八じゅういち
鈍色の空に翼が広がる。
優雅に空を疾駆するのは、天の早馬、アイオーン。
翼を持たぬ地を蠢くものたちは見上げては感嘆する。
「あいにく、晴れ渡った蒼空ではありませんが、雨が降らなくて良かったですね」
マドレーヌが傍らにいるケルンに声をかけた。
ケルンは微かに笑って頷いていたが、ややその表情は固い。
無理もない。
そうネリキリーは思う。
ケルンは、昨日、マドレーヌにかなり押されていた。
少女のような外見。
柔らかに微笑みながら、空を仰ぐ姿は優美だけれど、さすがは冒険者組合の見届け役だ。
中身は百戦錬磨だった。
ゼフォンを先頭にして、一同は馬場へと入っていく。
下草は手入れはされているが、大地を走る騎獣用の馬場とは違い、固めた土の部分はほとんどなかった。
「さて、この中で天馬に乗ったことがあるもの、はいるかな?」
天馬達がたむろしている場から、少し離れたところでゼフォンが言った。
ミシェールが真っ先に手をあげた。ネリキリーはアンゼリカと視線を交わして
「けれど空中騎乗の経験はありません」
と二人して申告をした。
バンスタインとマラニュ、イーネスが驚いたような目でこちらを見た。
飛びカマキリの再調査の際に、来訪したフィフ達に天馬に乗せてもらったことがある。
しかし、空にあがるのは、一緒にいたエターリアに止められた。
そういえば、ケルンも乗ったことはある一人だ。
ケルンは空を飛べないのを、心底残念がっていたと、ネリキリーはちらりと旧友を振り返る。
ケルンはじっとこちらを見ている。
まるで15歳のあの日のような目で。
「ネリキリー」
名前を呼ばれてネリキリーは、ゼフォンに視線を戻した。
「君は、先日、翔驢馬の世話もしてたね。ミシェールは騎士の時に経験済み。よし、経験者の三人は自由に天馬に近づいて。初心者の三人は、俺と一緒に、こちらに。彼らの手並みを拝見しよう」
ゼフォンはそう言ってディードを二つに分けてしまう。
バンスタインとイーネス、そしてマラニュがゼフォンの後方へと移動して、ネリキリー達を見つめた。
イーネスがゼフォンに分からないように軽く肩をすくめる。
「行ってくる」
ネリキリーは、仲間とケルンに声をかけて馬場の中央へ向かった。
マドレーヌがやや苦手になったようなケルンを、彼女と二人だけでおいていくのは少し気になったが、ずっとそばにいる訳にはいかない。
アンゼリカとミシェールも二人に声をかけて、ネリキリーと共に天馬へと向かった。
天馬というと人は白い体躯を想像するが、天馬の体の色は様々だ。
ここの馬場は白馬もいるが、馬体の色は鹿毛が多い。
「あれが、群れの長だな」
ミシェールが低く言った。綺麗な目を眇めて空を舞う天馬を見つめている。彼女の視線を追うと、ひときわ体躯が大きい天馬がいた。
赤みを帯びたたてがみと尾が艶々しい。
回りには長を囲むように何頭かの天馬がいた。長には劣るが、どの個体も立派な体躯である。
朝の空の散歩が終わり、天馬達は地上へと降りてきた。
ネリキリー達は警戒をさせないように、ゆっくりと近づく。
天馬は見知らぬ人間が不用意に近づくと、空へと逃げてしまうからだ。
あと、十歩というところで、天馬達が威嚇のいななきをあげた。
三人は足を止める。
赤髪の天馬は威嚇のいななきを発しなかった。
ただ、静かな眼差しでこちらを眺めている。
さて、どうしたものか。
ただ、お互いを眺めているだけでは天馬に乗ることはできない。
すると、天馬達が動いた。左右に展開してネリキリー達を取り囲むようにしながら走り出す。
ぐるぐると天馬達はネリキリーら三人の回りを走った。そしてやはり赤髪の長だけは動かない。
天馬達はからかうように足取りも軽く大地を蹴る。
彼らは空を駆けるのも好きだが、大地を走るのも好きらしい。
「良い徴候だ」
ミシェールが誰に言うでもなく呟いた。
「そうですの?」
それを拾って、アンゼリカが問う。
「彼らは興味が無いものには一顧だにしないからね」
天馬、赤髪の長から目を離さずにミシェールは言葉を重ねる。
彼らは時おり躍り上がるように羽を広げては、前足を上げる。まさに天にかけ上がるように。
ミシェールが小さく謳い始めた。
柔らかな声は天馬達の足音にかき消されているかに感じたが、赤髪の長が微かに反応をした。
首を巡らして、ミシェールに瞳を向けてくる。
ミシェールに合わせるように、アンゼリカも謳いだした。
それは天馬を寿ぐ謳。
……クワス エス
……クワイド ドミナ セォウム
……オミナ レジィス セント……
…………
………… アミイキ……
……クワイド シト クワアダ コンジィト エイル エト テッラ
天の支配者は誰か?
そは、竜なり。
大いなる彼らはあまねくものの上に立つ。
しかして、天と地の友は誰か?
空の友なる幻獣は数多ありき。
されど、大地を行き、天を巡るものは?
そが名は天馬。空と大地の速駒。
かこそが天と地を繋ぎたるもの。
それは、詞に魔力を乗せた雅謳だった。
式化された魔導式が普及する以前に使われていた詠唱方法の一つ。
二人の謳に合わせて、ネリキリーの胸に下がる幻獣の涙が鳴る。
他の人間には聞こえないだろう、微かな音が胸から伝わる。
しかし、幻獣の感覚は人のそれよりはるかに鋭い。
回りを駆けていた天馬の足が緩む。
歌声に混じるその音を聞き分けるように足を止めて、彼らはこちらをうかがう。
先日の経験から、真証石の音に幻獣が反応するのは判った。
ネリキリーは服の上から真証石を握った。
取り出して、天馬に示すべきだろか。
だが、大勢の者に真証石をさらすのは……。
ネリキリーは、ゼフォンに視線を流した。
ゼフォンは目を細めてこちらを見ていた。一瞬視線が交差する。
とたん、赤髪の天馬が大きく嘶いた。
ミシェールとアンゼリカの謳が途切れる。
天馬達の足も完全に止まった。
ネリキリーは逸らした視線を天馬達に向けた。
二頭の天馬がゆっくりとミシェールとアンゼリカに向かってきた。
黒鹿毛と榛色の月毛を持つ二頭だ。
黒鹿毛がミシェールに、月毛がアンゼリカに近寄って、乗れというように首を巡らせた。
二人はお互いを見合い、それからネリキリーを顧みた。
ネリキリーに近寄る天馬がいないことを気にしている。
ネリキリーは微笑を浮かべて、二人に乗るように促す。
機宜を逃せば、天馬が離れてしまうかもしれない。
ミシェールとアンゼリカは意を決したように、天馬に向き直ると、その背にそっと手をかけた。
天馬達は二人が乗りやすいように膝を折る。
天馬にはくつわも鞍も鐙もない。
騎乗すれば、天馬の魔力で体を支えてくれるからだ。
天空に上がっても、天馬の魔力で守られる。
ただ、天馬の魔力と騎乗する人間の魔力の親和性が高くないと、飛行は高さも距離も、速さも稼げない。
二頭の天馬は、ミシェールとアンゼリカの持つ魔力に惹かれたのだ。
二人は皆が見つめる中、天馬の背に乗る。
天馬達が折った膝を伸ばして、大地を一蹴りすると、空へ舞い上がる。
大きな翼が優雅にはばたく。
大地に残された冒険者達は小さな歓声を上げた。
仲間が首尾よく天馬に受け入れられたのだ。喜ばしいことである。
バンスタイン、マラニュ、イーネス、そしてネリキリーも他の天馬に熱い視線を送った。
「同じ要領で、天馬に挨拶を」
ゼフォンが見学していた三人を促した。
三人の冒険者が、ネリキリーがいる場所まで進み出て、謳い始めれば天馬達がこちらを向いた。
ネリキリーも小さく唱和する。
歌舞音曲の類いは得意とは言えず、ミシェールとアンゼリカの時は謳えなかった言葉が舌に乗る。
意外なことにバンスタインは上手い。
冒険者の謳が重なりあって、再び馬場に魔法の音律が広がる。
冒険者達の謳と視線を振りほどくように、赤い鬣を振り立て、長が大地から離れる。
他の天馬達もそれに続いた。
受け入れられたのは、二人だけか。
失望がネリキリー達の心に落ちる。
幻獣の心を得るのは、一日して成らず。
自分が言った軽口の通りになりそうだと、ネリキリーは心の中で呟いた。
「残念ながら、君らの謳と魔力は天馬はお気に召さなかったようだね」
ゼフォンが四人に声をかけてきた。
「先の二人に比べて、君たちの雅謳は音律に乱れがあったからね。魔力の乗せ方もやや乱暴だ」
天馬の歓心を得るには、音律と魔力の調和が不可欠だとゼフォンは言った。
「その辺りは何度も試して、磨いていくしかない。小一時間もしたら彼らは降りてくるだろう。そうしたら、また挑んでみるといい」
天馬達が地上に戻るまで、ネリキリー達は、これといってすることはない。
「雅謳の練習でもするか」
イーネスが言うが、対象がいないのに魔力を使うそれを行うのはためらわれた。
「ゼフォン指導官、友人と話してきても良いですか?」
「構わないよ。やり方は分かったろうから、私は帰るから」
最初の手解きをして放置。ゼフォンの姿勢は変わらない。
「フラれたよ」
ネリキリーがケルンに言うと、相手は少し両手を広げてみせた。
「天馬に受け入れ易いのは子供や女性だから、そう気落ちしないでください」
マドレーヌが少し気落ちしたような四人に慰めの言葉をくれた。
「魔力を持っているとは言え、背に乗せて空を飛びますから、天馬も軽いほうが楽みたいです」
上背もあり、体格のよいバンスタインとマラニュが彼女の言葉を聞くとため息をつくように息を吐いた。
「ですが、ロマさんのように体格が大きい人でも乗せることのできる馬格の高い天馬もいますから」
「あの赤髪の天馬のように?」
マラニュが少し身を乗り出すようにして言った。
「そうですね。彼ならどんな巨躯の人でも大丈夫でしょうね。でも他にもマラニュさんを乗せられるような天馬はいましたよ」
「始めに走りだした明るい色の鹿毛や長の脇を固めていた五頭ですね」
ケルンがマドレーヌに対して確認をした。
冒険者達が“ほう”と、少し関心した顔をした。
「あの天馬達なら、私も乗ってみたいと注視しました」
「彼らに気に入られれば乗せてくれますよ」
「冒険者でなくても?」
「冒険者でなくても」
マドレーヌは頷いてから、言葉を続けた。
「ただ、恒常的に乗るということなら、天空騎士か冒険者にならなければ難しいですけれど」
マドレーヌは、そのまま音律と魔力の調整について話をしてくれる。
ゼフォンはとうにいない。
見届け役の役割を逸脱していないかと、ネリキリーは気を揉んだが、「ゼフォンの補完はしないと、後々組合が困ることになりますから」とマドレーヌは苦笑した。
「そろそろ戻ってくるかな」
イーネスが空を見上げた。
ミシェールとアンゼリカが天馬と共に飛び去ってから一時間あまり。
顔合わせ的な初乗りの場合、さほど長く上空にいることはない。
人と天馬の魔力の調和を必要とする飛行は、それだけ双方の体力を消耗するからだ。
戻ってきたら、再度、雅謳を贈ろうとネリキリーも期待を込めて顔を上げる。
しかし、さらに一時間たっても、二時間たっても天馬と二人は馬場へ帰って来なかった。