第一話:塔の上のジャイロ
酸性雨が、音を立ててアスファルトを溶かしていた。
空は、厚い雲と、その上を流れるデブリの帯が放つ、鈍い光に覆われている。眼下に広がるのは、かつて「美食の都」と呼ばれた街の、巨大な墓標。黒いシルエットとなったビル群の合間を、故障したホログラム広告が、まるで亡霊のように明滅している。
『Lumière Éternelle... 永遠の輝きを、あなたに...』
美女の顔が、一瞬、醜いノイズの怪物に変わり、そして消える。
その光景を、街で最も高いクレーンの頂上から、一人の女が見下ろしていた。
カミーユ・ヴァラン。
旧式の防水マントのフードを目深に被り、その顔に落ちる影は、彼女の表情をうかがわせない。彼女は、軍用の高倍率デジタル双眼鏡を目に当てていた。スカベンジで手に入れた、最高の「獲物」の一つだ。
レンズの先、数キロ離れたフルヴィエールの丘の上には、天を突く二つの巨塔が聳えている。一つは、リュミエール社の、象牙のように滑らかで有機的な曲線を描く「バイオ・スパイラル」。もう一つは、バスティオン社の、あらゆる光を吸収する黒い装甲に覆われた、巨大な要塞「ジグラット」。
あの二つが、この街の神様だ。
カミーユは双眼鏡を降ろすと、指先に雨粒を溜め、そっと舐めた。
わずかな痺れと、金属の味。
「……アヤ、聞こえるか」
彼女の声は、風に溶けるような囁きだ。
肩の無線機が、数秒の沈黙の後、喘ぐようにノイズを吐き出した。
『……問題ない……カミーユ……。今日の雨は、電磁嵐が……近い……』
「ああ、味が濃い」
カミーユは、背中のバックパックから、黒い翼のようなドローンを取り出す。MIMESIS-01。アヤの身体。その左翼の付け根が、痛々しくひしゃげている。
『……左のジャイロが、完全に沈黙……。これじゃ、飛べない……』
カミーユは、無言でドローンをバックパックにしまうと、ワイヤーをクレーンに固定し、音もなく闇の中へと降りていった。
一時間後、カミーユは旧サン・ジャン大聖堂の地下深くにいた。
ロウソクの光と、サーバーの排熱ランプだけが、無数の人骨が眠る壁龕を照らしている。この街のあらゆる情報と物資が流れ着く場所。フィクサー「ムッシュ・フクロウ」の取引所だ。
梟の仮面をつけた大柄な男が、カウンターの奥から、カミーユが差し出したデータチップを検分している。
「……旧世界の美術館の所蔵データか。悪くない。で、お望みは?」
「軍用の精密ジャイロ。ミメーシスの修理に使う」
フクロウは頷くと、棚を探るふりをしながら、カミーユにしか聞こえない声で囁いた。
「いい情報は金になるが、一番いい情報は手間賃が必要でね。おあつらえ向きの仕事がある」
彼は、一枚の地図データをカミーユの端末に送った。
「フルヴィエールの旧気象観測タワーの屋上。数ヶ月前、EACの軍用ドローンが落ちた。そいつに、あんたが欲しがってる『軍用の精密ジャイロ』が、まだ手付かずで残ってるはずだ。ただし、あの辺りは市警の縄張りだ。連中はハイエナだからね。気をつけるんだな」
カミーユは、廃墟のビル群の壁面を、まるでヤモリのように移動している。地上を歩くより、ずっと安全で、速い。
『……前方、200メートル……市警のパトロール隊……!』
アヤの警告。カミーユは、崩れた壁の影に身を潜めた。
路地の向こうを、3人組の警官が歩いていく。その一人は、頭部がごっそりとサイボーグ化され、複数の赤いレンズが、昆虫のように蠢いている。
『……バスティオン製の聴覚・視覚インプラントだ。心音まで拾うかも……!』
カミーユは動かない。ただ、息を殺し、壁の亀裂から、静かに獲物を見据える。
彼女は、足元に転がっていた小さな石を拾うと、スリングライフルに装填した。狙うのは、警官ではない。彼らの頭上、崩れかけた看板の上に巣を作っている、ミュータント化したカラスの群れだ。
無音で、石が放れる。
看板に当たり、甲高い音を立てた瞬間、何十羽というカラスが一斉に、けたたましい鳴き声と共に飛び立った。
「!?」
サイボーグ警官が、ノイズの洪水に耳を塞いで、苦痛に顔を歪める。彼の高性能すぎる聴覚センサーが、予測不能な自然音の飽和によって、オーバーロードしたのだ。
他の警官たちも、突然の出来事に混乱している。
その隙に、カミーユは、音もなく影から影へと駆け抜けた。
彼女の心音は、雨音に溶けて、誰にも届かない。
嵐のような強風が吹き荒れる中、カミーユは、ついに気象観測タワーの頂上にたどり着いた。
そこに、目的の軍用ドローンは、翼を折られた鳥のように横たわっていた。
彼女は、風に身体を煽られながらも、慎重に、そして素早く、ジャイロユニットを回収する。
『……やったね、カミーユ!』
「ああ。すぐに繋ぐ」
ミメーシスを修理し、起動させる。黒い翼が、今度は、完璧な安定性で、嵐の中を舞った。
『最高!これでまた、あんたの影でいられる!』
アヤの嬉しそうな声に、カミーユの口元にかすかな笑みが浮かぶ。
彼女は、タワーの頂上から、自らが生きる街を見下ろした。眼下の廃墟群。そして、その向こうに聳える、オートヴィルの白い巨塔。
その、二つの世界の境界線の上空で。
閃光が、夜空を裂いた。
音は、ない。
ただ、一条の光が走り、オートヴィルから飛び立った一機の大型輸送機が、火を噴きながら、きりもみ状に墜ちていくのが見えた。機体には、バスティオン社のロゴが描かれている。
『……嘘でしょ……』
輸送機は、カミーユたちがいるバ=カルティエの、さらに向こう側――汚染された工業地帯「テール・モルト(死の大地)」の方角へと、黒い煙を引いて消えていった。
長い、長い沈黙。
やがて、地平線の彼方から、BOOMという、地を揺るがすほどの、重い、重い衝撃音が、廃都リヨンに響き渡った。
『……バスティオンの輸送機が……撃ち落とされた……!』
カミーユは、墜落した方角を、静かに見据えていた。
タワーを吹き抜ける風が、いつもの鉄の匂いとは違う、血と硝煙の匂いを運んでくる。
廃都に、本当の嵐が来ようとしていた。




