表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

孤高の闇

恣陀玖の魔女

作者: たたら


   【一】


 幼い頃の記憶はあまりない。両親と兄弟がいた記憶はあるが、顔は思い出せない。

 あるとき、父が人が変わったようになって家に帰ってきた。闇落ちしたのだと、父を連れてきた人が言った。

 やがて、兄弟たちも父と同じように変わり果てた。彼らの看病をしながら、母が一人で泣いていた。

 それからしばらくして、頼まれた買い物から帰ると、家が燃えていた。皆を救うために、母が火を放ったのだと、誰かに言われた。

 私はその日、家族を失い、孤児になった。


 その後のことは、何も覚えていない。

 玄武の屋敷に引き取られ、そこで他宇良(たうら)と出会うまでは。


 彼女の存在は、空っぽだった私の心を、あっという間に埋め尽くした。私たちは、共に学び、共に戦い、共に夢を語った。

「ねえ、藤璃(とうり)、私ほんとはね……闇を祓ってたくさんの人を救うよりも、闇に落ちた人を一人でも多く救えるようになりたいの」

 彼女の大きな瞳には、いつだって希望に満ちた未来が映し出されていた。

「たとえ闇落ちしても、戻ってくることはできるわ。でもそれには時間がかかる。だから、彼らを安全に隔離して、最後まで守れる場所があれば、今よりもずっとたくさんの人を救えると思うの」

 私はそんな世界が実現する未来を思い描いた。私たち二人なら、どんな未来も可能だと、その頃は思っていた。

「だったら、私たちの手でそんな世界を作ればいい。助けられる命を、最後まで守れる世界を」

 そう言うと、他宇良も嬉しそうに笑った。

「これは私たちの約束よ―――どんな未来が来ても、この約束を忘れないで」


 そして、私は隔離の里を作った。

 あのときの約束通り、私たちが望む世界に近づくための、最初の一歩だった。だからこそ、誰よりも彼女に喜んでほしかった。

 けれど、すでに巫女としての運命を背負った他宇良には、会うことは叶わなかった。代わりに誠珂(せいか)がやって来て、長老会の決定事項を告げた。

 私はその日、守り手から命の供与を受ける、契約者になった。


   †


藤璃(とうり)様、お客様ですよ」

 名前を呼ばれて目を開けると、目の前に大きな人影が浮かび上がる。心配そうな顔した瀬斗(せと)が、こちらを覗き込むようにして立っていた。

「……客だって? そんなもの、呼んだ覚えはないが……」

 いつもなら、昼寝を中断されて不機嫌になるところだが、久しぶりに見た過去の記憶は、あまり思い出したくないものばかりで、今回は大人しく瀬斗の言葉に従った。

「それが、その、こちらから招いたお客様ではないのですが……」

 何やら端切れの悪い瀬斗の口調に、藤璃は怪訝な表情を浮かべて、彼の後ろに控えている人物に視線を向けた。

 全身を覆う白く長い衣装は、嫌というほど見覚えのあるものだが、いつもなら訪問は夜であったし、わざわざ瀬斗が来客として、ここへ連れてくるはずがない。

 そもそも、こちらから招いていない人間が、そう簡単に結界内に立ち入ることなど、できないはずだ。いったい何者なのかと、藤璃が問い詰めようとした、そのとき、その人物の方から口を開いた。

「初めまして、藤璃様―――私は能力者の監視役を務めております、琳坐(りんざ)と申します」

 初めて聞くその声に、藤璃はわずかに戸惑いを感じた。

 彼らが自分に対して口を開くことは、これまでほとんどなかったし、こんなふうにまともに言葉を発する相手を見たのは、これが初めてだったからだ。

「監視役……?」

 聞き慣れない言葉を口に出しながら、藤璃は目を細めた。

 能力者というのは、おそらく守り手のことを指すのだろう。彼らが厳しい監視下に置かれていることは、誠珂(せいか)から聞いている。つまり、この目の前の男は、彼らを監視する側の人間、彼らに望みもしない行為を強制させている側の人間、ということになる。

「監視役が、いったい何の用だ?」

 招かざる客、それもできれば関わりたくない人間であることは明白だった。

「今回、藤璃様のもとへ派遣された守り手たちから、想定外の報告があったため、こうして直接事情を伺いに参りました」

「想定外の報告だって……? いったい何のことだ」

「……心当たりがありませんか?」

 意味ありげな口調に、藤璃は相手を睨むように見つめた。

「心当たりもなにも、おまえたちが何を期待しているのかさえ、私は知らない」

 藤璃は椅子から立ち上がると、相手の正面に立った。

 明らかに喧嘩腰の態度に、すぐ横で困惑しながら制止しようとする瀬斗の気配が感じられたが、藤璃はお構いなしに続けた。

「おまえたちは礼儀を知らぬようだから、ひとつ教えてやろう。他人の家を訪問するときは、あらかじめ許可を取るのが礼儀というものだ。事前の許可なく、結界を破って侵入したというのなら、それ相応の弁償をしてもらうぞ」

 琳坐と名乗った男は、しばらく沈黙を守っていたが、やがてその仮面のような顔の上に、うっすらと笑みを浮かべた。

「なるほど……これは確かに、噂通りの方ですね」

 そう言って、頭を覆っていた布を下ろし、その陶器のような白い顔を現した。

 彼らの多くが、こういう顔をしていることは見慣れていたし、見た目と実年齢が一致しないことも、経験上、分かっている。

「あなたが我々に対して好意的でないことは、事前に聞いておりましたが……ここまで嫌われているとは、こちらとしても心外ですね」

 口元に笑みを浮かべながら、その琥珀色の瞳は、射抜くようにこちらを見つめている。この男は、これまでの相手とは違うのだと、藤璃の直感が告げていた。

「事前調査が足りなかったようだな。とはいえ、理解が早くて助かるよ。今日のところは、多めに見てやるから、大人しく帰ってくれないか」

 そう言って、扉の方へ歩き出そうとした途端、男の言葉がその足を止めた。

「ですが、ひとつ訂正させてください。私は許可なくあなたの結界内に入ったわけではありませんよ」

 どういう意味かと、藤璃が振り返ると、相手はゆっくりとその視線を、瀬斗の方へ移動させた。

「彼が私を出迎えてくれました。あなたの結界には、傷一つ付けておりません」

 同時に双方から視線を向けられ、瀬斗は恐縮したよう首をすくめた。

「す、すみません、藤璃様……でも、その、本家からいらした方を、追い返すわけにもいきませんので……」

 彼の言い分はもっともだった。もしここで、本家の人間を理由もなく追い返したりすれば、長老会が黙っていないだろう。

 処罰の対象が自分だけなら痛くもないが、瀬斗や誠珂にまで迷惑がかかる可能性がある。この男は、そこまで見越して、わざわざ瀬斗に案内させたのだろうか。

 藤璃は大きくため息を吐いて、相手を睨んだ。

「なるほど……そういうことなら、礼儀知らずと言ったことは、取り消そう」

 取り消しはするが、謝る気はない。さっさと用事を済ませて、帰ってもらおうと、藤璃は椅子に座り直し、相手の話を聞く体勢を取った。

「それで、想定外の報告とは何のことだ? そちらの言い分を聞こうじゃないか」

 ところが、ここまで譲歩したにも関わらず、男は部屋の中をぐるりと見回しただけで、いっこうに口を開こうとしない。

 苛立ち気にその様子を睨みつけていると、今度は藤璃の前まで進み出て、その口元に意味ありげな笑みを浮かべてこう言った。

「ここではなく……二人だけでお話したいのですが」


   †


 こちらが譲歩した途端に、さらなる要求を突き付けてくるとは、なんと不躾であつかましいのだろう。人の家に勝手に入り込み、さらには土足で踏み荒らすような輩に、ろくな奴はいやしない。

 そんな罵詈雑言を内心で吐き出しながら、藤璃は琳坐を別室へと案内した。

「ここなら、誰も入ってこない」

 そう言うと、琳坐は少し怪訝そうな顔をして部屋の中へ入った。壁には本棚が並び、奥には書斎机らしきものが見えるが、その上にも本が積み上げられている。

「ここは……使われていない部屋ですか?」

「そうだが、何か問題でも?」

「いえ……てっきり寝室に案内してもらえるとばかり」

 思わず相手の顔を見やると、腹が立つほど余裕の笑みを浮かべてこちらを見ている。先ほどまでは猫を被っていたのかと思うほど、不遜な相手の態度に、藤璃は確かに強い怒りを感じていたが、どこか冷めた自分がいるのも分かっていた。

「なぜおまえと話をするのに、寝室でなければならない?」

「いつも守り手を迎い入れるのは、寝室だと聞いていますので」

 さらりとそう答える相手に、藤璃は驚くよりも、自虐的な笑みを浮かべてみせた。

「おまえが何を聞いているのか知らないが、それがおまえの言う、想定外の報告というわけか」

 彼が噂を聞いているならば、知っていてもおかしくはない。自分が彼らの間で何と呼ばれているのかも。

 恣陀玖(しだく)の魔女―――いつからか、そんな異名がついた。次から次へと守り手を寝室へ誘い込み、命をすする貪欲な魔女のようだと。

 本当に、反吐が出るほどおぞましい話だ。そんな噂を作るきっかけが自分にあったとしても、それを公然と口にできる相手に対して、好意的に接しろという方が無理な話だ。

「―――いいえ、問題はそこではありませんよ」

 彼はきっぱりとそう言った。では何が問題なのかと、相手の様子を伺っていると、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。

 その威圧的な視線に、藤璃は思わず後ずさった。背後にある本棚にぶつかり、一瞬、逃げ場を失った獲物のように、恐怖に駆られる。まるで、蛇に睨まれた蛙のように、息ができない。

「なぜ、命を受け取らなかったのです?」

 一瞬、なぜそんなことを問われているのか、分からなかった。

 けれど相手がそれ以上近づいてこないと分かると、停止した思考が動き出し、ようやく理解する。命の供与を拒絶した行為そのものが、彼らにとっての想定外なのだと。

「……必要ないからだ」

 喉の奥から絞り出すように言葉を吐いて、藤璃は顔を背けた。

「必要ない……? そんなはずはないでしょう。この里の巨大な結界を維持するために、あなたは大量の命を消費しているはずです」

 その言葉に、藤璃の中の恐怖心が徐々に消えていく。完全に信用したわけではないが、少なくとも、この男は守り手とは違うのだ。

「……新たに結界を構築するわけじゃない。小さな綻びを修復する程度なら、それほど命は必要ない」

 適当に誤魔化してみたものの、明らかに納得していない様子でこちらを見ている。

「修復するには、決壊した場所を特定する必要があります。そのためには、外壁すべてを意識下に収めなくてはならない」

 なぜこの男は、そんなことまで知っているのだろう。白虎の中にも、結界に詳しい術者がいるのかも知れないが、本来、結界というのは、自身の視界の範囲を超えたものは作れない。

「ずいぶん詳しいようだが、術者である私が必要ないと言っているのに、なぜ疑う必要がある?」

 そう言い切られて、さすがに返す言葉が見つからないのか、琳坐はしばらく黙り込んだ。

「……では、本当に必要ないのか、確認しても構いませんか?」

 いったいどうやって?と尋ねようとして、相手の手が首筋に触れようと近づいた瞬間、藤璃は反射的にその手を振り払った。

「守り手でもないのに、私に触れることは許さない」

 実際に触れたわけでもないのに、首筋がぞくりと反応して、藤璃は思わず唇を噛み締める。

「……そんな怖い顔をしないでください。こちらも手荒な真似をするつもりはありません。ただ、あなたに何かあっては困るのです」

 琳坐は困ったように肩をすくめて、藤璃の側から離れた。

「それは私が契約の対象者だからか」

「そうですよ。あなたの命を守ること、それが玄武と白虎の間で交わされた契約です」

「ならばそんな契約は破棄すればいい。巫女でもない私が、なぜこんな待遇を受けるのか、誰もが疑問を抱いていることだろう」

「個人の感情で破棄できるものではありません。あたなも我々も、契約には従う義務があります」

 思わず、乾いた笑い声がもれた。

「契約契約って……おまえたちは、契約なら何でも従うのか? 契約がどれほど偉いのかは知らないが、人の感情まで従わせられるとでも?」

 さすがに琳坐も表情を険しくして、言葉を失ったようにこちらを見ている。

「そこまで我々を拒絶する理由は何ですか?」

「命はやり取りするものではない」

「否定はしませんよ……けれどこれは、世界の維持のために必要であると、白虎と玄武の間で交わされた契約です」

 世界の維持だって……? いつから自分は、そんなたいそうなモノになったのだろう。

「はっきり言っておく。世界の維持のために、私の命は必要ない。私の命が途絶えても、世界は維持される。それでも無理やり受け入れろと?」

「それを決めるのはあなたではないと、先ほども申し上げました。あなたが頑なに我々を拒絶する理由は、他にあるのではありませんか?」

「……どういう意味だ」

 目の前の男が、何を勘違いしているのか知らないが、その言葉ひとつひとつが気に食わない。

「この契約があなたの本意ではないとしても、これが必要なことだと、あなたはすでに分かっているはずです。それなのに子供のように駄々をこねるのは、あなたの自尊心が、この行為を受け入れられないからではありませんか?」

「何を知ったようなことを……」

「命の与奪には、接触行為が必要です。それも濃密な接触であればあるほど、その効果が大きいため、ときには行き過ぎた行為になることも承知しています。けれど我々がその行為を強制することは契約違反であり、もしそんなことがあったのだとしたら、それは処罰の対象となります」

 藤璃は相手を凝視したまま、しばらく無言で立っていた。

 この男がどこまで事実を知っていて、どこから推測しているのかは知らないが、相手の心の内まで見透かすことなどできはしない。そして、それをわざわざ教えてやる必要もない。

「先ほど、あなたは私の手を振り払いました。その反応は、私の知る限り、通常の範囲を超えています」

「だったら何だ? おまえの言う、行き過ぎた行為を、私が強制されているとでも? だったら事情を聞く相手は私ではなく、守り手たちの方だろう? さっさと帰って、彼らを尋問したらどうだ?」

 思いつく限りの悪態をついて、藤璃は扉を指さした。いきなりやってきて、知ったふうな口をきくこの男を、さっさと追い返したかった。

 琳坐は何かを言おうとしたが、藤璃の有無を言わせぬ態度を見て取ると、あきらめたように従った。

「分かりました……今日のところは帰ります」

 そして部屋を出る間際、彼は最後に付け加えた。

「ですが、これだけは言っておきます。どんな事情があっても、あなたは命の供与を受け入れなければなりません。これはお願いではなく、本家からの命令です」




   【二】


「わざわざ呼び出して悪かったな、誠珂(せいか)

 客間の空間にぼんやりと立つ人影に、そう言葉を投げかけると、それはゆらゆらと動きながら、いつものように答えた。

「気にする必要はない。おまえに不自由をかけているのだから、私がここへ来るのは当然だ」

 意識体のせいか、表情までは分かりづらいが、相変わらず、そっけなく答える相手に、藤璃(とうり)はいつものように苦笑した。

 自分がこの場所を離れられないのは、自ら望んだことであって、誠珂の責任ではないと何度も言っているが、いまだに負い目を感じているあたり、まったく頑固な男だ。

「……おまえ、ちゃんと休養は取っているのか? 屋敷の者たちから、おまえがいつ休んでいるのか分からないと聞いているぞ」

「特に問題はない」

「おまえが問題なくとも、周りが心配するだろうが。周囲の者たちを心配させないことも、頭領としての責務だ」

 そんな苦言を吐いてみたものの、この愚直な男には特に響いた様子もなく、分かったとだけ呟いた。

 まるで暖簾に腕押しだな、と思いながら、玄武の頭領であるこの男に、休養を取れなどと言えるのは、もはや自分と他宇良(たうら)くらいなのだろう。

「久しぶりに会えたのだから、もう少しゆっくり話がしたいところだが……」

 ここへ来たのは、おそらく御忍びなのだろう。彼が単独で行動を許されることは、ほとんどないからだ。

 それでも、こんなふうに、呼べばすぐに来てくれるところは、昔と変わらない。ふと昔のことが思い出されて、藤璃は言葉に詰まった。

「……あまり時間もないだろうし、本題に入るよ」

 そうは言ったものの、いったい何から話そうかと思案していると、珍しく、誠珂の方から口を開いた。

「例の契約のことなら、私にできることは何もない」

 相手に先手を打たれたような気分で、藤璃はため息をついた。

「すでに手が回っていたか……そちらに迷惑がかかったのなら、すまない」

「謝る必要はない。私は先方から謝罪されただけだ。おまえに非礼があったことを詫びていた」

 予想外の言葉に、藤璃は眉をひそめた。謝罪とは、いったいどういうつもりなのだろう。半ば強引に追い返したのは、こちらの方なのに。

「謝罪以外に……何か言っていたか?」

「……おまえが命の供与を受け入れるよう、説得してほしいと」

 なるほど、そちらが本来の目的というわけか。先手を打って、誠珂を味方につけようとするなど、こちらの事情にやけに詳しいのは、どういうわけだろう。

「そこまで聞いているなら話は早い。私が呼び出した理由も、分かっているんだろう?」

「だから、最初に言った通りだ。この件に関しては、私にできることは何もない」

 そう言い切る誠珂に、藤璃は冷ややかな視線を送る。

「玄武の頭領であるおまえに、できないことはないはずだ」

 じろりと、誠珂の視線が藤璃へと向けられる。無表情な顔のままだが、内心ではそれなりに怒っているのだと、藤璃には分かっていた。

「契約を破棄しろとか、そんなことは、もう言わない。ただ命の供与を最低限に抑えたい。結界を維持するのに必要な分だけ、という制限を設ける。それくらいは、交渉できるだろう?」

 けれど、誠珂は無言のまま、口を開こうとしない。あえて何も言わないのは、彼なりの否定の意だ。けれどここで引き下がるわけにはいかない。

「巫女ではない私が、契約の対象者となることを、認めていない長老たちも多いはずだ。おまえにだって圧力がかかっている。だからこれは、彼らへの牽制にもなるだろうし―――」

「藤璃!」

 強い声が、藤璃の言葉を遮った。

「そんなことは、どうでもいい。分かっているはずだ、これは他宇良(たうら)自身が望んだことだ」

 誠珂の鋭い眼差しが、有無を言わせぬ強さで藤璃を貫く。

 分かっている、彼ならきっとそう言うだろうと。けれど、自分にだって譲れないものはある。何度も何度も考えて、これが自分なりに出した妥協点なのだ。

「あのとき、おまえは言ったな……私だけが先にいなくなったら、どうなるかを想像してみろと。この里を維持できなくなれば、他宇良は負荷に耐えれなくなる。それはつまり、世界が維持できなくなる、ということだと」

「そうだ、おまえも私も、他宇良のために生き続けなければならない」

「ならばもし、私以外の人間が、この里の結界を維持できるようになれば、事情は変わるはずだ」

 無表情だった顔に、驚きと動揺の色が浮かぶ。信じられないといった目で、藤璃を見つめている。

「他宇良のことを誰よりも知っているおまえが、本気でそう思っているのか。そんなことをして、あいつが―――」

 唐突に、誠珂は声を止めた。片手で喉を抑え込み、感情を静めるように、呼吸を整える。

 彼がこうするのは、他宇良に負の感情を感知されないようにするためだ。破魔(はま)をもつ誠珂の心は、どんなに離れていても、彼女のそれとつながっている。いつも無表情なのも、あらゆる感情を放棄しているのも、すべて他宇良に負担をかけないためだ。

「私だって……他宇良のために、生きていたい」

 誠珂の必死な姿を見て、思わず本音が漏れる。

「……何もできなくても、生きていて欲しいというなら、ずっと生きていてあげたい」

 記憶の中の他宇良は、決して弱音を吐く人ではなかったが、でもたった一人で、巫女として生き続けなければならないとしたら、それはあまりに残酷だ。

「でも、人の命は、そんなことのために使ってよいものではないんだ。人には寿命があって、その寿命を使い切って終わることが、生きるということだ」

 がたんと音がして、誠珂が椅子から立ち上がった。引き止めることもできたが、おそらく今は、彼を説得することはできないだろう。

「悪いが、これ以上、この話は続けられない」

 他宇良に負担をかけてしまうのを避けたいからだ。それは藤璃も同じだった。

「おまえの言いたいことは分かる。だがよく考えることだ、それが本当に、おまえ自身が求めた答えなのかを」

「……まるで私以上に、私を知っているみたいだな」

 皮肉でも何でもなく、もし私の心が分かるなら、教えてほしい。私自身が何を望んでいるのかを。

「藤璃……私に分かることは、私は彼女のために生きる道を選んだ、ということだけだ。どんな非難も責苦も受ける覚悟で、生きると決めた。それだけだ」


   †


 誠珂が帰ったあとの部屋は、ひどく広く感じられ、藤璃は一人取り残されたような気持ちで、長椅子にもたれかかっていた。

 ―――どんな非難も責苦も受ける覚悟で、生きると決めた。それだけだ。

 おまえは、そうではないのか?と、そう問われている気がした。

 自分には覚悟が足りないのだろうか。誠珂のように、どんな犠牲も受け入れるべきなのだろうか。他宇良は、私たちが犠牲を払ってまで、生き続けることを望むだろうか。

 どんなに苦しくても、巫女は生き続けなければならない。それが世界を維持することであり、玄武の使命でもある。先代の巫女たちが、命をかけて守り続けてきたことだから、きっとそうなのだろう。その悲惨な運命が他宇良に降りかかったことを、今更嘆くことも、怒り悲しむこともしたくない。だからこそ、彼女を生かすためならば、どんな手段でも厭わない、それが誠珂の下した判断だ。

 けれど、私は違う……そんなふうに割り切れない。どんな命でも救いたいと、最後の一瞬まで生き続けられるようにと、私たちはこの里を作ったはずなのに、私はここを守るために、日々多くの命を消費している。誰かの命を守ることは、他の誰かの命を犠牲にすることなのだろうか。それが、本当に、私たちの望んだ世界だったのか。

(教えてくれないか、他宇良……おまえなら、どんな世界を望む? おまえの瞳には、どんな世界が映っている?)

 外に出ると、すでに日は沈み、薄暗い夜の静寂を迎えようとしていた。

 その悲しげな光景を見つめながら、初めて彼に出会ったのも、こんな夜だった気がすると、藤璃は過去の記憶を手繰り寄せた。

 あの時も、この世界に一人取り残されたような気持ちになって、無性に他宇良の声が聞きたくなって、思わず外に飛び出した。

 そして、薄暗い夜の静寂の中に、月明かりに照らされた、一人の少年の姿を見つけたのだ。


「おまえは誰だ?」

 そう問うと、少年は無言のまま片腕を前に差し出した。

 なにか手に持っているようだが、遠くて見えない。特に警戒すべき気配もないと判断し、藤璃は少年の方へと近づき、その手の中にあるものを見つめた。

 それは、細い鎖につながれた美しい金剛石だった。

「これは……おまえはもしかして、守り手、なのか?」

 無言のまま頷く少年の顔を、藤璃はまじまじと見つめた。

 噂通り、美しい顔立ちに、全身白づくめの衣装だった。白虎の人間は年齢不詳だというが、彼は青年と呼ぶにはまだ未熟さが残る、少年のような容姿だった。


 本家から守り手を派遣すると連絡があったのは、一月ほど前。その後、何の音沙汰もなく、すっかり忘れていたが、この首飾りは契約の証として本家から渡されたものと同じだった。

 少年を部屋に案内すると、彼は静かに腰を下ろした。その間、彼は一言もしゃべらなかった。最初、口が聞けないのかと思ったが、名前を聞くと『珠那(しゅな)』と答えた。

 無言のまま、しばらく様子を伺っていたが、珠那は椅子に座ったまま動こうとしない。このままでは埒が明かないと判断し、藤璃は自分から話しかけることにした。

「ええと、珠那……私はどうすればいい?」

 守り手から命の供与を受ける方法については、実際のところ何も知らない。接触行為が必要だとは聞いているが、具体的にどうすればよいのか、誰も教えてはくれなかった。

「とりあえず、手でもつなげばよいのか?」

 そう言って、片手を差し出すと、珠那は静かにその手を握り返してくれた。

 ほんのりと相手の温もりが伝わって、何かが体に流れていくような感覚。これが命の供与なのだろうか。珠那の顔を伺うと、やはり無表情のまま、重なりあった手をじっと見つめている。

「ええと……どのくらい、こうしていればいい?」

 そう問うと、彼は少し考え込んでから、『一日半くらい』と答えた。私は驚いて、思わず声をあげてしまった。

「一日半もずっとこうしているのか? さすがにそれは無理だ」

 珠那は驚いたような顔でこちらを見た。おそらく私が声をあげたせいだろう。さすがに大人げないと反省し、少し冷静になって考えてみる。他宇良や誠珂が、命の供与を受けるために、一日半も拘束されているはずがない。つまり、もっと別の方法があるはずだ。

「すまない、珠那……私は何も知らないんだ。だから、もっと早く終わらせる方法があるなら、教えてほしい」

 最初からそう言えばよかったと後悔しつつ、苦笑を浮かべると、珠那は手を離して、それから少し思案するような仕草を見せた。どうしたのだろう?と不思議に思っていると、不意に彼の顔が近づいてきて、唇に温かいものが触れた。

 驚いて彼の体を引き離すと、珠那の妖艶な顔が見えて、一瞬どきりとする。

「いったい何を……」

「これなら、多分、一時間くらいで大丈夫……」

 今の行為に対して、何ら詫びる様子もなく、そう告げる彼の顔を見て、これは守り手にとっては普通の行為なのかと、藤璃は思った。もっと他の方法がないのかと尋ねようとしたが、自分さえ納得できれば、今の方法は確かに効率がよさそうだった。

「分かった……でも息が続かないから、ときどき休憩を入れてもいいか?」

 そんな馬鹿なことを言っている自分に、さすがに羞恥心を感じざるを得なかったが、珠那はしごく真面目な顔をして『はい』と答えてくれた。


 珠那から命の供与を受けた翌日から、驚くようなことが起きた。

 以前は数時間もかかっていた結界の修復が、わずか数分で完了したのだ。外壁結界の探索も、以前ほど深く潜らなくても可能になり、その精度も格段に向上した。これなら、さらに個別結界を増やして、受け入れ可能な患者を増やすことができるだろう。

 これが命の供与の恩恵なのかと、藤璃は心から珠那に感謝した。今度、彼に会ったら、きちんとお礼を伝えて、もっといろいろな話をしてみたいと、そう思った。


 だが、翌月になって、藤璃の前に現れた守り手は、珠那ではなかった。

 珠那よりも少し年上だろうか、美しい外見であることは共通していたが、彼のような未熟さは消えていた。その胸元には、あの日、彼が持っていた金剛石の首飾りが、月の光を反射して、小さくきらめいていた。

「珠那は……どうしたのだろうか」

 そう問うと、新しい守り手である藍斗(あいと)は、わずかな沈黙の後に、無表情のまま答えた。

「彼は規律を犯したため、処分されました」

 淡々とした口調のせいか、最初、自分の聞き間違いだと思った。けれど、処分という言葉は、確かに耳に届いた気がして、藤璃はさらに問い詰めたが、彼はそれ以上、口を開こうとはしなかった。

 いったい珠那に何が起きたのか、何も分からないまま、藍斗が寝室へ案内してほしいと言ったので、藤璃は言われた通りに彼を自分の寝室へ通した。そのことについては、もっと警戒すべきだったのかも知れない。けれどそのとき、珠那のことで動揺していた藤璃には、守り手がすることを疑う余裕などなかった。

 気づいたときには、寝台の上に押し倒された状態で、いったい何が起きているのか、何が起きようとしているのか、混乱した頭で必死に考えていた。

「効率的な方法がよいと、あなたが珠那に言ったのでしょう?」

「え……」

「だから、最も効率的な方法を教えてあげますよ。できるだけ肌を露出させて体を重ねることです。念のため、我々は訓練されていますから、それ以上のことはしないと約束しましょう」

「どうして……」

 彼の言葉には、明らかに憎悪の感情が見て取れて、なぜそんな感情が自分へ向けられているのか、藤璃は必死に考えた。そして、最も恐れていた事実を、彼の口から告げられた。

「珠那はあなたのせいで死んだ。このくらいの制裁は、受けてしかるべきだ」

 その後のことは、よく覚えていない。ただ涙で視界が閉ざされたおかげで、彼の顔が見えなかったことだけが、救いだった。

 藍斗を恨む気にはなれなかった。彼はただ、大切な仲間を失い、珠那のために、報復しただけだ。こんな形で、報復しなければならないほど、彼は自分を憎んでいた、ただそれだけだ。


 珠那のことについては、その後、何度か本家に問い合わせてみたが、答えることはできないとの一点張りで、何一つ情報は得られなかった。契約も破棄することはできず、その後も、月が変わるたびに、違う守り手がやってきた。

 彼らは示し合わせたように、寝室へ入り込み、藍斗と同じやり方で、命を与え続けた。そのたびに、首筋にうっすらと跡がついて、そこに触れられるだけで、自分の体が反応するようになっていくのが恐ろしかった。

 何度か拒絶しようと試みたが、他宇良の負担を減らすためには、さらなる里の拡充が必要で、彼らとの行為を継続せざるを得なかった。幸いにも、守り手たちは、最初から最後まで無表情のまま、ほとんど口を開かない。だから自分も彼らと接するときは、感情を殺してしまえばよいのだと、そう思うことにした。

 今にして思えば、もっと彼らの言葉を聞き、自分の気持ちを打ち明けていれば、違う未来があったのかも知れない。でもそのときの自分は、守り手の顔も名前も、すべて記憶から消し去って、彼らが与えてくれる命を、ただひらすら貪り続けた。




   【三】


『巫女でもないのに命を供与され、若い容姿のまま生き続けるなんて、恥知らずだと思わないのですか』

 そんな嫌味を言われたのは、いつだったろうか。

『幾多の守り手を魅了し、貪欲に命をすする、まるで魔女のようだと、皆が噂していますよ』

 そんな悪意のある声が耳に届くようになって、どれくらい経つだろう。

 見も知らぬ相手から陰口をたたかれるたび、最初は落ち込みもしたが、今となっては自嘲の笑みすら浮かぶ。好きなだけ噂すればいい。それが事実であろうがなかろうが、それだけのことを自分はしてきたのだから。

 彼らに理解してもらおうとは思わない。自分を知る一部の人間にだけ分かってもらえれば、それで十分だった。自分は誠珂(せいか)ほど強くはないが、それでもこの程度の噂なら耐えられる、ずっとそう思っていた。

 けれど、あの日、監視役というあの男と会って、思い知らされた。

 今まで自分は、守り手と呼ばれる人間と、正面から話したことなど、一度もなかったのだということを。

 何度も命の供与を受けながら、相手を理解しようともせず、ただ頑なに心を閉ざし続けた。その結果が今のありさまだ。貪欲な魔女と罵られても、一言も返す言葉がない。

 あの日以来、守り手との接し方を改めた。最初に名前を聞き、お互い言葉を交わすようにした。彼らは契約者に従うよう指導されているのか、こちらの言うことには従順だった。おかげで、あの監視役が再び現れることはなかった。

 そして、ようやく忘れかけていた頃、あの男は再び現れたのだ。


   †


 いつものように夕食を終えて、自室へ戻ろうと渡り廊下に出ると、そこにぼんやりと人影が見えた。空を見上げると、まだ満月には足りず、いつもよりも早い訪問に、藤璃(とうり)は少し警戒しながら近づいた。

 白づくめの男は、藤璃の気配に気づくと、ゆっくりと頭のかぶりを下ろし、その顔を露わにした。

「お久しぶりです、藤璃様。私を覚えていらっしゃいますか?」

 覚えているかと聞かれて、素直に答える気にもなれず、藤璃は不機嫌そうな顔で相手を見つめた。

「……できれば、忘れていたかったよ。いったい何の用だ」

 そっけなく答えると、男はわずかに苦笑を浮かべた。

「これは、ずいぶんと嫌われてしまったようですね」

 さして気にした様子もなく、さらりとそう言って、琳坐(りんざ)は前へ進み出た。

 月明りの元で改めて見ると、この男の容姿が驚くほど美しいことに気づく。前回来た時は、監視役らしい詰襟の服を着ていたが、今日はやけに艶美な衣服を着ている。

「……私の許可なく入るなと、言っておいたはずだが?」

 じろりと睨むと、彼は涼しい顔をしてこう言った。

「今日は監視役ではなく、守り手としてここへ来ました」

「なんだって?」

 驚く藤璃を横目で流し見して、彼が歩いていく先は、明らかに藤璃の寝室の方だった。

「守り手であれば、あなたの部屋へ入ることも、許されているのでしょう?」

あっけにとられて、その様子を見ていた藤璃だったが、こんな図々しくて傲慢な男を、部屋に入れてやる気など微塵もない。その腹立たしい背中を、睨みつけるようにして追いかける。

「ふざけるな、おまえが守り手とはどういうことだ?」

「私も能力者だということです」

「能力者が、能力者を監視しているのか」

 その言葉に、琳坐は少し思案するように首を傾げた。

「監視というのは少し語弊がありますね……私の役目は、まだ未熟な能力者たちを、この力をうまく制御できるように、見守り育てることです」

「物は言いようだな」

 彼の言葉が事実かどうかは問題ではなく、ただ、この男の言動すべてが気に入らなかった。

「帰ってくれないか。まだ命の補充は必要ない。前回からひと月も経っていないだろう?」

 すでに扉の前までたどり着いた相手に、そう抗議すると、琳坐はどこか神妙な顔つきで、こちらをじっと見つめた。

「……忘れたのですか、命の供与を受けることは、あなたの義務だと」

「だから毎回ちゃんと受け取っている。何が不満だ?」

 相手はその琥珀色の目を、わずかに細めた。

「守り手たちをどう言いくるめたのかは知りませんが……私の目は誤魔化せませんよ」

「何のことだ」

「……あなたは本来の量の、半分も受け取っていない。こんな状態では、いざというときに、あなたの命が持ちません」

 やはり、この男はただの監視役ではない。能力者でありながら、上位の役職についている時点で、普通じゃない。以前、誠珂に手を回したのもこの男ならば、本家でも相当の立場ということになる。

「……証拠はあるのか?」

「証拠?」

「私が半分の量しか受け取っていないという、証拠だよ。それとも毎回、私が守り手と何をしたのか、詳細に報告でも受けているのか。だとしたら相当な悪趣味だな」

ここまで悪態がつけるとは、自分でも驚きだと思ったが、琳坐はわずかに不機嫌な顔をしただけで、ふっと鼻で笑った。

「そんなことをする必要はありませんね。熟練した守り手なら、相手の中にある命の量を把握できますから。つまり、あなたの中に今どれだけの命が残っているのかも、分かりますよ」

 瞬間、手首を掴まれ、逃れようとしたが背後の扉にぶつかって身動きが取れなくなった。

「いい加減にしろ! 契約さえ守っていれば、おまえには関係ないことだろう」

 突然、扉が奥へ開き、後ろへ倒れそうになる。腕を掴まれ、そのまま部屋の奥へと、引きずられるように運ばれた。

「分かっていませんね……契約は、あなたの命を守ること。そのために必要な量を我々は提供しているのです。それを受け取らないということは、どう言い訳したところで、契約違反なんですよ」

 寝台の上に投げられ、琳坐の見下ろすような視線とぶつかる。その手荒なやり方に、裏切られたような怒りが沸き上がる。

「契約のためなら、何をしても許されるのか。本当におまえたちは、傲慢で礼儀知らずだな」

 こんな男の言葉を信じた自分が馬鹿だった。すべては契約のため、そのためなら何だってする。相手の尊厳など、最初から守る気などなかったのだ。

「思い通りにならないなら、力づくでやればいい。私はおまえたちに何をされようと、何を言われようと、気にしない。貪欲な魔女で結構だ。そんなことで、私の自尊心は傷ついたりしない」

 そう一方的に吐き捨てて、藤璃は固く拳を握りしめた。


「―――前回ここへ訪問した後、あなたのことを少し調べました」

 ぽつりと声が聞こえて、顔を上げると、琳坐の横顔が見えた。彼は何もしなかった。ただ黙って、こちらの気が落ち着くのを待っていた。

「……それが何だ」

「あなたのもとへ最初に派遣した守り手が、その後、まもなくして処分されていました」

 彼の言う守り手とは、珠那(しゅな)のことだ。ならば、彼が処分された理由も、知っているのだろうか。

「彼はなぜ……処分されたんだ?」

 声が震えないように注意したが、勘づかれたかも知れない。ずっと知るのが怖くて、でも知らなければならない気がした。

「許可されている以上の命を、献命者から奪取したからです」

 奪取という聞き慣れない言葉は、おそらく供与とは真逆のことを指すのだろう。

「守り手は、供与のために必要な命を、献命者から少しずつ集めています。けれど彼は、幼く未熟だったため、その力の制御が十分できなかったのです」

 分かっていたはずだ。彼らが自分に与える命は、他の誰かから奪った命だということを。

「彼が自身の限界を超えてまで、命を集めようとしたのは、おそらく……」

 忘れられない過去の記憶が蘇る。少し躊躇うように、けれど優しく唇に触れた、少年の顔を思い出す。

 あのとき、彼が私にくれた命は、彼が一生懸命集めたものだった。もしあのとき、あんなことを言わなければ、彼は死ななかったのだろうか。命の重みも知らずに、ただ早く終わらせたくて、そんな私に、ただ懸命に答えてくれただけなのに。

「そうか……ならば、制裁は受けてしかるべきだな」

 憎しみに満ちた彼の目が、ずっと苦しかった。なぜそんな目を向けられるのか、分からなくて、悲しかった。でも、ようやく分かった。ようやく、珠那のために泣くことができた。もしあのとき、彼が私を憎んでくれなければ、私はもっと自分が許せなくなっていただろう。

「その守り手の名前を教えてください」

 顔を上げると、琳坐の冷たい視線がそこにあった。

「あなたに制裁を与えた、守り手の名前です」

彼がこんな顔をするのは初めてで、藤璃は言葉を失った。

「知ってどうする気だ」

「尋問して、必要ならば処分します」

「何を言って……」

 まるで別人のような顔で、有無を言わせぬその口調に、藤璃は恐怖すら覚えた。

「我々は命を奪う存在でもあるのです。もしその人物が、あなたの命を奪っていたら、それは監視役である私の過失になります」

「おまえは自分の仲間を平気で殺すのか」

 琳坐はその冷たい顔に、うっすらと笑みを浮かべた。

 ゆっくりと近づいてくる相手に、藤璃は身動き一つできなかった。まるで蛇に睨まれた蛙のように、その手が自身の首筋を捉えたときも、藤璃は言葉一つ発することができなかった。

「私が怖いですか? もし契約という縛りがなければ、この手から、あなたの命を奪うことだってできますよ」

 そう言って、琳坐はふっと表情を緩めた。

「……少し意地が悪すぎましたね。でも知っておいて欲しかったのです。我々のこの力は、一歩使い方を間違えれば、恐ろしい脅威になるということを」

 藤璃は相手を凝視したまま、唇を噛み締めた。

「明確な悪意がなくとも、幼い子供はちょっとした嫉妬や劣等感で感情を爆発させてしまう。大事なもののために、平気で他者を傷つける。そんな子供が、大人になって、明確な意思をもってこの力を使ったとしたら、誰にも止めることはできない。だからこそ、その兆候があると判断された子供は、処分しなければなりません」

 淡々と語られるその言葉を、藤璃は何一つ理解したいとは思わなかった。

「おまえに、そんな権利はない」

「我々のことを理解してもらおうとは思っていません」

「誰であろうと、他者の命を奪ってよい理由などないと言っている」

「だから、我々を拒絶すると?」

「そうだ、私はおまえたちが大嫌いだ。人の命をモノのように扱うおまえたちが、心底嫌いだ」

「そうですか。どうあっても、我々は歩み寄れないようですね。それでも、あなたは契約者だ。契約者である以上、契約には従わなければならない」

「いい加減に……」

「いい加減、認めたらどうです? あなたの体は、すでに守り手を拒絶できない」

「―――今すぐ出ていけ!」

 腹の底から湧き上がる怒りに身を任せて、藤璃は周囲の空気を凝縮させた。

「おまえの顔など二度と見たくない!」

 本家の人間相手に、力を使えばどうなるか、考える余裕もなかった。けれど幸いにも、真空の刃はすべて無効化され、琳坐は不敵な笑みを浮かべて、そこに立っていた。

「残念ですが、そういうわけにもいきません。私がここへ来た目的を、まだ果たしていませんから」

 不意に伸びた腕に押し倒されて、天井を仰ぐ。顎を掴まれ、露わになった首筋に、噛みつかれるような感触を覚える。けれどそれは、すぐに温かくて柔らかな感触に変わり、敏感になっているその場所は、すぐに熱を帯びてじんじんと反応を始める。

 抵抗などできるはずもなかった。これは呪いなのだ。何度も何度もそこから命を注ぎ込まれた結果、自分の理性とは裏腹に、体は命を欲してしまう。そして、この男にはそれが分かっている。好きなだけ貪り食えるようにと、命を注ぎ続ける。本当に、悪魔のような男だ。私が魔女だというなら、こいつは魔女を貪り食う悪魔そのものだ。

 そうしていたのは、わずかな時間であったはずなのに、供与された命の量は、これまでの何倍もの量だった。強引なやり方への怒りとは裏腹に、空腹が満たされたことで満足している自身の体が情けなくて、心底泣きたい気分だった。


「さようなら、恣陀玖(しだく)の魔女」

 扉の方から声が聞こえた。

「もしあなたが再び同じことをしたら、また来ます。それが嫌なら、どうすればいいか、分かりますね……?」

 脅迫めいた言葉を吐いて、狡猾な悪魔は出て行った。

 初めてこの男が憎いと思った。これまで、どんなに気に食わない態度をとっていても、心のどこかで信じていたのかも知れない。信じていたからこそ、それをこんな形で裏切った相手に、どうしようもなく憎しみの感情が沸くのを止められなかった。




   【四】


 人間の体には寿命がある、それはすべての人間に平等に与えられた事実だ。

 けれどもし、その寿命を引き延ばすことができたとしたら、人間は永遠を手に入れられるのだろうか。

 少なくとも、自分の知る限り、答えは否である。なぜなら、人間の体が永遠に朽ち果てないとしても、その体に宿る心が死んでしまうからだ。

 死ぬというのは、少し語弊があるかも知れない。心には、肉体のような死はない。

 けれど、肉体が生き続ける限り、記憶という刃が、心に傷跡を残していく。深く刻まれた傷跡は、消えることなく、幾重にも重なりあって、やがて心を蝕み、醜く変形させていく。

 人間は生まれた瞬間に、肉体が死へと向かうように、心は狂気へと向かうのだ。


   †


恣陀玖(しだく)の里、ですか……?」

 初めて聞くその地名に、琳坐(りんざ)はふと顔を上げた。

 円卓の周囲では、長老たちが思い思いに意見を述べ合っていて、琳坐はいつものように、静かに耳を傾けた。

「もとは誰も住んでいない山里だったらしいが、そこに闇落ちした人間を集め、その里全体を巨大な結界で覆うそうじゃ」

「なんでまたそんなことを……そもそも、そんな巨大な結界が、本当に可能なのかね?」

「すぐには信じがたい話だが、問題はそこではない」

「その里の術者を、新たな契約者に加えてくれと言ってきた」

「なんとあつかましい……ただでさえ、今の巫女には大量の命が必要だというのに、さらに契約者を増やすなど」

「しかし、玄武からの依頼を、理由もなく断るわけにもいかん」

「面倒なことに、これは巫女自身が希望していると聞く」

「そこでだ……この契約の是非を問うために、おまえに視察に行ってもらいたい」

 その言葉と同時に、長老たちの視線が、一斉に琳坐に集まる。自分がここへ呼ばれた理由は、どうやらその依頼を断る理由を探してこい、ということらしい。

「かしこまりました」

 琳坐は礼儀正しく頭を下げて、その役目を引き受けることを了承する。

 ぐるりと円卓の周囲を見回し、自分へと向けられたいくつもの視線を受け止めてから、いつものように柔和な笑みを浮かべた。

「その里の術者が、新たな契約者としてふさわしいのかどうか、見極めてまいります」

「うむ、よい結果を期待しているぞ」

 長老たちは、そう言い残して、次々に円卓から姿を消した。最後の一人がいなくなったのを確認して、琳坐自身も円卓から己の意識体を消失させた。


 ゆっくりと目を開けて起き上がると、いつものように、迦蓮(かれん)が目覚ましの白湯を差し出してきた。

「お疲れ様です、会合はいかがでしたか?」

「……いつも通り、また面倒な仕事を押し付けられただけさ」

 白湯をすすりながら、琳坐はふうっとため息をついた。今しがたの会話を思い出しながら、これからどうするかを考える。

 結果は最初から決まっている、だとしたら視察など、形だけのもの。わざわざ自分が足を運ぶ必要もないのかもしれない。とはいえ、恣陀玖の里がどんな処なのかは興味がある。久しぶりの息抜きになるかも知れない。そんなことを考えていると、迦蓮がこちらをじっと見ている視線に気づく。

「なんだか、少し楽しそうですね」

 意外なことを言われて、琳坐は少し決まり悪そうに咳払いをした。

「明日から、しばらく遠出する。留守の間は、いつものように、子供たちをよろしく頼むよ」

「かしこまりました。よい成果をお祈りしております」

 そう言って、迦蓮は頭を下げると、静かに部屋を出て行った。

 一人になると、琳坐は再び意識を浮遊させ、いつものように、子供たちの意識に呼びかけていく。監視対象となる守り手はすでに二十名を超えた。あの子供たちを無事大人に成長させることが、今の自分の使命であり、それを終えるまでは、自分もまだ死ねない。

 おそらく、心が狂わない限り、この使命は終わらないのだろう。狂気が目覚めたときが、使命が終わるときなのだ。そして、そのときが来るのを、自分はずっと前から待ち望んでいるのだと、琳坐は知っていた。


   †


 恣陀玖の里は、玄武の東側に位置する山間の小さな村落だった。周囲は切り立つ絶壁に囲まれ、人が住むには適さない険しい山道が続く。確かにここなら、人は寄り付かないし、隔離する場所としては適しているかも知れない。

 とはいえ、この里全体を結界で覆うことなど、本当に可能なのだろうか。玄武の結界の技術は四部族随一と聞くが、これほど大きな結界はやはり聞いたことがない。

 そんなことを考えながら、周囲を探索していた琳坐は、ふと人の気配を感じて、少し離れた場所に降り立った。何やら興奮したような女性の声が聞こえる。

「ありがとうございます……あなたは息子の命の恩人です!」

「いえ、私は何もしていませんよ。息子さんの生きたいという強い意志が、闇に打ち勝ったのです」

 質素な小屋の前で、子供連れの母親と、大柄の男が会話をしている。どうやら、母親の後ろに隠れている子供が闇落ちした本人で、それを救ってくれた相手に、母親が感謝の言葉を伝えている状況のようだ。

「もしあなたが感謝したいと言うのなら、この里を作り、その子を結界で守ってくれた、藤璃(とうり)様に」

 母親は何度も頭を下げて、そして子供と一緒に立ち去って行った。二人の姿が見えなくなると、男は手慣れた様子で、小屋の中から荷物を運び出す作業を開始した。

 どうやら、この里で働いている人間のようだ。彼になら、この里の事情を聞けるかも知れないと判断し、琳坐はゆっくりと小屋の方へと近づいた。


「どちらさまですか?」

 琳坐の気配に気が付いて、男は顔を上げた。

「私はこの里を視察に来たものです」

 そう答えると、男は少し怪訝そうな顔をしてから、ああと呟いた。

「長老会から派遣された方ですね……ええと、結界の完成は、もう少し待ってもらえますか」

 何か勘違いされたようだが、あえて訂正せずに、琳坐は続けた。

「その結界の術者に会いたいのですが」

「今日は無理ですので、改めて別の日に」

 そう即答して、男は中断していた作業を開始する。その素っ気ない対応に、琳坐は少し面食らったが、彼がこちらを無視しているわけでもなさそうなので、改めて問い直す。

「それは、留守ということですか?」

 男は再び顔を上げて、なぜそんな質問をされるのか、分からないといった顔をした。

「いえ、藤璃様は館にいますが……今は潜っているので、会えませんよ」

「もぐる……?」

 琳坐が怪訝な顔をしたので、そこで初めて、相手は自分が勘違いをしていたことに気づいたようだった。

「あなたは長老会の人ではないんですね……? どうりで、いつもと雰囲気が違うわけだ」

 男は、早とちりしたことを謝罪すると、大きな声で笑って頭をかいた。

「いやあ、すみませんでした。視察なんて言うから、てっきり……」

「それで、もぐるとは?」

 琳坐が同じ質問を繰り返したので、男は慌てて笑うのを止めて、今度は考え込む仕草をした。

「ええっと……潜るっていうのは、藤璃様が自分でそう呼んでいるだけなんですが……つまり、数日間、昏睡状態になることです」

「昏睡状態?」

「はい、その間は、誰も近づけません。もし音を立てて邪魔でもしたら、そりゃもう、大目玉ですよ」

 その大目玉をくらったことがあるのか、男は思い出したように身震いした。

「その昏睡状態というのは、この里の結界と、何か関係があるのですか?」

 琳坐が矢継ぎ早に質問をしてくるので、男はさすがに違和感に気づいたのか、改めて探るような視線を向けた。

「……あなたはいったい誰ですか? 視察に来たと言ったが、長老会の人でないなら、どこから来たのです?」

 先ほどとは明らかに違う態度で、こちらを警戒している。琳坐は適当に誤魔化すべきか迷ったが、彼にはいろいろと教えてもらう必要があると判断し、可能な範囲で真実を伝えることにした。

「恣陀玖の里に巨大な結界を張るという噂を聞きまして、その真偽を確かめてくるようにと依頼されました。依頼主については、お答えすることはできません。私の素性も、同じくお答えできません」

 男はじっとこちらを見ていたが、それ以上は聞いてはこなかった。

「分かりました……あなたは悪い人には見えないし、闇の気配も感じません。それに、こんな危険な場所にまで視察に来るなんて、よほどの理由があるのでしょう」

 ここを危険な場所と呼ぶ理由は、先ほどの少年の他にも、闇落ちした人間が収容されている、ということだろうか。

「それで、何を聞きたいのでしたっけ……?」

「昏睡状態と結界の関係について、です」

「ああ、そうでした。まずは結界について、説明しますね……」

 と言っても、自分も藤璃様からの受け売りですけどね、と男は前置きした。

 彼の話を要約すると、そもそも結界を張るには、その対象範囲を何らかの方法で認識する必要があるのだという。通常は視覚がその役目を果たしているが、里全体を覆うような巨大な結界を張るには、視覚を超えた何らかの方法が必要となる。

 藤璃という人間には、先見(さきみ)という特殊な能力があり、視覚を遠く離れた場所にまで広げることが可能で、彼女はその力を使って、この里全体を自身の意識下に収めようとしている。けれど、そのためには、長時間にわたる集中力が必要で、結果、昏睡状態に入るということだった。

「……それで、次に目覚めるのはいつですか?」

「それが分からないんです……毎回少しずつ潜る日数が増えていて……このままだと、藤璃様の体力が先に尽きてしまいそうで、心配なんです」

 昏睡状態となると、その間は食事は取れない。日数が増えれば増えるほど、体にかかる負担は大きくなり、体力が落ちていくのは必然だった。

 そこまでして、この里に結界を張る目的は何なのか。本人に直接聞くことができない以上、周囲の状況から推測するしかない。

「そうですか……ではあなたに、この里の案内をお願いしてもよいでしょうか?」

 男は少し驚いたようにこちらを見たが、自分なんかでよければと、快くその役目を引き受けてくれた。


 彼の名前は瀬斗(せと)といい、この里の主である藤璃のもとで、住み込みで働いているとのことだった。里に運ばれてきた患者を受け入れたり、先ほどの少年のように、無事帰っていく人たちを見送るのが、主な仕事だという。

 里の内部は予想以上に広く、木々や段差が入り組んでいた。その迷路のような道を、彼はすいすいと進んでいくので、琳坐はついていくのがやっとだった。力を使って浮遊してしまえば楽だったが、それでは話を聞くことができない。

「ここは人が住むには適さない場所ですね」

「はい、だから隔離するのに適しているんです。こんな険しい谷間に、誰も住み着こうとはしませんからね」

 かつてここは、恣陀玖(しだく)の谷と呼ばれていたという。闇落ちした人間を隔離するため、谷の斜面を削り、そのわずかな平地に小屋を建てた。やがて幾つもの小屋が谷間に点在するようになり、やがて隔離の里と呼ばれるようになった。

「あなたはなぜ、この里に?」

「俺も藤璃様に命を救われた人間の一人なんですよ。だから、俺の残りの人生は、すべて藤璃様のために使うと決めているんです」

 瀬斗は何の躊躇いもなく、そう答えた。それから、谷間に点在するいくつもの小屋を、琳坐に見せるように指し示した。

「この里にある小屋は、すべて藤璃様の結界で守られています。だから闇落ちした人間も、ここでは生き続けることができる」

 この里は患者を隔離するための場所ではなく、守るための場所なのだと、彼は言った。

 闇落ちした人間を守る……そのために、この里を作ったというのか。そのために、昏睡状態になってまで、結界を張ろうというのか。

 そのことについて、瀬斗に問うと、彼は嬉しそうに頷いた。

「藤璃様は、他宇良(たうら)様のために、この里を作ったんですよ」

「……巫女のために?」

 そういえば、長老の誰かが、今回の契約の申し出は、巫女自らの希望だと言っていたのを思い出す。藤璃が巫女と直接の知人であり、この契約に個人的な事情が含まれているとしたら、それは正当な理由だと言えるだろうか。

「お二人どういう関係だったのですか?」

「藤璃様と他宇良様は……それと誠珂(せいか)様も……今は親方様ですけど、三人は昔からのご学友でした。よく三人でここへいらしてました。今はそれぞれ立場があって、滅多に会えなくなってしまいましたが」

 瀬斗は懐かしそうに、過去の光景を思い浮かべているようだった。

「この里は巫女のために作ったと言いましたね? それはつまり、闇落ちした人間をこの里に隔離することで、巫女への負担を軽くするためですか?」

「そうですね、それもありますが、これはお二人の約束なんだと言っていました」

「約束……?」

「助けられる命を、最後まで守れる世界を作ろうと。それが二人の約束なんだと」

 それがどんな世界なのか、琳坐には分からなかった。仮にそんな世界があったとして、それにどんな意味があるのかさえも。

 そもそも守るとは、誰を守るのか。助けられる命とは、誰のことなのか。闇に落ちた人間を救うよりも、その被害が拡大する前に、闇を祓うべきではないのか。何かが根本的に間違っているような気がして、琳坐はその違和感を、思わず口にした。

「巫女の負担を減らすためなら、むしろ闇落ちした人間は、即刻処分すべきなのではありませんか?」


 不意に、瀬斗が立ち止まって、険しい表情で振り返った。

 彼の視線の先には、これまでと同じような小屋が立っていたが、明らかにその周囲の様子が異なる。どす黒い瘴気が、屋根や窓の隙間から漏れ出して、周囲の地面を黒く染め始めていた。

「これはまずいな……」

 瀬斗が小さく呟くのが聞こえた。

「あの瘴気は?」

「闇落ちした人のものです……結界で閉じ込めていたのですが、その結界が弱まったせいで、外に溢れ出ている」

 自分の手には負えないと判断したのか、瀬斗は琳坐の方を振り返ると、切羽詰まった顔で告げた。

「ここは危険ですので、できるだけ早く逃げてください」

 逃げろという言葉に、琳坐は従う気にはなれなかった。闇落ちした人間がいる限り、この瘴気は溢れ続ける。今すべきは、一刻も早く、小屋の中にいる人間を処分することだ。

「逃げる必要はありませんよ。私が処分しましょう」

 小屋へ向かおうとする琳坐を、瀬斗が必死で引き止める。

「いけません! そんなことをしたら……」

 そのとき、不意に強い風が吹いて、周囲の空気をいっきに巻き上げた。

 荒々しい空気の流れに吹き飛ばされそうになりながら、琳坐が周囲を見回すと、その流れの中心に、長い髪をなびかせた人影が現れた。

「藤璃様……!」

 瀬斗が叫び、駆け寄ると、その人影はその場に崩れ落ちるように膝をついた。

「浮上した直後に転移するなんて、無茶です!」

 体を支えられなければ、立っていることもままならい状態で、その人間は必死で何かをしようとしている。

「……もっと近くまで連れていけ」

 苦しげな声が聞こえた。瀬斗は言われた通りに、彼女の体を抱き上げると、瘴気の渦巻く方へと歩みを進めた。

 それ以上、瘴気に近づけば命が持たないと、琳坐が止めようとした瞬間、瘴気のうねりがやみ、辺りに充満していた闇が何かに吸い込まれるように、一瞬で消え失せた。

 いったい何が起きたのか、それを確かめようと近づいていくと、瀬斗の泣きそうな声が聞こえた。

「藤璃様、藤璃様……しっかりしてください……」

 彼の腕に中には、完全に意識を失った状態の、藤璃その人がいた。

 長い黒髪の間から見えるその顔は、ひどく青白く、生気がない。昏睡状態から一気に覚醒し、すぐさま転移したというのか。ここまで体力を消耗していながら、先ほど彼女が発動した結界は、一瞬で周囲の闇を消失させた。

「私は藤璃様を館まで運びますので……これで失礼します」

 そう言って、立ち去ろうとする瀬斗の背中に向かって、琳坐は鋭く尋ねた。

「なぜ処分しなかったのですか」

 彼は立ち止まったが、振り返ることはせずに、静かに答えた。

「まだ生きているからですよ……あの瘴気は、まだ生きているという証です」

「自身の命を削ってまで、こんなことをする意味があるのですか」

「……意味があるかは分かりません。でも藤璃様ならきっと……命あるかぎり、人は生きるべきだと、そう言いますよ」

 そう言い残して、彼は立ち去って行った。


 命あるかぎり生きるべき……それがたとえ、世界をおびやかす存在であっても、生きるべきだというのだろうか。その存在のせいで、多くの命が奪われることになっても、まだ生きるべきだというのだろうか。

 これまで何人もの守り手が処分されるのを見てきた。この与奪の力は、一歩使い方を間違えれば、人間の脅威になり得るものだ。だからこそ、その脅威を取り除くことは、当然のことだと思っていた。

 けれど、それを完全に否定する人間がいる。彼女の行為は、これまでの私たちの行為をすべて否定するもので、それはつまり白虎の掟に反するものだ。

 そんな人間を契約の対象者に加えるなど、長老たちが認めるわけがない。この事実を伝えれば、確実に却下されるだろう。

(だったらなぜ……私は何を迷っている?)

 もし結界が完成すれば、あの人間は今よりも大量の命を削り続けることになる。そしておそらく、そう長くは生きられないだろう。けれどそれは彼女自身の選択であって、他人がどうこういう問題ではない。

 琳坐はゆっくりと目を閉じた。

 白虎の新たな契約者として、その是非を見極めること―――それが自分に与えられた役目だ。だから迷う必要はない。彼女の命が、世界の維持に不可欠か、ただそれだけだ。


   †


―――恣陀玖の里の術者を、新たな契約者として認めます。

 長老会から最終的な回答が伝えらえると、様々な方面からの問い合わせや苦情が、琳坐のもとへ殺到した。

「この契約は、白虎にとってどんな利益があるのですか?」

「巫女でもない人間が、契約者としてふさわしいとは思えません」

「守り手の負担を増やしてまで、守るべき対象なのですか?」

 けれど琳坐は、それらに対して一切の回答を行わず、沈黙を守り通した。それが、最長老からの指示だったからだ。

『恣陀玖の里を結界で守ること、およびその維持は、現在の玄武の巫女の負担を軽減するのに極めて重要であり、ひいては白虎を守ることになると考えます』

 円卓の場で、琳坐がそう報告を締めくくると、誰もが無言のまま、最長老の決断を待つように頭を下げた。彼は滅多に姿を現さない人だったが、だからこそ、彼が姿を見せたときは、誰も意見することはしないのだ。

「おまえがそう判断したのなら、そうするがよかろう」

 彼は一言、そう言っただけだった。その場にいた誰もが、息をのんで、その言葉に驚愕したに違いない。

「ただし、その理由については、いっさい他言無用じゃ」

 そう付け加えて、彼の意識は、円卓の場から消失した。


   †


「……本当に、これでよろしかったのですか?」

 迦蓮にそう問われて、琳坐は少し困ったように笑った。

「あなたまで、そんなことを言うのかい? それじゃあまるで、私が自分の決断に、後悔しているみたいじゃないか」

 冗談交じりにそう返すと、迦蓮は小さく笑って首を傾げた。

「後悔というか……どこか悲しんでいるように見えたので」

 その意外な答えに、今度は本当に困ったように苦笑した。

「まいったな、自分の心は、自分でも分からないと言うが……確かに私は悲しいのかも知れない」

 そう言って、遠い未来を見つめるように、目を閉じる。

「私はいつか、あの術者に恨まれる気がするよ。死ぬことも許されず、誰かのために生き続けなければならない苦しみを、あの人間にも背負わせてしまったからね」

 姿を見たのも、声を聞いたのも、一度きりだった。どんな人間なのかも知らないし、相手は自分のことも知らない。それなのに、なぜこんな気持ちになるのか、不思議なものだと琳坐は思った。

「あなたにとって、生きることは、それほど苦しいのですね」

「生きることが苦しくない人間など、いやしない……私はただ、それが長すぎただけだよ」

 もしこの先、彼女に会うようなことがあったなら、聞いてみたい。こんな自分でも、命あるかぎり、生きるべきなのかと。




   【五】


 他宇良(たうら)の命がまもなく消える―――その未来を知ったのは、いつだったろうか。

 先見(さきみ)の能力は、訪れる未来を見せてはくれるが、それがいつなのかは教えてくれない。だから、それを知ったときも、それほど驚きはしなかった。いつか必ず訪れる未来だと、分かっていたから。

 けれどそれが、こんなにも早く訪れるとは、思ってもみなかった……


 誠珂(せいか)縞稀(しまき)を破門にしたと聞いたとき、予感はしていた。

 あのとき、すでに終わりが始まっていたのだ。

 けれど自分は信じようとしなかった。信じたくなかったのだ。避けられないはずの未来なのに、そんな未来はずっと来ないと、信じていたかった……


「藤璃様、藤璃様……お願いです、目を覚ましてください」

 誰かが自分を呼んでいる……この声は瀬斗(せと)だ。大男のくせに、すぐに泣く癖は治らないみたいだ。彼にはいつも、心配ばかりかけてしまった。


 意識が浮上しては遠のく。もうあまり時間が残っていないのかも知れない。


 最後の記憶がはっきりしない。

 誠珂の計画は成功したのだろうか。縞稀は無事、夜久羅(やくら)様の破魔(はま)を受け継いだのだろうか……

 ああ、そうだ、新しい巫女が誕生したのだ。

 もう他宇良も誠珂もいない。私たちの時代は終わったのだ。


 ―――闇に落ちた人を、一人でも多く救えるようになりたいの

 あのときの、希望に満ちた瞳を思い出す。

 ―――だったら、私たちの手で、そんな世界を作ろう

 そう約束したのは、いつだったろうか。

 この里は、おまえと私が望んだ世界だ。途中で誠珂が加わったのは、私としては本意ではなかったが、あいつはおまえのことをとても大切にしていたし、何よりおまえが嬉しそうだったから、同志として認めてやることにした。

 だからここは、私たち三人で作り上げた世界なんだ。この場所は、私たちの始まりの場所であり、いつでも帰れる場所だ。そう願って守り続けてきたのに、おまえがいなくなってしまったら、それでも守り続ける意味があるのだろうか。

 教えてくれ、他宇良―――

 私も、おまえたちのところへいって、いいか……?


「藤璃様……!」

 瀬斗の呼びかける声に、再び意識が浮上する。

「お願いですから、まだ逝かないでください」

 そんな声で泣くな。いつも私の我儘に付き合わせてばかりですまないが、これで最後だから……そう言おうとして、わずかに唇を動かそうとした瞬間、

「―――本当に、自分勝手な人ですね」

 一瞬、その声が幻聴なのかと思ったが、その後に続く言葉に、一気に現実に引き戻される。

「私があなたを死なせると思っているのですか?」


   †


 なぜ、この男がここにいる……?

 朦朧とした意識の中で、かつて自分を裏切った男の顔が、ぼんやりと浮かび上がる。あれから一度だって姿を見せなかったくせに、なぜ今頃になって現れるのか。

「何しに来た……? 二度とその顔を見せるなと言ったはずだ」

 苦しい呼吸の合間をぬって、必死にそう抗議すると、相手は皮肉交じりに答えた。

「そんな口がきけるなら、まだ大丈夫そうですね」

 余裕の笑みでも浮かべているのかと思えば、意外にも真面目な顔でこちらを見ている。

「あまり時間がないので、こちらのやり方で供与します。しばらく、部屋には誰も入れないでください」

「分かりました……お願いします」

 瀬斗の震える声が聞こえ、部屋の扉が閉まる音が響く。

 素早く琳坐の腕が伸びて、衣服を脱がす気配がする。相手が何をしようとしているのかは見当がついたが、もはや抵抗する力などなかった。それでも、最後の力を振り絞って、その手が顔に触れたとき、必死で払いのけた。

「……お願いだ、やめてくれないか……私にはこれ以上、生きる理由がない」

 少しの間、動きが止まり、それから彼は言った。

「命あるかぎり、生きるべきだと……そう言ったのは、あなたではないのですか?」

「……この命は、私のものではない」

「いいえ、あなたのものですよ」

 彼は即答した。

「私があなたに与えるのですから、これはまぎれもなく、あなたのものです」

 そう言って、その手が触れた場所から、温かな命が流れ始める。

 どくりと心臓が鼓動を始め、首筋から、胸から、背中から、全身が命に包まれているような感覚に陥る。その温もりに溺れそうになりながら、藤璃は遠い先の未来の、あり得ない光景を見つめた。

「なぜ……」

 なぜ、この期に及んで、未来など見せるのか―――

「……あなたは私を許さないでしょうね」

 とめどなく流れ続ける、命の抱擁を受けながら、その声が聞こえた。

「それでも、あなたには生き続けてもらいます。そしていつか、私が狂ったら……あなたの手で、私を殺してください」


   †


 遠くで扉が閉まる音が聞こえて、瀬斗は思わず廊下へ飛び出した。

 ゆっくりとこちらへ歩いてくる人影を捉えると、急いで走り寄って声をかける。すぐに琳坐の落ち着いた声が聞こえた。

「もう大丈夫ですよ。当面は命の補充は必要ないでしょう」

 瀬斗は安堵の息を吐き出してから、深く頭を下げた。

 藤璃の危機を琳坐に知らせたのは、瀬斗だった。かつて藤璃の怒りを買い、里への出入りを禁止された琳坐だったが、その後も瀬斗は、内密に彼と連絡を取り合っていた。

「本当に、感謝の言葉もありません……今回ばかりは、もうダメかと思いました」

 泣きそうになる瀬斗の肩に手を置いて、琳坐は優しく声をかけた。

「あなたがずっと、彼女の名前を呼び続けてくれたおかげですよ。私はこれで帰りますが、今回のことはどうか内密に」

 そう言って、そのまま出ていこうとする琳坐に、瀬斗は思わず声をかけた。

「よいのですか? 藤璃様が目覚めるのを待たなくても……」

 琳坐は足を止め、それから振り返って、わずかに苦笑を浮かべた。

「むしろ、いない方がよいのです。目覚めたときに私がいると、きっと気分を害されるでしょうから」

 それから、思い出したように、最後に付け加えた。

「それと、ここへ来るのは、最後になるかも知れませんから、お別れのご挨拶をしておきます」

 どういう意味かと尋ねようとしたが、すでに琳坐の姿はそこにはなかった。


   †


 玄武の新たな巫女が、久沙戯(くさぎ)を守り手として指名し、連理の契りを結んだという知らせが琳坐のもとへ届いたのは、それから間もなくしてからだった。

 円卓の間では、長老たちがざわめきだっていたが、琳坐はいつものように静かに彼らの言葉に耳を傾けていた。

「先代の巫女を死なせた守り手と連理の契りを結ぶなど……いったい何を考えているのか」

「あれは忌み子だ、さっさと始末すべきだったのに」

「まったくだ、なぜあのような者が生き残ったのか……」

「琳坐、おまえの監視役としての責任が問われてもおかしくないぞ」

 いきなり名指しされ、琳坐は閉じていた目を開き、自分に集まる視線を静かに受け止めた。

「彼は優秀な守り手ですよ。皆さまが心配なさるようなことは、何一つございません」

 いつものように穏やかな笑みを浮かべて、頭を下げると、不意に遠くから叫び声が聞こえた。いったい何事かと顔を上げると、長老の一人が息も荒々しく円卓の間に飛び込んできた。

「琳坐、おまえ、恣陀玖(しだく)の魔女に何をした?」

 その場にいた誰もが、驚いてこちらを見ている。

 琳坐は沈黙したまま、その後に続く言葉を待った。彼女が自分を契約違反として告発してくるであろうことは予想していたし、その覚悟もできている。

「あの魔女が……おまえを守り手に指名すると言ってきたぞ」

 一斉に驚きと非難の声が上がり、その場は騒然となった。

 こともあろうか、監視役を守り手に指名するなどあり得ない、非常識にも程がある、そんな指名は無効だと、無数の声が飛び交う中、琳坐は一言も言葉を発することなく、円卓の間から意識を消失させた。

 長老たちの驚きはもっともだったが、けれど誰よりも驚いているのは、琳坐自身だった。

 いったいこれはどういうことなのか。あの人が自分を指名することなどあり得ない。そもそも、この契約はいったい誰が……

 事の真偽を確かめる必要があると判断し、琳坐はすぐに恣陀玖の里へ向かうことにした。

 もう二度とあの場所へ戻ることはないと覚悟して、別れを告げてきたのに、こんなにも早く戻ることになろうとは、本当に、なんという茶番だろう。


   †


「―――何を驚いた顔をしている?」

 意外にも、彼女の反応は、いたって冷静だった。

 突然の訪問に、すぐさま追い返されるかと覚悟したが、そんな気配はまったく感じられなかった。里の結界は簡単に素通りできたし、館の入口には瀬斗が待機していて、ここまで案内さえしてくれた。

「驚いているのは本当ですよ。これは、いったい何の茶番です?」

 そう切り返すと、藤璃は少し不機嫌そうな顔をして、こちらを睨んだ。

「茶番はどちらか。言っておくが、私はおまえのしたことを許したわけではないし、気に入らないことには変わりがない」

「では、気に入らない私をどうして守り手に?」

「その質問に答える前に、聞きたいことがある」

 そう言って、藤璃はゆっくりと琳坐の方へと近づき、手が届く直前の距離で、その足を止めた。

「あのとき、なぜ私に命を与えた?」

 その声が、あまりに低く響いたので、琳坐は一瞬言葉を失った。その質問の意図を探るように、無言のまま相手を見つめ返す。

「では言い方を変えよう―――あのとき、すでに他宇良の命は消えていた。つまり、彼女が依頼した契約は、無効だったはずだ」

 その強く鋭い眼差しに、彼女が怒っているのだと分かる。

「つまり、おまえのしたことは、契約対象者以外への命の供与だ。それは守り手にとって重罪ではないのか」

「……その通りですよ。このことが知られれば、私は処分されますね」

「その危険を承知で、なぜあんなことをしたのかと聞いている」

 そんなことを聞いてどうするのか、という疑問と同時に、その問いかけが、すべての答えなのだと気づく。

「なるほど……だからあなたは、新たな巫女に、再びこの契約を結ばせたのですね? 私を守り手に指名したのは、私を守るためですか?」

 今度は、藤璃が言葉を失って黙り込んだ。

「私を守っていただく必要などありませんよ。私が気に入らないなら、契約違反として告発すればいい。私の顔は二度と見たくないのでしょう?」

 皮肉を込めてそう言うと、藤璃はさらに鋭い視線でこちらを睨んだ。

「本当におまえは、気に食わないやつだな」

 そう吐き捨てて、彼女は机の上から、一枚の紙を手に取った。

「私がおまえを守り手にしたのは、別におまえを守るためじゃない」

 琳坐の前まで来ると、それを差し出す。

「何ですか、これは?」

「おまえを守り手にするための条件だ」

 目の前に差し出された紙を手に取ると、そこにいくつかの文字が書かれていた。


 一つ、結界内への侵入は、月に一度だけ許可する

 一つ、命の供与は、結界の維持に必要な量に限定する

 一つ、供与にあたり、不必要な接触を一切禁じる


「どうした? おまえが言葉が出ないほど驚くなんて意外だな」

 その挑発的な言葉に、琳坐は思わず相手を睨み返した。

「……私を脅す気ですか? 私が本気になれば、こんな条件はすべて意味がありませんよ」

「そうかもな、でもおまえはこれに従うはずだ」

「なぜそう思うのです?」

 その問いには答えずに、藤璃はゆっくりと腕を伸ばし、琳坐の顔に触れた。

 不要な接触を禁じると言っておきながら、わざと挑発するような行為に、琳坐は苛立ちを感じつつも、その手を払いのけることもできなかった。

「おまえは、私に生き続けてもらわないと困るのだろう?」

 何の言葉も返さない相手の顔を見つめ、藤璃はそれが肯定であることを確認する。

「その条件に従うのなら、おまえの望みを叶えてやる」

 これはお互いの利害が一致した取引だと藤璃が付け加えると、琳坐は冷ややかな笑みを浮かべて答えた。

「本当に……あなたほど狡猾な魔女は、見たことがありませんよ」


   †


 お客様がいらっしゃいました、という迦蓮(かれん)の声が遠くで聞こえて、琳坐(りんざ)はゆっくりと目を覚ました。

 身を横たえていた長椅子から起き上がろうとすると、すぐ近くで音がして、とりあえず頭だけ振り返ると、そこには久しぶりに見る青年の姿があった。

「珍しいですね……あなたがそんなふうに、ふさぎ込んでいるなんて」

 相変わらず表情の分かりづらい顔でそう言って、久沙戯(くさぎ)はゆっくりと会釈をした。

「……そう見えるかい?」

 琳坐は苦笑しながら、片腕で上半身を支えるように起き上がると、急に眩暈に襲われて、もう片方の手で頭を押さえ込んだ。

「皆が恐れる監視役とは思えぬほど、情けない姿に見えますね」

「おまえも容赦なく言うようになったね。小さい頃は、いつも私の後をついて回って、可愛かったのに」

 そんな他愛のない会話をしながら、琳坐は少しずつ呼吸を整えていく。せっかくの嬉しい来客だというのに、ふさぎ込んでなどいられなかった。

「おまえとこうして、また話ができることを、嬉しく思うよ」

 ほんの少し前まで、生きることを放棄していた彼を、琳坐はなすすべもなく、見ていることしかできなかった。彼の心に深く残った傷跡を、癒すことができるのは、生きることに希望を失っていない人間だけだからだ。

「おまえをそんなふうに変えた相手は、誰なんだろうね」

 意味ありげに視線を向けてみたが、久沙戯は無表情のまま何も答えなかった。その代わりなのか、思わぬ応酬をしてきた。

「……そう言えば、恣陀玖の魔女の守り手になったとか」

 さすがに手痛いところを突かれて、琳坐も苦笑する。

「長老たちからは、前代未聞だと言われたよ」

「でもあなたは断らなかったのでしょう?」

「いろいろ事情があってね……あの魔女は私を脅迫しようとしたんだよ。この私を脅そうなんて、まったく身の程知らずもいいところだ」

 そう言って、ため息をつくと、珍しく久沙戯がくすりと笑った。

「……ずいぶんと、楽しそうではありませんか」

 その反応が妙に気に食わなくて、琳坐は不満げに相手を見る。

「そういえば、おまえも大概、身の程知らずだったな」

「最長老を恐れないあなたに、言われたくはないですよ」

 そう切り返す相手に、まったくいつから、こんなにも口が悪くなったのかと、自分のことは完全に棚に上げて、琳坐は愚痴をこぼした。

「おまえは私を何だと思っているんだ。私はいつだって、目上の人には、最大限の敬意をはらっているよ」

 だからおまえも、もう少し私に敬意をはらうべきだと、そう付け加えると、久沙戯はいつもの分かりづらい表情で、じっとこちらを見ている。

「……あなたの方こそ、そんなふうに変わったのは、誰のためですか?」

 一瞬言葉を失い、それから大きくため息を吐いた。

「おまえ……本当に、言うようになったね」

 琳坐はそう答えて、彼の毒舌は自分のせいかも知れないと、少しだけ反省をした。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ