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王太子ジュリアン

 窓から差し込む午後の光が、机の上に広げた古い羊皮紙を白く照らしている。 王宮の奥まった場所にあるこの一室は、いつも通り静かだった。


 手にした羽ペンを置き、私はふっと息を吐く。  

 公務や神殿との折衝、そして王太子としての立ち振る舞い。そうした「日常」という名の舞台から離れてこうして一人で未知の知識を紐解く時間は、今の私にとって代えがたい安らぎだ。


 不意に、扉が控えめに叩かれた。


 「殿下、入りますよ」  


 返事も待たずに現れたのは、側近候補のクラヴァールだった。

 わざわざ足を運んできたらしい彼は、机の上の資料と私の顔を交互に見比べると、あきれたように肩をすくめた。


「殿下、謹慎中だというのにご機嫌ですね」


「おや、クラヴァ―ルにはそう見えるの?」


「ええ。―—リリエル、ですか?」


 ーーさすがクラヴァ―ル。研究ばかりしていて人の機微に疎いと思われがちだけれど、実際は逆だ。


「ふふ、まさかあんな―—

 あんなの、誰も思いつかないよね」


 思い出し笑いを噛み殺す私に、クラヴァールは小さく息を吐いた。


「誰かさんが火消しする間もない程の勢いで噂をながしたおかげで、

 神殿は同性愛をみとめざるを得なくなりましたからね」


「痛快だったね。

 おかげでローザリアは魔女どころか、聖女の騎士扱いだ」


「良かったですね。

 ―—結局、殿下が一人で責任だけ負う形になってしまいましたが」


「別にそれで私の地位が揺らぐわけでもないから構わないさ。

 それに、二人の恋愛物語の影響が大きいからね。

 私の謹慎なんて、ほとんど誰も気にしてないよ。

 お陰様で、久しぶりにゆっくりさせてもらっている」


 窓の外、王宮の庭園に視線を落とす。  

 いつもと変わらない景色。私の謹慎など、あの劇的な結末に比べれば些末なことだ。


「―—リリエルは、大丈夫でしょうか」


「あぁ、近いうちにどんな計画だったのかは話しておかないとね。

 ―—この間の様子だと、聞いてもらえるかわからないけれど」


「確かに、いつものリリエルに比べてかなりとげがありましたね」


「それくらい憤っていたんだろう。」


 柔らかい表情の下に、強い意思を隠し持っていることは知っていた。

 けれど――あんな瞳をするなんて、思ってもみなかった。


「―—なぜ、計画を事前にお話にならなかったので?」


「はは、どうしてだろうね。急を要したこともあるし、

 彼女にはこういった姦計はふさわしくないと思ったのもあるけれどーー」


 まっすぐな彼女が、権力闘争の泥でくすんでしまうようなことはさせたくなかった。


 ―—リリエルがまさかの発言をしたとき。

 これはまずい、と神官たちの気配を気にする一方で―—

 正直少し、胸が高鳴る自分を感じていた。

 そんなこと、子供の頃以来だ。


(でも、嫌われてしまったかな)


 計画を話さなかった時点で覚悟していたこととは言え、それが少し寂しくはある。


 あの、純粋なまでの光。

 それは聖女だからというより―—

 彼女そのものを表しているようで。


 向けられた怒りさえ、まっすぐだった。


(やっぱり、ローザリアと通じ合っているだけはあるな)


 そう思った時、なぜだか胸が妙なざわつきを覚えた。けれど続く会話に、それはすぐにかき消される。


「―—詳細はともかく、あれが一時的な処置のつもりだったことは伝えておいた方がいいかと」


「そうだね。

 聖女との関係が険悪になるのは王家としても避けるべきだから。」


「まぁ、リリエルなら理解はしてくれると思いますがね」



 悪いようにはしない、と言った自分の言葉を、信じていなかったとは思いたくない。

 時間にしてみればまだわずかだけれど―—

 信頼関係は築けていたはずだから。



 ―—ふと、ローザリアを想う。

 ローザリアなら、どこでもどんなことでも飄々と耐えるだろうという信頼。「何が起きても信用してほしい」ということは、あらかじめ伝えてあった。


 けれど―—


(リリエルの言葉にあんなに動揺して。あんなローザリアは初めて見たな)


 そう回想したところで、またさっきの妙なざわつきが胸を掠めた。  

 チリッとした、焦燥にも似た不快感。


 ――さっきから、これは何だ。


 正体のわからない感情を持て余し、無意識のうちに窓の外へ視線を向ける。  


 眼下に広がるのは、手入れの行き届いた王宮の庭園。その一角にある、こんもりと葉を広げた深い緑の茂みが、ふと目に留まった。


 視界が、ふ、と滲む。  

 現在の静かな庭園の上に、ひどく鮮明な過去の色彩が重なり合った。



 ◇

 私とローザリアが出会ったのは、私が6歳、ローザリアが4歳の頃だった。

 ローザリアは覚えていないと言うけれど、私は今でも鮮明に、その光景を脳裏に描くことができる。


 王宮の庭。  

 眩しい陽光の下、豪奢なドレスが汚れるのもいとわず、泥の中にしゃがみ込む少女がいた。


(……水たまり?)


 数日は雨など降っていない。それなのに、彼女の足元にはたっぷりと水が満ちていた。  


 好奇心に駆られた私が歩み寄ると、そこには、「遊び」と呼ぶにはあまりに不気味な光景が広がっていた。


 彼女が土を捏ね、魔力を通すと、地面からせり上がった土は寸分の狂いもない精巧な「王城」の姿を成した。  

 彼女が指先を動かせば、何もない空間から溢れ出した水が、城を囲む堀をぴたりと満たしていく。  


 それだけではない。城の周囲には小さな竜巻が渦を巻き、不可視の防壁となって外界を拒絶していた。


 仕上げとばかりに彼女が小さく息を吹きかけると、城の無数にある窓一つ一つに、米粒ほどの小さな、けれど消えることのない火が灯った。


 土、水、風、火。  複数属性の同時発動。それも、顕微鏡で覗くような精密な制御。



 ――自分が優秀であるという自覚があった。

 王太子として一流の教師がついていることも知っていた。

 なのに、これはなんだ?

 自分の常識をはるかに上回る光景に息を飲む。


 当の少女はただ、静かに自らの箱庭を見つめていた。  

 そこに達成感も誇らしさもない。呼吸をするように、彼女はこの世界の理を捻じ曲げている。


 そのあまりに完成された「異常」を前に、私は声をかけることすら忘れて立ち尽くした。



 ――ほどなくして、クロイツ公爵と公爵夫人がやってきて、彼女に自己紹介を促した。

 ローザリア・フォン・クロイツと名乗る彼女は、とても4歳とは思えない――不思議な威圧感をまとっていた。


 まるで女王のように輝く濃い金の髪の毛。

 自分より小さいのに、どことなく大人びたーーいや、無表情なだけだったのかもしれない。

 何より、まるで見えないものが見えているような、底知れない、紅く輝く瞳。


 ――そしてその瞳は、私を、映してはいなかった。


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