第三十九話:父の戦争
ジュリアン・ヴァランの隠れ家は、バ=カルティエの、どの地区にも属さない、忘れられた場所に存在した。
旧市街の地下深く、かつて、二本の川を繋いでいた、巨大な地下運河の、今は干上がった底。
そこは、クラブ・ノクターンのような華やかさとは無縁の、武器と、旧世界の通信機だけが置かれた、ストイックな空間だった。
彼は、静かに、琥珀色の液体が入ったグラスを傾けていた。
だが、その目は、ただの酔客のものではない。何かを、じっと、待ち続けている。
10年間、一日も、欠かすことなく。
その時だった。
部屋の隅に置かれた、古びた短波受信機の一つが、不意に、特殊なノイズを発した。
[キ……キ……キキ……]
それは、ただのノイズではない。10年間、彼だけが、待ち続けていた、決起の合図だった。
ジュリアンは、グラスを置くと、即座に、その暗号の解読を始める。
数分後。彼の目の前のモニターに、短いメッセージが、その全文を現した。
『鷲は、巣に戻る。羊飼いを、集めよ』
―――ランベール大統領が、動いた。
ジュリアンの、虚無感を湛えていた瞳に、10年ぶりに、かつてのGIGN隊長としての、鋭い光が戻った。
彼は、自らが秘密裏に構築していた、独自の通信ネットワークを起動。
それは、企業の監視網も、市警の盗聴も、ノマドのハッキングさえも、決して捉えることのできない、旧世界のゴースト・ネットワーク。
彼は、そのネットワークを使い、ブラックアウト後、散り散りになっていた、信頼できるGIGNの元メンバーたちへ、ただ一言、集合をかけた。
「―――時間だ」
メッセージは、一斉に、廃都の闇へと放たれた。
ラ・コミューンで、子供たちに格闘技を教えていた、巨漢の男。
オートヴィルの企業で、その正体を隠し、幹部の警護をしていた、一人の女。
ラ・フォルジュで、最高の武器職人として、その腕を振るっていた、初老の技術者。
彼らは、それぞれの場所で、その短いメッセージを受け取ると、全てを捨て、闇の中へと、姿を消した。
ジュリアンは、壁に貼られた、フランスの巨大な地図を見据える。
彼の瞳が、一つの場所を、捉えていた。
トゥールーズ宇宙センター。
ランベール大統領が、帰還し、そして、新たなフランス共和国の、最初の旗を立てる場所。
我々が、命を懸けて、確保すべき、聖域。
彼の脳裏に、数週間前の、クラブ・ノクターンでの光景が、ふと、蘇る。
裏社会の王を、たった一人で、葬り去った、娘の姿。
(……あの街で、まだ、あんな無茶な生き方を続けているのか、カミーユ)
ジュリアンは、自嘲気味に、小さく笑った。
娘の心配など、10年前に捨てたはずだった。
彼は、壁に立てかけていた、巨大な対物ライフルを、その手に取った。
個人的な感傷は、捨てた。
今はただ、任務があるだけだ。
カミーユの知らないところで。
廃都の、さらに深い場所で。
もう一つの、戦争が、今、静かに、始まろうとしていた。




