3-12 第五皇子は憎まない
「嫌、いやよ、お兄様、どうして?」
舞い上がった光の粒を、一粒たりとも逃したくなくてかき抱くも、手元には何も残らない。
優しいお兄様。同じ人生を歩むことはできなくても、友人として支えあうことは出来たはずなのに。
否、もっと前の段階で駆け落ちを提案してくれたら、私はお兄様とこの国を抜け出したのに。
なんて、光の魔術の大きさに苦しんでいた私に、そんな余裕がある筈もなく。その間にあっけなくお兄様への恋心を失った私が今更何を言おうとも、薄情で図々しい小娘の戯言でしかないと言うのに。
それでも涙が止まらない。
胸の中に大きく穴が空いたみたいに。人生の大切な時間を共に過ごした人がこの世のどこにも存在しない。それはあまりも受け入れ難い喪失で。
全て私のせいだというのに。
『そうだな、全てお前のせいだ』
サクラ様の存在を押しのけるように何かが、私の頭の中から声を響かせた。瞬間、目の前が黒く染まった。
「リーチェ!」
最後に耳に届いた言葉は一体誰のものだったのか、もうわからない。
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幼い第五皇子にとって皇后陛下の第三子という身分は、兄が皇太子である限り安泰であった筈だと、今となっては意味のないことを時々考える。
「クリストファー殿下。今日から貴方は私の息子です」
母の生家であるシャルル侯爵家では無く、何の関係性もなかったイフグリード侯爵家から迎えが来たのは、先帝の息子に力を持たせないための皇帝の策略か、もしくは唐突に皇位簒奪を行った皇帝に対する中立派の牽制か。
いずれにせよ、示される道以外に進むことは許されないと、クリストファーは理解していた。
皇子殿下、と跪いていた者たちが一様にいなくなった時に感じた異変は、母と兄達が血の海に沈むのを目の当たりにした時点で確信に変わった。凄惨な光景にトラウマを覚えるには幼すぎたが、それでもなお彼の人生に影を落とすには十分な光景でもあった。
クリストファーにとって幸いだったのは、イフグリード侯爵の善性だ。皇位は狙えず、しかしながら皇帝に警戒され続ける、先帝の皇子という政治的には利用しにくい立場のクリストファーを、実の息子と分け隔てなく育てた。
フローレンス伯爵家を婚約相手に選んだことも、クリストファーの人生にとって最良だと考えてのことだろう。
皇帝派でありながら中立寄り。政治的ポジションは重要でないが、豊かな領地と太い人脈。善良な義父にやり手の義母。歴史的にも光の魔術師を輩出した由緒正しき領地である。
イフグリード侯爵にとっても親戚に当たるかの家との婚約は、間違いなくイフグリード侯爵の好意による縁組だ。
最も、そのことに気がついたのはリーチェとの顔合わせから随分経ってからのことだが。
「リーチェ、従兄弟のクリストファー様だよ」
「クリストファーさま?」
初めてその少女を見た時は、天使みたいだと、漠然と思った。ツンと上向いた小さな鼻も、ふっくらとした桜色の頬も、金色のまつ毛に縁取られた空色の大きな瞳も。何より太陽の光を受けて輝く金髪が、昔絵本で見た天使そのもので感嘆のため息をついた。
小さな紅葉のような手を伸ばす彼女にしゃがんで見せれば、ふわりと優しく触れられた。その手が温かくて、なんだか泣きたくなる。この小さなお姫様と仲良くなりたくて、精一杯優しく微笑んだ。
「リーチェ、僕のプリンセス。お兄様と遊んでくれるかい?」
「うふふ、お兄さまって、おうじさまみたいね」
その言葉に何故か気持ちが沈む。失った地位は少女にとって魅力的なものだったのだろうか。
「......リーチェは王子様が好き?」
「ううん、私はお父さまが好き!」
年相応の少女らしい笑顔に、釣られて笑顔を返す。
「そっか......うん。フローレンス伯爵は素敵な人だものね」
娘の言葉に思わず相好を崩すフローレンス伯爵も、楽しそうに声を上げて笑うイフグリード侯爵様も皆幸せそうで、いつまでもこのひだまりの中にいたいと願った。
それから頻繁に彼女の元へ顔を出した。イフグリード侯爵が忙しい時はメイドに連れてきてもらった。体の弱いリーチェは年齢の近い遊び相手がいないらしく、クリストファーが顔を出すと花が溢れるような笑顔で喜んだ。
「私、お兄様と遊んでる時が一番幸せよ。毎日お会いできたらいいのに」
そう唇を尖らせ、必要とされるたびに心が潤う。特に王宮で意味を感じない勉強をした後は、一層。
「クリストファー様、今日はご機嫌ですね」
王宮の図書室に寄ると、いつもの司書に親しげに声をかけられた。最近配属されたという彼は、かつての惨劇も知らなければ、クリストファーの難しい立場も知らない。
どこかの重臣の子どもだと思っている。その気楽な関係性が心地よく、クリストファーもよくお喋りに付き合っていた。
「ダニエルも恋人ができれば僕の気持ちがわかるよ」
「ははークリストファー様は、私の何歩も先の人生を歩んでおられますね」
死んだ魚のような目の司書に「婚約者ですか?」と聞かれ「たぶん。ゆくゆくは」と答える。
リーチェが強く拒否しない限りはそうなるだろう。
「ダニエルは恋人がいないのか?」
「ふふふふふふ、ダニエルの恋人は本なのですよ」
「ふうん?じゃあこの職場は天職だな」
思ったままにそう返せば、司書にそのままでいて下さいねと頭を撫でられた。今の身分でも不敬だと思うが、この気安い関係を手放したくは無いし、何よりも手の温かさが気持ちよくて。されるがままにしておいた。
幼少期に親兄弟を目の前で殺されて、その仇に利用される形で生かされている現状は、側からみれば不遇だろうが、クリストファー本人からすればそれなりに満ち足りた幼少期であった。
その幸福な幼少期は年と共に強くなるリーチェの魔力によって、徐々に脅かされることとなる。
「クリス様、どうされましたか?」
リーチェが今までに無く苦しみ出した時、自分にも何かできることは無いかと王宮図書館へ来た。
「僕の大切な人が、死んでしまうかもしれないぐらい苦しんでいるんだ」
ダニエルは目を見開いて、震えるクリストファーの肩を抱いた。
「ホットミルクでも飲みますか?」
そんなことをしている場合じゃ無いというのに。優しいダニエルの言葉に焦れて首を横に振る。
「いいえ、こんな時こそ平常心です。クリス様、落ち着いてお話しください」
背も伸びて、視線もそう変わらなくなったというのに、幼い頃から変わらない。
ダニエルのそのこども扱いに、ふと力が抜けた。
促されるまま司書室に腰掛け、出されるホットミルクに口をつける。授業が厳しくて泣いていた時に、ダニエルが出してくれた蜂蜜入りのホットミルク。変わらない味にふと涙が溢れた。
事情を説明する間も、優しい瞳のまま話を聞いてくれる。最後まで話し終えた彼は、一度頷くと司書室の奥にある部屋の鍵を開けた。
「ここは?」
「禁書の収められた書庫です。婚約者のお嬢様の症状は、表に出ている本には載っていないでしょう。バレると首が飛ぶので内緒ですよ」
王家の者しか立ち入ることが出来ないという。厳密に言えばその資格はクリストファーにもあるが、陛下は許さない。バレればまず間違いなくダニエルは職を失うだろう。
礼を告げてそれらしい書物を取り出していく。ダニエルからもいくつか本を手渡されてそれらを持ち出した。
何かリーチェが回復する手掛かりになればと連日本に目を通していたクリストファーに、無情にもその知らせは届いた。