第七話:影への接触
ラ・コミューンの隠れ家。
カミーユは、壁に表示された『プロトコル・ラザロ』という文字を、静かに見つめていた。
あの日、フィクサー『ムッシュ・フクロウ』の元を訪れてから、数日が経過していた。
アヤは、あれから不眠不休で、データユニットと、自らの断片化した記憶にアクセスを試みている。だが、得られた情報は、あまりにも少なかった。
『……ダメだ、カミーユ』
スピーカーから、疲労の滲むアヤの声が聞こえた。
『このブラックボックスは、私一人じゃどうにもならない。もっと……もっと情報が必要だ。ブラックアウト以前の、軍事ネットワークに関する、専門的な知識が……』
その声には、掴みかけた希望が、指の間からこぼれ落ちていくような、焦りが満ちていた。
カミーユは、壁の文字から目を離し、立ち上がった。
「フクロウに、これ以上の情報を期待するのは無理だろう」
『うん……あの人は、A級の情報しか扱わない。これ以上は、専門外だ』
「ならば、専門家に聞くまでだ」
カミーユは、バイクのキーを手に取った。
『……どこへ行くの?』
「西岸へ。……『教授』に会いに行く」
『ル・プロフェスール』。
ローヌ川の西岸、旧大学地区を縄張りとする、情報とハッキングツール専門のフィクサー。
彼なら、あるいは、とアヤが提案したのだ。
『……気をつけて。彼のテリトリーは、市警も簡単には手を出さない。その分、もっと厄介な連中がうろついてるって噂だよ』
「面倒なのは、慣れている」
カミーユは、それだけ言うと、部屋を出て行った。
電動バイク『フォコン』は、廃墟と化したリヨンの街を、静かに滑走していく。
東岸の、無骨な工業地帯の残骸を抜け、中央地区の、瓦礫に埋もれた高級ブティック街をかすめる。そして、崩れ落ちた橋を渡り、西岸へと入った。
空気が、変わる。
そこは、かつて大学や研究所が立ち並んでいた文教地区。破壊されながらも、どこか静かで、知的な雰囲気が残っていた。
『ル・プロフェスール』の取引所は、旧市立図書館の、地下アーカイブを改造した場所にあった。
カミーユが中に入ると、そこは、古びた紙の匂いと、サーバーの駆動音が混じり合う、不思議な空間だった。
無数の本棚と、その間に埋め込まれたサーバーラック。
その中央で、一人の痩せた老人が、静かに彼女を待っていた。彼が、『教授』。
「……君が、カミーユかね。噂は聞いているよ。『ベリエ』を解体した、生身の悪魔がいる、とね」
教授は、穏やかな笑みを浮かべた。
「情報が欲しい」
カミーユは、単刀直入に切り出した。
「対価は?」
「仕事で払う」
「よろしい」と教授は頷いた。「何を知りたいのかね?」
「プロトコル・ラザロ」
その言葉を聞いた瞬間、教授の笑みが、一瞬だけ消えた。
「……それはまた、随分と懐かしい『幽霊』の名前を出してきたものだ」
彼は、近くのサーバーに触れ、一枚の古い研究レポートをホログラムで表示させた。
「ブラックアウト以前の、禁断の技術。君のようなスカベンジャーが、関わるべきものではない。諦めたまえ」
「断る」
カミーユの、きっぱりとした返事。
教授は、しばらく彼女の目を見つめていたが、やがて、小さくため息をついた。
「……そうかね。ならば、仕方あるまい」
彼は、ホログラムを消した。
「その情報を本当に求めるのなら、私では、もはや力不足だ。その『幽霊』について、最も詳しい者たちに、直接聞くしかないだろう」
「誰だ」
「『ノマド』だよ」
教授は言った。
『……ノマド……?』
アヤが、かすかな疑問の声を漏らす。その響きには、遠い昔に忘れた何かを、思い出そうとするような、わずかな戸惑いが感じられた。
「彼らは、ブラックアウト以前のネットワークの、いわば『生き残り』だ」と教授は続けた。「旧世界の情報を、狂信的に集めている。もし、『ラザロ』のデータがまだどこかに残っているとすれば、彼らだけが、その場所にたどり着けるだろう」
「だが、彼らは極端に用心深い」と教授は続けた。「私でも、彼らと直接コンタクトを取るのは、年に数回がやっとだ。君が、彼らに会うためには、それ相応の『手土産』が必要になる」
教授は、新たな地図データをカミーユの端末に送った。
「この地区にある、旧EAC社のデータバンクだ。ブラックアウトの際に完全にロックダウンし、今では、バスティオンの旧式警備ドローンが巣食う、危険地帯となっている」
地図は、データバンクの、ある一点を指し示していた。
「その最深部に、まだ生きている、極めて特殊な暗号キーがある。『ケルベロス・キー』。それがあれば、ノマドも、君の話を聞く気になるかもしれん」
カミーユは、その地図データを、黙って見つめていた。
虎の穴に、自ら飛び込むようなものだ。
だが、道は、それしかない。
「……分かった」
カミーユは、短く答えた。
「その『鍵』、私が手に入れてくる」
アヤを救うための、次なる扉を開けるため。
カミーユは、新たな「仕事」を、静かに引き受けた。




