第十話:サシャ
凍てつくサーバー室から、カミーユは再び西岸地区の闇へと戻った。
手に入れた『ケルベロス・キー』をポーチにしまい、彼女は、まっすぐ『ル・プロフェスール』の元へと帰還した。
地下アーカイブで待っていた教授は、カミーユが差し出したキーを見ると、満足げに頷いた。
「……見事だ。これで、亡霊たちへの扉が開く」
教授は、キーを自らのターミナルに接続し、極めて複雑な暗号通信プロトコルを起動させた。
『これで、ノマドにメッセージが届く。彼らに会う気があるのなら、数時間以内に、会合の場所と時間が、君の端末に直接送られてくるだろう。……ただし、忠告しておく』
教授は、カミーユをじっと見つめた。
「彼らは、理想主義者であると同時に、狂信者でもある。彼らの『理想』にそぐわぬ者は、企業や市警と何ら変わらぬ、ただの敵だ。……気をつけたまえ」
数時間後。
ラ・コミューンの隠れ家で、カミーユの端末が、短いビープ音を鳴らした。
暗号化されたメッセージ。アヤが即座にそれを解読する。
『……来たよ、カミーユ。……場所は、第5行政区の地下……旧メトロD線、ゴルジュ・ド・ルー駅。時間は、今から一時間後』
「地下鉄駅か」
『うん。地上は、どこから狙われるか分からないからね。……私も、ミメーシスで行く。でも、回線が細いから、今までみたいにクリアには話せないかもしれない』
「分かっている。行くぞ」
ゴルジュ・ド・ルー駅は、バ=カルティエの中でも、特に深く、迷路のように入り組んだ地下構造を持つことで知られていた。
カミーユは、フォコンを隠し、指定された入り口から、湿った暗闇の中へと、一人で足を踏み入れていく。
『……カミーユ、気をつけて。複数の人間が、待ってる』
アヤの囁き声。
ホームへと続く階段を降りきると、そこに、二人の人影が立っていた。彼らは、揃いの黒いジャンプスーツに身を包み、その顔は、AR表示機能付きのフルフェイスヘルメットで覆われている。ノマドの兵士だ。
彼らは、カミーユに何も言わず、ただ、奥へと進むよう、武器で示した。
カミーユは、それに従った。
ホームの奥、かつて駅長室だったであろう部屋の扉が開かれる。
中は、彼女がこれまで見てきた、どの風景とも異質だった。
部屋の中央に、宙に浮かぶように設置された、一基の「コマンド・チェア」。
そこに、一人の人間が、座っていた。
長く伸ばされた銀色の髪の一部は、無数のデータケーブルとなって、チェアのアームへと接続されている。両目は、常に膨大な情報を表示する、液体のように明滅するサイバーアイ。服装は、機能的なジャンプスーツのみ。
年齢も、性別も、その姿からは判然としなかった。
だが、その存在が、このノマドという集団の「頭脳」であることは、一目で分かった。
「……君が、カミーユか」
スピーカーから、合成音声でありながら、どこか穏やかな響きを持つ声が、部屋に響いた。
「私が、サシャだ。『ケルベロス・キー』を、よく手に入れてくれた。礼を言う」
「本題に入ろう」カミーユは、時間を無駄にする気がなかった。「『プロトコル・ラザロ』について、知っていることを教えてほしい」
サシャは、何も答えなかった。
そのサイバーアイが、カシャリ、と音を立てて、カミーユの全身をスキャンする。
カミーユの身体には、スキャンすべき電子機器はほとんどない。サシャの本当の狙いは、カミーユの肩に付けられた、旧式の無線機。
そこから漏れ出る、極めて微弱な、しかし、決して見逃すことのできない信号。
『……カミーユ、まずい。スキャンされてる。こいつ、アヤの存在に……!』
アヤの警告が、途切れる。
サシャが、指先一つ動かさずに、二人の間の通信を、完全に遮断したのだ。
「『プロトコル・ラザロ』……。興味深いテーマだ」
サシャは、ゆっくりと言った。
「だが、それよりも、はるかに興味深いものを、今、見つけた」
サシャのサイバーアイの光が、カミーユの肩の無線機へと、レーザーのように集束する。
「君のその無線機の先にいる『幽霊』……。その意識シグネチャの痕跡は、10年前に失われた、我々の『姉妹』のものと、酷似している」
部屋の空気が、凍り付いた。
サシャの両脇に控えていた、二人の兵士が、音もなくサブマシンガンを構える。
サシャの声から、穏やかさが消えた。
冷徹な、尋問者の声だった。
「アヤ・ルグランを、どこにやった? なぜ、彼女の精神を、弄んでいる?」
「……お前が、彼女を囚えているのか?」




