ニコラス 大盾使い 2
強化服に包まれた少女の後ろ姿は扇情的だった。体の線がくっきりと際立ち、華奢な体型にもかかわらず一目で女だと分かる。引き締まった腰のくびれに巻かれたベルトには、彼女がいつも使っていたナイフがぶら下がっていた。左手首には白い腕輪、ラグナロクディバイスが巻かれている。
後ろ姿に見蕩れたのはほんの一瞬だった。何故なら俺は知っているからだ。あの細い体が筋肉の塊で、戦場で数多の敵を屠ってきた凶器だということを。
現に、支給されたであろう黒い大剣を片手にだらりと持ち、半身で体を脱力させている姿は、いつでも戦闘に入れる肉食獣のそれだ。
マキナ、そう声を掛けようとして止めた。彼女の向こう側の光景に意識を奪われたからだ。俺は彼女の隣に移動し、無言で臨戦態勢に入った。動きがあればいつでも飛び出せるように、様子を窺う。
あの褐色の肌の大男は知っていた。団長を殺した奴だ。黒鉄の鎧兜を着ていたあいつだ。戦場では遠目で見ただけで肌の色など分からなかったが、あんなでかい男がそう居るはずがない。二メートルと二、三十はあるだろう身長。縦だけではなく横にもでかい。
そんな大岩の如きスキンヘッドの男が巨大なハルバードを構え、ロキ団長と睨み合っていた。
槍を構えた団長の隣にはヨムの爺さんがいた。大男の側には褐色の肌の男が二人いる。全員が強化服を着て、黒地に緑の線が入った武器を持っている。
『生前の関係性と戦力のバランスを考慮して十人前後のチームを編成します』
ついさっきのラタトスの言葉を思い出し、内心で舌打ちをした。マキナと団長とヨムの爺さんは分かるが、他の三人はさっきまで殺し合っていた敵だ。
そして実際に殺し、殺された。この場にいるという事はそういう事だ。戦力としては申し分ないのだが、組んで戦うとなると多少は問題があるだろう。
ちらりと隣を窺う。彼女の伸ばしていたはずの黒い髪が、肩の長さでざっくりと切られている事に気付く。すっきりとした横顔。日に焼けた肌。猫の様にギラついたアーモンド型の瞳が大男を睨み付けている。
空気が張り詰めていた。だが、俺は少しずつ楽観的になり始めていた。殺し合いにまでは発展しないだろうと。
何故なら全員が説明を受けているはずだからだ。チームごとに転送されることも、倒すべき人外の敵がいるらしいことも。
心情的にはどうであれ協力した方が良いという考えは、団長もヨムの爺さんも持っているはずだ。何より俺達傭兵はこんな事には慣れている。金と条件次第では、昨日まで味方だった奴らと戦場で敵対する事だってあるのだ。
おそらく団長の側から手出しはしないだろう。少し心配だが、肉食獣の目をしたマキナもその辺りは心得ていると思う。となると相手側次第か…
警戒しつつも辺りの様子が目に入る。俺達がいるのはおそらく街だ。石畳、というにはあまりにも目が細かく平らな道の上に俺達はいた。馬車が横並びで4、5台は通れそうな灰色の道。その真ん中には白い線が引かれている。
そして道に沿って延々と、天を突くかの如く建物が整然と並んでいる。遥か上には、朝焼けなのか夕焼けなのか、真っ赤な空が広がっている。
本当にここが自分の知らない世界なのだと頭の片隅で思った。
都市国家ザイネルの中心部にある賢者の塔。それが俺の知る一番高い建物だ。地上30階建てのその塔と同じくらいの高さかそれ以上の建物の群れが、切り立った崖の様にそびえ、建ち並ぶ景色は恐ろしくもあった。
飾りの無い、空に向かって伸びる建物の、階ごとに並ぶ四角いガラスの窓が赤い空を映していてた。
こんな状況でもなければ、この見たこともない街の景色に目を奪われていた事だろう。
突如、後ろから細い悲鳴が上がった。ふり返ると化け物が上空から女に襲いかかろうとしていた。
弾かれた様に俺は駆け出した。襲われているのはミル姉だ。その向こうから駆けてくる、でかいハンマーを担いだ隻眼の男はミル姉親衛隊のおっさんか。二人ともうちの団の人間だ。そして強化服を着てここにいるという事は、そういう事なのだろう。
『敵は一目見れば分かります』 走りながらラタトスの言葉が過った。確かにその通りだ。宙を舞う背に翼のはえた化け物は、一言で言うと不気味だった。異形、とでも言うべきか。茶色の毛に覆われた、3メートルを超える獣の体、その腹から生えているのは人間の手だ。それも何十本もだ。剥き出しの肌の、細長い手が腹一面で蠢いている。不自然に大きな頭もまるで人間の様だが、表情がおかしい。垂れ下がった異常に大きな瞳の大半を黒目が占めていて、その焦点が合っていない。にやりとした大きな口からは、乱杭の歯がびっしりとはみ出している。
そんな化け物が人に襲いかかっているのだ。明らかに敵だ。
間一髪ミル姉の前に割って入った。強化服が体の動きを補助するというのは本当だった。動かす筋肉が、良くしなる鞭の様になった感覚。
俺は深い闇の色の大盾を掲げた。先ずは様子見。上から迫る数多の腕を、その体ごと受け流す───
だが、化け物の攻撃が俺の盾に届く事はなかった。永遠にだ。
黒く長い物体が二つ、緑の尾を引きながら化け物に突き刺さったのだ。そしてほんの一瞬遅れて人影が過り、パンと弾ける音と共に化け物の首が切り離され飛んだ。
目を見張る。三メートル先に体だけになった化け物が落ちた。仰向けの腹一面の無数の青白い手が一斉に痙攣している。地獄の扉でも開いたのかと思う光景。そこからずれた向こう側に、黒い強化服が降り立った。
筋肉馬鹿女。心の中でそう呟きながらも、高揚していた。強化服の補助があったのは分かる。だが、あそこまで飛べる物なのか。それもぶっつけ本番で。
ふと過るのは三年前に初めて戦場を共にしたあの日の記憶だ。『英雄に憧れたごく普通の少年が、大人になり憧れの英雄とも出会いました』 全てを見透かす様な目でラタトスに言われて初めて自覚したが、きっとそうなのだろう。あの日、あの時から俺はそうなのだ。
宙を舞っていた化け物の首が地面に転がった。同時にマキナが全身ふり返った。大剣を片手に、口元に静かな笑みをたたえている。爛々と目が妖しく輝いている。
その初めて見る彼女の表情に一瞬違和感を覚えた。だがすぐにそれは掻き消された。轟く声が耳を貫いたからだ。
「全員退避!」
雷に打たれたかのように背筋が伸びる。俺にとってのもう一人の英雄、ロキ団長の声だ。
ふり返ると手ぶらの団長が、腕を真っ直ぐ上げ建物を指差していた。そこに退避しろという事か。だが何から?
ヨムの爺さんと大男達が上空を睨み付けている。その視線の先に俺も目を向けた。空一杯に広がる何かの群れがこっちに向かっていた。
とんでもない数だった。あれ全部がこの化け物なのか。
「ニコとマキナは武器の回収を頼む!」
団長の声が響く。俺は死人の様な顔で尻もちを付いているミル姉の手を引っ張り起こし、武器を回収しようとふり返った。そこにはすでにマキナがいて、おぞましい体に深く刺さった二本の黒い物体の内の、一本を引き抜いていた。
「ニコラスさん」
そう言いながら、マキナが俺に引き抜いた馬鹿でかいハルバードを放り投げた。あの大男の物だ。あの時、咄嗟に投げたのだろう。共闘できるとみて良いのか…
…ん?ニコラスさん?
盾を持ってない手でハルバードをキャッチし、マキナを見る。もう一本の黒い物体を引き抜いた彼女が、見たこともない透き通った笑顔でこう言った。
「この槍は私が団長に持って行きますね」
誰だこの女?
そう思う間もなく、団長が投げたであろう黒い槍を大事そうに抱え、マキナが走り去っていく。
マキナの登場に、距離を取り様子を見ていたミル姉親衛隊のおっさんが、もうそこまで来ていた。
右目に黒い眼帯を付けた髭面のおっさんが、無言で俺の肩に武骨な手を乗せた。
「ニコ君、ありがとね」
ミル姉が上目遣いで俺を見上げ、言った。
おっさんがミル姉の手を引き、団長が指差した建物を目指して駆けだした。建物の入り口にはヨムの爺さんがいて、こっちを見ている。マキナはもういない。
俺も彼らの後を追う。だが歩き出した俺の頭の中では違和感が明滅していた。マキナのあの喋り方、あの表情、そしてあの行動。
マキナに限らず俺をニコラスさんなどと呼ぶ奴はうちの団にはいない。ほとんどがニコと呼ぶ。それにミル姉を放って一人で退避したのも変だった。いつもなら真っ先に彼女を気にかけるはずなのだが。
嗚呼、そしてもう一つ。ミル姉だ。俺はふと気が付いてしまったのだ。彼女がここにいるのはおかしいと。
彼女は傭兵ではない。うちが雇っている娼婦だ。戦場から丸二日離れたガルリア皇国の砦で、他の娼婦達と共に待機していたはずだった。
この場にいるのは死んだ人間だけではないのか。それとも、砦が落とされたとでもいうのか。
前を見る。ミル姉達が、こっちにやって来る三っつの人影とちょうどすれ違った所だった。
俺は頭を振り、そいつらに意識を向けるよう努めた。
あの大男達だった。20歩の距離に迫ったところで俺は立ち止まり、ハルバードを放り投げた。三人組の真ん中の大男がそれを掴み取った。そしてすぐに彼らは無言のまま背を向け、団長が指した建物とは別の方に向かった。
俺はダメ元で声をかけた。
「協力し合わないか?」
「我らは我らで動く」
団長と同じくらい響く声で、背を向けたまま男は言った。
ならばせめて名前だけでも聞いておこうと、ミル姉の危機に咄嗟にハルバードを投げてくれた男に叫んだ。
「俺の名前はニコラスだ!あんたの名は?」
俺の言葉に男は立ち止まり、顔だけふり返った。そして少しの沈黙を挟んで、叫んだ。
「トールだ。トール・ライトニング!」
不思議な目をした男だと思った。大きな目玉は明らかに俺を睨み付けていたが、その視線は透き通る様だった。
「ニコラス・マーティンだ!」
俺は背を向けて去って行く男に向かって、自分のフルネームを叫んだ。
それに対しての男達の反応は何もなかった。
俺はすぐに頭を切り替えて男達とは別の、団長が指示した建物に駆けだした。
すでに入り口までたどり着きこっちの様子を覗っていたミル姉と親衛隊のおっさんが、俺が走り出すのを見届けたからなのか、建物の中に入って行った。
ヨムの爺さんはまだそこにた。おそらく俺を待っている。
辺りには少しずつ、ざわついた音が広がり始めていた。赤い空を埋め尽くす程の数の化け物が迫っている事は間違いなかった。
だが俺はふり返らなかった。ただ足を早めただけだった。