感想ノート
「親父、明日俺、旅行へ行くから」
「え?」
一人息子の北斗が、タ食の時に突然言い出し、誠一は箸の動きを止め、自分より二倍くらい大きな彼を見た。
西条誠一、四十三歳。東京品川の生まれで、妻、知江とは二十四歳の時に結婚していた。しかし、結婚生活は長くなく、彼女は長男を生んで三年後に交通事故で他界、今となっては、同じような境遇の近所の昔馴染であるおばさん、花沢春江が、彼等の身の回りを世話していた。
同じ境遇と言うのは、彼女もまた、夫を早くに亡くしていたからだ。ただ子供には恵まれなかった。今は、二人の面倒を見る合間に、郊外に持つ地所の畑を耕して、出来た作物を売る生活であった。
誠一は、現在JR東日本上野車掌区で働いているが、その職業柄、家に居ないことは日常茶飯事で、育児は殆ど春江が見ていた。そんな事だから、父と子の会話は、必然と少なくなって行く中、不幸中の幸とでも言うべきなのか、北斗が不良にはならなかった。
北斗は、昔から運動好きで、中学から始めたラグビーを今でも続けているせいかどうかは分からないが、身長が百八○センチを越えている陽に焼けた退しい男になっていた。もう高校三年生で、しかもいまの時期、進学か就職か、選択を迫られているというのに、彼は、誠一に何一つそれらしいことを触れずに、今日まできた。
「何か、大学ラグビーとかプロレスとか、そんな所ばかりから勧誘があったのに…高校の担任の先生からも、体育大学への推薦も勧められたらしいの。でも、北斗ちゃん、それみんな、断ったのですって」
と、一ヵ月くらい前、春江からそんなことを聴かせられていた誠一は、一度北斗と、きちんと話しをする必要があるのを感じながらも、職業の悲しさからか、擦れ違いの日々が続いた。たまに誠一が休みで、そういうチャンスに恵まれたかと思えば、北斗がラグビーの試合だったりと、なかなか時間をとることが出来なかった。
息子との会話は、何時頃から無くなっていただろうかと、誠一は思う。いや、分かっていながら、自身へ問い掛けているだけなのだ。
北斗が小学校高学年のときである。彼が夏休みで、誠一の公休とかさなり、海へ連れて行ったその日、タ暮れの中、仲良さそうに帰る母子を見て、彼が、自分の母親の事を尋ねて来て、誠一は有りのまま事実を伝えた。彼女の死に際に会えず、仕事に出ていたことを。その帰り、北斗は口を利こうとはしなかった。というより、その日からと言ったほうが正しいだろう。それは今でも変わらない。よほどで無い限り、彼から言葉を発するなど滅多に無かった。
今日も、たまたまタ食を共に出来たのだが、誠一が先の事を聞いてみても、生返事しか帰って来なかった。
息子が父親に対して、そういう態度が出るのは、世間から見れば、甘やかし過ぎという声も少なくない。だが、欲しい物を何でも与えて来た訳でも無く、今となっては小遣いさえ、忙しい身空というのに、合間を見付けてはアルバイトをして自分で稼いでいるし、決して親にたかろうとはしないから、誠一としては、親バカと言われようが、よくぞここまで育ってくれたと感心している一方で、そこまでなったのは、春江のお陰であり、父としての本分を果たしたと言えば、彼の学費や食費を払っているだけであるという気が、誠一自身を、寂しく、そして苦しませていた。ゆっくり話も出来ず、気が気でない誠一に、タ飯を食べ終え、流しにその使った自分の食器をもって行って、部屋へ戻る仕種を見せたその時、広い上下に呼吸する背中で彼がいったのだ。誠一は、目を丸くしたまま、息子の背中に語りかけた。
「旅行ってお前……」
「…言いたいことは分かってる。別に友達とかと、ワイワイやるんじゃない、考えたいんだ」
「一人か?」
ゆっくり肯く北斗に、誠一が問い掛けた。
「何処へ行くんだ?」
「…ともかく考えたいんだ」
と言って、彼はそのまま部屋へ戻っていった。
誠一はあとを追おうと仕掛けたが、その感情を押しとどめ、浮かせた腰を元に戻し、今追っても仕方がないと、心で思っていた。
「食事済んだ?」
何時の間にか家の中へ入ってきていた春江が、物思いにふけっていた誠一に、声をかけた。
「今日は寒いわねえ。…北斗ちゃんと何か話できた?」
彼女はそう言いながら、お茶の用意をして、彼と向き合い、卓祇台の前に正座をすると、急須に湯を注いだ。
「いつも、春江さんには、世話になって…」
と、誠一は言ってから、話を始めた。
一通り聞き終えた春江は、すぐには何も答えず、畳に視線を逸らしたまま、
「…そうなの。旅行へねえ。何処へ行くつもりなのかしら」
「さあ。…ねえ春江さん、あの子にとって私は、父親でいられるのかね?」
春江が湯飲みに洩れてくれた茶を、口風で冷ましながら一口飲んで、誠一が言うのを、彼女は叱るように、
「なにをいうんですか!誠一さんはれっきとした北斗ちゃんの父親です、それに一生変わり在りませんよ!」
「そうなんだろうが、父として、私は、何をしてやれたかなと思うと、段々弱気になってきてね」
「いいえ、そんな気にすることは在りませんよ。知江さんが亡くなってから、よくここまで、精神的にも体力的にも頑張って来たと私は思うの。人様の何の繋がりもないその日限りのお客に気を使う一方で、北斗ちゃんのことを、一時も忘れずに、いろいろ気苦労が多かったのを、私が一番よく知っています。直接何かしてやれなくとも、誠一さんが、北斗ちゃんの事を、思う、心配する気持ちは、十分父親としての資格がありますよ!近頃じゃあ実の子を、お金の為に殺すような親がいるのですから。そんな時代、誠一さんのような立派な父親をもって、幸福です。私が言うのです、間違いありませんよ」
「ははは。お春さんは相変わらず大袈裟だなあ」
「あら、失礼ねえ、本気だったのよ」
と、二人は顔を見合わせて笑った。
北斗は密かに二人の会話を、物陰で聞いていた。
翌日、北斗の事が気になりながら、誠一は仕事へ出た。
彼が今、乗務しているのは、JRグループ発足後、青函トンネルが開通したときに登場した、日本で初めての豪華寝台特急「北斗星」号である。
上野から札幌間1214.9㎞を、十六時間弱かけて結ぶ、いわゆるブルートレインだが、従来のそれとは違い、設備などの内容は全て一新され、はっきりいって、天と地の差程あるといっても過言では無い。
その目玉でもあるのが、走り始めた頃、一編成に二部屋しかなかった「ロイヤル」と名付けられたA寝台個室で、その名も相応しく、列車の中とは思えないほどに、シングルベッドに、ソファ、TV、BGMのオーディオ、トイレ、シャワールームはもちろんのこと、ドライヤー、洗面所までついた、一晩過ごすには賛沢な造りで、列車本数と編成が増えた今、全四室となったが、その人気ぶりは相変わらずで、いつも満席である。
「北斗星」は、その列車一組の八割が個室で、「ロイヤル」の他A二人用個室や、B寝台料金と同じ金額で乗れる、B一人用と二人用個室もあって、居住性が追及され、シャワーやトイレはついていないし、それなりにそう広くもないが、一泊するくらいは快適だといえる。
一方、食堂車も、かなりグレードアップされ、冷たい暗いイメージから脱皮するかのように、落ち着いたインテリアでまとめて、内装ばかりでなく、食事内容もフルコースの予約制を取り入れるなどして、豪華さを演出していた。
列車は、JR東日本とJR北海道が制作担当であるが、それぞれ、内装など細かな所に特徴があって、一番はっきりとしているのが、食堂車である。
東日本はといえば、ちょっと酒落たレストラン風なのにたいして、北海道は各テーブルに赤いスタンドの立つレトロ調となっている。
一日に上野と札幌から三本ずつ、「北斗星」一号から六号までのうち、一、二号がJR北海道、五、六号がJR東日本、三、四号は、往復のうちどちらかの車両が担当する。
誠一が今日乗務するのは、「北斗星一号」であった。
車掌は、ホームからの乗車となり、点呼を済ませた誠一は、上野駅十三番ホームに立った。
上野駅十三番から十八番ホームは、外国の終着駅のような行き止まりで、機関車の付け替えが出来ない構造だから、「北斗星」は、機関車に押されて後ろ向きに入ってくるのである。いわゆる推進運転である。
十六時二十九分、予定どおり、青い車体に金色の帯が入った車体が、ゆっくりとその姿をホームに現した。
誠一は辺りを見回して見た。季節が二月という閑散期だったが、中年層の客が多く、なかには、出張なのかスーツに身を固めた者や、それらに混じって、新婚風のカップルや、フルムーン夫婦もチラホラ見えた。
北斗星一号の出発が十六時五十分、しかし車掌の仕事は、車掌区で点呼を受けた時から始まる。
誠一が、仕事にとりかかり始めた頃、北斗は、自分と似たような名の列車を見ながら、ドラム形スポーツバックを肩から下げて、ゆっくりと、十三番ホームを、先頭に向かって歩いていた。
ムスっとしているせいで、自然と目付きが鋭くなり、ただでさえ大きな体格だけでも迫力があるのに、より一層磨きをかけた様子で、前から歩いてくる人を避けさせていた。
列車のデッキの前まできた北斗は、持っていた切符に表示されている号車番号と、車両の扉上方左横に差し込まれた5と書かれた札を照らし合わせた。北斗星一号、五号車、八番ソロとなっている。
(間違いないか…)
そんな事を考えたとき、おおかた車両の中を見学していたのか、小学生くらいのカメラ小僧が飛び出してきて、彼の太腿あたりにぶつかり、尻餅をついた。一瞬、何が起こったのか分からなかったその男の子は、今一度、当たった人物をその態勢のまま見上げ、その正体が分かると、次に泣き出しそうな顔で、恐れながらも彼にいった。
「ゴ、ゴメンナサイ…」
北斗は、一部始終を見届けてから、その子にむかってにこりと微笑むと、手を差しのべながら「大丈夫か?」というと、彼は、震えながらも、大きな手を掴んだ。その瞬聞、ぐいっと上へひかれて立ち上げられた。
目を丸くしている小学生に、北斗は、彼と同じ目線になるようしゃがんでから、
「列車には、乗る人もいるから、気イつけて行動しろよな。ケガすんぞ。じゃあな」
と笑って、再び立ち上がってデッキに消えた。
残された男の子は、ぽかんと入り口の方を見ながら、また走り出したが、運悪くというより、よそ見していたので、鉄柱に額をぶつけた。
「イテェーツ!」
構内の喧騒に負けずと、彼の声が響いた。
北斗は、始めて乗った豪華寝台特急というやつの内装に、目を見張らせていた。
(こんなにきれいなのかよ…)
ふと彼は、小学校の頃、父親にせがんで乗せて貰った、B寝台の狭い車内を思い出していた。
今思えばたいしたことはないのだが、それでも、優越感とでもいうのだろうか、初めてブルートレインに乗ったという、たとえようもない興奮は、今も忘れはしない。確か、海に行ったときのことで、後にも先にも夏休みに、親子そろって出掛けたのはあれ一回きりで、他は、殆どお春おばさんに連れて行って貰うか、それなりに大きくなると、友達と遊びに行ってばかりだった。
その一回きりの帰り道、今思えば聞くのではなかったという気だけがするが、北斗自身、何もわかっていない無邪気な世代だったし、本当に純粋な質問だった。
しかし、それが今でも引きずるほど、父と子の間に、決定的な溝を生んだ事にかわりはない。
最初は母がどんな人だったとか、父と仲が良かったのか、そう尋ねているうちに、どういう経緯であったかはっきりと覚えていないが、母の死に際、父が仕事に出ていたという話を聞いたとき、頭の中が真っ白になっていくのを、それだけは今もはっきりと鮮明に、一つの映像として蘇ってくるのだ。その日布団の中で涙が止まらず、それが過ぎると、今まで父に持っていた感情が全て消え去り、初めて知った、憎しみというなんとも言い様のない嫌な気持ちが、心の底から沸き上がってくるのだった。
個室SOLO8と示された札の付いた引き戸を開くと、短い上に昇る階段があって、上がっていくと、天井に頭がつかえてきて、身長百八十センチを越える彼には窮屈そうだが、中腰になって、座席兼ベットヘ腰を下ろしてしまえば、それ程には感じなかった。
北斗は、曲面となっている窓ガラスに下ろされていた、電車でよく見掛ける窓に沿うように取り付けされている、ブラインドカーテンを押し上げてみた。すると、思っていたより、この個室が高い位置にあるらしく、ホームを見下ろすような車窓が広がっている。
窓下に設置されているBGM選曲ボタンや室内灯のスイッチを押したりしながら、もの珍しげに、目に入るものすべてをいじってみた。そのうち、彼の入ってきた個室の入り口頭上に、鞄の置けるスペースを見つけて、持参したスポーツバッグをどっかりと置くと、着ていたスタジャンを、備え付けのハンガーにかけて、パーカーを脱いで、Tシャツ一枚になった。今はまだ二月。外は結構寒かったが、それを感じさせないほど、車内は丁度いい暖かさに調整されていた。
北斗は、それから両手を後頭部に組んで、仰向けにソファ兼ベッドに寝転がると、天井をじっと見つめた。
十六時五十分、甲高い汽笛を一声、北斗星一号は、定刻通り上野駅を、金のエンブレムも誇らしげに、静かに滑り出した。
誠一は、車内放送のマイクをとって、スイッチを入れた。
「今日はJR東日本をご利用いただきましてありがとうございます。この列車は寝台特急北斗星一号札幌行きでございます。経由は東北本線、津軽海峡線、函館本線、室蘭本線、千歳線でございます。これから、車内と、停車駅の到着時刻を、ご案内申し上げます」
と、誠一は、いつものことながら、同僚から丁寧すぎると冷やかされるほど、それらを案内して、
「終着駅札幌には、明朝八時五十三分の到着予定です。今日は運転士、田端運転区の菅原、車掌は、上野車掌区の葉山、鴻野、わたくし西条が、青森までご案内申し上げます。車掌は一号車、八号車、十号車におります。何か御用など御座いましたらお気軽にお声をおかけください。只今から車掌がご乗客の皆様のお席のほうへ、切符を拝見に伺いますので、ご協力よろしくお願いいたします。尚、車内放送は緊急の場合を除きまして、これにて明朝まで中断致します、予めご了承下さい。今日は北斗星一号に御乗車いただきまして、誠に有り難う御座います。失礼しました」
誠一の声がマイクを通して流れ終わった後、それを聞いていた北斗は、全車両にその声が流れていることを考えると、どことなく照れ臭さを感じながらも、緊張した面持ちでいた。
そして、また元のように寝転がりながら、ふと、今日まで過ぎていった様々な過去の記憶を、脳裏の奥から引き出していた。
小学校の頃、〃北斗〃という変わった名に、回りの友達の反応。ただカッコイイといわれたこともあるし、その頃、「北斗の拳」というアニメのテレビ番組が放送されていて、子供達の間でも人気があった。その主役の主人公からとって、アダナを”ケンシロウ“と名付けられた。
当の本人はというと、そんなヒーローの名がつけられて悪い気もせず、その気になって真似ごとをしたこともあった。その主役の男が、筋骨隆々だったことから体を鍛え始めた。しかし、ブームが過ぎ去った後は、ケンシロウという名は死後に近く、何時の間にか名字で呼ばれるようになっていたにもかかわらず、体を鍛えることをやめようとはしなかった。毎日ジョギングを続け、お春おばさんにあきれられながらも、腹がふくれるぐらい牛乳を飲んだり、それは彼が中学に入り、ラグビー部員になった時から、さらにエスカレートした。
そういう経緯があってか、中学二年には、すでに父親の一六七センチという身長を、軽く越えていた。
中学三年の事である。生まれて初めて友達を本気で殴った。
反抗期に入っていた北斗は、あの海へ行った日から父親に向けて放ち続けていた刃が、さらにきつくなり始めていた時、お春おばさんに、自分の名前の由来を聞いたことがあって、それが、北海道を走る特急の名前だと知って、家を飛び出した。そして、それをその日のうちに、親友だと思っていた奴に、怒りをぶちまけるつもりで話したのだが、最後まで頷きながら聴いていた親友の口から、想像もしなかった言葉が出た。
そいつは、「はっ」と笑うと、
「ダセェ…電車の名前だったのかよ」
一瞬にして心の冷え固まった彼のなかに、沸々と怒りが込み上げ、体中が熱くなった途端、気が付けば、相手を殴り倒していた。その日の晩悔しくて眠れなかった。そんな名前をつけた親を恨んでいたし、それに対しての怒りだと思っていた。
それから直ぐ、元親友だった奴の親が学校に訴え出たため、又、仕事でいなかった誠一のかわりに、お春おばさんと学校へ呼び出され、話し合いが始まったのだが、それはさらにもつれ、相手の父親がいった。
「そんな馬鹿にされるような名前つけるからだ…」
一気にその場は硬直したかと思うと、北斗が怒鳴り出すより早く、お春が、
「な、なんてことを言うのですか!いったい、世に、どこの世界に馬鹿にする名前がありますか!あなたは幾つですか!名前と言うものは、親がその一つ一つにこうであって欲しい、こうなって欲しいと、深い、それは深い意味でつけたものなのですよ。あなた方だってそうでしょう?それを馬鹿にされて怒らない人がどこにいますか、私だって同じ事言われたら怒りますよ、それをなんです、まるで何もしていないみたいに…どういうお考えですか!」
学校中に響くほど大声で怒鳴った春江の言葉と、そしてその迫力に、その場にいた全ての人が絶句した。
始めてみた春江の芯から怒る姿に驚きながら、その時も北斗は(俺はそんなつもりで怒ったんじゃない…)と思っていたが、今思えば、果たしてそうだったのだろうか。
同じ日のタ方、部活動で遅くなって家に帰ると、春江がタ食の支度をして待ってくれていた。食事を始めながら北斗は言った。
「おばさん…オヤジは…親父はなんで特急列車の名前を俺につけたんだ?」
春江は、味噌汁を、お玉で掬い上げた手を途中で止め、
「お父さんだけじゃないのよ。北斗ちゃんのお母さんと一緒につけた、立派な名前だよ」
「母さんが…?」
「ええ」
「おばさんは、名前の意味を、知ってるのかい?」
春江は彼と目を合わせたまま、真剣な顔付きで頷くと、それを見届けた北斗が何か言い掛けるのを遮るかのように、
「意味は…お父さんから直接ききなさい…」
と言って、湯気の立つ味噌汁の椀を、彼の前に置いてから、食事を取り始めた。
それから何も聞かないまま時が流れた。高校受験で公立へ無難に入学した彼は、すぐにラグビー部に入り、一年でレギュラー入りした。同時に、疲れた体を引っ張って、バイトも始めていたから、何かと忙しくなった北斗と、勤務の不規則な車掌業務の誠一が、家で会う機会がめっきり減っていたからだ。
去年の夏ぐらいから、北斗の周りが勧誘で騒がしくなってきた。担任が体育大学を勧めてくれたり、プロレス団体を始めとする格闘技系からの勧誘があったりと、全国大会の活躍が認められたらしい。しかし、彼はその度、
「就職しますので」
と断り続けていた。
その頃誠一は、ロイヤルの個室から検札を始めていた。
編成の殆どが、個室で占められている北斗星の検札と言うのは、ただ切符を見るだけでなく、室内の設備について説明しなければならない上、JR北海道社製車両の個室キーは、ホテルのように本当の鍵になっているから、その都度渡していくのである。厄介なことに、今日の車両には、暗唱式の電子キーが備えられている個室が、編成中二両も含まれているから、その装置に初めて出会う客からの苦情が多くなりそうである。手順どおり九号車のから始めた。
一つ目は、初老の婦人であった。和服姿の彼女は、扉を開けたまま、ソファに腰を掛け、両手を膝の上に添えて、室内を見回していた。
誠一は、制帽を右手で外して一礼しながら言った。
「おくつろぎの所、失礼します。本日のご乗車有り難うございます。恐れ入りますが乗車券を拝見します」
誠一がそういった動作をする間、彼女はその一つ一つにこくりと微笑しながら頷き、テーブルの上に置いてあった切符を差し出してから、
「ご苦労さまです。この寝台車に乗るのは始めてなんです。お手数ですが、部屋の使い方を教えて下さいませんか?」
そうゆっくりとした口調で話し始めた乗客に、誠一は微笑して、
「もちろんでございます。それでは、こちらが部屋の鍵になっていまして…」
彼が案内するたびに返ってくる質問に、丁寧に答えながら、五分くらいでそれを終えると、
「それではごゆっくりおくつろぎ下さい。失礼しました」
と一言、一礼、扉を閉めた
廊下に出た彼は、隣の部屋へ向かった。そちらの方は、ドアが閉じられていたので、ノックしてから、
「失礼します、車掌です」
と言うと、すっとドアが引かれて、白髪まじりの同じような髭をした、こちらも初老の、物腰柔らかそうな男が、御機嫌な様子で現れた。
誠一は繰り返し、同じ言葉、動作で、先程と同じ挨拶をした。
すると、その老紳士は、微笑しながら切符を差し出して、
「いやあ、昔とはえらい違いだ。丁寧な挨拶と言い、部屋の中といい、私は心底気に入りましたぞ」
とそういう彼に、誠一は、切符を返してから一礼して
「有り難うございます。お気に召されまして何よりです。それでは、御部屋の説明を…」
といった。ここも、五分くらい掛かって説明した。
次に誠一は、B個室の検札に取り掛かった。
この北斗星に使われている、Aロイヤルのあるオロハネと呼ばれている車両というのは、中央にロイヤルの二部屋を配置して、それより車端に向かってB寝台個室が、L字を組み合わせたように上下配置され、そとから見れば奇妙な窓の位置関係に見えるに違いない。A寝台個室をもう一車両連結しているのであれば、ロイヤルだけでまとめればいいだろうとは思うのだが、これも登場時、一編成に二部屋の予定だったのだから、こういう構造になってしまったのだろう。
誠一としては、順番に端から検札して行きたい所なのだが、運賃の高い分、先にしていかなければならないのが、どこか気に掛かっていた。
個室は今日も満席であった。
九号車の検札がようやく終わり、誠一は十号車へと急いだ。
九号車と十号車は、どちらもAB個室の、合造車と呼ばれる車両に変わりはないのだが、少し違う所があって、前者のB個室が一人用で、後者が二人用であるという点である。
誠一は、早速ロイヤルから始めた。
両方とも、扉は閉められていて、誠一は先程と同じように、その一つ目をノックした。すると、扉がサーツと開かれると、小太りな中年女郭、きらびやかないかにも金持ちですといわんばかりのアクセサリーを見に纏い、その悪趣味な金縁眼鏡の奥から、度が強いのか、元々小さい眼が、それで浮き上がった黒目でこちらをじろりと睨んでから、
「遅いわね、もっと早く来てくださる?」
と言ってきたので、誠一は
「申し訳ございません」
と詫びたのだが、検札や部屋の説明をしている間、四六時中くどくど文句を言われてしまった。
ようやくその個室から解放され、もちろん扉を閉める前の挨拶は忘れずに、誠一は廊下に出て(まいったな)と、ほっと一息入れると、気を取り直してもう一方の部屋をノックした。
しかし、何回かその動作を繰り返してみたが、返事はなく、中に人のいる気配もなさそうだったので、確認も含めてそっとドアを開けてみた。急病の場合もあるからだった。
「失礼します、車掌ですが…」
やはり客はいなかったし、乗車した様子もなかった。
今日の個室は、全車満室だったはずで、このロイヤルの客も、上野から乗車予定になっている。それが乗って来ないとなると、考えられることは、乗り遅れか急にキャンセルされたかである。
その件については、あとで確認するとして、誠一は、仕方なく他の個室の検札へ向かった。
車掌という業務は、得にこういう夜行列車の長距離ともなれば、想像以上に大変な仕事の一つである。いつも何事もなく仕事が終わればいいが、長旅の中で、突然腹痛を起こしたりと客の中から急病人が出たり、何かの映画でやっていたように、陣痛を訴えてくる妊婦が来りすることも、本当にあるのだ。
他に空調を、温度計とにらめっこしながら、一車両単位で気配りする一方、各駅ごとに検札しなければならないし、乗車率の報告書の作成、そして車内を巡回しながら、何事か無いか、常に内と外に眼を配るのである。
得に困るのは、どの接客業でもそうなのだが、客とのトラブルであり、それを上回るのが客同志のソレで、車内で起こった以上、仲裁に入らなければいけない。運悪く巻き込まれて怪我をすることもあり、救われない職業のひとつである。
しかし、誠一は、この車掌という仕事が嫌ではなかった。元々憧れて国鉄に入った。一度折れかけはしたが、車掌を始めて二十年近く経つなかで、毎日列車と乗客を見守っていく緊張感、無事終着に着けた事から来る安堵感、この二つが彼はたまらなく好きであった。
ましてや、今日の最初のロイヤルのような客に出会えれば、彼は、さらにヤル気の源を得たかのように、もう一度乗ってみたいと乗客が思ってくれるように、頑張ろうとするのだった。
その多忙な客に気を配るなかで、一人息子の北斗と、亡き妻、知江を一時も忘れたことのない彼の辛酸とは、想像を絶するものがあるだろう。
「車掌です」
ドアをノックする音に続いて声が聞こえた瞬間、扉の向こうにいるのは父親なのかもしれないという詮索と、そうであればどんな顔をすればいいのだろうかという緊張感によって、複雑な気持ちのまま返事をしてから、ドアをバっと開いた北斗の視野に飛び込んできたのは、その勢いに、一瞬、唖然として、その個室の客をじっと見てしまった、思惑とは違う車掌だった。
それがわかった途端ほっとした彼は、我に帰って自分のとった行動が、他人の目にどう移ったのか理解してから、
「あっ切符でしたっけ」
と慌ててその狭い個室の階段を勢いよく昇ってしまったものだから、その先何が起こるのかわかった車掌が危ないの「あ」の字を半分いいかけた所で、ゴンッ!という鈍い音を天井に出していた。
「…だ、大丈夫ですか」
案の定の結末に目を丸くしながらも、自分を気遣う車掌に、北斗は、顔を赤らめながら笑ってごまかして、階段をなぜかそろりと降りながら、切符を相手に手渡した。
「すいません、慣れないもので…」
恥ずかしさから、普段滅多にいわない言い訳を、口から出していた。
車掌はその時初めて認識した客の体格に、二度、目を丸くしながら見上げたが、直ぐに気を取り直して一礼忘れずに挨拶すると、部屋のキーホルダーを手渡した。それは、恐らく機関車に付けられているヘッドマークと呼ばれる、列車名とそれにちなんだ絵をモチーフにした、丸い綺麗な飾りがついた皮製の物だった。
車掌が鍵を渡してから、列車の案内と室内の設備の説明を始め、それがおわって、部屋を一礼して扉を閉じる相手の仕事を、真剣な眼差しで見ていた北斗は、その姿が見えなくなってからも、しばらくその一点を見つめた後、またベッドに仰向けになった。
(親父もこんなことしているのか…)
北斗はふと思う。あの海水浴から反抗期を過ぎて七年たった今、まだこれから社会に飛び出そうとしている身空、一般常識や社会のしくみなどよくわかっていない十八歳であるが、それなりに自己の五感で促えてきた経験から、まんざら父親に対しての誤解が、まったく薄れなかったといえば嘘になる。
しかし、幼心が受けた傷と言うものは、深ければ深いほど記憶の奥底へ沈めることは難しく、たとえそれが出来たかと安心していても、ちょっとしたことで引き出されてくるのである。
父も、それを知ってか知らないでか、おそらく自分の言動が、息子の心に、想像以上の傷を与えてしまったことに気付いているからこそ、普段の態度についてもとがめることもなく、北斗もまた、そのことについて父親の辛さというものが、薄々感付いて来ているから、今自己で出来るギリギリの範囲で、それにつけこんで親に甘えたりしなかったのだが、どこか素直になれないまま、そして、やはり母より家族より仕事だけのといったイメージは、相変わらず消えていないせいもあって、今日まできた。
北斗星が、デビュー当時雑誌やテレビなどで騒がれたのは、青函トンネルを通って札幌まで行く、初の直通寝台特急であったことと、一編成中個室がほとんどという賛沢な内容、そしてその中で一番注目を集めたのが、A個室ロイヤルと、完全に改装された食堂車である。
ひと昔、東北本線などで使用されていた、クリーム地に赤帯の入った国鉄特急色と呼ばれる塗装を施した電車に使用されていたそれは、元の車体はおろか内装から考えてみても、およそ想像のつかないくらい美しい姿となって生まれかわっていた。
誠一が、今乗っているJR北海道仕様の食堂車は、レトロを基調として設計され、海側に四人用、山側に二人用のテーブルが並び、清潔な白いクロスの掛けられたそこに、赤いランプシェードに覆われたスタンドと、銀色の光沢を放つ一輪差しに花が差され、いやがうえにも、高級な落ち着いた雰囲気で、最近どこにでも見掛けるようになった間接照明によって、さらにそれを演出しようとしていた。
もちろん、食事内容についても改善され、フランス料理のコースメニューを、予約制で取り入れ、洋食の苦手な人用なのか、懐石御前という和風料理も用意されていた。しかし、それでは予約の客しか食堂車では食事出来ないのかといえば、そうではなくて、予約の食事時間終了後に、パブタイムといわれる誰にでも利用出来る時間帯があって、その時に、最初酒類やつまみ程度だったメニューに、近頃では定食も少なからず用意されているから、その時に行けばいいし、朝食では、完全フリーになっているから、そんなことは無いのである。只、朝に関しては、和食と洋食があるのだが、前者はすぐ無くなってしまう上、
混雑するので早めに行った方がいいらしい。
もう一つ、北斗星で話題を呼んだのが、全編成のロビーカーに二組設けられたシャワールー-ムで、これは、食堂車でシャワーカードを三百円で購入すると、それに記入された時間内シャワーが使えて、テレホンカードに似たそれを、脱衣所内の機械に入れると、六分間温度調節可能なお湯が出る仕組みで、当然、出たままというわけではなく、ちゃんと、出る、止める、の選択が可能で、シャワーの残り時間も表示され、ドライヤーと鏡もついている。
シャワーを浴びてさっぱりした後は、ロビーカーの自動販売機でビールやジュースを片手に、そこで流れる夜景を楽しむといった夢を実現させてくれるのも、北斗星の自慢であった。
ロビーカーには、感想ノートといって、B五判のふつうの大学ノートが備え付けてあり、列車に乗った感想を、誰でも気軽に記入出来るようになっていているのだが、誠一は、毎回乗務の度に、それが字で埋められて行くのを楽しみにしていた。
どれも微笑ましいコメントで、彼のヤル気の一つになっていた。ただ、たまに鉄道マニアらしき者が、専門用語をふんだんに使って、社内設備のしてきなど、数ぺージにわたって書き綴られていることがあり、このノートの本質を分ってくれていない、何か勘違いをしている場違いなそれに、目を丸くしながら苦笑することもあった。誠一は、そのミニロビーに入ろうと仕掛けたその体を、すぐさま通路の影に隠してしまった。
(北斗?!)
患わず声がでかかってそれを飲み込んだ彼は、今一度そこを覗き込んだ。
その時ロビーのソファには、七人掛けが二対ある方へ、先程のロイヤルの老紳士と和服の老婆が隣同志だったせいか仲良さそうに、その横では若い新婚風のカップルが車窓の風景を見ながら会話をしていて、その対向に一人掛けの回転ソファが、窓にむかってあるのだが、その一つに一人窓の外を眺め、体格とその風景の映る鋭い目付きからも異彩を放っている彼は、間違いなく一人息子の北斗であった。
狼狽し始めた誠一を、現実に戻したのは、食堂の営業を開始したという食堂車の女性クルーの車内放送であった。
(五分遅れか…)
とっさに腕時計を見た誠一は、あの従業員の少なさにしては、上出来だと思った。というのも、北斗星が走り始めた頃は、全部で五人いたスタッフが、三人に減らされていたからだ。彼女らは、食堂車で接客をしながら、そのかたわらで、車内販売や会計をこなさなければならず、そんなことだから、客からの不満の声も少ないとはいえない。
誠一としては、食堂車を担当している会社にもいろいろ事情があるのだろうが、せっかく豪華寝台特急を売りとする北斗星の、最前線がこれでは、評判を落としても仕方ないだろうし、別会社の現状を知りながら、客の不満に何も対策を打ち出していない今のJRのサービスの在り方は、せっかく民営化した意味がないのではないか、と多少疑問に思うのである。では、せめてと、乗客に対して自分の立場で出来る最大限の努力をしようと、心がけているのであった。
それは、昔からの夢であった特急の車掌になっている今、手に入れた現実に対して、とことん前を見ていこうと、一人息子が恥じない仕事をしようと、特急列車の車掌になって初めて遭遇した難関を乗り越えた時、彼はそう、誓っていたのであった。だからこそ挫折せずに今日まで来た。
「車掌さん」
腕時計から視線を外したと同時、年配の渋めの低いしゃがれ声がして、そちらに振り向くと、ロイヤルの老紳士が、隣の老婦人を伴って、ニコニコしながら、声を掛けてきた様子であった。
「いや、わたしらは食事の予約をしているのだが、食堂車はどちらだったかな?」
誠一は、隣の車両であったにも関わらず、微笑してから、
「こちらでございます、ご案内します」
といって手を差し出した。
同じ時間だったのか、二人のカップルもその会話に反応して立ち上がると、誠一の後ろに付いていく老紳士らの、後ろへ続いた。
誠一が歩き始めようと、体を通路の方へ捻ったわずかな瞬間、北斗と目が合った。
北斗は、堅くなってしまった表情のまま、少し間をあけてから続いてみたが、誠一の案内した先が、隣の車両であったことを見届けると、すぐに踵を返したが、よく後ろを見ずにそうしたものだから、こちらの方へ歩いてきていた人影にぶつかって、「あ、すいま…」といいかけるより早く、中年の小太りな女は、金縁眼鏡の奥に浮かんだ黒目でキッと、顔を斜めに見下すような態度で、キンキン声を張り上げた。
「ちょっと、どちらを御覧になって歩いてますの?気を付けて下さる!」
と、一睨みしながらさっさとドアの奥へと消えた。
「…ったくよう!」、
北斗が、そうドアに向かっていうと、サーっとドアが開き、再び同じ人物が現れて、自分の洋服を指で軽くつまみ上げて示してから、
「高いのですからね!この、お洋服!」
と嫌味ったらしく叫んで、すぐに姿を消した。言い足りなかった様子である。
聞こえたかとドキリとした北斗だったが、気を取り直してロビーへ戻る途中、父のことを考えていた。
(すぐ近くなのに……)
と肩を落としていた。
同じ頃、誠一に案内されたロイヤルの二人は、離れていた席を一緒にしてもらって、ワイングラスに注がれた白ワインを片手に軽く上へあげて乾杯して出会いを祝い、若いカップルも前途を祝して、グラスを交わしていた。金持ち婦人は、ワインのことをしつこくウェートレスに尋ね、うんちくを傾けて、相手の目を白黒させていた。
誠一は、食堂車を後にすると、北斗のことを思い出して、巡回を始めながらあれこれ詮索を頭に浮かべていた。
(なぜこの列車に北斗が?旅行に行くと言っていたが…)
思案しながら歩いている途中、鴻野車掌に出会った。
「どうかされましたか?」
先輩の表情を察した彼が、そういってきたので、その時始めて相手の存在に気付いた誠一は、あわてて手を振り示して、
「いや、何でもないよ。それよりそちらの方は何か変わったことなかったのかい?」
「はい。すべて順調です」
「こっちは、ロイヤルのお客さんが一人乗ってきていないみたいだ」
「乗り遅れですか?」
「そうかもしれんし、キャンセルされたのかも知れない。いずれにせよ、予約では上野からの乗車になっている。駅の方へそういうお客様の問い合わせがなかったか、無線で尋ねてみよう」
「それじゃあ、僕がやっときます、もう直ぐ宇都宮ですし、車掌室の方へ戻りますから」
「そうか。すまないがお願いするよ」
「は。それでは」
と言って歩き始めた彼を見てから、誠一は、今鴻野車掌が来た方向へと進み出した。
「車掌さん」
最前部の洗面所まで来たときであった、小柄な老婆がそこから顔を覗かせて呼び止めてきた。
「はい、何かご用ですか」
微笑していう誠一に、彼女は眉を寄せながら言った。
「今ね、お便所から出てきたんですけど、水道の取っ手がなくて困っているんです」
といってきたので、誠一は「わかりました」といって、説明を始めた。
若い人には何てことはないのだが、ようするに洗面所の水道栓は、近年よく見掛けるようになった、光センサーと呼ばれる仕組みのもので、蛇口のした辺りにある黒い丸まで手を持っていくと自動的に水が出てくるのだが、年配の人の中には、たまに慣れていない人がいたりする事があって、こういう質問も珍しくは無かった。
礼を言われて、その場を離れ室内の方へいくと、今度は、中年の黒斑眼鏡をかけた男に呼び止められた。
「ああ、車掌さん、この電車何時に着くんでしたっけ?」
すると誠一は申し訳なさそうに行った。
「恐れ入りますが、どちらの駅でございますか?」
すると相手は、照れ笑いしながら
「いやあ、おれとしたことが、札幌ですよ」
微笑しながら誠一が、その時間を答えると彼は、
「それじゃあ、そこから旭川のほうへ行くには、出来れば速く行きたいのだが、何か早くいける電車でもありませんかねえ?」
といわれて、誠一は、手持ちの手帳を広げると、どれをみながら言った。
「札幌九字丁度発のスーパーホワイトアロー三号があります。そちらの列車でございましたら、一時間二十分ほどで、旭川には着きますよ」
するとその客は、誠一が今案内した内容の要点だけメモに取って、
「いや、ありがとう助かったよ」
といった。
「いえいえ、また何かお困りごとございましたら、車掌までお声おかけください」
誠一は、また礼を返して、その場を離れた。
その後、担当車両を順調に巡回して、車掌室へ戻るときであった。
食堂車のデッキに入った時、なにやら騒がしい。
先へ急いでみれば、食堂車の入り口で初老の男が、食堂車の女性クルーと何か話しているのが目に映り、双方の顔色が曇っていることから、誠一は、客の方に声を掛けてみた。
「お客様、どうかなさいましたか?」
すると相手は即様、
「あ、車掌さん。私が食堂車を利用したいといったら断られましてね、理由を聞くと予約制だというではないですか。それでそんな事どこに書いてあるのかって、聞いたら時刻表に載っているって言うのですよ。それじゃあ今すぐ時刻表を見せてもらおうじゃないかというと、ないっていうのですよ!」
そ初老の客は、だんだん声が上ずってきている。視線を逸らすと、その傍らですっかり困り果てたクルーの女の子がいたので、うなずいて見せてから、
「お客様そう興奮なさらずに、他のお客様の目もございますので…」
と言ってなだめながら、車掌室まで来てもらって、時刻表を片手に説明を試みた。幸い、話がこじれるような事もなく、しぶしぶではあったが、その客は納得してくれて、おとなしく自席に戻ってくれた。
その後、食堂車へ赴き、不安そうにしていた女性クルーにも声を掛けて、問題が解決したとことを伝えると、彼女は安堵してくれた。
ようやく、その頃に自分の持ち場の車掌室へ戻ろうとしたが、ロビーカーの車両間のデッキ付近まで来て、誠一は立ち止まって躊躇した。
その理由は、北斗がまだロビーカーにいた時、どのように接するべきなのか考えていたからだ。
一声かけるべきなのか、それとも他の乗客と同じように扱い、やり過ごすべきなのか、散々迷った結果、一つの結論が出た。
(これは、最初で最期のチャンスかもしれない…)
そう感じ、北斗に普段誠一がどのような仕事をしているのかを見てもらおう、そう決心したときであった。
先ほどの、金持ち風のロイヤルにいた女客が、血相を変えて食堂車を飛び出して来て、誠一を押し退けると、大きな尻を左右に振りながら小走りにロビーカーへ入っていく。間もなく、先ほどの食堂車の女性クルーが、「お客様!」と、追うように飛び出してきたので、誠一は、呼び止めて事情を尋ねた。
事情を聞いていたその時、誠一の胸中に嫌な予感が広がっていた。
ロビー室へ戻っていた北斗は、ぼんやりとソファーに腰掛けて、流れる車窓を眺めながら、父親のことを考えていた。
その時そこには、五、六人客がいたが、皆一人旅なのか、微かに聞こえる轍の音が室内に響くだけで、静かだった。
食堂車からロビーカーへ来るまでにある自動扉が開いたとき、足音も高らかに、凄い剣幕で、北斗のぶつかった中年女が、入り口に一瞬立ち止まった。
彼はその時、別段気にせずちらりとその方向に視線をやっただけで、窓の外へすぐに目を向けたが、彼女は北斗の姿を見付けると、ずかずかと室内に入り込んで、彼の傍へ詰め寄って仁王たちとなった。
北斗は言えば、傍に誰か騒々しいのが来た、くらいにしか思っていなかった。次の彼女の一言を聴くまでは。
「ちょっと、泥棒!」
その言葉が自分に向けられている事に気付いた彼は、
「何だと?」
低くドスのきいた声で、片目を細めながら睨み上げた。すると相手は一瞬たじろぎながらも、
「そ、そんなことで誤魔かされやしませんからね。ちょっとあなた、先程わたしにぶつかった時、私の財布を盗ったでしょ!」
「な…馬鹿いってんじゃねえよ」
といくらか感情を抑えながら言う彼に、彼女は見下した目付きで、
「図々しい…そんな落ち着きを装ったって、そうはいきませんからね」
「ああつ?」
と睨んで声を荒げる北斗に、中年女は、くるりと振り返って、今度は他の客に向かって演説を始めた。
「ちょっと皆さん、聴いてくださいな、ここにいるこの男はね、私の財布をぶつかるようにして、スったんですよ」
客たちの目が一斉北斗に突き刺さる。しかし、その中のひとり、年配の女性が、
「あなたそんな事言って、そちらの男の子が犯人だと言う証拠はあるのですか?」
という質問をすれば、中年女は勝ち誇った表情を作り、
「考えても御覧なさい、見たところまだ高校生くらいのようですけど、こういう時期に、一人でこんな費沢な列車に乗っていること事態、怪しいと思ませんこと?切符だってどうやって手に入れたのやら…」
といわれたものだから、自分でもしまったと思ったが、時すでに遅く、
「何だと!」
といって、立ち上がってしまった。それを見届けた乗客たちは、北斗に対して、一斉に疑惑の目を向けた。
そんな時、誠一が緊張の漂いきった車内に入ってきて、事態を把握しているのかいないのか、その場違いな表情を作って現れた。
突然の父親の登場に、思わずぎょっとした北斗の顔色から、そんなこととは知らない中年女は、我が意を得たり、と勝できの笑みを浮かべて、そしてすぐ、現れた車掌に、今までの高慢な態度は何処吹く風か、弱り果てたという顔色をちらつかせながら、事の成り行きを説明した。最後まで誠一は聞いてから、北斗にも、そのことを尋ねた。
「お客様。失礼ながらこちらの方が、こうおっしゃってますが」
幾分緊張しながらも、父の問い掛けに、真っ直ぐ相手の目を見返した北斗は、
「そいつが、勝手にいってきたんだ」
というと、誠一の影で中年女は、世にも腹立たしげな目で、彼を睨み付けた。
「わかりました」
そういった車掌の言葉の次にくる答えに対して、他の乗客たちも見守る中、ロイヤルの中年女は満面の笑顔を浮かべ、北斗はといえば、父に悲観的な思いを抱いていた。
しかし、誠一が出した結論は、その場の全員が予想を裏切られたものであった。
「事情はよく判りました。しかし、失礼ではございますが、もう一度、車内をよく探してみましょう」
「ちょ、ちょっと、あなた!今の説明、聞いてなかったの?!」
ほかの人々が、あ然としている中、真正面から喰ってかかる彼女に、誠一は相変わらず落ち着いた口調で、
「いいえ。一語一旬たりとも。しかし、証拠はございません」
するといよいよ、化粧に隠れている頬の赤さが見える程、顔を真っ赤に染めて、中年女が叫んだ。
「失礼な!私の言う事が嘘だとおっしゃいますの?!」
「いいえ」
(じゃあ俺の事を疑ってんのか)
父の言葉に早合点した北斗が思ったが、すぐに父は、
「もちろん、あちらの若い男の子の言う事も信じております」
ときっぱりいう彼に、納得がいかないと首を振った中年女は
「冗談じゃありませんわ、彼に決まってます!」
「おっしゃりたいことは判りますが、ともかく、車内を捜してみましょう。滅多なことは言うものではございません」
さらに誠一が言ったが、中年女は、すっかり頭に来た様子で、
「馬鹿馬鹿しい、もう結構。こうなったらJRを訴えてやりますわ!」
「ちょっと待て…」
と歩き出そうとした彼女に、北斗が何か言いかけたところへ、ロイヤルの老紳士と隣室の老婦人が現れ、中年女の前に立ちはだかり、老紳士が言った。
「まあまあ、皆さん方そう熱くなられずに」
と微笑して、自分の進路を妨げる老紳士を、睨み付けた中年女は、
「なんですのあなた」
と口を尖らせたが、老紳士は、その穏やかな表情を崩さぬまま、
「あなたの捜し物とはこれですかな」
そういいながら、黒皮の財布を差し出してきたので、目を丸くした彼女は、それと、相手の顔を見比べてから、
「あなたが盗んだのですか!」
といったのと同時、一瞬にして老紳士は眉を吊り上げて言った。
「いい加減にしなさい!」
「!?」
「いいから黙ってこの方の話しを聞いて」
怒鳴られたことに、抗議にでようとした彼女に、和服の婦人は宥める様な口調で言った。
食堂車で、彼女が食事を済ませ、会計に行こうとしたときである。財布がテーブルに置いたままであったのを、老紳士と食事を一緒にとっていた婦人が気づき、声を掛けようとしたが、中年女は、自分のバックをゴソゴソしながら、顔色を変えて、急に心当たりに気づいたのか、そのまま、あわてて食堂車を出てったのだという。またすぐに戻ってくるだろうと、老紳士が、事情を食堂車の会計に話し、財布を預けた。
老紳士の予想通り、彼女は戻ってきたが、凄い剣幕で、会計の呼び止めた声も耳に入らなかった様子で、食堂車を通り抜けて行ったのだという。
老紳士が説明をした次の瞬間、ロビー室は静まり返り、動揺を隠せないまま、財布を受け取りその場を立ち去ろうとする彼女に、老紳士が言った。
「待ちなさい。何か言い忘れてはいないかね?」
はっと気づいた中年女は、視線を床に向けたまま、北斗の前に立った。
「大変、失礼を申しまして…申し訳御座いませんでした」
そういって、頭の天辺が見えるくらい深く謝罪する相手に、北斗は、視線を老紳士に向けて、彼が微笑して頷くのを見届けてから、悔然とした表情のままではあったが、
「これで、疑い晴れたんだな」
「はい…本当に失礼しました」
「……ま、いいけど。気をつけてくれよ」
「すいません…」
先ほどまでの嵐のような勢いが、遥か地の彼方へふっ飛んだロイヤルの中年女は、すっかり自分の起こした騒動の重大さに気づいたのか、反省した様子で、老紳士へ、財布のことで礼をいってから、
「お騒がせしました」
と、お辞儀してその場を去った。
その場のテンションが下がりきった所へ、老紳士はいった。
「なあ、皆さんさんよ、楽しい道中ではないか、誰にでも間違いはある。こうやって出会えたのも何かの縁、一緒にたった一回きりの出会いを楽しもうじゃないか」
と呼び掛けてみたが、北斗の手前、恥ずかしそうに皆去って行き、残ったのは、誠一と北斗と、ロイヤルの二人だけになった。
「やれやれ困った人達だ」
と、ため息を付き、自分より年下の車掌に目を向け、
「しかし車掌さん、よう言われた。一部始終きいておりましたが、そういう心意気で乗客に対して思って下されば、私等客としても、安心して旅を続けていられるというもの。大変でしょうが、これからもその気持ち忘れずに職務を遂行してくださらんか」
「望むところです。本当にありがとうございました」
と誠一は、感無量といった様子で、最敬礼した。
老紳士は、「なんのなんの」と笑顔で答えてから、今度は北斗の側へ寄り、見上げながら言った。
「お若いの、よく我慢なされた」
といったので、それを聞いたとき、その時初めて表情を緩めた彼は、
「ありがとう」
と言った。老紳士は、孫を見るかのような暖かい眼差しで、彼を見つめ一呼吸置くと、
「彼女にとって、今日の失態は一生心を苦しめるだろうあまり恨ま…」
「わかっているよ」
と微笑して年上の言葉を遮った北斗に、老紳士は、何度も満足気に頷きながら、
「それでは部屋へ戻ろうか」
といって、まるで夫婦のように、今日知り合った旅の友を促して、その場を後にした。
そんな二人に、今一度敬意を示す父を、息子は見ていた。
ロビーに残されたのは、親子二人だけだった。
「災難だったな」、
と声をかけてきた誠一に、北斗は、すぐ顔を強張らせていたが、意を決して、長年だそうにも出せなかった言葉を、胸の奥底から吐き出した。
「親父、聞きたいことがあるんだ」
突然の、息子の真剣な眼差しと、呼びかけに、目を丸くしながらも誠一は、居住まいを正して尋ねる。
「なんだ?」
「あの時そんな風にいったのは、俺が息子だからか?それとも今日、こんな目にあったのが他人でも、そういうこと出来るのかよ」
「…そうだ。ただ今日はやはり少しばかり、感情が入ってたのかもしれん」
少し照れくさそうに微笑する誠一。
「…けど、そこまで他人を、どうやって信じれるんだよ」
「プロだから」
「プロって…それだけ?」
「違うな、私はこの職業が心底好きだし、誇りをもっている」
「誇りの為に家族を?」
「それも違う」
「え…?なにいってんだよ、それじゃあ辻棲合わねえだろが?!」
「どういえば、わかるかな…」
「わかんねえよ。親父が何言おうとしてんのか!」
「感想ノートをしっているか?」
突然、そんな事を言われて、話を逸らされたと思った北斗が、何か言い掛けようとしたが、それを察した誠一は、
「あわてるな。ごまかしたんじゃない。車掌という仕事の中にも楽しみがあってね、それをみれば少しはわかるかもしれん。そこに置いてあるから」
といって、ロビーカーのテーブルを指差した。
「……わかった、見ておくよ。あと一つだけ。北斗という名前はどうやってつけたんだよ?」
急な、息子の真剣な表情でいう申し出に、困惑した誠一だったが、意を決したように頷くと、
「それは…」
といいかけた時であった、若い鴻野車掌が、顔を青くして駆けてきた。
「あ、ここにおいでで、大変です!急病人です、転げ回って、あ、腹を」
誠一の姿を見付けて慌てふためき、すっかり取り乱している鴻野に、
「落ち着け!」
雷を落としたような大声が、室内に響き渡った。その時北斗は、初めて聞く父親の怒鳴り声に、びくっとしていた。
「いいかい、私の質問に答えるんだ」
すっかりきょとんとしてしまった後輩の肩を、ぽんと叩き、相手が頷くのを確認してから、誠一は言った。
「何号車だ?」
「三号車です」
「急病人の人数は?」
「一人です」
「男性か?女性か?」
「女性です」
「症状は¥?」
「腹を、いえ、脇腹のほうを押さえて苦しがってます」
鴻野もそうやっているうちに、落ち着きを取り戻していた。
「分かった、私が見に行こう、君は次の停車駅郡山に連絡、救急車の手配を頼んですぐ、車内にお医者さまがいないか呼びかけるんだ」
「はい」
と、鴻野の返事が合図かのように、それぞれ散らばっていったので、一人残された北斗は、父のあとを追った。
誠一がそこへ着いたとき、B寝台の一角に人だかり出来ているのを見付け、そちらへ近付くと、若い女性のうめく声がして、「失礼します」といって、人の間に割り込んだ。
「痛い」
と腹を押さえて叫ぶ女の額に手をあててみる、明らかに熱が出ていた。
(これは…確か)
誠一は三年前、これに似た現場に遭遇したことを、思い出していた。
(そうだ、急性の盲腸だったな)
その時、葉山車掌が、氷入りの袋を食堂車で作ってもらったらしく、それを誠一に渡してから、
「車内にお医者さんはいないようです」
と耳打ちした。
「そうか…」
「恐れ入りますが、このお客様のお知り合いはいらっしゃいますか?」
他の乗客に向かって言うと、同じボックスの婦人が、
「お嬢さん、一人だっていってました。北海道の郷里に帰るんだとかで」
「そうですか。ありがとうございます」
たった五分過ぎるのが十分にも二十分にも感じる中、誠一に今出来るのは、安心できるような言葉を投げ掛けてやるのと、氷の入った袋を支え続けることくらいしか無かった。
「大丈夫ですからね。あと少しの辛抱です。次の停車駅で救急車がまってます。頑張ってください」
と、何度も同じ言葉を繰り返しいっていた。
結局、彼女は急性盲腸炎として診断され、救急隊員によって運ばれて行った。
誠一は彼等に、後のことをよく頼んでおいてから、郡山駅の駅員に礼を行った。
もちろん、彼女のいたB寝台の車内の人々に、お侘びを一言述べてから、彼は、その場を後にした。
北斗は、一部始終を邪魔にならないように、見守っていた。
その後何事もなく、北斗星一号は、定刻を取り戻そうと、一路北へ急いでいた。
食堂車がパプタイムに入ったと車内放送があって、それを聞いた北斗は、夕方から何も食べていなかったし、そこに定食が用意されていることは、ちょっと前、父とお春おばさんの会話から知っていたから、行ってみることにした。
その食堂車も、彼が昔乗った寝台特急のそれとは、比べ物にならないきれいさに、驚いていた。
そこでハンバーグ定食を頼んだ北斗は、それを平らげた後、食後の珈琲を片手に、車窓に映る己を見ながら、今目一日、起こったことを思い返していた。
もともと、旅行なんか出る気などなかった。昨日の事である、昼に部活の様子を見にいって帰ってきた彼に、春江が北斗星一号の切符を差し出して言った。
「…就職も内定して、ひと安心って所だけど、お父さんとの関係が今のままはいけないでしょ?誠一さんは、いつでもあなたが心を開くのを待ってくれているわ…お父さんのことをあれこれ批判する前に、一度その仕事内容を見て御覧なさい」
そういわれて、切符を受け取った。
(こんなことで親父のことが…)
と思いながらも、今日、列車に乗り込んだのだ。
初めて見た父の仕事、毎日というわけでもないのだろうが、まさかこんなに色々な事が起きるとは、夢にも思っていなかった。
そんなことを考えながら、また珈琲を一口飲んだ。
今日、一番北斗が印象に残ったのは、生まれて初めて聞いた父の怒鳴り声であった。
「落ち着け…か…」
そう口で眩いてから、感想ノートを見ろと言われていたのを思い出して、会計を済ませてから、ミニロビーへ行くと、丁度、カップルが記入し終わったばかりなのか、それをテープルに戻して立ち上がる所だった。
北斗は、二人が出ていくのを待ってから、椅子に座ってノートを開いた。
“1993年12月8日、初めて北海道へ行きます、この列車は素敵!また乗りたいな
三人連れのK大生“
“息子の結婚式の帰りに、TVで見たこの列車に乗りました。とても縞麗になっていてびっくりしました。機会があればまた乗ってみたいです。 初老の夫婦十月八日”
“初めていく東京。どんなことが待っているのかしら?今から胸をドキドキさせてます、いいことあるかな… 札幌のY子”
“いつぞやは、無くした財布を見付けてくださって有り難うございます。この場をお借りしてお礼申し上げます。特急はつかりの老人”
“イェイ!はじめての北海道だぜ、なに?おまえらも行くって?そりゃそうだ、札幌行きなんだからよ ケイジ”
“ここに一人都会の夢に破れた男
里から送られた手紙とこの列車の切符
せつなさだけが胸をしめつける
俺に残されたものはなにもない
ただ一人郷里に帰る俺を
振り返る者など誰もいない
落ち武者シンガー“
“感想ノートなんてJRが(おっと失礼!)そんな酒落たことするなんていつまでも続けてね。この列車はとても素敵でした 匿名希望”
“父がなくなってから、自分の愚かさに気付いた今、私に出来ることって何かしら?両親の反対を押し切って飛び出したあの日から十年以上も経った・・・私が、このなさけないなりをひきずったまま大都会を離れるのは、母の為。今私に出来るのはそれだけ。おちこんで暗い顔をしていた私の話を聞いて下さった、車内で会った名もしらないおばさん、有り難う。K.A”
とそんな乗客たちの心情や、感想の書き綴られていたノートを、北斗はそのひとつひとつを、夢中になって読み続けた。そして、つい最近の所に、あきらかに誠一にたいして書かれているものがあった。いや、最近というより昨日の事である。
“西条車掌様お元気ですか。わたしはいつぞや特急北斗の中で子を生んだ者です。奥様お子様はお元気でいらっしゃいますか?あの時列車は雪の中立ち往生してお忙しい中、私という一人の乗客の為、ご迷惑をおかけしました。おかげさまで私の、その時うまれた長男は、今年十八才、ヤンチャ坊主で手を焼いております。今日は親子三人、札幌の雪祭りを見に行きます。西条様がこの列車にいらっしゃるのかどうか分かりませんが、あの時のお礼の返事が、差し上げられないままになってしまって、失礼したままでしたので、いまこの場をお借りして、この長い年月の間の毎日感謝の意を思いつづけたぶん、まとめてお礼申し上げます。あの時西条様は、息子が私の所にも生まれたといって、本当にお喜びでしたね。そんな時にも仕事なんてと、気の毒に思った私に、おっしゃいました言葉、いまでも忘れません。じつの所、これが書きたくて私はこのノートのペンを取りました。
「私は妻を信じて、そのために一生懸命働いてます。そうやっているからこそ、乗客を見守るという車掌の義務観念からではなく、家族を大切にする気持ちがあればこそ、他人への患いやりが忘れずにいられるのですよ。息子が生まれた今、これからも乗客の皆様に、それ以上に生まれた息子の為にも、私の車掌業務に一層精進できると恩っております。こんな恵まれた環境にいる私に、気の毒だなんて思われることなどありません。果報者ですよ」と笑って下さったあなたに、私はどれだけ勇気づけられた事か…これからもお体に気をつけてお仕事頑張ってください。陰ながら応援いたしております。九四年二月十二日特急北斗の乗客“
「何で…何でいわねえんだよ」
とノートを持ったまま、肩を震わせて顔を伏せていた北斗は、ふと人影を感じて、その方向を見上げると、父が立っていた。
はっとした彼は、誠一の眼を見た。すると、
「さっきはすまない、お客さんが急病で、少し本部への報告書に時間がかかってな…」
といいながら北斗の前に腰を下ろした。
北斗は、あわててノートをとじて、なにか言い掛けたが、すぐにそれを飲み込むように押し殺して、久し振りにまともに対面した父の眼を見た。
そんな息子の行動に、疑問を感じながらも、
「どうした?目が赤くなっているぞ」
と言う誠一に、北斗はゴシゴシ右腕で眼を擦ってから、
「ね、眠いんだよ」
「そうか…。では名前の事を話そう」
と誠一は、咳払いを一つした。
昭和五十一年一月。山の手線で車掌を勤めていた誠一は、突然、北海道への転勤を命じられ、特急列車の車掌を任される事になった。その頃彼は、すっかりマンネリ化していた通勤電車の車掌という業務に疲れが出始めていた頃で、妊娠して出産を間近に控えた妻を置いて、単身北海道へ渡る事も気が引け、辞めようとも思っていた矢先、その事で病院に入院中の彼女に相談に行ったとき、妻知江は、彼に言った。
「何を弱気な事をいっているのです。あなたは特急列車の車掌に憧れてこの職業を選んだのでしょう?遠い外国へ行くのではないのですから、やっと夢が叶うのですよ、私に構わず行ってください。この子のためにも」
といって、大きくなったお腹をさする知江に、予想していなかった彼女の言葉に驚きながらも、聞き返した。
「この子のため?」
「ええ。ハジをかかせないでやってくださいな。あなたのお父さんは、夢を手にいれるため、一人で北海道へ渡った立派な人だと」
「……」
「もう乗る列車は決まったのですか?」
「ええ?ああ、北斗とかいう、函館と札幌を結ぶ特急だ」
「北斗……あなた、男の子だったらその名前にしませんか?」
「え?」
突然の彼女の申し出に眼を白黒させながら、誠一は、
「そんな事をしたら、イジめられやしないかい」
と、眉をよせて懸念する彼に、知江はくすっと笑って、
「そんな事に対して、負けないような子に育てます」
「しかし…またどうして?」
「あなたが初めて挑戦する、夢の結晶になる特急列車の名前と言う事と、北斗という二文字から私はこう考えたのです。ほくとは北と書きます、北からその厳しさのイメージ、とからは闘争のと、それを思えばどんな厳しい状況に置かれても、負けない、打ち勝って欲しい子にと、考えます。決してふざけて付けているのでは在りません」
「驚いたな、そんな意味を考えるなんて、君は名付けの天才になれるよ」
と誠一が言うと、彼女は小さく笑った。
「ですから、胸を張って、この子のためにも、夢を実現されたという、誇りを持って行ってください…」
「わかった」
誠一は北海道へ渡った。
ある冬、北海道には珍しい豪雪に見舞われたため、ついに途中駅で立ち往生してしまった特急北斗の中で、業務に慣れ始めた誠一に、始めての経験が山積みとなってのしかかってきた。
小さな駅でのことで、識員は、全身全霊を込めてその対応に当たった。
臨時停車したその駅で、他の交通機関にさえ代行輸送がきかず、乗客たちは、車内で列車が動き出すまでじっとしなければならない事となり、近くの町の人々にも協力してもらって、お茶や握り飯などを配給しながら、次々と飛び込んでくる列車無線の新しい情報を整理する一方、そこで一晩明かすことになったため、寝ずの番で、車両一つ一つに気を配っていた。又、窓の開かぬ特急車両の中で、換気はしているのだが、徐々に悪くなる空気で気分のすぐれない人など急病人が出てきた。
その医者の手配もしなければならない中、四号車の乗客の陣痛が始まったというのだ。
医者は来てくれていたが、専門分野では無かったし、小さなその駅の町に産婦人科は無かったのである。そこで、車内に呼び掛け、乗客の中から出産を経験したという婦人が集ま
る内、産婦人科の婦長をしていたという老女がやってきて、集まった人達が皆力を合せて、誠一は彼女らの指示通りに走り回っていた。車内出産は無事成功、赤子の泣き声が響くところへ、それを待ってたかのように、除雪が終わったと連絡が入った。しかし、一難去ってまた一難とはこのことか、特急北斗は気動車と呼ばれるディーゼルカーなのだが、一晩中、暖房の為に回し続けた電源用、駆動用両エンジンの燃料が残り少なく、無事大きな駅までもつか問題となった。病人と、生まれたばかりの赤子と母体を、応援が来るまでほっておくわけには行かない。そこで誠一と運転手は相談して、北海道総局にも掛け合い、すぐ後ろの駅で同じく足止めを食らっていた貨物列車ごと、後押ししてもらうことに決めたのであった。さらに、燃料の節約を図るため、体の弱い者や、子供、急病人を一箇所に集めて、他の車両は暖房や減光を実施して、電源用燃料を節約、その頃には車内の事情も知れ渡っていたから、この列車の乗客たちも黙って指示に従ってくれた。結果は見事成功、ぎりぎりの所で列車は、大きな町の駅に到着することが出来た。
その直後、誠一がその時いた札幌の官舎に届いた電報を、同僚が気を利かせて、臨時駅に文言を、電話で入れてくれたのである。さらにそこの駅員が、口頭で到着したばかりの誠一に伝えてくれたのであった。
“ブジ、オトコノコシュッサンス。 トモエ”
と。
その伝言を受けた誠一は、まだ業務中であったが、当たり構わず歓喜の涙を流していた。
その傍らで、雪とススにまみれたキハ八〇系と呼ばれる気動車の特急北斗は、早朝の曇り空からわずかに差し込んだ日に輝き、どこか誇らしげに見えて、誠一は、妻の名づけの意図がわかったような気がしていた。
「話は長くなったが、そういう意味だ。私は、青森までの業務だがお前は札幌へいくんだったな。気をつけてな。では業務へ戻るよ」
といって立ち上がり掛けた父に、北斗は言った。
「親父、俺…」
息子の目に視線を合わせて、訴え掛けるその真剣なまなざしから、彼のいわんとすることが分かったのか誠一は、まっすぐ見返してから、深く黙ったまま頷いて目元を緩めると、仕事へ戻って行った。
北斗は、それからすぐに、ロビーにある公衆電話へ、財布から取り出したテレホンカードを差し込むと、掛けなれたダイヤルを押した。
「そう…これで本当に、卒業して、就職もこころおきなくできるわね…おめでとう、北斗ちゃん」
北斗から掛かってきた電話に、春江は心の底から浮かび上がった歓喜の涙を流していた。
(そして、誠一さんも…)
定刻を取り戻した北斗星一号は、ヘッドライトの明りを輝かせながら、雪にまみれたその長い胴体を、青森駅に横付けした。
運転停車と呼ばれるそれは、時刻表には載っていない。
乗務員と運転士の交代や、時には機関車の付け替えが行われるためのもので、列車のドアは開かない。
青森では、青函トンネル用の機関車に、付け替えられる作業も行われる。
誠一たちも、ここで、JR北海道の車掌たちに引き継いで、業務が終了するのである。
今日は、引き継ぐ事が多かったせいか、いつもより長くなってしまったが。
「…で十号車のロイヤルニ号室は、お客様が、キャンセルされたそうです」
「そうですか。ご苦労さまでした」
「おねがいします」
と挨拶した三人は、雪の降り積もった青森駅を歩き始めた。
「いやあ、しかし今日は散々でしたね」
という鴻野に、同感だと首を疎めて歩く葉山は、
「一晩に、これだけいろんな事が起きるなんてねえ、西条さん」
とため息をついた。
「はは…そうだな…」
誠一は同僚の言葉を返してから、急に立ち止まった。
「?西条先輩、忘れ物すか?」
と、鴻野。
「ちょっとすまんが、先に行っておいてくれ」
そう誠一は言うと、顔を見合わせるほかの二人をおいて、急いで駅の方へ戻っていった。
北斗星一号は、定刻どおり青森駅を出発した。
青森駅でドアが開かなかったことに、運転停車だと知っていた北斗は、ゆっくりと滑り出したホームの端に、父が列車を見送る姿を見つけた。
(父さん!!)
北斗星一号が、再び降り始めた雪の中へ、赤いテールランプの光を伴いながら、視界の中から消えるまで、誠一は見送っていた。
翌日、上りの北斗星二号に乗務した彼は、昨晩感想ノートを見忘れていたのを思い出して、手が空いたときに目をとおした。
いつもながらのほほえましいコメントの中に、十八年前の特急北斗で生んだ母親の文に、誠一は、驚くばかりであった。
そして昨日の所にも。
“誠にお騒がせして申し訳ございませんでした。あの男の子には、本当に悪いことをしたと思って反省するばかりです。客を信じようとした車掌様の熱意、全く、その前では、ただ顔から火が出る思いです。二度と、同じ事を繰り返さない事を、車掌さんに誓います。中年女2月14日”
“旅は道連れ世は情け。とっくにそんなものは、今の日本人の心から消えたものと思っておりましたが、まだまだ捨てたものではありません。列車の乗り心地は良く、ぐっすり眠れ、また茶飲み友達も増えたので、楽しい道中でした。ただ贅沢をいえば、青函連絡船を一隻でも運航して残して欲しかったですな。ロイヤルの古狸より”
“東京の孫に会いに行った帰りでしたが、この列車に乗って良かったと思っております。お友達も出来ましたし、本当に楽しい旅でした。孫達にも、是非勧めてみます。古狸さんの友達”
“新婚旅行の行き、胸一杯にして、札幌へ行きます!車掌さんが親切だったわ。ね、けいすけ
「うん」
また乗りたいなあ。ね、
「うん」byなおこ&けいすけ“
「ははは…」
と、微笑しながら、最後まで来たときだった、彼の目頭はとたんに熱くなった。
“親父、素直になれなくて悪かった。就職は大丈夫だから心配しないでくれ。それから青森駅では有り難う。嬉しかった。北斗”
ニケ月後四月一日。
九四年度JR東日本の入社式で、誠一が現場の先輩から一言という事で、社命を受け、どんな話をすればいいのか、試行錯誤して考えをまとめて出た結論は、やはり、十八年前の特急での出来事であった。
四百名近い高卒新入社員を前にした時、誠一は、一瞬わが目を疑った。
しかし、それだけの中にいても目立つ体格をしたその新入社員は、間違いなく北斗であった。
何と言う事だろうか、優先的に入れてくれる大学や団体を蹴ってまで、北斗が就職の道を選んだのは、父と同じ道だったのだ。
(知江…いまようやく、とぎれとぎれだった親子の絆が、一本に繋がったよ…)
そう思いながら誠一は、今、心の底から沸々とこみあげてくる感情を、必死で抑えながら、目をつむって天を仰ぎ見、深呼吸すると、祝辞と自筆で書かれている三つに折られた白いそれを広げた。
完
参考・鉄道ジャーナル88年6月号
・別冊鉄道ジャーナル93年7月号No.26「JRブルートレイン」
・JTB時刻表94年2月号