ニコラス 大盾使い
ニコラスさん。ニコラスさん起きて下さい。おーい、ニコラスさーん、起きてくださーい。
誰かに呼ばれ、はっとして顔を上げると、でかいリスがいた。
「おはようございます、ニコラスさん」
見知らぬ部屋、四角い窓の向こうで、子供と変わらない大きさのリスが首をかしげて俺を見ている。何だこれは?
「私、ラタトスっていいます。情報の処理と伝達を担当している、しがない神の下僕です。ラトちゃんて呼んで下さい、キャハッ」
よく見ると、窓の向こうの奇怪な生き物はリスではなく、着ぐるみを着た少女だった。
茶色の毛並みの、やたらリアルなリスの着ぐるみの口から覗く幼い顔。悪戯っぽく細められた金色の瞳が、俺を見つめている。
そして改めて思った。何だこれは?
「ニコラスさん、私、今からあなたに衝撃の事実を告げますね。心の準備はいいですか?いいですよね。なんと、あなたは死にました。そしてあなたには今日から神の兵士として、様々な敵と戦って貰う事となります。早速ですがお仕事です。戦闘準備が出来次第、戦場へと転送致します。つきましては私の指示に従い、恙なく準備を終わらせるようお…」
「ちょっと待て待て、何がなんだか分からない」
俺は少女の話を遮った。ちょっと頭が追いつかない。そもそも俺は戦場にいたはずだ。なのにこんな見知らぬ部屋で椅子に座り、ふざけた格好の少女と向かい合っている。何がどうしてこうなった?
「あー、ですよねー。皆さんそう言いますね。だいたい七割の方がそう言います。現に今も、他の部屋で皆さん絶賛困惑中です。暴れてる人もいますね。緊急事態だっていうのに困った困った。ラトちゃん困っちゃったな、キャハッ」
コロコロと表情を変えながら、困っているとは到底思えない口調でそう言ったあと、少女は急に真顔になった。
「ニコラスさんは自分が死んだという自覚はありますか?」
その言葉に俺は眉をひそめた。そういえばそんな事を言っていたか。
「いや、無いな」
俺はすぐに答えた。現にこうして生きているからだ。
「そうですか、ではあちらをご覧下さい」
少女が俺の後ろを指差した。それにつられ、ふり返った途端に部屋が暗くなった。そして俺は声を失った。そこに戦場があったからだ。
跳ねるように立ち上がった。椅子が倒れたが、音は響かない。何故なら戦場の音にかき消されたからだ。
騎兵の群れが迫っていた。俺はいつの間にか手にしていた大盾を構えて、しゃがんだ。
ヨムの爺さんが隣に滑り込んで来て、一緒に盾を支える。俺は後ろをふり返り、兜のバイザーを上げたまま、力なく地面に座り込んでいる黒髪の少女を見た。俺やヨムの爺さんと同じく、彼女も団長の死を見てしまったのは明らかだった。だがいつまでそうやっているつもりなのか。
彼女の視線とぶつかった。その大きな瞳が一瞬揺れた。俺は腹の底から全てを絞り出し、彼女に向かって何事かを叫んでいた。
そしてすぐにふり返り、目の前に迫る馬上からの槍を受け流した。
馬がすれ違うたびに放たれる重い一撃を、二度、三度と捌き続けた。とっくに痺れてきつくなっていた腕を必死に動かす、が、ついに態勢が崩されてしまった。馬の体当たりをまともに受けたのだ。頼みの大盾が吹っ飛んでいく。
後ろ向きに倒れされた俺のすぐ目の前に、馬の蹄が迫った。
断末魔を上げる暇すらなく、ぐしゃりと
どうです、思い出しましたか?
声がして、はっと顔を上げた。椅子に座っていた。見知らぬ部屋、窓の向こうにでかいリスがいた。何があった?俺は馬に踏まれた頭に手を当てたが、そこにあるのは兜の堅い感触だけだった。痛みはない。体のどこも何事もないようだ。
助かったのか?俺はもう一度リスに目を遣った。着ぐるみの口から覗く幼い少女の顔が、悪戯っぽく笑っている。
確かラタトスと名乗っていたか。両腕で自分の体を抱きしめながら、俺は少女の名を記憶の淵からたぐり寄せた。それに釣られ、一気に意識が現実へと引き戻された。
「そうですニコラスさん、あなたは死んだのです」
胸を張り、どこか誇らしげに彼女は言った。それに対し俺は、声を出すのに喉を絞らねばならなかった。
「今のは…なんだ?」
ざらついた糸のような声が漏れた。
「追体験、です。自分が死んだんだってすぐに分かるでしょ?」
彼女の言うとおりだった。さっきからずっと体の奥が小刻みに震えていた。命が途絶える間際の、あの後悔に満ちた凍てつくような感覚が蘇ってきたのだ。
確かに俺は死んだ。今なら自分の身に何があったのか鮮明に思い出せる。だが、死んだ俺がどうしてこのような…
ああ、そうか…
「ここは地獄か…」
そんな言葉がこぼれた。
「違いますよー、ここは天国でも地獄でもございません」
誰に向けるでもない俺の呟きを、少女が拾い上げた。
「ならなんだ。ここは何処なんだ?」
「ディバインワールド。そう呼ばれています」
そう言って少女が見せたのは、どこか寂しそうな笑顔だった。
◇◇◇
ここは死後の世界のようなもので、ここに来ると同時に体は万全の状態に再生されたそうだ。そして俺はこれから神の兵士として戦場に送られる。
もう一度説明しますね、と言ったあとに少女が俺に告げた事を要約するとこんな感じだ。
死を自覚し、そのショックから震えが収まらない俺は、頷くしかできなかった。
そんな俺に彼女は言葉を続けた。俺がこれまで生きてきた二十六年の人生は、プロローグのような物だったのだと。これから俺が主人公の物語の、本編が始まるのだと。
子供の頃本を、特に英雄が出てくる話を好んで読んでいた俺は、物語の主人公、という言葉に反応した。そして思った。もしも自分が物語に登場するのならば、遠くから主人公を眺め、憧れたり妬んだりするだけの端役だろうと。決して主人公ではない。
掠れた声で少女にそう告げると、彼女は笑いながら首を振った。曰く、ごく普通の人間が主人公の物語も、私は好きですよと。
俺も首を振った。そんな地味な物語を誰が喜ぶのか。冒険譚であれ、恋愛譚であれ、皆が見たいのは劇的な物語だ。凡人のありふれた日常など、皆身にしみて分かっている。
だが少女はそれを否定する。真顔で俺に言う。どのような主人公が登場しても私にとっては価値のあるものなのだと。
「確かにニコラスさんは英雄ではありません。でもいいじゃないですか、それで。英雄に憧れたごく普通の少年が大人になり、とある傭兵団に入りました。そこで憧れの英雄とも出会いましたが、戦場で命を落としてまいました。しかし何と、それらは全て序章に過ぎなかったのです。本編はここから始まります。とても興味がありますよ」
英雄に憧れたごく普通の少年、というのが自分を指していると分かり、ほんの少し気恥ずかしさが芽生えた。俺は少女の澄んだ金色の瞳を見る。神の下僕だというこの少女は、一体俺の何を知っているというのだろうか。
少年が大人になって出会った憧れの英雄。それを聞いて一瞬頭に浮かんだのは、あいつの姿だった。その事実に気付き、遅れて俺はゾッとした。同時に体の震えがピタリと止まった。
「では、そろそろ戦場に出る準備をしましょうか。ラトちゃんの指示に従ってくださいね、キャハッ」
おどけた声で少女が言った。真顔が一瞬で、俺を揶揄う顔になる。
「もう震えは止まりましたか?」
確かに止まった。だが一つ気がかりな事ができてしまった。
「他の連中…うちの傭兵団の奴らはどうなった?」
「大丈夫です。あなたの憧れの英雄もここに来てますよ」
それを聞いて理解した。あいつもあの後死んだのだと。
俺は戦場で最後に叫んだ言葉を思い出していた。騎兵が迫る中ふり返り、情けなくへたり込んでいる少女に向けて振り絞った言葉だ。「そんな玉じゃねえだろ!」 俺はあいつにそう叫んでいたのだ。
「大丈夫ですか?」
少女がどこか優しい笑顔で首をかしげる。
何をそんな顔をしているのかと思ったが、はっとして、頬を拭った。革の手袋が光沢を帯びていた。知らぬ間に涙が流れていたのだ。
自分でも分からない何かがこみ上げてくる。
あいつがあんな所で死んでしまったという悔しさなのか。それともまた会えるという安堵か。おそらくそういった様々な想いが混ざり合って、心がひどく青ざめている。
千々乱れる感情。
そんな中、少女が言った。
「ニコラスさん、そろそろ準備を。まずは着ている物を全部脱いで下さいね、キャハッ」
◇◇◇
その後、色々とありつつも説明を受け準備を終えた。
送り出された先で味方と共に敵を殲滅する。それが神の兵士としての最初の任務だと少女ラタトスは言った。
神の兵士、などというものになったつもりはないが、拒否をしても結局戦地に送り出されるらしい。転送とかいう不思議なやり方で、死んだ俺がいつの間にかこの部屋に居たように、いつの間にか戦地に立っている事になるそうだ。つまり強制だ。そしてその場合、装備も支給されず、チームも編成されずにたった一人で厳しい場所に配置されると。つまり素直に指示に従わないとひどい目に会うぞと脅されたわけだ。
しかも敵は人間ではなく人外の何か。ラタトス曰く、一目見れば分かると。そして現在その相手と総力戦の真っ最中だと言う。嫌な予感しかしない。
支給された装備品は全部で三つだった。厳密に言うと一つなのだが、結果、身に付けているのは三つだ。
一つ目は強化服という見たこともない意匠の、体に張り付く奇妙な服。ラタトス曰く、体の動きを補助する服だと。布でもなく、革でもない不思議な素材でできていて、現在俺の首から下全てがこの真っ黒な服に包まれている。肌にピタリと吸い付くように全身を覆うこの服の表面には、淡いエメラルドグリーンの線が細かく幾重にも走っている。とても柔らかく指で摘まめば僅かに伸びるが、本当なのか衝撃に強いらしい。
二つ目は盾。俺が使っていた大盾と変わらない大きさで、強化服と同じように、黒地に緑の光る線が幾重にも走っている。素材はやはり不明だが、軽くて硬い。おそらく使い易い、が、敵を殴るには軽すぎる、なんてことが頭に浮かんだ。
そして問題の三つ目。左腕に嵌めている真っ白な腕輪だ。幅五センチの何の装飾もない簡素なもので、中央に黒い印が一つ付いている。何が問題なのかというと、支給された品は厳密にはこの腕輪一つだけだったからだ。結果、服も盾も身に付けているが、この腕輪が強化服と盾を呼び出したのだ。
「その腕輪の正式名称は『ラグナロクディバイス』と言います」
そんな聞き慣れない単語を、全裸になり腕輪を嵌めた俺にラタトスは言った。
「黒い印に触れて下さい」
言われた通り小さな丸い印に触れて、俺は顔を顰めた。ピタリと腕輪に覆われた手首の裏に、針で刺された痛みが走ったからだ。
「これでニコラスさんの生体情報が登録されました。もう一度黒い印に触れて下さい」
生体情報の登録とは何なのかも分からず、痛みに彼女を睨みながらも、俺は指示通り印に触れた。すると空中に文字が現れた。淡く光るエメラルドグリーンの文字で、馴染みのない単語が並んでいた。
「『武装召喚プログラム』と書かれた所に指で触れて下さい」
戸惑いながらも、宙に浮かぶ文字に触れた。するとそれまで並んでいた文字が消え、別の単語の群れが現れた。
「申し訳ないのですが、今回呼び出せる装備品は最低限の物になってしまいます。それでも下界の品より優れているので、そこは安心して下さいね。それでは最初に『強化服』と書かれた所に触れて下さい───
───そうやって、服と盾を手に入れた。武器は元々持っていた剣を使う。強化服の上にベルトを巻いて鞘を差している。
他にも色々と説明を受け、それでもまだ聞きたい事があったが、戦場から帰ったら今回この世界に送られてきた全員に詳しい説明があるだろうと、ラタトスは言った。
そして──
「それでは転送を開始します。転送先は第三十二層、黄昏の都。この階層の戦況は、敵、残存勢力七万二千四十。我々が千二十四。ニコラスさんは新人さんなのですが、少々きつい階層に応援に行って貰います。くれぐれも気を引き締めて、生きて戻って下さいね」
彼女を見ていた目が険しくなるのが分かった。最後の最後で、とんでもない情報が出てきた。敵が七万、味方が千。
リスの着ぐるみ、などという巫山戯た格好で、楽しげに手を振る姿が忌々しかった。
何か文句を言おうと口を開きかけた所で、全てを掻き消す様な、勇ましいラッパの音が鳴り響いた。辺りが強烈な光に包まれ思わず目を閉じる。体がふわりと浮き上がり、ラッパの音が一気に遠のく。
数秒後、足が地面を捉えた。光が消えて恐る恐る目を開けた。そこで最初に俺が見た物は、良く知った少女の後ろ姿だった。