魔力暴走イベントの終幕
朝の学園は、どこか落ち着かない空気に包まれていた。
昨日の騒ぎのせいで、授業は午前中だけ。
廊下のあちこちには修復班の上級生がいて、
焦げた壁やひび割れた床に魔法をかけている。
廊下を歩けば、どこからともなく噂話が耳に入ってくる。
「聖女の光が暴走を鎮めた」とか、
「クロイツ公爵令嬢が身を挺して守った」とか。
(合ってる……合ってるんだけど、なんか違う……!)
パンとスープだけの朝食を済ませ、中庭へ抜ける。
外はすっかり晴れていて、昨日の熱気が嘘のようだった。
でも、石畳の隙間に残る黒い焦げ跡だけが、
あれが現実だったと教えてくれる。
「おはようございます、ローザリア様」
中庭の中央で、風の流れを操りながら
落ち葉と煤をまとめている後ろ姿。
珍しく後ろで編みこんでいるのは、髪の毛が焦げてしまったからだろう。
それでも鮮やかな金髪は光を集めて、まるで何事もなかったみたいに美しい。
焼け焦げていたはずの制服は、新品に取り換えられていた。
……さすが、公爵令嬢。
私はというと……
うん。ちょっと黒ずんでるけど大丈夫。
すぐにパトロンである王家から新しい制服が支給されるはずだ。
「おはよう、リリエル。今日は授業が短縮されたの、ご存知?」
「はい。先生方、徹夜で対応されてるみたいですね」
「ええ。おかげで魔導学科の講義が二つ飛んだそうよ。
研究棟の修復は時間がかかるでしょうね」
ローザリア様の声はいつも通り穏やかで、
でも、指先の動きは昨日より少し早い。
ガシャンガシャンと、魔力で浮かせた瓦礫を一か所に放り込んでいく様子は、どこか無言の苛立ちを含んでいるように見えた。
(……怒ってるのかな。怒るよね、そりゃ)
私は迷った末に口を開く。
「クラヴァール先輩は……その、どうしてるんでしょう」
「まだ眠ってるわ。命に別状はないそうだけれど、魔力の回復には時間がかかるでしょうね」
「そう、ですか」
風が止まり、沈黙が落ちる。
ローザリア様は、きらりと光るガラスの破片を手に取る。
「彼、目を覚ましたらきっとすぐに研究に戻るわよ」
「……そんな気がします」
「止めても聞かないでしょうね」
(確かに……それに、落ち込んでいないか心配だわ)
そう思うと、なんだか少しだけ心がざわついた。
「お見舞い、行ってもいいでしょうか」
「もちろん。行くならこれを持っていって」
「ローザリア様は?」
「……私は、いいわ。刺激しないほうが、いいと思う」
言いながらローザリア様は亜空間からかわいらしい袋を取り出す。
……自分が原因かもしれないって、気付いてるんだ。
だから、普段はあまり力を見せないのかもしれない。
(…………ん???)
そこで私は、はたと気付く。
「……って、ローザリア様!?
今どこからその袋……!」
「うふふ、便利でしょ?
闇の力の応用よ」
言いながら、ほんの少し嬉しそうに目を細める。
「クラヴァ―ル先輩に言っちゃだめよ?
多分、彼にはできないから」
そうサラッと続けたけど……ちょっと酷い。
「……ローザリア様は、闇の扱いが、一番、得意なんですか?」
「んー、そうねぇ?得意というより、便利なのよね。
でも普段はバレないようにしているから……
これも内緒にしてね?」
淡いリボンで結ばれた布の中には、焼き菓子が数個入っている。
「朝ね、うちの料理人が沢山焼いてくれたのよ。
魔力を沢山使った後は、甘いものに限るでしょう?
はい、こっちはリリエルの」
「……ありがとうございます」
「ちゃんと叱ってくるのよ?」
「え?」
「あの人、リリエルの言うことなら聞くと思うわ」
そう言われてハッとする。
ローザリア様は、何がどこまで見えているのだろう。
ローザリア様と別れ、私は焼き菓子の包みを抱えたまま医療棟に向かった。
医療棟の廊下は、朝なのに妙に静かだった。
外の修復班の掛け声が、ここまで届かない。
いつもなら騒がしい上級生たちも、ここだけは息を潜めている。
クラヴァール先輩は、普段から研究棟に泊まり込む人だった。
公爵家だから近くに豪華なタウンハウスだってあるし、学園内に自室もあるのに、ほとんど戻らない。
実験室の隅に簡易ベッドを置いて、魔導具と一緒に寝ている――そんな人。
だから今、こうして病棟にいるのは、なんだか不思議だ。
案内された個室の扉をノックすると、
中からかすかな声が返ってくる。
「……どうぞ」
「お加減はいかがですか?」
「……目を覚ましてから、ようやく一人で立てるようになったところだ」
いつも通りの穏やかな声。
でも、笑おうとした口元の動きに、力がなかった。
私は包みを取り出して、彼の手元の机に置いた。
「ローザリア様から、焼き菓子を預かってきました」
「……あの人が?」
クラヴァール先輩は、わずかに目を細めて息を吐いた。
「……君が来てくれるとは思わなかった。巻き込んで、すまなかった」
「巻き込まれに行ったのは、私ですから」
「……あれは、私のミスだ」
短い沈黙。
先輩はゆっくり息を吐き、
掌を見つめた。
「自分を抑えられなかった。欲に負けたんだ。
闇の魔力はコントロールが難しい。
これ以上増幅させたら制御できないと……わかっていたのに……」
喉の奥がきゅっと詰まる。
「ローザリア様、ですか」
先輩が自嘲気味に笑う。
「何年も年下の、しかもご令嬢に嫉妬するなど……おかしいだろう」
「先輩だって……」
「慰めてくれなくていい。彼女は……天才だ。
闇をあんなふうに扱うなんて聞いたことがない。
そもそも……私が魔術師として評価されているのは……
恐れられていた闇の力を、他の属性を強化するために使えると示したからだ」
……そうだったのか。
確かに、それで地位を築いてきたなら、あのほの暗い目に納得がいく。
でも、それでも……先輩は、明らかに天才なのだ。
ゲームでも、そうだった。
10年に一度いるかいないかの、魔法と魔法学の天才。
でも、今はそれを言っても、きっと響かない。
「……私、怒ってますからね」
「だろうな」
「ローザリア様にも言われました。“叱ってこい”って」
「ふっ……らしいな」
「ローザリア様は、天才かもしれないけれど……研究とか、そういうことに、きっと興味がありません」
「……」
「世の中を変えるのは、先輩みたいな人だと思いますよ」
一瞬、沈黙が落ちる。
木の葉がかすかに擦れ、柔らかな光が床に伸びていた。
風が窓辺を抜け、カーテンの端をそっと揺らす。
その音だけが、部屋の静けさをゆっくり撫でていった。
「………君は、本当に優しいな。
ありがとう―――リリエル」
(……いま、“リリエル”って)
先輩は私の動揺には気づいていないように視線を落とし、机の上の包みを指先で押しやる。
「甘いものは、あまり得意じゃないが……今日は、食べてみるよ。
クロイツ令嬢に……礼を、伝えてもらえないか」
「……ご自分でおっしゃればいいのに」
「合わせる顔が、ない」
苦笑ともため息ともつかない声だった。
彼の長い睫毛が、窓の光を受けてかすかに揺れる。
それ以上は考えないことにして、私は軽く頭を下げた。
「では、私はこれで。お大事になさってください」
扉を閉める前、もう一度だけ名前を呼ばれる。
「……リリエル、この礼は、必ず」
小さく息を吐いて、廊下に出る。
白い光がまぶしくて、一瞬だけ目を細めた。
「――遅かったわね、リリエル」
振り返ると、廊下の端にローザリア様が立っていた。
ちょうど窓明かりの縁にかかっていて、
光と影の境目が、彼女の輪郭を細く縁取っている。
一瞬、息をするのを忘れた。
「ロ、ローザリア様!? いつからそこに……」
「ついさっき。先輩、落ち込んでなかった?」
最後のクラヴァ―ル先輩の瞳を思い出す。
澄んだ、紫。
「まぁ、たぶん大丈夫です」
「そう。なら、十分ね」
そう言って踵を返して歩き出したローザリア様の声が、背中越しにふわりと届く。
「……リリィ」
「えっ……!?」
心臓が、どきりと跳ねた。
「……って呼ぶことにするわ。私、人と同じは嫌なのよ」
振り返らず歩いていく彼女の髪が、朝の光をはね返す。
その金の輝きが目に残って、
まるで世界が彼女の後を追って動き出したように見えた。
(……ローザリア様、絶対、聞いてたな)
胸の奥に、少しだけ温かい光が灯った気がした。
クラヴァール先輩の暴走イベントもひと段落し、二人の関係にも少しずつ変化の兆しが。
次回は明日更新。――イベントの余韻は、もうしばらく続きます。
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