ、四つと飛び出し、男に殺到した。
「行けい! 我が魔弾、『からあげファンネル』!」
男は鞭で唐揚げを叩き落とすが、熱々の油が飛び散り、悲鳴を上げる。
「いだだだだ! なんだこの、油っこい攻撃は!」
俺はさらに、冷蔵庫にあったちくわやウィンナーもフライパンに投入。揚げ物の集中砲火で、男は完全に防戦一方だ。
そして、俺は最後の手段に出た。
コンロの脇にあった、巨大なサラダ油のボトルを手に取り、その中身をキッチンの床一面にぶちまけた。
「なっ!?」
男が気づいたときには、もう遅い。彼の足元は、完全に油の海になっていた。
「うわっ!?」
男は、スケートリンクの上に立った初心者のように、見事にバランスを崩す。
仕上げに、俺は給湯器の温度を60℃に設定し、シャワーヘッドから熱湯を噴射した。
「ぎゃあああああああああっ! 熱い! 滑る! 唐揚げがまだ飛んでくる! 地獄か!」
男は断末魔のような絶叫を上げると、「覚えてろよ!」と捨て台詞を残し、壊れたドアから這うようにして逃げていった。
……しーん。
部屋に残されたのは、油でギトギトになった床と、揚げ物の匂い。
俺は、シャワーホースを握りしめたまま、その場にへたり込んだ。
勝った……のか?
その時だった。
コン、コン。
部屋の、壊れたドア枠をノックする音がした。
まさか、もう戻ってきたのか!?
俺が油のボトルを構えると、ドア枠の向こうから、落ち着いた、綺麗な女の人の声が聞こえてきた。
「お隣の、和泉です。……少し、騒がしいようですが、何かありましたか?」
お隣さん!?
まずい、この惨状を見られたら! 俺は慌てて「大丈夫です!」とごまかしたが、和泉さんは「お醤油をお借りしたくて」と、部屋の中に入ってきた。
彼女は、俺の部屋の惨状をぐるりと見渡すと、にこりと優雅に微笑んだ。
そして、油で滑る床を、まるでスケートでもするかのように、スイスイと歩いてみせた。
「……なるほど。これが、天使を二体も退けたという現場ですか。想像以上に、激しい戦いだったようですね」
「…………はい?」
俺は、自分の耳を疑った。
今、この人、なんて言った? 天使?
和泉さんは、俺に向き直ると、にっこりと微笑んだ。その笑顔は、とても綺麗だったけど、全く目が笑っていなかった。
「初めまして、田中航汰さん。そして、元魔王ルナ様。私は、政府機関・超常事態対策本部のエージェント、和泉詩織と申します。あなた方のことは、こちらに引っ越してこられた時から、全て監視させていただいておりました」
せいふきかん……えーじぇんと……?
俺の奇妙な日常は、どうやら、さらに厄介な隣人を巻き込んで、どんどんカオスな方向へと進んでいくらしい。
俺は、もう一度、大きくため息をつくしかなかった。




