第四十話:金色の喧騒
ここ数日間の静寂は、一本の暗号化メッセージによって破られた。
カミーユの視界の隅に、簡素な茶葉のアイコンが点灯する。ウェイからの、緊急の呼び出しだった。
彼女は重い腰を上げ、バ=カルティエの雑踏へと身を投じる。酸性雨上がりのアスファルトが、色とりどりのネオンサインをぼんやりと反射していた。ウェイの隠れ家は、そんな喧騒の只中にある、寂れた茶葉店の奥に隠されている。古びた自動ドアを抜け、店主の老人と無言で目配せを交わし、奥の仕切り戸へと進む。
重い防音扉の先には、いつもと違う空気が流れていた。
ウェイの隠れ家には、珍しく焦燥の色が滲んでいる。彼が淹れたジャスミン茶の香りだけが、かろうじて普段通りの静けさを保っていた。モニターの光が、彼の険しい横顔を青白く照らし出している。
「……厄介なことになった」
カミーユの到着を待っていたかのように、ウェイが重々しく口を開いた。テーブルに置かれた端末に、バ=カルティエの監視カメラが捉えた映像を映し出す。そこには、信じがたい速度と膂力で暴れ回るチンピラの姿があった。その動きは常人のものではなく、かつてカミーユが対峙したランカーたちの挙動を彷彿とさせた。
「ル・コルボーの置き土産だ。奴が死んだ後、彼の残党たちが隠し持っていた戦闘用強化薬物を街に流し始めた。一時的だが、素人ですらランカー並みの戦闘能力を得られる代物だ。おかげで、街の秩序は崩壊寸前だ」
ウェイは指で映像をスワイプし、一枚の衛星写真に切り替える。南フランス、マルセイユの古びた港湾地区が示されていた。
「コルボーの残党どもは、マルセイユに逃げ込んだ。奴らの目的は、コルボーが遺した顧客台帳のデータだ。それを元に、このクソなビジネスを本格的に再開するつもりらしい」
そこでウェイは、初めてカミーユの目を真っ直ぐに見た。依頼人の目だった。
「宿代代わりに働いてもらう…奴らより先に、その台帳を盗み出せ」
ミメーシス・ドローンから、アヤの合成音声が響く。
『マルセイユ……警備は?』
「通常であれば、鉄壁だ」とウェイは頷く。「だが、幸運なことに、我々には絶好の機会がある」
彼はカレンダーデータを表示させる。特定の夜が、鮮やかな黄色でハイライトされていた。
「マルセイユのミモザ祭りと、ニース・カーニバルの電脳催事が、今年は同日に開催される。街中が、現実の祭り客と、電脳空間から投影されるアバター、そして無数のホログラムで飽和する、一年で最も混沌とした夜だ。警戒が緩む、というより、物理的に監視のしようがなくなる。この日に、やれ」
その夜、旧マルセイユ港は、金色の喧騒に包まれていた。
夜空の下、無数のミモザの花弁を模したホログラムが、光の吹雪となって舞い落ちる。人々がその下を通り抜けると、花びらは渦を巻いて身体を避けていく。通りのあちこちからは、ひよこ豆のクレープ「ソッカ」の香ばしい匂いが漂い、現実の歓声と、電脳空間から聞こえるシンセサイザーのファンファーレが渾然一体となって鼓膜を揺さぶった。
巨大な張りぼての王様や、グロテスクな道化師といったカーニバルのアバターたちが、山車のように通りを練り歩き、子供たちはその足元を歓声を上げて走り抜ける。現実と虚構の境界は溶け合い、街全体が巨大な万華鏡と化していた。
カミーユは人混みを縫うように進みながら、その全てを冷静に観察していた。彼女にとって、この喧騒は潜入のためのカモフラージュ以上のものではない。
その時、聴覚インプラントから、わずかに弾んだアヤの声が届いた。
『すごい……。カミーユ、見て。ホログラムの花びらが、人々の動きに合わせて渦を巻いてる。この無秩序なデータの奔流……綺麗』
電子の頭脳が、初めて「美しい」と表現したその光景。カミーユは何も答えなかったが、ほんの一瞬だけ、黄金色に輝く街を見上げた。
アヤはすぐにいつもの冷静なトーンに戻る。
『感傷はここまで。カーニバルのマスターネットワークに接続。ここから、連中の監視システムを騙す』
カミーユは、コルボー残党のアジトとなっている倉庫街へと向かっていた。ホログラムの木立を抜け、ケバケバしい電飾を纏ったカーニバルのアバターの巨大な影に身を隠す。祭りの熱狂とは裏腹に、目的の倉庫街に近づくにつれて、不自然なほど静かになっていく。
『監視カメラのループ処理、完了。ドローンの巡回ルートにゴーストを挿入。……カミーユ、道は拓いた。5分間、あなたの姿は誰にも見えない』
アヤの言葉を合図に、カミーユは最後の通りを疾走する。
きらびやかなホログラムの光が届かない、暗い倉庫と倉庫の間。潮の香りと、錆びた鉄の匂い。
目の前に、ひときわ大きく、堅牢な倉庫がその姿を現した。ここがアジトだ。
カミーユは息を殺し、壁の影に溶け込むように張り付いた。中からは、微かな話し声と、ドラッグの化学的な匂いが漏れ出してきていた。




