2-32 唐突な展開はついていけないもので
茶髪に茶眼の整った顔立ちをした少年、クリストファーは、水に濡れたリーチェを横抱きに抱え保健室のベッドへと運び込んだ。
頬に張り付いた細い金髪をそっと手で払い、風の魔術で乾かすと、不快そうに眉間に皺を寄せていたリーチェの表情が緩む。
ベッド脇のチェアに腰掛け、足を組んで何事かを考え込むクリストファーの顔は険しい。
大切な従姉妹があと一歩のところで溺死しかけたのだから無理もないだろうが。
「クリス様、リーチェの様子は?」
そっと、人目を避けるように入ってきたローズは、心配そうにリーチェの顔を覗き込んだ。
「生きてはいる」
「......そう、ですか。良かった」
「何が良かったんだ。何故リーチェが殺されなければいけない。光の魔術師だぞ。守られるべき存在だ。あの皇子は何を考えている」
怒りを隠しきれずにローズを見据えるクリストファーの表情は、とても愛しい人に向けるものではなかった。
「リーチェが心配で視察を早めに切り上げて帰ってきたが......。こんな形で君と決別したくはなかったよ」
「クリス様......」
悲しげに表情を揺らした後、瞬きをした彼は既に決意のこもった目をしていた。
「イフグリード侯爵家は身内であるリーチェの味方だ。学園にいては危険が多すぎる。国内もだ。俺はリーチェを連れて国外へ出る」
「しかしそれは、皇家への反逆ととられかねません」
「そうはならないさ。先に光の魔術師を傷つけたのは皇家だ、ローズ、友人として、何よりも君をリーチェの大切な人と見込んで頼む。どうか国外への脱出に力を貸してくれ」
「私は、できません。リーチェのことは可愛い。大切です。それでも殿下を裏切ることは、私にはできない」
しばらくの沈黙が場に落ちる。感情の読み取れないクリストファーの視線を避けるように、ローズは寝ているリーチェへと寄り添い、その手をとった。
「んん」
「リーチェ、目が覚めたのか」
ほっとしたように、クリストファーがリーチェへと駆け寄る。ローズも安心から瞳を潤ませて、微笑んだ。
「私、セド様とお食事をしていて......どうして保健室に?」
「よく聞けリーチェ。皇室はリーチェを、光の魔術師を殺そうとしている。一緒に逃げよう」
クリストファーの真剣な瞳に気圧されるもの、その言葉の重みに血の気が引く。
「殿下が、私を?」
「大丈夫だ、お兄様が守るよ」
「そんな、何かの間違いですわ。そうでしょう?ローズお姉様」
そっと、クリストファーに抱きすくめられながらローズに視線を送れば、目を伏せて首を横に振る。
「うそ、冗談だと言ってください。だって生徒会の仲間だと仰ってくださいましたもの。ローズ様の大切な友人だと認めてくださいましたもの」
空色の大きな瞳に、真珠のような涙が浮かぶ。その涙を人差し指でそっと拭って、クリストファーが辛そうな表情でリーチェを見つめた。
「リーチェ、俺はリーチェがいてくれればそれでいい。今はお願いだから一緒に逃げてくれないか」
切羽詰まったような、見たことのない従兄弟の表情に、現実に、まだ気持ちが追いつかなくて言い訳が口からこぼれる。
「だけど、私がこの国から勝手に出るなんて陛下がお許しになりません」
「そんなものは、俺がどうにでもする」
「だけど、今出てはローズお姉様にもご迷惑が......」
「私は、あなた達が国から出ることを手伝うことはできないわ。だけれど、私がこの部屋はお見舞いに来た時には既にあなた達の姿はなかった。そうでしょう?クリス様」
「お姉様......」
二人は頷き合い、リーチェの肩に手を置く。
「リーチェ、俺のことが嫌いでもいい。今だけは一緒にいてくれ」
「そんな、クリスお兄様を嫌いだなんてありえません!」
慌てて振り返るリーチェに、嬉しそうにクリストファーは微笑んで、ローズとの最後の挨拶を促した。
「愛しいリーチェ、私の大切なお友だち。あなたに出会えて私とっても幸せだった」
「私も、......私こそ幸せでした」
涙を流しながら抱き合う令嬢に、無情にも時は別れを示す。
「行こう、リーチェ。外に隠密用の馬車を待たせている」
「はい」
涙を拭って、最後は笑顔でローズへと手を振った。
「さようなら、お姉様、またいつか」
「これが、俺が小説にする前、夢に見た光景だ。ちょうどアーサーとセドリックに殺されかけた後だな」
「私がクリストファー様と逃避行?」
衝撃的すぎて目がまん丸くなる。
「彼はアーサー様とローズ様を取り合っていたと思うのですが、そのあたりどうなっているのでしょうか」
「そうなんだよな。実は従姉妹のリーチェがずっと好きだったけど、お互い跡取りだから諦めるために高嶺の花のローズに言い寄ってた、とか、死にそうになって初めて想いを自覚した、とか、理由は色々つけられそうだけどこれまで全く伏線を貼ってなかったのにいきなりこのシーンに行ったら読者置いてけぼりだろ?」
なるほど、ラストに悩んでいた、というのはそのままこのシーンがラストとして面白くないという意味だったのか。
「リーチェはそりゃここまできたらクリスについていくしかないけど、クリスは何故わざわざ危険を冒して国外に逃げようとするのか、その辺りの心境とか背景を全く描いてこなかったのに、この流れは無理があるよな」
「それでも貴方は、これが最後のイベントだと思うのですね」
「ああ、俺が唯一描いていないシーンだ。再現する価値はあると思ってたんだよ」
「でも私はアレクに助けられた。あのイベントはもう終わったわ。どうやって再現するつもりだったの?」
「そりゃあ、クリストファーの目の前でリーチェを『犬』に池へ突き落としてもらうつもりだったよ。『犬』の精神干渉はまだ解けていないし、ローズもアーサーとリーチェが和解したことをまだ知らないだろ?クリスに精神干渉の魔術をかけてリーチェが愛しくて仕方がない、というように持っていくつもりだった」
あの、何の感情もないような、薄寒い男に愛を向けられることを想像すると、一気に鳥肌が立った。やめてくれ。
「クリス様が魔術返しの術を使っているならそもそも精神干渉の魔術を受ける気はなかったのでしょう。となると目的はシンプルに、リーチェを、光の魔術師を国外に出すことでしょうか」
「クリストファー様が他国の間者ということですか?」
他国が闇の魔術師を間者として送り込んだ?そういう感じでも無いように思うけれど。
「イフグリード侯爵家を洗う必要がありそうですね。クリス様が用意した隠密用の馬車も気になります。あの日のクリス様の動きも調べましょう」
ライオネル様がバタバタと部屋を出て行った。残ったウィルとアレクは暫く私を護衛すると言い、ジル様はニコラス先生が預かることになった。
「ジルバート、もう大丈夫だ。辛かったな」
ニコリと、意外なぐらいに優しく微笑む。ジル様の何かがニコラス先生の琴線にふれたのだろうか。ニコラス先生がそっと頭に手をおくと、ジル様の頬をツ、と涙が伝った。
私たちには見られたくないだろう。音を立てないように部屋から出た。