第九話:猟犬たちの謀議
市警本部――旧リヨン市庁舎の最上階。
警察署長アントワーヌ・ヴァロワの執務室は、下の世界の混沌が嘘であるかのように、静寂に満ちていた。
磨き上げられたマホガニーのデスク。壁に飾られた、ブラックアウト以前のフランスの国旗。そして、窓の外に広がる、彼がこれから手に入れるべき、廃都の夜景。
その静寂を破ったのは、無骨な義肢が立てる、硬質な駆動音だった。
「―――失礼します、署長」
入室してきたのは、オーギュスト・モレル隊長だった。
数週間前、カミーユによって破壊された彼の左腕は、ラ・フォルジュで取り付けられた、剥き出しのピストンとケーブルが醜悪な、暴力的な義肢に換装されていた。その腕は、動くたびに、彼の屈辱を思い出させるかのように、鈍い音を立てた。
「モレルか。顔色が悪いな。その腕、まだ馴染まんかね?」
ヴァロワは、デスクから目を離さずに言った。その声には、部下を気遣う響きは一切ない。
「問題ありません」と、モレルは低い声で答えた。「それより、ご報告を」
彼は、一枚のデータチップをデスクの上に置いた。
「例の『ゴースト』……カミーユ・ヴァランの足取りを掴みました」
ヴァロワが、初めて、モレルへと視線を向けた。
「ほう」
「敗北の後、私は、東岸地区のフィクサー『ル・ブーシェ』に、いくつかの『貸し』を返させました。彼のネズミたちが、奴の動向を追っていたのです」
モレルの声に、獰猛な光が宿る。
「奴は、バスティオンのランカーを仕留めた後、『プロトコル・ラザロ』という言葉を嗅ぎ回り始めました。そして、数時間前、西岸地区の『教授』と接触。……どうやら、次なる情報を求め、あの『ノマド』と接触するつもりのようです」
「ノマド、か」
ヴァロワは、その言葉を、舌の上で転がすように繰り返した。
彼の脳内で、高速で計算が始まる。
市警がその拠点を掴みあぐねていた、移民のハッカー集団。
企業のランカーさえも退ける、正体不明の、生身の女。
二つの、厄介な「害虫」が、今、自ら一つの場所に集まろうとしている。
「素晴らしい報告だ、モレル君」
ヴァロワは、椅子から立ち上がると、窓の外の夜景を見下ろした。
「君の執念が、またとない好機を、我々にもたらしてくれた」
ヴァロワは、モレルへと向き直った。その目は、冷たい戦略家の光を宿していた。
「RAIDの出撃を許可する」
「……! では……!」
「ああ。君の好きにしたまえ。我々の『庭』で、ネズミどもが好き勝手に振る舞うのは、ここまでだ。フランスの主権を取り戻せ、モレル隊長」
「はっ!」
モレルの顔が、歪んだ喜びに満ちていく。復讐の時が、来たのだ。
市警本部、地下。
RAID部隊の出撃準備室は、金属音と、男たちの熱気に包まれていた。
隊員たちが、ヴァロワ署長の命令を受け、最新鋭のEAC製アサルトライフルや、バスティオン社から横流しされた戦闘用義体を、その身体に装着していく。
「聞いたか?今日の獲物は、ノマドの連中らしいぜ」
「ヒャッ、ようやくあの汚物を掃除できるのか!」
「ついでに、ランカー殺しの女も出るって話だ。面白くなってきたじゃねえか」
彼らの会話の端々から、差別意識と、これから始まる「狩り」への高揚感が滲み出る。
そこに、モレルが現れた。
彼の、新たな義手を見た隊員たちが、一瞬、息を呑む。
「準備はいいな、諸君」
モレルの声が、部屋に響き渡った。
「ターゲットは二つだ!ノマドのリーダー『サシャ』と、あの『ゴースト』!」
彼は、軋む義手で、強く拳を握りしめた。
「一人も、この地下から生かして出すな!我々の力、我々の正義を、あの廃都のクズどもに、骨の髄まで叩き込んでやれ!」
「「「ウィ、モレル隊長!」」」
復讐心と、狂信的な士気が一つになる。
完全武装したRAIDの隊員たちが、次々と、黒い装甲車へと乗り込んでいった。
廃都の闇の中へ、主人の命令を受けた、最も忠実で、最も危険な猟犬たちが、今、放たれた。




