第三十七話:逃亡者
カミーユは端末の電源を落とした。
その画面には、ウェイから送られてきた、たった一つの座標データが、まだ残像のように焼き付いている。
視線の先で、ラ・コミューンの仲間たちが、コンソールを囲み、険しい顔で言い争っていた。彼女の首にかかった、莫大な懸賞金について。そして、彼女たちを匿うことのリスクについて。
彼らに背を向け、彼女は壁際の自身の装備へと、無言で手を伸ばした。
その肩を、一つの、大きな手が、そっと掴んだ。
ペール・ミシェル市長だった。
「……カミーユ君。行ってしまうのかい?我々が、君を守るというのに」
その声は、父親が、娘を諭すように、優しかった。
「ミシェル」
カミーユは、振り返らずに言った。
「私がここにいれば、この場所が、戦場になる。あなた達の、穏やかな日常が、壊される。……それは、私が最も、見たくないものだ」
彼女は、コーエン博士が待つ、医療スペースへと向かった。
博士は、不安げな顔で、彼女を待っていた。
「行くぞ、博士」
博士を連れ、隠れ家を出る。
その耳元の通信機から、アヤの声が、ノイズ混じりで届いた。ウェイのテリトリーは、ここから、あまりにも遠い。
『……カミーユ、本当に、一人で行くの?』
「一人じゃない。お前がいる」
『……うん。……でも、気をつけて。この距離だと、通信が不安定になる。ミメーシスの反応も、遅れるかもしれない』
カミーユと博士は、ミシェル市長と、数人の仲間だけに見送られ、ラ・コミューンの、秘密の出口から、再び、廃都の闇の中へと、姿を消した。
彼女が、自らの「帰る場所」を、自らの手で、後にした瞬間だった。
街の空気は、一変していた。
ウェイから指定された隠れ家は、旧中華街にある、高層アパートの一室。そこへたどり着くまでが、すでに、一つの戦いだった。
大通りは、使えない。市警の検問と、バスティオンのドローンが、空を支配している。
カミーユは、博士をバイクの後ろに乗せ、フォコンを駆った。
入り組んだ路地裏を、迷路を抜けるネズミのように、猛スピードで駆け抜ける。
すれ違う、スカベンジャーたちの視線が、これまでとは、明らかに違っていた。
その目には、畏怖ではなく、剥き出しの「欲望」が浮かんでいる。彼らにとって、カミーユは、もはや伝説の『女』ではない。歩く、大金だった。
『カミーユ、前方からパトロール!市警だ!』
アヤの警告。
カミーユは、急ブレーキをかけ、バイクごと、崩れかけた建物の影へと滑り込んだ。
数秒後、武装した市警の部隊が、市民の顔を一人一人、スキャンしながら、通り過ぎていく。彼らの目的は、明らかだった。
夜が、白み始める頃。
二人は、ついに、目的のビルへとたどり着いた。
そこは、『紅龍団』の縄張りの中心部。ウェイの部下たちが、建物の入り口を固めており、市警や、他のスカベンジャーが、容易に手出しできる場所ではなかった。
ウェイから送られてきたキーコードで、アパートの一室に入る。
中は、埃をかぶってはいるが、最低限の生活設備は整っていた。
カミーユは、コンソールを立ち上げ、ラ・コミューンに残してきた、アヤのサーバーとの、暗号化された細い回線を、ようやく繋ぎ直した。
『……なんとか、リンクは確立できた。でも……カミーユ……。外の、ローカルネットを見て……』
アヤが、カミーユの端末に、一つの画面を転送する。
それは、この街のスカベンジャーたちが使う、闇の掲示板だった。
そこには、無数の、新しい書き込みが、溢れていた。
【懸賞首:『女』と『博士』】
【バスティオン社から、公式に依頼が出たぞ!】
【最後に目撃されたのは、東岸地区!ラ・コミューンの近くだ!】
【どんな情報でもいい!分け前は保証する!】
カミーユは、その、欲望に満ちた文字列の奔流を、感情のない瞳で見つめていた。
彼女は、ジグラットという、一つの牢獄から脱出した。
だが、今や、この廃都リヨンそのものが、彼女を囚える、巨大な牢獄へと、姿を変えていた。




