八じゅうはち
夕べは自分にしては、したたかと言えるほど、酒を飲んだ。
空がごく僅かに白んでいる。
閉め忘れてた木の窓から、明け方の風が入ってくる。
ネリキリーはゆっくりと身を起こした。
アイオーンの顔合わせ、怪我をして飛んできたアイオーンとレーチカ。サチュオーロとの戦闘にケルンとラクミーツ達が支払った代価。
ゼフォンの意外な行動に、夜に開かれた宴会。
昨日は目まぐるしい一日だったと振り返る。
傍らの卓には買ったばかりの魔糖菓子と一握の塩。
ネリキリーは、マナナンの加護てある海水から、分離させた塩を、そこらに捨てる気になれずに小袋に入れた。
ラクミーツに放った台詞はネリキリー自身にも自戒を促した。
幻獣は、人が礼を失すれば、人と敵対すると言う事。
獣の姿をしているために、幻獣のほとんどは人の言葉を話さないが、優れた知性があると言うこと。
そう考えて、ふと、ネリキリーは、マナナンは上半身が人である事を思い出した。
マナナンは人の言葉を操る。
マナナンの加護を持つラクミーツ達は、獣の姿しかしていない、幻獣とマナナンとを区別して認識しているのかもしれない。
「いつかはマナナンと言葉を交わす日も来るだろうか」
一人ごちて、ネリキリーは首に下げた真証石を取り出して眺める。
最初は、光る針が閉じ込められるように、金色に見えていた石。その針がすべて無くなっていた。
ただの透明な水晶に見える。
マナナンの加護たる海水を真水にするためには、中に封じ込められた魔力を全て出し尽くして、それでも足りずに、ネリキリーの内にある魔力が引き出された。
真証石とマナナンの加護から取り出された塩。
かつてのネリキリーなら、研究の材料として扱ったはずだ。
「研究か」
ネリキリーはため息と共に小さく呟いた。
魔法と魔導式の研究はネリキリーのかつての、いや、今も自分の夢だ。
今日の戦闘で示した通り、ネリキリーは、魔導式を使い、多大な魔力を扱える。
しかし、体内の魔力の量が足りない。
その均衡の悪さが彼の病の根本的な原因だった。
魔導式の研究には、魔力の消費が必要だった。
けれど、魔力が少ない故郷では、それがままならない。
さらに、あの出来事で、ネリキリーの体は損なわれ、極力動かずにいて、生きていくのがやっとという状態に陥ってしまった。
魔力を補うためには、高価な魔糖が必要で、あの出来事を隠したい彼らは、療養という名でネリキリーを世間から隔離した。
幾つかの偶然が重ならなかったら、今でもネリキリーは、生ける屍のごとき日々を過ごしていたろう。
ネリキリーは頭を振って過去に向かう気持ちを追い出し、真証石の入れ替えを終わらせた。
リィーンと、真証石が微かに澄んだ音をたてた。
翔驢馬は、この音を好んでいる。
空になった真証石にも、タレスは興味を示すだろうか。
ネリキリーの心が、好奇心にうずいた。
魔糖菓子に手を伸ばして口に含んだ。
起きてすぐに魔糖菓子を取るのは習慣になっていた。
甘く口の中で溶けるそれを舌で転がしながら、ネリキリーは身仕度をして、厩舎へと向かった。