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第1話:ウチの猫、喋るし尊大なんだが。

キーボードを叩く音だけが響く、静かなオフィス。

壁の時計が午後八時を指しているのを見て、俺、田中航汰たなか こうたは大きく伸びをした。今日も疲れた。ごく普通の会社で働く、ごく普通のサラリーマン。それが俺だ。


「お先に失礼します」

まだ半分以上残っている同僚たちに挨拶をして、俺は会社を出た。外は、さっきまで降っていた雨でアスファルトが黒く濡れている。満員電車に揺られ、駅前のコンビニで弁当を買い、いつもの道をアパートへと向かう。


そんな、代わり映えのしない日常が終わるはずの帰り道。

アパートのすぐ手前の路地裏から、か細い声が聞こえた。


ニャア……。


声のする方を見ると、ゴミ袋の影に、小さな黒い塊がうずくまっていた。

雨にぐっしょり濡れた、一匹の子猫だった。俺の姿に気づくと、青みがかった不思議な色の瞳で、じっとこちらを見つめてくる。


アパートはペット禁止だ。面倒なことになるのは分かっている。

分かっているのに、その震える小さな体を見たら、どうしても見過ごせなかった。


「……一日だけ、だからな」


俺は自分に言い訳をすると、着ていたスーツの上着でそっと猫を包み、自分の部屋へと連れて帰った。

これが、俺の平穏な日常の、終わりの始まりだった。


翌朝。けたたましいアラームの音で目を覚ました俺は、すぐに部屋の隅に置いた段ボール箱を覗き込んだ。黒猫は、タオルの中で丸くなって、すーすーと寝息を立てている。無事に夜を越せたらしい。ホッとしながら、俺は朝食の準備を始めた。


トースターに食パンを入れ、コーヒーを淹れる。

いつもと同じ、俺の一日の始まり。そう思っていた、その時だった。


「……うむ。悪くない目覚めだ」


はっきりと、頭の中に直接響くような、女の子の声が聞こえた。

幻聴か? 疲れてるんだ、きっと。

俺は自分の頬をぺちんと叩いた。痛い。夢じゃない。


「貴様がこの我を目覚めさせたのか? 人間よ」


振り返ると、段ボール箱から出てきた黒猫が、体をぐーっと伸ばしながら俺を見上げていた。

幻聴じゃなかった。こいつ、本当に喋ってる。


「我は魔王ルナである! かつて魔界を統べ、その名を天界にまで轟かせた、偉大なる王だ! 下僕よ、まずは食事の用意をしろ!」


まおう……?

魔王!?

体長三十センチそこらの、ガリガリに痩せた子猫が?


俺の頭は、完全にキャパオーバーだった。

目の前で起きていることが、あまりにも非現実的すぎて、脳が理解を拒否している。

俺が頭を抱えていると、ルナはフンと鼻を鳴らした。でも、お腹は正直らしい。ぐぅぅ、と可愛らしい音が、その小さなお腹から鳴り響いた。


「……まあ、良い。下僕が心を込めて用意した食事だ。一口くらいは、味見してやろう」


俺がコンビニで買っておいたキャットフードを皿に入れてやると、ルナはさっきまでの威勢はどこへやら、夢中になって食べ始めた。その姿は、どう見てもただの腹ペコな子猫だった。

俺は、食べかけのトーストを片手に、その光景をただ呆然と眺めていた。


やっぱり疲れてるだけだ。

そう無理やり自分を納得させ、急いで会社へ行く支度を整えた。

俺が玄関のドアに手をかけた、その瞬間だった。


ガッシャーーーーン!!!


とんでもない轟音が響き渡った。

俺の部屋の窓ガラスが、内側に向かって派手に砕け散ったんだ。


「うわぁっ!?」


俺は思わず頭を抱えて床に伏せた。

ガラスの破片がキラキラと舞う中、窓枠だった場所に、一人の男が立っていた。

全身、真っ白なスーツを着た、モデルみたいに綺麗な顔の男。だが、その目は氷のように冷たかった。


「……見つけましたよ、魔王ルナ」


男はそう言うと、ふわりと床に降り立つ。そして、何もない空間から、燃え盛る炎でできた剣を取り出した。


「ひぃっ!?」

俺は情けない悲鳴を上げた。

なんだあれ! 手から剣が出たぞ! ファンタジーの世界かよ!


頼れるのは、もうこいつしかいない。なんたって元魔王様だ。きっとすごい魔法で、あんなヤバそうな男、一撃で倒してくれるはずだ。

「る、ルナ! なんとかしろ!」


小声で助けを求めると、ルナは全身の毛を逆立てて、背中を丸めていた。どう見ても、ただ怯えているだけの猫だった。

そして次の瞬間、脱兎のごとくUターンして、自分が寝床にしていた段ボール箱の中に逃げ込んだ。


「おい! ちょっ、おまっ……!」

「な、何を勘違いしている! これは戦略的撤退だ! 下僕よ、まずは貴様が足止めをしろ!」


箱の中から、くぐもった声が聞こえる。

冗談じゃない!


「茶番はそこまでにしなさい」


白スーツの男……天使セラフィエルは、呆れたように炎の剣を振り上げた。

もうダメだ! 死ぬ!

俺が死を覚悟した、その時。俺の頭の中で、何かがプツンと切れた。

恐怖が振り切れると、人間、逆ギレするらしい。


俺の目が、部屋の隅にある、あるものに釘付けになった。

ゴキブリが出たときのために買っておいた、強力な殺虫剤のスプレー缶。


これだ!


「くらええええええ!」


俺は叫びながら、スプレーのボタンを全力で押し込んだ。

プシューーーーーッ!!

白い霧状の殺虫剤が、一直線にセラフィエルの綺麗な顔面へと飛んでいく。


「ぐっ……! あがっ……! め、目がぁぁぁっ!」


セラフィエルが、苦悶の声を上げてその場でのたうち回る。

いける! まだだ!

俺はすぐさまシンク下の棚から、ゴキブリ捕獲用の粘着シートを取り出した。


「おらよっ! これも食らえ!」


投げつけた粘着シートは、セラフィエルの真っ白なスーツと、銀色の髪の毛に見事に張り付いた。


「な、なんだこれは!? ねばねばする! 汚らわしい!」


完全にパニックになったセラフィエルは、「覚えていなさい!」と捨て台詞を残して、砕けた窓から夜の闇へと逃げていった。


……しーん。


部屋に残されたのは、めちゃくちゃに壊された窓と、殺虫剤の匂い。

そして、スプレー缶を握りしめたままへたり込む俺と、段ボール箱からそろりと顔を出す、役立たずの元魔王様だけだった。


俺は、天使を、ゴキブリ用の殺虫剤で追い払ったのか……?

その事実が、じわじわと頭に染み込んでくる。

俺の平穏な日常は、今日、本当に、完全に、終わってしまったんだ。

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