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いざ、クロイツ領へ

出発の日――


朝早く、日が昇る前に公爵家の馬車に乗り込んだ。

王都から馬車で8時間ほどのクロイツ領。

さすがに疲れるだろうなと思っていたけれど、さすがというかなんというか、馬車にも魔法がかけられていて、すこぶる乗り心地が良い。


途中、お昼を食べるために小さな街へ寄ったきりで、

あとはひたすら南へと走る。


「さっきのパン、美味しかったなぁ……」


どこまでも同じ景色が続く平地を眺めながら、思わずそんな独り言がこぼれた。


「あら、お昼のサンドイッチ、気に入った?」


「はい……!パンの香りがすごく良くて……」


「あれはクロイツ小麦のパンよ。

 王都にも卸しているから、旅の途中でも手に入るの」


「へぇぇ…… あれ?でも、王都では食べたことが無いような……」


「学園ではなかなか出ないわねぇ。

 でも、王宮でもクロイツ小麦を使っているのよ」


「そうなんですか!じゃあジュリアン殿下も

 クロイツ小麦で育ってるんですね!」


「ふふ、そうね。

 というか、殿下が気に入られたから、

 王宮で使われるようになったのよね。

 クロイツ領の海の香りがするんですって」


「ふぁぁ…… 殿下、詩人ですねぇ……」


「クロイツ領は海風が適度に乾燥していて、小麦がよく育つの。

 領地に近づくほど香りが強くなってきて……

 私もあの香りが好きなのよ」


そう言ってローザ様は懐かし気に目を細める。


(殿下とローザ様は、同じ香りが好きなのね)


そう考えるとなんだか微笑ましくて――


潮の気配を探すように、そっと、空気を吸い込んだ。




――海沿いの街道を進み、気づけばクロイツ領の境を越えていたらしい。

とは言っても、まだ海は見えない。

海と領地を隔てるなだらかな丘の裏側を、馬車はゆっくりと登っている最中だ。


ローザ様が窓の外に視線を滑らせ、ふいに黙り込んだ。


「ローザ様……?」


何かに集中するような――そんな気配。

呼びかけた声が、空気に溶けていく。


ほんの一瞬だけ、胸の奥が温かくなるような、

説明しづらい揺らぎが、空気に混ざった気がした。


(……今の、一体……)


そう考えた瞬間、

潮風に混じって、ふわりと柔らかな熱が馬車の中へ流れ込んできた。


ローザ様はわずかに息を吐き、

いつもの微笑みに戻って私の方を振り向いた。


「リリィ、見て。海が見えてきたわ」


窓いっぱいに広がる蒼い海。

まるで別世界みたいだ。


「本当だ……!すごく綺麗……!」


私が思わず身を乗り出すと、ローザ様がくすりと笑った。


「ふふ、リリィも喜んでくれると思ったわ。

 この瞬間の景色が好きなのよ」


「ここが……ローザ様が育った領地……」


「素敵なのはここだけじゃないのよ。

 街も温泉も、楽しみにしていてね」


蒼い光に照らされたローザ様の横顔がいつもより柔らかく見えて、胸が高鳴る。


(……私、すごく浮かれてるわ)


楽しい休暇が始まる予感に、胸を高鳴らせた。




馬車は丘を下り、整えられた石畳の道へ入った。

荘厳な白壁の建物が視界に広がる。


「リリィ、あれが本邸よ。政務はすべてあそこで行われるの。

 後で両親を紹介するわね」


ローザ様が示したした先には、こんな時期なのに花が咲き乱れる美しい庭園が広がり、噴水が……


あれ?


石造りの噴水は水が一滴も流れていない。


(……噴水、止まってる?)


そう思った瞬間、慌ただしい足音が近づいてきた。


「お、お嬢様!おかえりなさいませ!」


使用人たちが慌てて出迎え、深々と頭を下げる。

そのうちの一人が、ローザ様の耳元でなにやら早口で話した。


「……えぇ、後で確認するわ。ありがとう」


ローザ様はあくまで落ち着いた笑みを浮かべているのに、使用人の顔はどこか焦っている。


(……噴水のこと?

 でも、ローザ様はあまり驚いてなかったような……)


「リリィ、本邸は人が多いし、落ち着けないでしょう?

 滞在は、海沿いの別邸にしましょう。馬車で十分ほどよ」


「べ、別邸……!」


(庶民の人生に存在しない単語ランキング上位……!)



馬車はそのまま本邸の脇を抜け、

海を望む丘の上へ向かった。


海風を受けて佇む、白と青を基調とした瀟洒な洋館。

本邸の圧とは違い、誰かの大切な思い出の気配がした。


「ここが、ローザ様の……」


「ええ。今回の滞在先はここ。

 落ち着けるでしょう?海もよく見えるの」


扉が開くと、潮の香りと温かい木の匂いが混ざり合い、心がほどけるような空気が広がっていた。


そしてローザ様がふと微笑む。


「今日はここでゆっくりして、明日は保養地の温泉に行きましょう。

 新しい温泉が湧いたみたいだし、見学も兼ねて」


「わぁ……楽しみです!」


そこでふと思いついたことを口にする。


「……そういえば、温泉ってよく湧き出るんですか?」


「そうねぇ……そんなにしょっちゅう新しい温泉が湧くわけではないのだけれど」


「さっきバタバタしてたのって」


「ふふ、察しがいいわね?

 噴水もその影響で干上がったんじゃないかって言っていたわ」


「な、なるほど……」


そんな、温泉が沸いたくらいで噴水が一瞬で干上がるかしら?


そういえば、学園の噴水も火竜騒動のあと数日ほど沸騰して、その後すっからかんになって大騒ぎになった。


ローザ様は

『さすがに火竜の熱は大きいわねぇ』

なんて言ってたっけ。


……ん?ってことは……


「……ローザ様、まさか」


じとりと見つめる私に、ローザ様はわざとらしく首を傾げた。


「あら、リリィ、もしかして甘いものが食べたいのかしら?」


「もう!はぐらかさないで下さい!」


「クロイツ領の小麦と卵を使った、とびきり美味しいプティングがあるのだけれど」


「…………いただきます」


「ふふ。じゃあティータイムにしましょうか」


そのあとはローザ様とティータイムを楽しんで、

噂のプティングをいただき、

気づけば夕食の時間になっていた。


ローザ様のご両親がわざわざ別邸まで挨拶に来てくださり、温かく迎え入れられて……

クロイツ領での最初の夜は、静かに暮れていった。


――寝支度を整え、二人でベッドにもぐりこむ。

ローザ様のベッドは、二人で寝ても十分すぎるほど広い。


私の部屋も与えられているのだけれど、

「お泊りと言えばこれでしょう?」と言われれば、断る理由もない。


(もしかして、殿下とローザ様も、こんな風に過ごしたことがあるのかなぁ)


布団を引き寄せながら、ふと尋ねる。


「そういえば、殿下が滞在していたのって……もしかして、あの部屋ですか?」


ローザ様が、枕に頬を押しつけたままこちらを見た。


「あら、気付いた? ええ、リリィの部屋よ」


「やっぱり……!」


「本邸は来賓も多いでしょう?

 殿下はこっちのほうが落ち着くって言って、

 よく勉強道具を抱えて逃げ込んでいらしたわ」


「逃げ込んで……」


「ふふ、それで、結局あの部屋が殿下専用になったの」


懐かしそうにほんの少し目を細めるローザ様は、

こうして見ると、いつもより、少し素朴に見える。


「私が海に行こうとしてこっそり抜け出すと、

 必ず見つけて、『せめて護衛くらいつけなさい』って追いかけてくるの。

 昔から、あの方は真面目なのよ」


「ふふ……殿下らしいです」


目に浮かぶようだ。

ちょっと大人ぶった少年と、小さなローザ様。


「私を追いかけてきただけなのに一緒になって怒られて、今思えば可愛そうだったわね」


くすくす、と楽しそうに笑う横顔に、

この別邸が本当に思い出の場所なのだとわかる。


(……いいなぁ)


殿下にとっても、ローザ様にとっても、

ここは安心して子どもに戻れる場所だったのかもしれない。


ローザ様は更に続ける。


「殿下、ここのパンケーキが大好きでね。

 勉強をがんばったら一枚増やしてもらえる約束をして、よく一緒に課題をしていたのよ」


「なんですかその可愛いご褒美システム……」


「ふふ。明日の朝、リリィにも頼んでみましょうか」


「そ、それはぜひ……!」


他愛ない昔ばなしをいくつか聞いているうちに、

波音とローザ様の声がまざって、

胸のあたりがふわふわと温かくなっていく。


「今日は長旅だったものね。もう休みましょうか。

 保養地はここから一時間ほどだから――。

 楽しみにしていてね」


「はい。……おやすみなさい、ローザ様」


「おやすみなさい、リリィ」


そっと灯りが落とされる。

同じ布団の中で、海の香りと静かな波音だけがふんわりと満ちていく。


(殿下とローザ様の話……もっと聞きたかったな)


幼い二人がこの屋敷の廊下を走り回っている姿を思い浮かべて、胸があたたかくなる。


明日は、ローザ様の“思い出の場所”を見られるんだ。


まぶたを閉じると、波のリズムが子守唄みたいに静かに揺れ、私はゆっくりと眠りに落ちていった。

次回、土曜日20時更新です。

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