第10話:ただいま、俺の日常。
都庁最上階だったはずの空間は、今や二つの強大な力がぶつかり合う、神話の世界の戦場と化していた。
一方は、絶対的な光を操り、世界の浄化を謳う、天界の最高戦力、大天使ウリエル。
もう一方は、愛する者を傷つけられた怒りによって、奇跡の覚醒を遂げた、真の姿を取り戻した魔王ルナ。
光と闇が、東京の夜空を舞台に、激しく衝突する。
ウリエルが放つ光の槍は、ビルをも容易く消滅させるほどの威力を持つが、ルナはそれを漆黒の翼で受け流し、闇の爪で切り裂いていく。
「信じられません……。砕け散ったはずの核が、なぜ……!」
ウリエルが、初めて焦りの声を上げた。
彼の計算では、ルナはもはや何の脅威でもない、ただの矮小な魂にすぎなかったはずだ。
「貴様には分かるまい、ウリエル!」
ルナの真紅の瞳が、憎しみの炎を燃やす。
「己の信じる『正義』だけを振りかざし、他者の痛みなど気にも留めぬ貴様には! この想いの強さが、この魂の叫びが、分かるものか!」
ルナの力は、ただの魔力ではなかった。
それは、航汰と共に過ごした、何でもない日々の記憶。
初めて食べさせてもらった、キャットフードの味。
頭を撫でられた時の、不器用な優しさ。
唐揚げ、たこ焼き、お好み焼き。
彼が作る、温かくて、少ししょっぱくて、最高の味がする『日常』。
その全てが、今のルナの力となっていた。
「下僕が作る飯の味も知らぬ貴様が、この我に勝てると思うな!」
ルナはそう叫ぶと、その両手に、闇よりも深い、純粋な破壊のエネルギーを凝縮させた。
それは、かつて彼女が魔界を統べていた頃の、最強の魔法。
「終わりだ、ウリエル! これが、我が下僕と共に掴んだ、我らの日常の味だ! 『エンド・オブ・ワールド』!」
放たれた漆黒の光線は、ウリエルの聖なる光を飲み込み、その体を完全に包み込んだ。
「ば、馬鹿な……! この私が、ただの人間の、想いごときに……!」
断末魔の叫びと共に、大天使ウリエルは、光の粒子となって、塵も残さず消滅した。
ウリエルが消滅すると同時に、東京の空を覆っていた巨大な光の紋様は、ガラスが砕けるように音を立てて消え失せた。
都庁を包んでいた神聖結界も、霧のように晴れていく。
『聖別計画』は、完全に阻止された。
戦いが終わり、静寂が戻った空間で、ルナの体から力が抜けていく。
魔王の姿は、再び光に包まれ、元の小さな黒猫の姿へと戻っていった。
力のほとんどを使い果たし、彼女はふらつきながら、倒れている航汰のもとへと歩み寄る。
「……下僕……航汰……」
ルナは、動かなくなった航汰の胸に、そっと顔をうずめた。
温かい。
まだ、温かい。
でも、その鼓動は、もう聞こえなかった。
「……いやだ……。死ぬな……。我を一人にするな……!」
ルナの瞳から、大粒の涙がこぼれ落ち、航汰の胸を濡らしていく。
「……貴様がいないと、我は……。もう、あの美味い飯が、食えなくなるではないか……!」
その、あまりにも自分勝手で、正直な叫びが、奇跡を呼んだ。
ルナの涙に、彼女の中にまだわずかに残っていた、覚醒した魔王の力が混じり合う。
それは、全てを破壊するためだけの力ではなかった。航汰と共にあったことで生まれた、温かくて、優しい、生命の力。
その力が、航汰の体に、ゆっくりと染み込んでいった。
◇
「……ん……」
俺が目を覚ますと、そこは、見慣れた自分の部屋の天井だった。
アパートの、安っぽい木目の天井。
体は、鉛のように重い。でも、不思議と痛みはなかった。
「……夢……か?」
そう呟くと、腹の上で寝ていたらしい、小さな黒い塊が、むくりと顔を上げた。
「……目が覚めたか、下僕」
頭の中に、聞き慣れた、偉そうな声が響く。
「ルナ……?」
俺は、ゆっくりと体を起こした。
窓の外は、いつもと同じ、見慣れた朝の景色が広がっている。テレビからは、のんきな朝のニュースが流れていた。
『昨日、東京上空で観測された大規模なオーロラ現象は、専門家によりますと……』
和泉さんたちが、うまく情報を操作してくれたらしい。
俺たちの戦いは、世間的には『謎の自然現象』として処理されたようだ。
「……俺、生きてるのか?」
「ふん。我を誰だと思っておる。この魔王ルナの手にかかれば、死人一人を生かすことなど、造作もないわ」
ルナは、そっぽを向きながら言った。
でも、その尻尾が、嬉しそうにぱたぱたと揺れているのが見えた。
俺は、何も言わずに、ルナの小さな頭をそっと撫でた。
彼女は、気持ちよさそうに目を細めた。
それから、俺たちの日常は、本当に、元通りになった。
いや、少しだけ変わった。
ルナは、あれ以来、時々、小さな黒い翼を出して部屋の中を飛び回ったり、俺の肩こりを、肉球から放つ微弱な電流で癒してくれたりするようになった。魔王の力が、少しだけ残っているらしい。
そして、俺は相変わらず、会社に通い、満員電車に揺られ、家に帰ってきては、腹を空かせた元魔王様のために、飯を作る。
「下僕、腹が減ったぞ! 今日の夕餉は、唐揚げが良い!」
「はいはい、魔王様。昨日の残り物で我慢しな」
「なにぃ!?」
部屋の中に、いつも通りの、くだらないやり取りが響き渡る。
窓の外では、美しい夕焼けが、俺たちの住む街をオレンジ色に染めていた。
これは、世界を救った英雄の物語じゃない。
特別な力も持たない、ただのサラリーマンが。
生意気で、食いしん坊で、だけど本当は寂しがり屋な、一匹の猫と出会って。
自分の、ちっぽけで、だけど何よりも大切な『日常』を、命がけで守り抜いただけの、ありふれた物語だ。
俺は、フライパンを火にかけながら、笑った。
この、腹が減る日常こそが、俺が戦って手に入れた、最高の宝物なんだ。
さあ、今日も、世界一美味い飯を作ってやるとしよう。
俺だけの、可愛い魔王様のために。




