第四十一話:姉の善意
第七倉庫の屋上は、驚くほど、静かだった。
遠くで響くカーニバルの喧騒が、嘘のように聞こえる。酸性雨上がりの、湿った金属の匂いだけが、カミーユの鼻腔をくすぐっていた。
見張りは、二人。
一人は、手すりに寄りかかり、街を彩るミモザのホログラムを、ぼんやりと眺めている。もう一人は、物陰に隠れ、フラスクを煽っていた。
カミーユは、その光景を、闇の中から、ただ、冷静に、分析する。
(……プロではない。ウェイの情報通りか。だらしない)
彼女は、音もなく、一人目の背後へと、忍び寄った。
そして、男が、祭りの光に見とれている、その隙を突き、首筋に、コンバットナイフの柄を、的確に、そして、強く、叩き込んだ。男は、声も上げずに、その場に崩れ落ちる。
もう一人の男が、物音に気づいて振り向いた時には、彼の目の前には、闇しか、なかった。そして、その闇の中から伸びてきた腕が、彼の首を、容赦なく、締め上げた。
屋上の掃除は、終わった。
カミーユは、倉庫の天窓から、内部の様子を窺う。
眼下では、残りの警備である、二人の残党が、テーブルで酒を飲みながら、トランプに興じていた。彼らは、屋上の仲間との連絡が途絶えていることに、まだ気づいていない。
カミーユは、天窓のロックを、特殊な工具で静かにこじ開けると、音もなく、倉庫の内部、天井近くのキャットウォークへと侵入した。
彼女は、まず、一人目の男の死角となる位置から、スリングライフルに、先端に即効性の神経毒を塗った、ごく小さな針を装填し、その首筋を、正確に狙撃した。
男は、声もなく、テーブルに突っ伏した。
「おい、どうした?寝ちまったのか?」
相棒が、不審に思い、席を立って、彼の方へと歩き出す。
その男の背後へと、カミーユは、キャットウォークから、音もなく飛び降りる。そして、男が、背後の気配に気づいて振り向くよりも早く、その口を左手で塞ぎ、右腕を、首に、蛇のように巻き付かせた。
完璧に極まった絞め技だった。男は、数秒間、必死にもがいたが、やがて、糸が切れた人形のように、全身の力を失った。
カミーユは、肩で、わずかに息をついた。
完璧な、音なき制圧だった。
彼女は、目的の顧客台帳データが収められた、頑丈なデータケースを、いともたやすく手に入れる。
任務は、完了した。あとは、このまま、誰にも気づかれずに、帰るだけだった。
彼女が、データケースをポーチにしまい、撤収しようとした、その時。
[ピリリリリリリッ!]
彼女が腰のポーチに入れていた、個人用の携帯端末が、突如、けたたましい着信音を鳴り響かせた。
(おかしい……音は、消していたはず……!)
画面には、ノマドの紋章と、「サシャ」という文字が、明滅している。
『カミーユ、まずい!サシャが、非常回線を使って、強制的にこっちの端末を鳴らしてる!』
その着信音は、倉庫の奥の部屋で、ドラッグに溺れていたリーダー、ダミアンの耳にも、届いていた。
「……誰だ?」
ダミアンが、部屋から姿を現す。元軍人らしい、屈強な体躯。その右腕は、肩から指先までが、バスティオン・アーモリー製の、無骨な黒い義手に置換されている。
彼は、カミーユの姿を認めると、その目を、ドラッグと、怒りで、赤く光らせた。
「……ネズミが、入り込んでいたか」
ダミアンは、カミーユに、ゆっくりと近づいてくる。
そして、彼が手にしていたスマートマシンガンの銃口を、カミーユへと向けた。
『カミーユ、気をつけて!その銃、テンザン・ロボティクスの試作品だ!撃たれた弾が、ホーミングする!』
さらに、ダミアンの右腕の義手が、[ガシャコン!]という音を立てて変形。肩の装甲が展開し、腕そのものが、安定した砲台と化した。
「―――ようこそ、地獄へな!」
ダミアンの指が、トリガーにかかる。
だが、それよりも早く、カミーユは、床を蹴っていた。
彼女は、ウェイとの取引のため、そして、アヤを救うため、この男を、ここで、排除することを、瞬時に、決断した。
二人の距離は、数メートル。
絶望的な間合いの中で、カミーユと、PTSDに蝕まれた元軍人との、一対一の死闘が、今、始まろうとしていた。




