第四十三話:姉と妹
カミーユは、夜の闇に溶けるように、ウェイの隠れ家である茶葉店へと戻った。
奥の部屋では、ウェイが、一人、静かにジャスミン茶を飲んでいた。その顔には、苛立ちと、不安の色が浮かんでいる。
「……戻ったか」
ウェイは、カミーユの姿を認めると、安堵の息を漏らした。「データは?」
カミーユは、無言で、ダミアンのアジトから持ち帰ったデータケースを、テーブルの上に置いた。
ウェイは、すぐにそれを自らの端末に接続し、中身を確認する。彼の指が、高速でキーを叩き、やがて、その動きが止まった。
「……完璧だ。コルボーの、全ての取引記録がここにある」
彼は、満足げに頷いた。そして、カミーユの、血と硝煙の匂いが残る姿を一瞥した。
「……ダミアンは、どうした?」
「もういない」
カミーユの、その短い言葉の意味を、ウェイは即座に理解した。
彼は、驚きと、そして、畏怖が入り混じった目で、カミーユを見つめた。
「……殺ったのか。あの、ドラッグ漬けの化け物を……」
ウェイは、しばらく考え込んでいたが、やがて、不敵な笑みを浮かべた。
「……気に入った。仕事は、台帳の入手だけだったが、てめえは、その元凶まで、断ってきやがった。大した女だ」
彼は、部屋の奥にある、頑丈な金庫を開け、一つの、小さな箱を取り出した。
「これは、ボーナスだ。受け取れ」
箱の中には、黒い、チョーカーのようなデバイスが、静かに収められていた。
『……これ……リュミール・アトリエ製の、試作品……!声帯フィルターだ!』
アヤが、驚きの声を上げる。
「そいつを首に巻けば、どんな声でも出せるようになる」と、ウェイが説明した。「男の声、老人の声、あるいは、機械の音声。……あんたのような、影に生きる人間には、うってつけの『仮面』だろう。……俺からの、ささやかな感謝だ」
カミーユは、そのチョーカーを手に取ると、静かに、ウェイに頭を下げた。
ウェイが用意した、高層アパートの隠れ家に戻ったカミーユは、すぐに、ノマドとの、あのプライベート回線を開いた。
数秒後、ホログラムに、サシャの姿が映し出される。その表情は、硬かった。
『……カミーユ。……今回の件、本当に、すまなかった』
サシャは、深く、頭を下げた。
『私の、浅はかな期待が、君を危険に晒した。弁解の言葉もない』
「気にするな。仕事は、終わった」
カミーユは、それだけ言うと、カメラの前から、少しだけ、身をずらした。
サシャの視線の先に、ミメシス・ドローンが、静かに浮かんでいる。
『……アヤ……』
サシャの声が、震える。
『……聞こえるか? 私だ。サシャだ』
『……サシャ……』
ミメーシスのスピーカーから、アヤの、戸惑ったような声が響いた。
『……その名前……。ごめんなさい。私、あなたのことを、思い出せない……』
『……いや、いいんだ』
サシャは、静かに言った。
『君が、そこに、生きていてくれる。今は、それだけで、十分だ』
二人の間に、沈黙が流れる。
それは、気まずい沈黙ではなかった。10年という、あまりにも長い、空白の時間を、埋めようとするかのような、静かで、優しい時間だった。
やがて、アヤが、小さな声で、言った。
『……でも……』
『……不思議。あなたの声を聞いていると、なんだか、胸のあたりが、温かくなる……。どうしてだろう……』
その言葉に、サシャの、サイバーアイの奥で、何かが、揺らいだように見えた。
『……それは、いつか、君が、全てを思い出した時に、分かるさ』
通信が、切れる。
カミーユは、何も言わずに、巨大な窓の外に広がる、廃都の夜景を見つめていた。
アヤも、何も言わなかった。
ただ、埃をかぶった豪華な部屋には、ミメーシスの、いつもより、少しだけ、温かいような、静かな駆動音だけが、響いていた。




