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始まりの予感

それから何を見てもさっきのフードの男が頭から離れなくて、殿下と並んで歩く間、私はずっと頭の片隅で“誘拐された場合のシミュレーション”を回していた。

 

(もし腕をつかまれたら……魔力を流して抵抗?

ううん、騒ぎになったら関係ない人を巻き込むかもしれないわ。

どうせ起こるんだから、素直に連れていかれるべきよね)


どんどんおかしな方向にいく思考を慌てて止めたとき。


(……あ)


視界の端に、“この事件が起こるはずの地点”が自然と飛び込んできた。


露店の並びが一度途切れ、建物が曲がって死角になる狭い路地。

頭上には古い渡り廊下がかかり、昼でも奥が見えない。


人通りは多いのに、なぜかその角だけぽっかり空いている。


(ここ……イベントの現場だ)


足が止まりかけて、慌てて歩調を合わせた。


(落ち着いて。まだ何も起きてない)


そう言い聞かせるのに、心臓だけが先走る。

視界が、ほんの少しだけ狭くなった。


――人の流れはいつも通り。

露店の呼び声も、笑い声も、何一つ変わらない。


なのに、この路地だけが、舞台装置みたいに整いすぎている。


あのフードの男が潜んでいてもおかしくない。

不自然にならない程度に、あたりを見回した。


『眠り薬をかがされ、そのまま抱えられていく』そんなテキストが脳裏に浮かぶ。


(っていうか、この状態でどうやって誘拐するの?

殿下が何かを見ている隙に?

ううん、殿下はそんな無能じゃないわ。

……あれ?それじゃあ私が殿下から離れるべき?)


緊張で身体は強張るのに、矛盾した思考の堂々巡りが止まらない。


――けれど、視察の流れでそこを通り過ぎても、何も起こらなかった。


背中に向けられているはずだった視線は感じない。

気配も、魔力の揺れも、何も。


(……通り過ぎちゃった)


安堵より先に、拍子抜けが来た。

準備していた分だけ、力が抜ける。


(今日じゃない……?

 それとも、まだ“条件”がそろってないだけ……?)


殿下が気軽な調子で笑いながら振り返った。


「リリエル?歩き疲れたかい?」


「あっ、い、いえ!大丈夫です!」


声がわずかに裏返る。


(……でも準備はしておかないと。

 眠り薬の対策、何かできないかな……

 誘拐されるにしても、状況は把握しておきたいわ)


露店の列を抜けた先で、殿下がふと足を止めた。


「……少し、いいかな」


そう言って指さした先には、小さな子どもが二人、護符を胸に抱えて並んでいた。どうやら母親とはぐれてしまったらしい。


殿下が片方を肩車すると、すぐに母親が見つかった。


「ありがとう、本当に助かりました」


母親は、殿下のあまりの美しさに驚いてはいるようだったけれど、さすがにこの国の王太子とは気が付いていないようだ。


殿下は腰を落として、子どもと同じ目線になる。


「困ったときには必ず大人が助けてくれるからね。

 助けて、って言っていいんだよ」


子どもたちは、こくこくと頷いた。

その様子を、私は少し離れたところから見ていた。


(殿下って、本当にできた人だわ。

本当は私なんかじゃなくて、ローザ様にぴったりなのに)


自分で思ってしまって、少しだけ悲しい気持ちになった。こんなにローザ様が大好きなのに、私はイベントを進める行動を自分で選んでいる。


避けられないことを散々思い知らされたから、というのももちろんあるけれど……。


(ううん、考えても仕方がないわ。

私の力が覚醒しないと、

終盤のイベントがクリアできないもの。

それはダメよ。

断罪とか、そんな場合ですらなくなってしまう)


ほんの少し日が沈みかけて赤みが差した空を背に、殿下が私の方へ戻ってきて言った。


「リリエル、待たせたね。

この先においしいクレープの店があるんだよ。

良ければ食べていかない?」


「わあ!クレープ!」


甘いお誘いに、私の思考は一気に切り替わった。

我ながら現金だ。

そう言えば、殿下との距離をなるべく取りたいと、つい最近まで思っていたはずなのだけど。


「はは、思っていたけれど、リリエル()甘いものが好きだよね。もちろん私がご馳走するよ」


「ありがとうございます!」


女性ばかりの可愛らしい店でクレープを食べながら、私はふと疑問を口にした。


「殿下って、よく街歩きをするんですか?

この間もアルデン先輩と一緒でしたよね」


「うん、そうだね。定期的に視察はしているよ。

王族の義務だと思っている。

……まぁもとはと言えば子供のころ、ローザリアの護衛のつもりで始めたことなんだけど」


「あはは、ローザ様って王都でもやんちゃだったんですね」


「うん、そうなんだよ。

でも私は彼女のお陰で街の事を知った。

それに……実は彼女の破天荒に付き合えるのは自分だけだという自負もあったから、悪い気はしていなかったんだ」


「それ、間違えてないと思います」


「はは。でもローザリアは周りからは完璧な淑女に見えているだろう?

だからむしろ……私は君に興味があるんだよ、リリエル」


「え……」


「あのローザリアが素を見せているんだ。

そんなこと、初めてだ」


そう言われると、なんだか嬉しい。


「……でも、何もかもがローザ様に追いつけません。この間の偽物の護符を見つけた時も……思い知らされました」


殿下は不思議だ。誠実な人柄が伝わるからだろうか。ついつい本音が漏れてしまう。


「君は治世者の教育を受けていないのだから当然だろう。突然聖女に押し上げられたというのに、役割を果たそうとしてくれている。それは並大抵のことではないと、私は思うよ」


私が散々役割から逃げてきていたことを知っているはずなのに、殿下の言葉は優しい。


(ローザ様とのことが無かったら……。ゲームの知識が無かったら、きっと……惹かれていたわ)


そう思って改めて殿下を見る。


ローザ様の華やかな濃い金とも、私の淡い金髪とも違う、柔らかく、ほんの少しだけウェーブがかった金の髪。


そして、光を受けた海のような、輝く青い瞳。


少しだけ高鳴る胸を、意識して抑え込む。―—今なら、まだ大丈夫。


(良かった。恥知らずな人にならないで済みそう)


胸の高鳴りが、完全に消えたわけじゃない。

ただ、それを選ばないと決めることは、できる。


ローザ様が断罪されて、私が殿下と結ばれることになったら――

そしてそれを、私が一瞬でも望んでしまったら。


(そんなの、絶対に許せない。ローザ様が断罪される未来だとしても――

 それならなおさら、私は殿下に心を許しちゃ、いけないんだわ)


「あまり遅くなってもいけないから、そろそろ帰ろうか」


そう言って殿下が私に手を差し出す。


「はい、そうですね」


手を取ると、また少しだけ胸がドキリとしたけれど――

私はそれには気づかないふりをした。














次回、明日20時更新予定です。

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