第十七話:死の舞踏
時間は、インクが水に滲むように、ゆっくりと過ぎていった。
カミーユは、廃ビルの屋上で、ただ息を殺し、獲物が姿を現すのを待ち続ける。
遠く、オペラハウスの中から、微かに音楽のクライマックスと、割れるような喝采が聞こえてきた。
ショーは、終わったのだ。
『……カミーユ。そろそろだ』
アヤの声が、耳元の通信機から囁く。
『車両は、いつでも動かせる』
「ああ」
やがて、オペラハウスの正面玄関が開き、着飾ったVIPたちが、護衛に囲まれて姿を現し始める。
カミーユは、ウェイから借りた、旧式のボルトアクション・ライフルのスコープで、その群衆の中から、ただ一つの影を探していた。
『……来たよ』
アヤの声。
VIPたちから少し遅れて、ル・コルボーが、護衛と共に姿を現した。
カミーユは、ライフルのスコープで、彼の顔を完全に捉えた。
そして、静かに、しかし、はっきりと告げた。
「―――今だ」
次の瞬間、オペラハウス前の大通りで、異変が起きた。
全ての交通信号が一斉に赤に変わり、道路封鎖用のボラードが、轟音と共にせり上がってくる。数秒で、オペラハウス前の大通りは、貸し切りの「舞台」へと変貌した。
「何だ!?」
「管制システムがハッキングされたぞ!」
コルボーの護衛たちが、混乱に陥る、その一瞬。
路地裏の闇の中から、一台の、巨大な無人トラックが、唸りを上げて飛び出してきた。
アヤが、ミメーシスを介して、その鋼鉄の獣を、完璧にコントロールしている。
トラックは、ル・コルボー、ただ一人を標的に、猛スピードで突進した。
だが、彼は、「王」だった。
彼は、迫りくる鋼鉄の塊を、その人間離れしたサイバーアイで冷静に見据えると、衝突の、まさにコンマ数秒前、信じられないほどの跳躍力で、その場から真上に跳び上がった。
[ゴオオオオオン!]
トラックは、コルボーがいた場所を、空しく通り過ぎ、オペラハウスの壁に激突。大爆発を引き起こした。
煙と瓦礫の中から、ル・コルボーが、空中で体勢を立て直し、着地する。
片腕を庇うように押さえ、その額からは、血が流れていた。深手を負ったのは、間違いない。
だが、彼は、生きていた。
そして、その血のように赤いサイバーアイは、一直線に、カミーユが潜む、向かいのビルの屋上を、正確に睨みつけていた。
「……見つけたぞ」
コルボーのスピーカー越しの声は、怒りに満ちていた。
彼は、人間離れした跳躍力で、ビルからビルへと飛び移り、カミーユがいる屋上へと、一直線に迫ってくる。
カミーユは、ライフルを捨て、コンバットナイフと『スティンガー』を抜き放つ。
数秒後、コルボーは、獣のような咆哮と共に、カミーユがいる屋上へと、着地した。
彼の右手には、投げれば手元に戻るという、特殊ナイフ『リッパー』が握られていた。
二人のナイフの達人による、高速の近接戦闘が、火花を散らす。
カミーユの洗練された技術と、コルボーの、経験に裏打ちされた荒々しくも鋭い刃が、激しく交錯した。
だが、深手を負ってなお、コルボーの力と速さは、カミーユの予測を上回っていた。
カミーユは、コルボーの蹴りを、腕でガードし、後方へ大きく吹き飛ばされる。
彼女は、体勢を立て直すと同時に、最後の賭けに出た。
ブーツのかかとを一度だけ、強く打ち鳴らす。
圧縮された空気が爆ぜる音と共に、彼女の身体は、床を滑るようにして、コルボーの懐へと、一直線に突撃した。
狙うは、カウンターの一撃。
しかし、コルボーは、その突撃を、笑っていた。
彼は、カミーユが『スティンガー』を突き出す、まさにその瞬間、自らの脇腹を、がら空きにした。
カミーユの刃は、狙い通り、コルボーの脇腹に深々と突き刺さった。
「……ぐっ!」
高圧電流が、コルボーの体内を駆け巡る。さすがの彼も、片膝をついた。
だが、彼は、不気味に笑っていた。
カミーユの腕を、その鋼鉄の左手で、強く掴みながら。
「後悔するなよ、ネズミ」
彼は、戦闘用の特殊な薬物を取り出すと、躊躇なく、首筋のポートに注射した。
「ぐ……アアアアアアアッ!」
コルボーの身体が、激しく痙攣する。
スティンガーによって抉られた傷が、ナノマシンの効果か、煙を上げながら、ありえない速度で塞がっていく。彼のサイバーアイが、血のように赤く点灯した。
理性の光が、その瞳から消える。
「……遊んでやるか」
理性と引き換えに超人的なパワーを得た「怪物」が、特殊サブマシンガン『ペイバック』を、その手に構えた。
カミーユは、掴まれた腕を蹴りで振りほどき、後方へと跳んだ。
第二ラウンドの始まりだった。
コルボーは、笑っていた。
彼が構えるサブマシンガン『ペイバック』が、獣の咆哮のような発射音を立てる。
だが、その銃口は、カミーユに直接は向いていなかった。
彼は、カミーユが隠れる給水タンクの手前の床に、弾丸を撃ち込んだ。
[キン!]
弾丸は、コンクリートの床で火花を散らしながら跳ね上がり、角度を変え、カミーユが隠れた給水タンクの、まさに死角となる背後から、牙を剥いた。
[ドゴォォン!]
炸裂弾が、タンクを破壊し、熱い水蒸気と金属片の嵐が、カミーユを襲う。
彼女は、床を転がり、次の遮蔽物である、通風管の影へと飛び込む。だが、その数秒後には、またしても、ありえない角度――壁、天井、別の通風管――で跳弾した、第二、第三の弾丸が、彼女を正確に追い詰めてくる。
屋上は、もはや、死のビリヤード台と化していた。
そして、コルボーは、そのキューを握る、唯一のプレイヤーだった。
カミーユには、逃げる場所も、隠れる場所も、もう、どこにもなかった。
『カミーユ! 逃げて! そいつは、もう、人間じゃない!』
アヤの悲鳴が響く。
カミーユは、爆風で、屋上の縁へと吹き飛ばされた。
眼下には、何十メートルもの、コンクリートの奈落が広がっている。
そして、その下を、一台の、民間のエアカー(空飛ぶ車)が、何も知らずに、ゆっくりと通過していくのが見えた。
コルボーが、とどめを刺すべく、サブマシンガンの銃口を、カミーユに向ける。
カミーユは、迷わなかった。
彼女は、屋上の縁から、自らの身体を、夜の闇へと、投げ出した。
「!?」
コルボーが、驚きに目を見開く。
カミーユは、落下しながら、眼下のエアカーの、その屋根だけを見据えていた。
風切り音が、耳元で、死の歌のように響き渡る。
屋上では、獲物を逃した怪物が、獣のような怒りの咆哮を、夜の廃都に轟かせていた。




